2011年11月3日木曜日

『決断の3時10分』と『3時10分、決断のとき』

決断の3時10分(1957)
3:10 to Yuma
監督:デルマー・デイヴィス

家族で牧場を営むダン・エヴァンスが息子二人を連れて牛を集めに出かけていくと、眼下では駅馬車が強盗団に襲われ、御者が射殺されて黄金が奪われる。状況を見届けたダン・エヴァンスは牧場に戻り、牛の飼育を続けるためにどうしても必要な二百ドルを工面するためにビズビーの町を訪れるが、途中、保安官と町の男たちの一団と合流する。駅馬車を襲った一味はすでにビズビーの町を通過しており、図々しいことに駅馬車襲撃を通報したのもこの一味であったが、強盗団のボス、ベン・ウェイドはバーの女を口説くために町に一人で残っていたため、ダン・エヴァンスと保安官によって逮捕される。ベン・ウェイドは仲間が逮捕された場合の救出手順を定めていたため、ベン・ウェイド救出のために仲間が現れるのは時間の問題であったが、保安官は一味の裏をかくことを考え、ベン・ウェイドをコンテンションの町に護送して三時十分発のユマ行きの列車に乗せることにする。そして保安官の一行がおとりとなり、ダン・エヴァンスがベン・ウェイドの護送にまわり、途中、自宅の牧場に立ち寄って夕食をしたためたあと、ベン・ウェイドがダン・エヴァンスの妻アリスを口説きにかかり、アリスもまたまんざらでもない様子であったにの少々を腹を立てながら出発、夜を徹して道を走り、翌日早朝、コンテンションの町に到着する。先回りしていた連邦保安官がホテルの部屋を確保していたので、ダン・エヴァンスはベン・ウェイドとともに部屋に立てこもり、途中、御者の遺族がベン・ウェイドへの復讐をたくらんだために銃声が起こり、その一事によってベン・ウェイドの所在が明らかにされ、一味が救出のために駆けつける。保安官は助っ人を集めるが、助っ人は一味の数を見て家に帰り、保安官もまた限界を感じてダン・エヴァンスの責任を解こうとするが、ダン・エヴァンスは自らの責任に拘泥し、夫を追って現れたアリスもまたダン・エヴァンスの説得を試みるが、ダン・エヴァンスはあくまでも自らの責任に拘泥し、やがて三時になってダン・エヴァンスはベン・ウェイドを盾にホテルを離れ、駅を目指して進み始める。原作はエルモア・レナード、冷静で口の減らない悪党ベン・ウェイドがグレン・フォード、思慮深いがやや強情な牧畜家ダン・エヴァンスがヴァン・ヘフリン。監督のデルマー・デイヴィスも含め、どちらかと言えば二流の人材が集まっているが、出来栄えは一流という西部劇である。言葉数を減らして生活描写から人物の背景を掘り下げていくオーソドックスな演出が好ましく、ヴァン・ヘフリンのストイックな演技は見ごたえがあり、チャールズ・ロートンJr.の撮影が非常に美しく、雄弁である。タイトルロールではフェリシア・ファーのあとになっているが、アリスを演じたレオラ・ダナの良妻賢母といった風情がまた忘れ難い。 
決断の3時10分 [DVD]




3時10分、決断のとき(2007)
3:10 to Yuma
監督:ジェームズ・マンゴールド

『決断の3時10分』のリメイク。大筋はオリジナルのとおりだが、クリスチャン・ベイル扮するダン・エヴァンスには南北戦争で負傷して片足を失い、そのせいで政府にお払い箱にされたと考えており、牧場経営に関する現実の圧力は暴力的な様相を帯び、水は意図をもって堰きとめられ、借金取りは借金の返済を求めて納屋を焼き、そうした暴力的な圧力に暴力をもって対処できない父親を息子は激しく軽蔑し、軽蔑を口に出すことを隠そうとしない。一方、ラッセル・クロウ扮するベン・ウェイドは単なる無法者ではなくて崩壊家庭出身の無法者ということになり、母親が自分を捨てたいきさつをダン・エヴァンスに語ったりする。そして冒頭に登場する駅馬車は単なる駅馬車ではなくなって鉄道の資金を運ぶ駅馬車になり、ピンカートンに雇われた男たちが乗り込んでガトリング砲で武装している。話はおおむね同じでも、死者の数がかなりすごいことになっているのである。駅馬車襲撃の場面だけで十人、そのあとベン・ウェイドがユマ行きの列車に乗り込むまでにさらに三十人くらいが死んでいる。そのうちの十人ほどがベン・ウェイドの子分と北米先住民なので、いちおうその分は除くとしても、それでも鉄道、司法、一般市民などで三十人ほどが死んでいる勘定になり、ここまで犠牲が出るような護送なら、ふつうはそもそもやらないであろう。そもそもの設定と状況が噛み合わないことになっているため、もともと混乱が見えるベン・ウェイドのキャラクターはさらに正体不明になり、それを演ずるラッセル・クロウはなぜだかぐるっとまわって混乱したグレン・フォードに見えてくる。なんだかよくわからないのである。クリスチャン・ベイルもそれなりに役作りをしているが、こちらはヴァン・ヘフリンに比べるとしゃべりすぎ。しかも肝心なところで話が素朴な自己達成から息子による父親の再確認に変えられているため、結末もそれにしたがって改変され(ついでに妻の地位も後退する)、それがどうにも後味が悪い。この後味の悪さも含め、もしかしたらきわめてマカロニウエスタン的な再映画化ではなかったか、などとも考えている。 
3時10分、決断のとき [DVD]


Tetsuya Sato