2013年6月30日日曜日

プロジェクトX

プロジェクトX
Project X
2012年 アメリカ 87分
監督:ニマ・ヌリザデ

本人の父親に言わせるとどうやら負け組に属しているトーマス・カブの17歳の誕生日を祝うために友人のコスタがパーティを計画し、つまりクイーンズにいたころにはそこそこにいけいていたにもかかわらず、パサデナでは負け組に入っていることが当人としてはどうにも解せないコスタがこれを機会に存分に不純異性交遊をしようとたくらんで、数を撃てば当たるであろうという判断のもとに50人を上限にするというトーマス・カブとの約束を破って可能な限りに声をかけ、メールを送りまくり、インターネットで宣伝し、ラジオでも宣伝して、ということをしたので、両親が旅行で不在となったトーマス・カブの家にはぞろぞろとひとが押しかけてきて大音量をかけて踊りまくる、酒を浴びる、マリファナを吸う、プールに飛び込む、トーマス・カブの愛犬を飛び立たせる、不純異性交遊のたぐいにふける、というようなことを始めるので夜半前に近所から苦情が出て、通報を受けて警察がやってくるとみんなで裏庭に集まって息をひそめ、警察が立ち去るとまた騒ぎ始め、エクスタシーをアルコール飲料で流し込んでハイになり、パーティはトーマス・カブの家からはみ出して路上に広がり、コスタが連れてきた中学生のセキュリティにはとても手に負えないような状況になり、上空には報道のヘリコプターが飛来し、再びやってきた警察は飲んだくれたパーティ参加者によって撃退され、騎馬警官を含む応援の警官隊が出動し、SWATが出動し、コスタにエクスタシーを奪われた謎の男が火炎放射器をかついで現われて一帯を火の海に変え、爆発が起こり、警官隊が発砲し、阿鼻叫喚の騒ぎになり、家は半焼し、旅先から帰ってきたトーマス・カブの父親はこれだけの乱痴気騒ぎをやらかした息子の度胸を称賛し、それまでは誰の目にもとまらなかったトーマス・カブはいまや学校のヒーローになる。
おおむね中盤からは延々とパーティが続くだけ、という映画だが、不思議なくらいにテンションが高い。場面のつなぎがよくできていて飽きさせないし、POVの使い方もうまくてどんちゃん騒ぎのなかにいるような気分になる。キャラクター造形もいちおうまとまっているし、セキュリティ担当のこどもやご近所などがなかなかにいい味を出していた。冒頭、決して真似をしないでくださいという警告のあと、パサデナの市民と警察にご迷惑をおかけしましたという謝罪文が出てくるけれど、これはたぶん冗談であろう。 

Tetsuya Sato

2013年6月29日土曜日

チェ 39歳 別れの手紙

チェ 39歳 別れの手紙
Che: Part Two
2008年 フランス/スペイン/アメリカ 126分
監督:スティーヴン・ソダーバーグ

キューバでの地位を放棄したゲバラはボリビアに潜入して武力闘争の準備を進めるが、ボリビア共産党は武協力を拒否、窮地に陥ったゲリラ部隊はボリビア政府軍によって殲滅され、ゲバラは捕らえられて処刑される。ボリビアの山はどこまで行っても単調で奥行きのない退屈な場所で、後半、先住民の村にたどり着いて画面にどうにかパースのようなものが現われると安堵の吐息がもれるのである。監督も同じ感想なのではあるまいか。考えてみれば都会派だし、ゲバラがどうこう、という以前にジャングルとか、そういうものが根本的に苦手だったのではないだろうか。

Tetsuya Sato

2013年6月28日金曜日

チェ 28歳の革命

チェ 28歳の革命
Che: Part One
2008年 フランス/スペイン/アメリカ 126分
監督:スティーヴン・ソダーバーグ

ゲバラがカストロと出会ってキューバ革命に共鳴し、ともにキューバに上陸して山中でゲリラ戦を展開し、やがて勢力を増やして都市部に侵攻、バチスタ政権を崩壊させるまで。
ベニチオ・デル・トロがちゃんとゲバラに見えてくるあたりはさすがだが、映画自体は一見したところ創意を捨てて、どうやら「自伝」的事実の再現に努めている。結果として出来上がったものはテレビの歴史検証番組に挿入されているような安っぽい再現劇であり、音楽の使い方も含め、そのほとんど黎明期的とも言えるような安っぽさはいかにもソダーバーグ的な、つまり観客の足元を見透かしているような下劣な創意と言えなくもないものの、安っぽい再現劇はどこまでいっても安っぽい再現劇であり、かなり退屈なしろものである。
少人数のゲリラが山のなかをうろうろし、ゲバラがあっちへ行っては説教をし、こっちへ行っても説教をし、行軍でへとへとになった兵士に向かって算数の宿題をしろと説教する淡々とした描写の山は世界偉人伝ゲバラ編逸話集ではあっても映画ではない。並行する国連演説編も16ミリの粗い映像は悪ごりにしか見えない。それでも後半、サンタクララの攻防戦に入ると市街戦の状況がそれなりに立体的に描き出されていて、ここはけっこう面白かった。
これが初めてではないとはいえ、何を考えているんだ、ソダーバーグ、というのが正直な感想である。一般的なイメージに縛られて何もできなかった、ということなのだろうか。乱暴な言い方をするなら、どうせ「ガンダルフ」なのだから、いっそのことバチスタの塔を遠くに見ながらこっちでカストロが塔を作り、ゲバラは地に呑み込まれたあと、白ゲバラとなって復活、という話でもかまわなかったのではあるまいか。

Tetsuya Sato

2013年6月27日木曜日

トランジット

トランジット
Transit
2012年 アメリカ 88分
監督:アントニオ・ネグレ

男女四人組が現金輸送車を襲って400万ドルを奪い取り、警察の検問をくぐるために家族旅行中の一家の車に目をつけ、その車の屋根に積まれた一家の荷物に奪った400万ドルを紛れ込ませ、まんまと検問を突破すると、家族連れの車に襲いかかって400万ドルを取り戻そうとするが、追いかけているうちに家族連れの車のほうがスピード違反で警察につかまり、スピード違反だからすぐに解放されるであろうと期待して待っていると、問題の一家の父親は仮釈放中の身で、しかも制限時速を大幅に超えていたということで判事の審理が必要になり、父親は警察に留め置かれ、母親と二人の息子はモーテルに泊まり、しびれを切らせた強盗一味が母親の部屋に押し入ると母親は果敢に行動して部屋から逃げ出し、警察が呼ばれて一味は逃げ出し、翌朝、再び旅を始めた一家のあとをつけていくと、車の屋根から札束が見つかった、ということで、夫が不動産詐欺で服役したことですでに信頼を失っていた妻は夫がまたしても犯罪に走ったと決めつけて夫と現金を残してその場から去り、残された夫は札束の詰まったカバンを抱えて沼沢地に踏み込み、母親と二人の息子は追いかけてきた一味につかまり、一味は母親と二人の息子を人質に取って父親を探し、父親は金と引き換えに家族を要求する。 
冒頭の現金輸送車襲撃の場面では短いショットと短い台詞ですばやく状況を説明し、以降、焼けつくような真夏のルイジアナを舞台に緊張感を持続させていく。演出の水準は高く、父親の不始末のせいで崩壊した一家が強盗との戦いをとおして家族のきずなを取り戻す、という非常にシンプルなプロットに家族、強盗双方の心理状態をたくみに織り込んでいる。ジム・カヴィーゼルは満身創痍の父親を熱演していた。 


Tetsuya Sato

2013年6月26日水曜日

太陽に恋して

太陽に恋して
Im Juli.
2000年 ドイツ 100分
監督・脚本:ファティ・アキン

ハンブルク在住のダニエル・バニエは理科の教育実習生として教壇に立っていたが、生徒に舐められたまま夏休みを迎え、そのダニエル・バニエになぜか一目ぼれしているユーリは自分の露店にダニエル・バニエを呼び込んで太陽の指輪を売りつけ、恋人の出現を予言する。もちろん自分が出現するつもりであったが、タイミングが若干遅れたためにダニエル・バニエはたまたま通りがかったトルコ系の女性メレクに引き寄せられ、そのメレクがイスタンブールを目指して飛び立つと自分もトルコへ行くつもりになり、早速友達の車に乗り込んで南下を始めてヒッチハイク中のユーリを拾い上げる。ところが車はバイエルンで立ち往生し、そこから先はトラックをヒッチハイクして東へ進み、ドナウ川を進む船に密航して川に放り込まれ、旧ユーゴからやって来た怪しい美女に翻弄され、ブダペストではカーチェイスをし、パスポートがないのでルーマニア国境を強引に越えて車を盗み、盗んだ車を売り飛ばして別の車を手に入れると今度はその車の部品を売却しながらブルガリアを目指し、国境を泳いで渡り、ユーリに捨てられて謎のトルコ人に拾い上げられ、トルコの国境で悶着を起こし、それでも最後にはイスタンブールにたどり着く。
夏休み中のドイツ人が南下を始めるとたちまちのうちに頭のねじがゆるんで恐ろしいことを始める、という話のように見えたが、もしかしたら違うのかもしれない。全体に明るく楽しい感じに仕上がっていて、出演者がみな非常にいい顔をしているのが好ましい。『黒猫・白猫』のヒロイン、ブランカ・カティッチが成長した姿で顔を出しているのがうれしかった。旧ユーゴからやって来た女性ドライバーの役で、その車に貼られた"YU"のステッカーの左側には"EX"と大きく記されている。監督本人もルーマニアの国境警備隊員の役をやっていて、これもなんだかいい味を出していた。 

Tetsuya Sato

2013年6月25日火曜日

アザーズ

アザーズ
The Others
2001年 フランス/スペイン/アメリカ 101分
監督:アレハンドロ・アメナーバル

1945年、ノルマンディー沖のチャネル諸島。霧の中にたたずむ屋敷に母親と二人の子供が暮らしている。大戦はもう終わっているようだが、一家のあるじは出征したまま戻っていない。ある日、みすぼらしい身なりをした三人の男女がこの屋敷を訪れる。母親は相手の説明も待たずに初老の女を家政婦に、初老の男を庭師に、そして口のきけない娘を女中に雇う。母親の話によると、それまでの使用人は突然消えていなくなってしまったらしい。母親には偏頭痛がある。二人の子供は光アレルギーで、ランプの明かりよりも強い光を浴びてしまうと身体がひどく腫れ上がる。だから子供が入る部屋にはカーテンを下ろしておかなければならない。誤って子供に光が当たることがないように、部屋から部屋へと移動する場合には、まず前の部屋のドアを閉めて鍵をかけ、それから次のドアを開けなければならない。子供たちは家の中で暮らしいてて、母親から教育を受けている。母親は自分が感じているストレスを必ずしも隠そうとはしていない。子供への苛立ちと愛情の間を慌しく往復している。姉は少々反抗的な気配があり、弟は母親を慕っているようだ。姉は家の中に何かがいると母親に告げるが、母親は信じようとしない。だが、そのうちに母親の耳にも妙な音が聞こえてくる。使用人を総動員して家中を探すが、何も見つからない。そして夜中にピアノを弾く音が聞こえてくる。いったいそこに何がいるのか? 雇われたばかりの使用人たちが、なぜだか何かを知っているようだ。家政婦の得体の知れない笑みは何を意味しているのか? 前の使用人はなぜ消えてしまったのか? 母親は口を閉ざして語ろうとしない。姉は何かを言おうとしているが、弟はどうやら何も知らない。というわけで謎の一本釣りという感じがとんでもなくゴシックな映画なのである。決して目新しい種類の話ではないが、古典的で陰鬱な語り口がいかにもという雰囲気で楽しめる。クライマックスの背筋のじわじわっとした感じはかなりいい。 

Tetsuya Sato

2013年6月24日月曜日

チェンジリング(1980)

チェンジリング
The Changeling
1980年 カナダ 107分
監督:ピーター・メダック

作曲家ジョン・ラッセルは森のなかにたたずむ館に移り住むが、まもなく不可解な現象に襲われ、館に封じ込められた霊の存在に気づき、霊の訴えかけを聞いて地元の歴史協会の職員と一緒に謎を解いていく。
ジョージ・C・スコットとトリッシュ・ヴァン・ディーヴァーの夫婦共演で、謎の鍵を握る人物にメルヴィン・ダグラス。監督はテレビ畑のピーター・メダックだが、呼吸の整った正攻法の演出できわめてよくできた怪談に仕上げている。
森閑とした森を背景に雰囲気は抜群で、霊現象のほうはいきなりピアノが鳴ったり、あるはずのないボールが転がったり、と控えめだけど見せ方がうまいのでとにかく怖い。公開当時、大学生だったわたしは一人で見にいってとにかく怖いと大騒ぎをして、それを聞いた大学の先輩が男二人で見にいって、あとで聞いた話だと一人は途中で逃げ出したらしい。ほとんど宣伝されなかったので公開は日比谷スカラ座単館で二週間打ち切り、その後俳優座シネマテンで再上映されたので、また見にいった。これまでに見たホラー系の映画のなかでは、たぶんいちばん怖かった映画ということになるだろう。 

Tetsuya Sato

2013年6月23日日曜日

砂漠でサーモン・フィッシング

砂漠でサーモン・フィッシング
Salmon Fishing in the Yemen
2011年 アメリカ 124分
監督:ラッセ・ハルストレム

英国農業水産省に勤める水産学者フレッド・ジョーンズ博士のところへ英国の投資会社に勤めるハリエット・チェトウォド=タルボットからイエメンの川でサケ釣りをするプロジェクトについて打診があり、ジョーンズ博士は科学的な理由からプロジェクトの可能性を否定するが、アラブ諸国との関係改善に使えるネタを探していた首相官邸がこれに目をつけて農業水産省に圧力を加え、農業水産省はジョーンズ博士に圧力を加えるのでジョーンズ博士はハリエット・チェトウォド=タルボットと面談し、さらにプロジェクトの言いだしっぺであるイエメンのシャイフとも会って、理想化肌のシャイフの言葉に押されて積極的にプロジェクトに関わっていくことになるが、ジョーンズ博士が要求した一万匹のサケの捕獲を環境庁が拒絶し、農業水産省が環境庁に圧力を加えると環境庁は釣り雑誌に情報を流して全英の釣り人の怒りを誘い、凶暴無比な釣り人の圧力に屈した英国政府は天然のサケの代わりに養殖のサケを放流することをイエメンのシャイフに提案するが、シャイフが拒絶するので英国政府はプロジェクトから離れ、ジョーンズ博士は農業水産省を辞めるとみずからの直観にしたがって養殖のサケでも川を遡行する可能性があることをシャイフに訴えるので、シャイフはジョーンズ博士の意見を受け入れて一万匹のサケをイエメンに運んで生簀に放し、いよいよ放流というときには関係改善をアピールするために英国政府関係者、マスコミ多数が現地を訪れ、シャイフの合図で生簀のサケがついに川に放たれる、という話にジョーンズ博士と妻との関係、ハリエット・チェトウォド=タルボットと恋人との関係、ジョーンズ博士とハリエット・チェトウォド=タルボットとの関係、首相広報官の暗躍などが織り込まれる。
朴念仁風の水産学者がユアン・マクレガー、投資コンサルタントがエミリー・ブラント。ラッセ・ハルストレムの演出は安定感があり、時間を無駄に使わずに周辺人物や多様な状況まで手際よくまとめている。 


Tetsuya Sato

2013年6月22日土曜日

チキンとプラム あるバイオリン弾き、最後の夢

チキンとプラム あるバイオリン弾き、最後の夢
Poulet aux prunes
2011年 フランス/ドイツ/ベルギー 124分

テヘランに暮らすナセル・アリは著名なバイオリニストであったがバイオリンが壊れたことで音を失い、替わりのバイオリンを求めてみても失意の底から這いあがることができないので死を決意して八日目に死亡、映画はナセル・アリが死にいたるまでの八日間を描きながら過去、未来へと自由に時間を動いて登場人物の細部をあばき、なぜそんなことができるのかというと語り手が死神アズラエルだからなのであった。
マチュー・アマルリックがナセル・アリを熱演している。監督は『ペルセポリス』のマルジャン・サトラピ。大胆な色彩設計とアニメーションを織り込んだファンタジックな絵が魅力的で、ときとしてコミカルでときとして哀しみに満ちた語り口が実に豊かで美しい。正直なところ、見終わって声が震えるほど感動した。 




Tetsuya Sato

2013年6月21日金曜日

インソムニア

インソムニア
Insomnia
2002年 アメリカ 118分
監督:クリストファー・ノーラン

ロスアンゼルス市警の殺人課の刑事二人が極圏の町へ捜査協力のために派遣される。少女が死体で見つかった事件を調べるためだが、実は内務調査を免れるために無理やりに送り出されてきたような気配がある。到着したその晩に、若い刑事は取引に応じた事実を告白し、それを聞いたベテランの刑事は食欲をなくして部屋に引き上げる。一方、殺人事件の捜査の方は犯人を罠にかけることに成功し、海辺に近い廃鉱で追跡劇が繰り広げられる。あたりは次第に霧に包まれ、ベテランの刑事は影に向かって発砲するが、それで射殺されたのは同僚の若い刑事であった。事故なのか、故殺なのか、判然としないままベテランの刑事は証拠を隠滅に取り掛かる。だが射殺の現場には目撃者がいて、それは追われていた当の殺人犯なのであった、ということでベテラン刑事がアル・パチーノ、殺人犯がロビン・ウィリアムス、現地で捜査に当たる若い刑事がヒラリー・スワンクというキャスティングで、事件が起こる町の名前がナイトミュート、白夜なので陽が隠れることがないという設定になっている。現地に慣れないアル・パチーノの刑事は眠りを奪われて悶々として、結局六日連続で徹夜をして幻覚や幻聴を見始める。このあたりの描写は生理的に納得できる仕上がりになっていたと思うし、白夜になって薄い光が常に散乱しているという感じがなんだか実にそれらしかった。撮影がうまいのであろう。撮ったままなのかどうなのか、風景や空間処理が全体にものすごくて、特に冒頭の氷河の場面などはちょっと息を飲む。
演出は生真面目だし、アル・パチーノは面の皮の厚い真面目な老警官という複雑な役を巧みに演じていたし、ロビン・ウィリアムも悪役を嬉しそうに演じていた(あの強さと身軽さの根拠がどこにあったのかは不明だし、あのように行動する根拠も薄弱だが)し、ヒラリー・スワンクもなかなかに魅力的で、見終わった後でなんとなく目の前がひどくちらちらするところを除けば悪いところのない映画である。つまり、これは才能なのであろう。



Tetsuya Sato

2013年6月20日木曜日

善き人のためのソナタ

善き人のためのソナタ
Das Leben der Anderen
2006年  ドイツ 138分
監督・脚本:フロリアン・ヘンケル・フォン・ドナースマルク

1984年の東ベルリン。国家保安省のヴィースラー大尉は劇作家ゲオルク・ドライデンとその恋人の女優クリスタ=マリア・ジーラントを監視する任務を担当し、屋根裏にひそんで盗聴器から届けられる音に耳を傾け、電話で交わされる会話を聞き、毎日のように報告書をしたためている。そうしていると芸術家たちは体制への恭順と反発のあいだで揺れ動き、自殺する者が現われ、心の痛みを込めて善き人のためのソナタが演奏され、ヴィースラーの心もまた動き始める。
美しく作られた立派な映画である。抑制されたタッチの精緻な演出と、出演者たちの演技がすばらしい。特にヴィースラー大尉を演じたウルリッヒ・ミューエが印象的で、ほとんど変わらない表情に孤独や温かみ、ユーモアまでも浮かべていた。脚本もよくできているが、主要な軸を構成するのはまずシュタージの「作戦」であり、組織の動きが裏も表も含めて細密に描かれ、抜け穴がないのに感心した。シュタージの内部の描写も登場し、取調室や資料保管庫、職員の食堂、地下に置かれた私信開封係の部屋などの珍しい光景を見ることができる。 

Tetsuya Sato

2013年6月19日水曜日

アバウト・シュミット

アバウト・シュミット
About Schmidt
2002年 アメリカ 125分
監督・脚本:アレクサンダー・ペイン

ネブラスカ州オマハで暮らすウォレン・シュミットは永年勤めてきた保険会社を退職し、家で引退生活を開始する。とはいえそれは楽しいものではなくて、お別れパーティもひどく嘘臭いものであったし、たまたま通りかかったと称して古巣の会社を訪れれば若い者から邪険にされる、すでに42年連れ添った古女房は当然ながら婆さんに見えるし、年増になった自分の娘の結婚相手はどうしたってアホウにしか見えてこない。自分自身を振り返ってみれば、格別の業績を残したわけでもないし、他人に影響を与えるようなこともしていない。いったい自分の人生はなんであったのか、というようなことをウォレン・シュミットは考え始め、そういうところへフォスタープランに参加したりするものだから、日々の煩悶を偽りで装った手紙を会ったこともないタンザニアの少年に書き送ることになる。
なんとも渋い内容の映画で、ジャック・ニコルソンが老いを感じた瞬間に人間が味わう居心地の悪さ、そして悔恨と怒りを実に表情豊かに演じている。とはいえ、この名優の演技がなければかなり凡庸な映画であろう。


Tetsuya Sato

2013年6月18日火曜日

おとなのけんか

おとなのけんか
Carnage
2012年 フランス/ドイツ/ポーランド/スペイン 79分
監督:ロマン・ポランスキー

ブルックリンの公園で11歳の少年が同い年の少年を棒で殴り、殴られたほうが前歯を二本を折ることになり、殴ったほうの少年の両親アラン・カウアンとナンシー・カウアンの夫婦が殴られたほうの少年の両親、マイケル・ロングストリートとペネロペ・ロングストリートの夫婦の家を訪れ、言わばおとなの良識にしたがって友好的に和解の方法を探ろうとしているうちに、まず問題の一件に関する認識のずれに気がつき、続いて微妙な価値観のずれが気に障るようになり、売り言葉に買い言葉のような短い応酬があったせいで帰ろうとしていたカウアン夫妻はロングストリート夫妻の家に戻り、カウアン夫人は気分が悪くなり、アートを愛するロングストリート夫人のコレクションにダメージを与え、カウアン氏は気忙しく携帯電話を取り出しては仕事を続け、そのたびに会話が細切れにされるのでご婦人方が苛立ちを覚え、ロングストリート夫人は自分の良識の押し売りを始め、そのことでロングストリート氏が苛立ちを覚え、仕事で忙しいはずのカウアン氏はロングストリート氏の誘いに乗ってスコッチのグラスを握り、ご婦人方も夫にならって飲み始め、男たちの態度がなんとなく粗暴になり、ロングストリート夫人が夫の態度をなじるとロングストリート氏は野蛮人宣言をして妻の良識をなじり、激高したロングストリート夫人は夫をなじり、ついでにカウアン夫人を偽物となじり、妻を偽物となじられたカウアン氏はロングストリート夫人の慧眼をほめ、カウアン夫人も激高し、ロングストリート夫人が今日は人生最悪の日だと叫ぶとカウアン夫人もまた人生最悪の日だと叫びを放つ。 
ロングストリート夫妻がジョン・C・ライリーとジョディ・フォスター、カウアン夫妻がクリストフ・ヴァルツとケイト・ウィンスレット。ダイアログはさすがに練り込まれているし、ロングストリート家のセットもよくできているし、ポランスキーの演出はリズムがよくて心地よい。うざったい上にみじめな役どころを全力で演じたジョディー・フォスターもなかなかのものだが、終始冷笑的なクリストフ・ヴァルツがとにかくよかった。 


Tetsuya Sato

2013年6月17日月曜日

キャンディ

キャンディ
Candy
1968年 フランス・イタリア・アメリカ 124分
監督:クリスチャン・マルカン

高校生の女の子キャンディの前に次から次へと男が現われて、あれやこれやと理屈をつけて押し倒すけど、女の子はそのことをそれほど不快に感じない、という男の身勝手のような話である。
まず、学校の生徒会が講演に招いた「20世紀最大の詩人」マックフィストに口説かれてリムジンの床に押し倒され、続いてマックフィストから怪しい言葉を注ぎ込まれた庭師のエマニュエルに押し倒され、そうしているところを父親に見つかってニューヨークの学校への転校を言い渡され、一家で空港へ向かっているところをエマニュエルの恐ろしい姉たちに襲われる。キャンディがエマニュエルの純潔を奪い、そのせいでエマニュエルは神父になる道を失ったからであったが、襲われているところを陸軍特殊部隊のスマイト准将に救われ、准将の輸送機で移動中にやっぱり准将に押し倒され、ようやくニューヨークに到着すると、今度は世界的な外科医クランカイトに押し倒され、町へ逃げ出したところでせむしの男と出会って屋敷に誘われ、それが実は犯罪一味のリーダーで、ここでも案の定、押し倒され、警察には追われ、ヒッチハイクをしてトレーラートラックに乗り込むとコンテナの中は回廊とプールのある怪しい部屋になっていて、そこでインドの行者に押し倒され、そのままカリフォルニアまで行ってしまう。
素人臭い映画、というよりも事実上の素人映画なのだと思う。いちおうはコメディらしいのだが、下手くそな冗談も含めて最後まで突きあうのにはかなりの忍耐を必要とする。詩人のマックフィストがリチャード・バートン、エマニュエルがリンゴ・スター、その姉の一人がフロリンダ・ボルカン、スマイト准将がウォルター・マッソー、外科医のクランカイトがジェームズ・コバーンで病院の理事がジョン・ヒューストン、せむしの男がシャルル・アズナブルで、インドの行者がマーロン・ブランドととんでもないキャスティングで、出演者はみんな学芸会に出て楽しそう。音楽はデイブ・グルーシン。テリー・サザーンの原作は読んでいない。





Tetsuya Sato

2013年6月16日日曜日

華麗なるギャツビー

華麗なるギャツビー
The Great Gatsby
2013年 オーストラリア/アメリカ 142分
監督:バズ・ラーマン

白状すると原作は未読、というかフィッツジェラルドは読んだことがないし、74年のロバート・レッドフォード版も興味がなくて見ていないし、内容だけを言うならばブレット・イーストン・エリスの『レス・ザン・ゼロ』とさして変わらない、というか『レス・ザン・ゼロ』がきわめて『グレート・ギャツビー』的なものだった、という発見があって、あるジェネレーションを無反省に題材にすることが本質的な脆弱さを抱えて絵空事以上のものにはならない、というのはつまり最初からそうだった、ということがわかって、これもまた発見と言えば発見ということになるのかもしれないけれど、この映画を見ているあいだ、わたしが頭に浮かべていたのはキャリー・ジョージ・フクナガの『ジェーン・エア』で、つまりよくよくくだらない原作をひとかど以上の映画にまとめた手腕にはとにかく感心しなければならない、ということになるのだろう。少々長いという欠点を除けばバズ・ラーマンは非常にいい仕事をしていて、パーティの場面は実にみごとに構成されているし、ギャツビーのデューセンバーグをはじめとして車の走りっぷりもみごとだし、3Dという表現が慎重に考慮された上で使われていて、3Dという表現形式をとおした1920年代初頭のジオラマ的再現はたいそうな見ごたえになっている。ピーター・ジャクソンの『キング・コング』がきわめてよくできた「30年代」映画だったとすれば、これはきわめてよくできた「20年代」映画ということになるだろう。レオナルド・ディカプリオによる「ギャツビー」の形態模写も非常によくできているし、キャリー・マリガンのデイジーもよく造形されているし、トビー・マグワイアは青春の迷妄を抱えてはまり役を演じている。そして結果としては表層だけがあって、裏があるようで全然ないという意味ではすぐれてバズ・ラーマン的であり、絵空事としての原作をよく反映して、傑出した人工物に仕上がっているという点で作家性の勝利がある。 

Tetsuya Sato

2013年6月15日土曜日

恋の闇 愛の光

恋の闇 愛の光
Restoration
1995年 アメリカ/イギリス 114分
監督:マイケル・ホフマン

17世紀後半、職人のせがれから医者になったロバート・メルヴェルは才能を認められながらも享楽的な生活におぼれ、おもに才能の部分に注目したチャールズ二世から愛犬の治療を命じられて、これに成功する宮廷に迎えられて享楽的な生活におぼれて、おもに享楽的な部分に注目したチャールズ二世からチャールズ二世の愛人セリア・クレメンスとの偽装結婚を命じられて、称号とサフォークの領地を与えられ、王によって妻への接近を禁止されるが、妻にひとめぼれしたロバート・メルヴェルは王の禁令を犯して領地を没収されて医者に戻り、親友ジョン・ピアースを頼ってクエーカー教徒が運営する精神病院に勤務するが、そこで絶望している女キャサリンと出会って関係を結び、キャサリンがロバート・メルヴェルの子をはらむとロバート・メルヴェルはキャサリンとともにペストが猖獗をきわめるロンドンに戻り、産褥で死んだキャサリンを見送ったあとは残された娘を守りながらジョン・ピアースの名を名乗って医療活動にいそしみ、そうしているとチャールズ二世によって召し出されて病床にあるセリア・クレメンスの治療を命じられ、ロバート・メルヴェルはは正体を隠したまま宮廷を訪れてチャールズ二世の愛にかかわる問題を伝え、そこへロンドンの大火が起こってロバート・メルヴェルは娘を救うために宮廷を飛び出していくが家はすでに火に包まれている。
ロバート・メルヴェルがロバート・ダウニーJr.、ジョン・ピアースがデヴィッド・シューリス、チャールズ二世がサム・ニール、キャサリンがメグ・ライアン、サフォークの領地にいる執事がイアン・マッケラン、サフォークに出現する画家がヒュー・グラント、というすごいキャストで、監督は『終着駅 トルストイ最後の旅』のマイケル・ホフマン。
演出はおおむねにおいて手堅いし、登場してくる俳優がいちいちすごいし、チャールズ二世の宮廷をはじめ美術がまたすごい、ということでなかなかの見ごたえになっているが、『恋の闇 愛の光』というわけのわからない邦題ではたぶん誰も見ないであろう。 



Tetsuya Sato

2013年6月14日金曜日

ドラゴンヘッド

ドラゴンヘッド
2003年 日本 123分
監督:飯田譲二

修学旅行の高校生を乗せた新幹線がトンネルの中で事故を起こし、ほとんどの者が瞬時に死亡する。かろうじて生き残ったテルは闇の中でノブオと出会うが、ノブオはすでに心を狂わせていた。テルは暴れるノブオの前から逃れてアコと出会い、二人はノブオの攻撃から逃れて配水管の奥にもぐり、そこから外へ脱出する。だが外界は白い灰で覆われ、町は破壊し尽くされ、生きるものの影も見えない。ところがとある町までたどり着いたところで生き残りの住民の襲撃を受け、危うく殺されそうになったところを二人の自衛官に救われる。だが、この二人もどうやらおかしくなっていて、そのうちの一方が言うところによると、大規模な地殻変動のせいで地磁気が乱れて、人間はその影響を受けて精神状態が不安定になっているらしい。そう説明しながら暴れたりするのを残る一方が挑発し、危うい橋を渡りながら四人は住民を避けて脱出路を求め、途中、病院の地下で松果体を切除されて恐怖心を失った二人の子供を拾い上げ、車に乗り込んで町を離れる。その後も狂気の発作や恐怖の発作が人間を襲い、ぼろぼろになりながら東京を目指して進んでいくのである。
正体の怪しい原作をわかりやすい話にまとめているが、破滅的な状況は一般的な形で恐怖感を促すよりも、高校生の非力さを際立たせていた。だから要領が悪いだけに見えるのである。主役の二人は頑張っていたが、もしかしたら叫びすぎかもしれない。ふつうはどこかで観念して黙り込むと思うのだが、恐怖心や疲労感を演技の外側にかぶせているため、必要以上に転んだり躓いたり、あるいは泣き叫んだりしなければならなくなっているのであろう。無反応状態との対照があるとしても、情動の過剰は気になった。登場人物のほとんどが意味不明のことをしゃべっている、というのもちょっと困る。音楽の挿入を抑制して、もっとテンポを速くして、登場人物は不安を表面化させない程度に訓練された人間にして、あまり躓かないように、できれば背筋を伸ばして歩かせたら、もっといい映画になったのではないだろうか。VFXは全体に見ごたえがあり、美術も水準以上の仕上がりを見せている。


Tetsuya Sato

2013年6月13日木曜日

デスカッパ

デスカッパ
2010年 アメリカ/日本 85分
監督:原口智生

アイドルになる夢に破れた加奈子は故郷の尻小玉へ戻ると祖母が暴走する車に跳ね飛ばされ、祖母のいまわの言葉にしたがって加奈子は河童様を守る巫女となるが、暴走する車が河童様の祠を海に跳ね飛ばすと河童様が海中で活動を始め、上陸してきて暴走する車に乗っていた若者を殺害する一方、加奈子がそなえたきゅうりを食べ、加奈子がアイドル時代に歌って歌を聞いて跳ね踊り、加奈子は河童様となかよしになるが、そこへなにやら旧日本軍の妄想に取りつかれた一団が現われて加奈子をさらって秘密基地のようなところへ運び込み、くるくると駆け回ってすっかり狂っているところを見せつけながら加奈子を水陸両用兵士に改造しようとしていると加奈子を救うために天井をやぶって河童様が現われ、あれやこれやで基地は自爆用の核爆弾で吹っ飛ばされ、一転して都市に巨大怪獣ハンギョラスが出現して自衛隊の攻撃をことごとく跳ね飛ばして都市を破壊しているとそこへ巨大化した河童様が現われていわゆる怪獣プロレスがなべやかんの解説つきで始まって、ハンギョラスを倒した河童様が怒りに目を赤くして都市の破壊を始めると巨大化した加奈子が現われて河童様を怒りを鎮めて都市を救う。
監督は『さくや 妖怪伝』の原口智生。往年の国産怪獣映画になにやらオマージュを捧げているような気配ではあるが、自堕落なだけで品位を高めようというようなことはかけらほども考えていない。察するに破綻は前提であろうからとりとめのない内容についてはさしあたり置くが、演出のリズムは悪く、演技はほとんど学芸会で、往年の国産怪獣映画と比べてもミニチュアなどの水準は低い(戦車の挙動、リアプロジェクションの使い方、などには妙なこだわりが見えたけれど)。文化祭の自主製作映画といった仕上がりであり、金を取って見せるようなものではない。 


Tetsuya Sato

2013年6月12日水曜日

極地からの怪物 大カマキリの脅威

極地からの怪物 大カマキリの脅威
The Deadly Mantis
1957年 アメリカ 79分
監督:ネイザン・ジュラン

北極海で氷山が引っくり返ってそこに閉じ込められていた何かがよみがえり、北極圏に沿って配置されたアメリカ空軍のレーダー監視網が何かをとらえ、監視所の一つが破壊されて配置されていた兵士が消息を絶ち、続いて飛行中のC-47が何かに襲われて墜落し、どちらの現場でも緑色をした巨大な爪のような物体が見つかるので国防省は科学者を集めてこの物体の調査を始め、自然史博物館のジャクソン博士が昆虫の一部である可能性を指摘し、そうしているあいだにもグリーンランドでエスキモーの村が襲われ、空軍の要請でアラスカを訪れたジャクソン博士は基地を襲う巨大なカマキリを目撃し、しかもこのカマキリは一直線に南下しているということがわかり、合衆国東海岸の北のほうから目撃報告が寄せられるようになり、レーダー網が怪物を追い、民間の防空監視隊が低空で飛ぶ怪物を見張り、ワシントン近郊では列車やバスが襲撃され、ワシントン記念塔に怪物が現われ、空母から発進したバンシー戦闘機の編隊がロケット弾で攻撃を加え、地上から発進した空軍のセイバー戦闘機の編隊もロケット弾で攻撃を加え、怪物はニューヨーク上空で被弾したあとマンハッタンのトンネルに逃れるので軍隊、警察、消防が出動してトンネルの入り口をふさぎ、トンネル内を煙で満たしたところで兵士の一隊を送り込んで至近距離から攻撃する。 
ウィリアム・アランド製作。巨大カマキリが正体を現わすまでのプロセスと軍や科学者たちが正体を調べるプロセスがきっちりと並べ、怪物が現われてからは被害の様子を織り込みながらおもに防空システムを動かしていく、という正攻法の構成で、登場人物は自分の仕事に集中するし、巨大カマキリもそれなりに迫力があるし、ミニチュア、光学合成は水準が高いし、ということで見栄えのする怪獣映画に仕上がっている。 


Tetsuya Sato

2013年6月11日火曜日

巨大カニ怪獣の襲撃

巨大カニ怪獣の襲撃
Attack of the Crab Monsters
1957年 アメリカ 62分
監督:ロジャー・コーマン

水爆実験の結果が環境に与えた結果を調べるために島を訪れた調査団が不明の理由で消息を絶ち、科学者と海軍で構成された第二次調査団が同じ島を訪れ、第一次調査団が失踪した理由をいちおうはいぶかしむものの、それで特にどうしようという様子もなく、このような調査の対象になる無人の島になぜかレストハウスがあるので、そこに機材を運んで整理を始め、調査団を運んできた海軍の飛行艇の出発を見送るために全員で海を見下ろす崖に立つことに妙にこだわり、全員で崖に立って見送っていると飛行艇がなぜか爆発、そこで海軍にこの事故を報告するために無線機を使うとこの無線機が使えない、ということでどうやら孤立した調査団の一行は第一次調査団が残したメモを読み始めるが、、それで特にどうしようという様子もなく、翌日に備えて休むことになって眠っていると外から砲声のような音が聞こえてきて、ところが誰も砲声が聞こえていることに驚かないので見ているこちらがいぶかしんでいると、続く台詞でこれは砲声ではなくて地鳴りであり、たまたま使われた効果音が砲声にそっくりであったということがわかり、なぜ地鳴りがするのかというと島では地震が頻発してあちらこちらが陥没しているからで、朝になると前日にはなかった穴があり、科学者の一人が好奇心から穴の底に降りようとすると落ちたらどうするとまわりにとめられ、それだけで格別の進展もないまま一日が終わり、夜を迎えて科学者たちが休んでいると外から今度は第一次調査団の関係者の声が聞こえ、しきりと助けを求めて招くので声を頼りにいってみると穴のところで、科学者の一人がロープで降りていくと不明の理由で途中で落下し、翌朝全員で穴の縁に立って声をかけると足を怪我したということなので、見ているこちらは当然誰かが降りていって助けるのだろうと思っていると科学者たちの意見はロープで下に降りないということで一致して、海岸の洞窟が穴につながっているはずだという根拠のない確信にもとづいて海岸の洞窟に入っていくと察するに根拠があって言っていたということになるのか、穴の底に到着するものの怪我人の姿はどこにもなく、それで探し始めるのかと思うと怪我人のことは放っておいて捜索は明日にしようという話になり、つまりこの連中は一日に一つのことしかできない、ということがこのあたりで判明するわけだけど、そのうちにレストハウスに怪物のようなものが現われてドアの向こうで散々に暴れてそもそも役に立たない無線機を破壊し、またどこからともなく声が聞こえて一人消え、海岸のテントでポーカーをしていた水兵たちも消え、そうなってくるとこの恐ろしく腰の重い連中もさすがに座っていることができなくなったのか、いよいよ洞窟の奥へと入っていくと、そこには巨大なカニの怪物がいて、ピストルの弾丸を受けつけない、手榴弾も受けつけない、という強靭さを見せるが、科学者たちはカニの素材がきわめて水分に近いというわけのわからない憶測にもとづいてサンプルを採取し、顕微鏡で覗いてみて、このカニは電気を嫌うということを発見して電荷を放出する小さなパラボラアンテナのようなものをこしらえて洞窟に仕掛け、仕掛けた罠を科学者の一人が踏んでカニに食われ、とうとう生き残りが男女三人になったところで海岸へ逃げるとそこにもカニが現われるので、一人が犠牲になってカニを倒してカップルの二人が生き残る。
巨大なカニは食べた人間の脳の中身を読み取って、犠牲者の名を騙ってテレパシーで呼びかけていた、という恐ろしい、というか、恐ろしいくらい寝ぼけた内容で、ロジャー・コーマン製作、監督。登場人物は全員が健忘症で、しかも言っていることもやっていることも要領を得ないので状況に対処するのにとても苦しむ、ということを確信を持ってやっていればもう少しましな映画になっていたのであろう。この62分はけっこう長い。
カニの怪物ははりぼてで、ビニールのまぶたがついた恥ずかしいほどばかでかい目玉が甲羅に貼りつけてあって、はさみも脚もまったく動かないので、スタッフがはりぼての下にもぐって一生懸命揺すっている。 

Tetsuya Sato

2013年6月10日月曜日

モグラ人間の叛乱

モグラ人間の叛乱
The Mole People
1956年 アメリカ 77分
監督:ヴァージル・ヴォーゲル

アジア某所で考古学者たちが発掘調査をおこなっているとありえない地層からシュメール文字で書かれた碑文が見つかり、近くの山では同じくシュメール文化に属するランプが見つかり、この山こそが大洪水のあとで方舟が漂着した場所ではないかとあたりをつけて、ガイド、シェルパ多数をともない、登山装備に身をかためて登山を開始し、まずベースキャンプを設営し、さらに登ったところに第二キャンプを設営し、考古学者とガイドだけのアタックチームが難所を越えて進んでいくと古代シュメールの遺跡が見つかり、唐突に開いた地面の穴に考古学者の一人が落ちるので、穴を覗いて懐中電灯で照らしてみても底が見えない、ということで考古学者たちは穴に入ってロープを伝いながら下を目指し、とうとう底に着いたところで同僚の死体を発見し、そこへガイドと一緒に大量の土砂が降ってくるので考古学者たちは洞窟に閉じ込められ、懐中電灯の光を頼りに出口を探して歩いていくと、これはどうやら人間の手が入った洞窟らしい、ということに気がついて、さらに進むと広大な空間にゆきあたってそこで都市の遺跡を発見し、休憩を取ろうと横たわると地面を割って現われたモグラ人間に捕えられてどこかへ運ばれ、何があったのかといぶかしんでいると古代シュメールの装束をまとった兵士が現われ、考古学者たちは地下に造られた宮殿で古代シュメールの王と出会って即刻死刑が宣告されるが、その場からどうにか逃れて追手に懐中電灯の光を向けると五千年にわたる地下生活の結果、光過敏になっていたシュメール人は悲鳴を上げて逃げ出し、考えを変えた王は考古学者たちをイシュタルの使いとして歓迎し、考古学者たちは地下のシュメール人たちが全部で百五十人ほどで、キノコを常食としていて、食料不足を解消するために厳重な産児制限をおこなっていることを知り、多数のモグラ人間が奴隷として酷使されている有様なども目撃し、奴隷制に反発した考古学者たちはモグラ人間に肩入れし、王の神官は懐中電灯を奪えばいかなる支配も思いのままだと陰謀をたくらみ、神官は考古学者たちに毒をもって懐中電灯を奪い取るが、そこへ決起したモグラ人間が襲いかかる。 
ウィリアム・アランド製作。地下世界のマットアートがいまひとつ面白みを欠いているが、地下生活に適応したシュメール人の設定などはいちおう考えたような気配があるし(ヒツジのエサをどうしていたのかまでは説明がないが)、モグラ人間の造形もそれなりの仕上がりになっている。ただ演出は凡庸で迫力がない。 



Tetsuya Sato

2013年6月9日日曜日

G.I.ジョー バック2リベンジ

G.I.ジョー バック2リベンジ
G.I. Joe: Retaliation
2013年 アメリカ 111

パキスタンで内乱が起こってパキスタンの核の管理を憂慮するという理由でアメリカはG.I.ジョーをパキスタンに送り込んで核弾頭を確保するが、撤収を待つG.I.ジョーに攻撃ヘリの大群が襲いかかり、ロードブロックほか2名を残してG.I.ジョーは全滅、ザルタンが化けた大統領はG.I.ジョーの反逆を宣言し、ドイツの刑務所に潜入したストームシャドーはコブラコマンダーを解放、コブラの勢力がアメリカ政府の中枢に入り込み、帰国を果たしたロードブロックは元祖G.I.ジョーに応援を頼み、別行動を取るスネークアイズはストームシャドーをさらって東京へ運び、嵐影流総本家のマスターがストームシャドーの行動のそもそもの起点に間違いがあったことを明かしてストームシャドーを味方につけ、陰謀を進めるコブラは核保有国を一堂に集めて核兵器の廃絶を迫り、各国が核兵器を自爆させるとコブラが用意した衛星兵器ゼウスが地上を狙ってロンドンを壊滅させ、そこへロードブロック率いるG.I.ジョーとストームシャドーが会議場に殴り込む。
ロードブロックがドウェイン・ジョンソン、元祖G.I.ジョーがブルース・ウィリス、ジョセフ・ゴードン=レヴィットとデニス・クエイドは降板し、だからコブラコマンダーはマスクが変わって軽くなり、G.I.ジョーは司令官を失っている。
G.I.ジョーは司令官を失っただけではなくて砂漠の秘密基地も失っていて、パキスタン侵攻の場面ではいちおうVTOL機を飛ばしているものの、一作目にあった玩具感はほぼ完全に消滅していて、もしかしたら『ダイ・ハード6』になっているのではないかという予感ははずれていたが、要するにドウェイン・ジョンソン主演のただのアクション映画になっている。もちろんドウェイン・ジョンソンは魅力的だし、アクション映画としての水準もいちおうクリアしているが、玩具感を欠いたところで忍者が絶壁を飛び跳ねながら戦ってもG.I.ジョーがデルタフォースとさして変わりのない特殊部隊のような扱いになっていているせいで、そこでいきなり忍者という唐突さがどうにもうまく咀嚼できない。
勝手なことを言わせてもらえば玩具感を投げ捨てたところにまず観客に対する裏切りがあり、チャニング・テイタムを冒頭で退場させて、バロネスは影すら登場しない、というところにもう一つ裏切りがある。その言い訳のように変な格好のコブラ軍団の戦車が登城するが、平場に配置された戦車が得意そうに背伸びをしてもたいした意味は認められない。 

Tetsuya Sato

G.I.ジョー

G.I.ジョー
G.I. Joe: The Rise of Cobra
2009年 アメリカ 118分
監督:スティーヴン・ソマーズ

軍事企業MARSはNATOの予算をさんざん使って自社の工場で開発したナノマイト搭載弾頭四発を世界征服に悪用するためにかなり苦労して奪い取り、手始めにエッフェル塔などを破壊してみせるが、秘密部隊G.I.ジョーによってやっぱり野望を阻まれるので、秘密組織コブラを立ち上げて復讐を誓うが、そのときにはすでに檻に入れられている。
で、これが、いや、なんというのか、おもちゃ箱をひっくり返したような映画になっていて、飛行機はなんだかもう飛行機だし、潜水艦はなんだかもう潜水艦だし、秘密基地はこれ以上はないというくらいに秘密基地だし、という感じで、見ているこちらは思わず童心に帰って、おもちゃの飛行機を手につかんで、ぎゅいーんと飛ばしているような気分になってくる。理屈抜き、とはこのことであろう。だから余計なことを考えてはいけない。発信機のスイッチが都合よく入ってしまうのは、事実上「ぼくが入れておいたから」なのである。登場人物の回想シーンも子供が子供部屋の真ん中でフィギュアを握ったまま、しかつめらしい顔をしてひとりごとを言っているような雰囲気があり、いろいろとぶっ壊されても壊れ方がほどほどに抑制されており、当然、無残な死体なども登場しない。きわめてぜいたくに作られた「お子様向け」映画である。





Tetsuya Sato

2013年6月8日土曜日

電人ザボーガー

電人ザボーガー
2010年 日本 114分
監督・脚本:井口昇

(第1部:たたかえ!電人ザボーガー!)
悪ノ宮博士率いるシグマは大門博士から奪ったダイモニウムを使って破壊ロボットを作るために権力者の細胞を奪おうとたくらんで国会議員に襲いかかるが、大門博士の息子大門豊と大門博士が作り出したロボット、ザボーガーに野望をはばまれ、大門豊に命を救われた若杉議員は大門豊に激しくからみ、正義の揺らぎを感じた大門豊はシグマのミス・ボーグと恋に落ち、ミス・ボーグは大門豊の子をはらむがザボーガーの攻撃を受けて爆発する。 
(第2部:耐えろ大門! 人生の海に!)
第1部から25年後、ザボーガーを失った大門豊は首相となった若杉議員に運転手としてつかえていたがクビになり、路頭に迷っているところへシグマの秋月玄が現われてさらおうとするのであらがっていると、そこへシグマから逃れたAKIKOが現われて大門豊を救い出し、自分は大門豊の娘であると名乗り、そこへ秋月玄が現われてザボーガーに大門豊を襲わせるので、AKIKOはザボーガーを倒し、悪ノ宮博士はAKIKOを取り戻して巨大ロボットに改造して東京を襲わせ、大門豊はザボーガーを修理して立ち向かう。 
オリジナルのテレビシリーズはほとんど見ていないが、表層に見える井口昇のテイストを取り除けばそのまんま、ということになるのではあるまいか。素材に対する愛着は感じたが、劇場映画としてのスケールはない、というか、そのあたりを井口昇のテイストで埋めている、ということになるのであろう。あまり品がよろしくない。



Tetsuya Sato

2013年6月7日金曜日

ロボゲイシャ

ロボゲイシャ
2009年 日本 101分
監督:井口昇

春日ヨシエは芸者の姉にいじめられながら暮らしていたが、影野製鉄の御曹司影野ヒカルにタウンページを真っ二つにするパワーを認められ、姉とともに影野製鉄の暗殺部隊裏芸者に引き込まれ、身体改造をほどこされてロボ芸者となって暗殺任務をこなしていると、影野製鉄に家族を奪われた被害者の会のメンバーと出会って影野製鉄の真意を知り、影野製鉄の野望に立ち向かう。
序盤で始まる回想と本編との関係に若干の破綻が見えるような気がしないでもないが、出演者は総じて乗りがよく、悪乗りをしている志垣太郎はなんだかサム・ニールのようであった。いくつかのシーンにはパワーがあるし、ばかばかしさもそれなりの水準に達しているが、出番の多い悪役の行動原理がいまひとつはっきりしないせいなのか、全体から見ると整理が悪く、リズム感が感じられない。


Tetsuya Sato

2013年6月6日木曜日

片腕マシンガール

片腕マシンガール
2007年 アメリカ/日本 96分
監督:井口昇

両親が自殺したあと弟と二人で暮らす日向アミはその弟がヤクザの息子にいじめ殺されたことで行動を開始し、穏やかにことを進めてふつうに警察沙汰にしようという目論見は関係者の反発によってふっつりと切れ、状況によっては殺人もまた必要であるという自覚にもとづいて自分に反発した関係者を殺戮し、反撃にあって腕を失うと自動車修理工の夫婦に助けられ、自動車修理工の手で作られたマシンガンを失った腕に装着すると不良、ヤクザ、その他関係者の群れに立ち向かう。
序盤で始まる回想と本編との関係に若干の破綻が見えるような気がしないでもないが、出演者は総じて乗りがよく、演出もおおむねにおいてパワーが持続する。執拗かつキッチュなスプラッター表現はしらふで見ていると見ているうちに飽きてくるが、これはギミックの使い方にいくらかの単調さがあるせいなのではあるまいか。ダミーのできの悪さも含めてそのあたりが気になったものの、全体から言えば悪くないし、かなりがんばっていると思う。 



Tetsuya Sato

2013年6月5日水曜日

SPACE BATTLESHIP ヤマト

SPACE BATTLESHIP ヤマト
2010年 日本 138分
監督:山崎貴

ガミラスの攻撃によって地球は放射能に汚染され、人類はイスカンダルから届けられたメッセージを頼りに宇宙戦艦ヤマトを送り出し、ガミラスと戦いながら大マゼラン星雲に達してイスカンダルと接触し、放射能除去装置相当のものを手に入れる。
いわゆる『宇宙戦艦ヤマト』の実写映画化。山崎努にやる気が見えず、木村拓哉がときどき思い出したように古代進のようなものになる。場面の多くは間が悪く、絵作りに工夫も手間も感じられない。VFXはほとんどアニメの乗りでヤマトも戦闘シーンも重量感を欠いている。話のほうも悪い頭でへたくそに手を入れたせいでなにやらわけのわからないしろものになり、デスラーもイスカンダルのスターシャも登場しないが、少なくともこの仕上がりを見る限りでは、たとえば竹中直人の顔を青く塗ってはいけないという理由がみつからない(ミルヒーだってやったことだし)。 



Tetsuya Sato

2013年6月4日火曜日

宇宙水爆戦

宇宙水爆戦
This Island Earth
1954年 アメリカ 87分
監督:ジョゼフ・M・ニューマン

優秀な科学者のところへ地球の科学では説明できない荷物が届き、その後を追っていくと怪しい人物に遭遇する。実は惑星メタルナは宇宙戦争によって滅亡の寸前にあり、その危機から逃れるために地球人の科学者をかどわかそうとしていたのであった(という話だったと思う、たぶん)。滅亡寸前ならもう少し急いだ方がよいと思うのだけど、話の進め方がちょっと悠長だったかもしれない(しかも秘密を知られると片付けたりするし)。ほぼ同時期の『禁断の惑星』に比べるとビジュアル面が安っぽい。とはいえ、わたしの子供の頃の感覚だと、メタルナ・ミュータントは十分におっかなかったのである。 


Tetsuya Sato