2013年1月31日木曜日

ジャッカルの日

ジャッカルの日
The Day of the Jackal
1973年 フランス/イギリス 142分
監督:フレッド・ジンネマン

生涯ベスト1をあげろと言われるとたぶん何本か、あるいは何十本かがあがることになるだろうが、あえて一本選べと言われた場合、おそらく『ジャッカルの日』になるのではないだろうか。
フォーサイスの原作が話題になったのはわたしが中学校一年の時である。映画の公開も同時期で、学研の「中学一年」が下手糞なマンガを載せてストーリーを紹介していたのを覚えている。そして早速見に行って、夢中になって帰ってきた。エドワード・フォックス扮するジャッカルがとにかくかっこいいと思ったのである。真似をしてアスコット・タイなどを首にまいてみたりしたものだ。以来、何度となく繰り返して見ているが、やはり飽きない。最初の印象が強いのもあるだろうが、それだけでは決してない。
ジンネマンの演出は音楽的で緩急がすこぶる心地よく、映像はストイックで余計な物が排除されているため、一場面ごとに印象が深い。取り分け好きなのは、フランスへ入ったジャッカルが、すでに警察の追手がかかっていることを知りながらパリへの道を選ぶ場面である。道が絵に描いたような二股になっていて真ん中に標識があり、一方の矢印にパリ、もう一方にイタリアと書いてある。ジャッカルはこの標識の前にオープンのアルファロメオを停めて、一瞬の躊躇の後に幌を上げる。あんな都合のいい標識があるわけないという気もするが、それが演出なのである。もう一つ好きな場面があって、それはパリに潜入した後、ゲイの男を殺す場面である。犠牲者は台所の奥へ退き(壁で見えなくなる)、それをジャッカルがゆっくりと追っていく。この時、カメラがジャッカルの歩く速さに合わせて静かに引いていくのである。解放記念日の混雑は実際はあんなものではないとか、あるいはサブマシンガンの連射で吹っ飛ばされたジャッカルの体が壁に叩きつけられると壁の方がたわむとか、そんなところもあるけれど、やっぱり何回見てもかっこいい。エドワード・フォックスもかっこいいが、映画自体がかっこいいのである。
ジャッカルの日 【ベスト・ライブラリー 1500円:アクション映画特集】 [DVD]

Tetsuya Sato

2013年1月30日水曜日

真昼の決闘

真昼の決闘
High Noon
1952年 アメリカ 85分
監督:フレッド・ジンネマン

西部の小さな町で保安官ウィル・ケーンがクエーカー教徒の若い妻エイミーをめとり、保安官の職から退こうとしていた頃、五年前に逮捕して北部へ送った無法者フランク・ミラーが釈放されて町へ戻りつつあるという知らせがもたらされる。フランク・ミラーを迎える三人はすでに駅にあり、列車は定刻どおり正午に着くということが判明し、そこで時計を見上げると残された時間は1時間20分ほど。フランク・ミラーの真意が保安官への復讐にあることは明らかなので、結婚式に居合わせた市長はウィル・ケーンに逃亡を勧め、ウィル・ケーンもまた促されるまま、花嫁を馬車に乗せていったんは町から離れるものの、おそらくは逃げることのわずらわしさへの思いから考えを変えて町へ戻る。このとき残された時間は1時間10分ほど。妻エイミーからすれば保安官職を辞したウィル・ケーンに責任はまったくないはずであったが、ウィル・ケーンはエイミーの説得をあくまでも拒み、保安官事務所へ入って判事の逃亡をむなしく見送り、それから保安官助手を招集する。しかし、やってきた助手ハーヴェイは協力への代償として人事上の取引を持ちかけ、ウィル・ケーンが取引を拒むと助手を辞任する。困ったウィル・ケーンは加勢を町の住民に求めるが、親友と考えていた男からは居留守を使われ、元保安官からも体調を理由に断られ、酒場でも拒絶にあい、教会の会衆からも見捨てられる。どうやら五年前に何かがあってフランク・ミラーが逮捕された結果、酒場にたむろしている連中はウィル・ケーンに憎しみを抱き、教会の会衆は治安の回復に感謝してはいるものの、いま歓迎すべきは投資と発展であって、拳銃による暴力ではないと結論を下している。孤立無援となったウィル・ケーンは事務所に戻り、やがて時計は正午を指し、汽笛が鳴り、列車は駅に到着し、フランク・ミラーは出迎えの仲間三人と合流する。
時間の経過とともに荒廃していくゲイリー・クーパーの表情がすごい。すべてのいきさつを説明するのではなく、最終的に与えられた状況と、その状況がはらむ感情と利害の対立をダイアログにじわじわとにじませていく脚本もすごい。編集のすごさ、というのもあると思うが、ジンネマンの演出はリズミカルでテンションが高い。カメラは助っ人を求めて町をさまようゲイリー・クーパーの姿をパースを強調したフレームでとらえて印象的で、随所にアップを多用することで圧迫感を加えていく。きわめてよくデザインされた作品である。ジャック・イーラムが留置場の酔っ払いで、リー・ヴァン・クリーフがフランク・ミラーの仲間の役で登場する。
真昼の決闘 [DVD]

Tetsuya Sato

2013年1月29日火曜日

地上より永遠に

地上(ここ)より永遠に
From Here to Eternity
1953年 アメリカ 118分
監督:フレッド・ジンネマン

1941年のハワイ。スコフィールド陸軍基地にロバート・E・リー・プルーイットという二等兵が到着し、G中隊に配属される。G中隊の中隊長ホームズ大尉は連隊のボクシングコーチで、プルーイットを自分のチームに入れようとするが、理由があってボクシングをやめたプルーイットは大尉の誘いを拒絶する。そこで大尉はプルーイットを不当に扱い、頑固なプルーイットがあくまでも誘いを拒否するといよいよ大尉のほうでも執拗になり、という合間に中隊の先任軍曹ミルトン・ウォーデンは大尉の妻カレンを寝取り、そのウォーデンから休暇をもらったプルーイットは町のクラブで働くロリーンといい仲になり、プルーイットと親しい二等兵アンジェロ・マジオは行き掛かりから軍刑務所のジャドソン軍曹に目を付けられる。
有能なウォーデン軍曹がバート・ランカスター、大尉の美しい妻がデボラ・カー、頑固なプルーイット二等兵がモンゴメリー・クリフト、友達のマジオがフランク・シナトラ。ちなみに『ゴッドファーザー』で事実上のシナトラとして登場する歌手ジョニー・フォンテーンが出たがっていたのがこの『地上より永遠に』だとされている。
話の上で目立つのは二人の女性キャラクター、カレンとロリーンの明確な自己規定と改革認識で、対照的にウォーデン、プルーイットはどちらも軍隊内に自分を位置づけて安住し、変化を拒もうとする。実際、有能な上に精悍なウォーデン軍曹はカレンに将校になれと言われて死ぬほど悩み、とうとう死ぬ気になって道の真ん中で酒を飲み始めるのである。そういうものであろう、という気もしないでもない。登場人物は苦悩を抱え、あるいは痛みを抱え、それでも日常を続けようと試みていると、日本軍の奇襲攻撃が始まって男どもはようやく具体的な目的を得る。ウォーデン軍曹があそこで口を開けて喜んでいたのは、日本軍機を一機撃墜したというそれだけでの理由からではないと思う。人物は確実に作り込まれ、語り口にはよどみがなく、しかも美しい。
地上より永遠に [DVD]

Tetsuya Sato

2013年1月28日月曜日

山河遥かなり

山河遥かなり
The Search
1948年  アメリカ 105分
監督:フレッド・ジンネマン

第二次大戦直後のドイツ、アメリカ軍占領地域。収容所から解放された子供たちが救済施設に集められるが、子供たちはいずれも心に傷を負い、軍服を見れば恐怖を抱き、救急車に乗せられれば殺されるのではないかと疑いを抱き、いかにやさしく接しても恐怖に促されて逃げ出そうと試みる。腕にアウシュヴィッツの刺青のある十歳の少年は収容所で母親と別れた瞬間のみの記憶を持ち、自分の名前を告げることもできないが、同じように恐怖から瓦礫に埋もれた町へ逃げ出し、うろつくあいだに米軍軍属の技師に捕まり、そのまま家に放り込まれて世話をされ、英語を教えられ、ジムという名前を与えられる。技師は少年の身元を探ろうとするが手がかりはなく、一方、少年の母親は収容所を生き延びて、ドイツ全土を施設から施設へと訪ね歩いて自分の息子を探している。この母子が再び会えるのか、というところで一応通俗的なドラマがこしらえてあるが、なにしろ演出が凡庸ではないので超現実的な戦争の傷跡があたりまえの人情とたくみに対比され、子供たちを取り巻く戦後の様相が微細に描き出されていく。救済施設でパレスチナへの出発を待つユダヤ人の子供たちの様子が非常に印象的であった。 
山河遥かなり [DVD] FRT-070



Tetsuya Sato

2013年1月27日日曜日

ロンドンゾンビ紀行

ロンドンゾンビ紀行
Cockneys vs Zombies
2012年 イギリス 88分
監督:マサイアス・ヘイニー

イーストエンドの労働者階級出身のマクガイア兄弟は犯罪に走った両親を失ったあと祖父の手で育てられたので祖父のことを慕っていて、その祖父がいる老人ホームが取り壊しになると知って老人ホームを救うために銀行強盗をくわだて、銀行に強盗に入って予想を上回る額を手にして出てくると一帯はゾンビでいっぱいになっていて、祖父がいる老人ホームもまたゾンビによって包囲されているので、兄弟は祖父を救うために武器の山を抱えて老人ホームにかけつける。
なにかしらコックニー的な要素を盛り込んでゾンビ映画に仕立てようという意気込みはうかがえるものの、プロットは創意に乏しいし、脚本は荒削りな上にダイアログの無駄が目立ち、キャラクターはおおむねにおいて未消化のまま投げ出され、著しくリズムを欠く演出は脚本の欠陥を糊塗するよりも際立たせるほうにもっぱら効果を発揮している。ゾンビのフーリガン対ゾンビのフーリガンなどといった面白いアイデアが入っているのに演出がへたくそなせいでまったく盛り上がらずに終わっているし、ところどころに挿入されるカットバック、ワイプ、スプリットスクリーンも使い方がへたくそなのではっきり言って邪魔なだけ。総じて退屈な仕上がりである。この88分はいささか長い。老人ホームにいるおばあさんの一人が懐かしやオナー・ブラックマンで、当然と言えば当然だが、すっかりおばあさんなのであった。 




Tetsuya Sato

2013年1月26日土曜日

ハート・アタッカー

ハート・アタッカー
Battle for Haditha
2007年 イギリス 97分
監督:ニック・ブルームフィールド

2005年11月19日の早朝、イラクの都市ハディサで海兵隊の分隊がパトロールをしていると道にしかけられた爆弾が爆発して兵士ひとりが死亡、ふたりが負傷し、海兵隊の兵士たちは犯人の捜索にかかって周辺の民家に次々と押し入り、誰何する前にまず発砲し、死角へ踏み込む前には必ず手榴弾を投げ込むので20人を超える民間人が犠牲になる。
『ハート・ロッカー』にあやかったようなどうしようもない邦題がついているが、いわゆるハディサの虐殺の映画化で、ドキュメンタリー調の演出は骨が太く、ディテールも非常によくできていて、映画としての質も高い。ヨルダンでロケをしたハディサもよく雰囲気が出ており、イラク中産階級の描写も興味深い。こちらがあまり想像していなかったような場面も登場する。たとえばアルカイーダとおぼしきテロリストの下請をしているイラク人がアルカイーダから爆弾を受け取り、それを白昼堂々つるはしで路面をやぶって道にしかけていると、それが近隣の家々の庭先や窓から見えるので、気がついた住民がうちの前の道にテロリストが爆弾をしかけていると騒ぐのである。そしてどうしたらいいかと相談し、テロに屈してはならないので今日のパーティは予定どおりに決行するという話になるのである。きわめてふつうのひとたちで、だからというわけではないが、後半の虐殺の場面のむごたらしさは半端ではない。





Tetsuya Sato

2013年1月25日金曜日

ハート・ロッカー

ハート・ロッカー
The Hurt Locker
2008年 アメリカ 121分
監督:キャスリン・ビグロー

バグダッドに駐留するアメリカ陸軍の爆発物処理班はその日も爆弾の処理にあたっていたが、爆弾が爆発してトンプソン軍曹が戦死、代わりに送られてきたジェームズ軍曹はチームワークを無視して勝手に爆弾に近づいていくので同僚のサンボーン軍曹、エルドリッジ技術兵はいらだちを募らせ、こいつと一緒に現場にいたらいずれは自分たちも吹っ飛ばされるという危惧からジェームズ軍曹抹殺すら考えるものの、間もなく互いに胸襟を開いて酒に酔い、激しく肉体をぶつけあって戦友となる。
物語性から距離を取った淡々とした描写が爆弾処理の場面に緊張感を与え、砂漠での狙撃戦というきわめて地味な戦闘場面もかつて見たことのない際立ったものに持ち上げている。そして同じ距離感が戦場にいるこの男たちを背後の文明世界から切り離し、ありきたりのヒロイズムからも切り離して、何か得体の知れない動物的な存在に転化している。
なにしろこの映画の戦場には、いまどきのアメリカ映画としては珍しいことに女性兵士がまったく登場しない。不快なくらいに男だらけの世界であり、その世界を見つめるキャスリン・ビグローの視線はどうやら性差にもとづく好奇心に満たされている。それはジェレミー・レナー扮するジェイムズ軍曹とタクシーの運転手との意味不明なにらみ合いに始まり、ジェイムズ軍曹とデヴィッド・モース扮するリード大佐とのあいだに交わされるまったく無内容な「兵士の会話」で勢いづき、認識と現実とのあいだの微妙なずれを示しながら、巨大なシリアルの棚にたどり着く。この棚は文明にほかならない。そしてジェームズ軍曹はこの棚の前で行動不能に陥ったあと、自ら望んで戦場に戻ることになるのである。
表層にあるのは戦争ジャンキーというわかりやすい記号だが、その下にはたぶんもう少しグロテスクなものがひそんでいる。あまりつきつめて考えたくないけれど、それはおそらく男の正体のようなものであろう。ラストシーンで再び防爆服に身を包んだジェイムズ軍曹は勇敢なのではなく、男にはよくわからない理由で世界から遮断され、孤立しているのである。ヨルダンロケのバグダッドおよびその周辺はきわめてよくできている。アメリカ軍の装備品の使いこまれた様子も丹念に描写され、これには非常に感心した。映画では妙にぴかぴかしていることの多い対物ライフルまでが、ここでは年季の入った道具に見えたのである。 




Tetsuya Sato

2013年1月24日木曜日

レッド・アフガン

レッド・アフガン
The Beast
1988年 アメリカ 104分
監督:ケヴィン・レイノルズ

ひどい邦題がついているが、実に骨の太い戦争映画なのである。
冒頭の村の襲撃シーンの緊張感がまず素晴らしい。そしてアフガニスタンの男たちは村を襲った戦車を旧式の銃を携えて徒歩で追跡し、その後をさらに怒り狂った女たちが爆薬を持って追いかける。ソ連の兵士たちは疲弊し、堕落し、反目を繰り返し、戦車のブレーキオイルは酒の代わりに飲まれてしまっている。上官に憎まれて荒野に放り出された運転手はアフガンの男たちに拾われ、自らもまた「戦車」に復讐すべく、RPGを抱えて追跡の列に加わっていく。
ストーリーは魅力的で、すべてのシーンが素晴らしい。ロケのほとんどはイスラエルでおこなわれたようで、実物戦車(T-54/T-55改造のチラン)が縦横に走りまわる。;話の方は旧約聖書の「ダビデとゴリアテ」が実に見事に移植されていて、ゴリアテ=戦車は最後に石で倒され、すべてを見届けた天使は昇天するという落ちまでついている。とにかく傑作なのである。オリジナルの舞台劇というのも機会があったら見てみたいものだ。




Tetsuya Sato

2013年1月23日水曜日

伊坂幸太郎『PK』

 表題作の『PK』はサッカーワールドカップのアジア予選におけるロスタイム中のPKを中心に話が進む。もちろん双方が無得点という状況だが、サッカー小説というわけではない。ゴールの前に立つ選手に続いて現われるのは奇妙なしかたで子供のしつけをしている父親であり、さらに続いて現われるのは政治的な岐路に立たされている政治家であり、あるいは居酒屋で会話をしている男女であり、あるいは選手自身の少年時代の姿である。
 その一つひとつは異なる時間軸の上にあり、奇妙なしかたで子供のしつけをしていた父親はどうやら政治家の父親で、政治家はPKから十年後の世界に立って、十年前にPKをした選手の挙動を気にしている。選手の挙動にはなにやら不可解な点があり、それが次の行動とどうにも結びつかないことを気にしている。そしてその謎が解明できれば、自分の問題も判断がつくのではないかと期待している。この政治家と秘書官の会話が面白い。
 そして謎がさまざまな憶測を呼び、つらなるテキストの異なる時間軸を渡り歩きながら、次第にあきらかになってくるのは個人の判断をはばむ理不尽な力の存在であり、それに対抗する個人の意志の存在である。自由な個人と対立する抽象化された圧力は伊坂氏の作品に通底するものであろう。
 二編目の『超人』は特徴的なテキストの構成と人物関係から『PK』の姉妹編として読むことができるが、超能力の話である。一種の予知能力を与えられた若者が未来に殺人を犯す人物を殺人を犯す前に殺していく。作中でスティーブン・キングの『デッドゾーン』について触れる箇所があるが、していることは言わば個人版の『マイノリティ・リポート』というところであろう。しかしフィリップ・K・ディックが描く予知能力者とは異なり、ここでは未来はサッカーの試合結果を知らせるメルマガで届く。この作品で自由な個人と対決するのは大いなる理不尽ではなく、正義のころもをまとった自由な個人自身であり、まさしく正義のころもをまとった世に言うところの「超人」が若者を助けるために登場する。超人の超越的な美しさは『PK』の超越的で正体の知れない理不尽さと対照的で、並んだ二編におけるこの対比は興味深い。
 三編目の『密使』は時間を主題にした言わばSFであり、未来を改善するために過去を改変しようとする謎の組織が登場する。量子論をまじえた並行宇宙の説明がなかなかの説得力で、時間蟻、時間スリといったアイデアが面白く使われているが、それよりも面白いのはいわゆるSF的な素材が伊坂氏の作品世界に完全に回収されているところであろう。作品のスタイルにおける強度が見えて、これはうれしい驚きであった。
(週刊現代 2012/3/31号)


Tetsuya Sato

2013年1月22日火曜日

伊坂幸太郎『マリアビートル』

 伊坂幸太郎氏が二〇〇四年に発表した『グラスホッパー』は複合的な視点の使い方と視点の変わり目にぺたんと押された丸い印影が特徴的な、殺し屋と死体の多い小説だった。その『グラスホッパー』からスタイルと背景世界を受け継いだ『マリアビートル』も殺し屋と死体の多い小説である。
 ただしこの小説に与えられた時間軸の長さはわずか二時間半、東北新幹線『はやて』が東京駅を出発してから盛岡駅に到着するまでであり、おもに殺し屋からなる登場人物が列車内を舞台にそれぞれの事情と運命とをからめ、からんだところから紡ぎだされる緊張の糸は終点盛岡に向かって否応なしに太くなる。
 時間と空間における制約(この場合は時刻表どおりに走る列車の中)は書き手にとって挑戦的な選択であり、作者は選択の結果を読み応えのある力作として結実させた。なにしろ列車の中が舞台であり、特に貸し切りというわけではないので常に衆人環視にさらされている。ただ物を隠すのにも苦労するし、敵が前方にいれば車両を通り抜けるのも難しい。しかも車内販売のワゴンがどこからともなく現われて、しばしば通行の障害となる。だから殺し屋と殺し屋は三人掛けの座席の窓側と通路側に腰を下ろして、そこで息をひそめて戦うことになるのである。列車という空間の使い方にこれほどまでにこだわった作品というのはあまりないのではあるまいか。
 もちろん伊坂氏独特のキャラクター造形はここでも変わらずに健在であり、殺し屋の一人が場面に応じてドストエフスキーやヴァージニア・ウルフを引用すれば、その相棒は相棒で『機関車トーマス』の世界を使って周囲の状況を説明する。特にこの檸檬と名乗る殺し屋の『機関車トーマス』への傾倒ぶりが愛らしく、その傾倒ぶりを単なる愛着に終わらせるのではなく、ストーリーへと確実に回収していく作者の手つきが頼もしい。
 さて『マリアビートル』には『グラスホッパー』の登場人物が何人か顔を出しているが、そのうちのひとりはかつてバッタの群衆相に触れ、都市化した人間もバッタと同じように暴力性を帯びていると指摘した。『マリアビートル』ではその暴力性が無法な支配の論理を得て人間性を貶める。『グラスホッパー』でバッタの群衆相に触れるのは経験を得た殺し屋だが、『マリアビートル』で支配の論理をふりかざすのは中学生である。中学生は現実の経験を必要としない。遍在する言葉が暴力の源泉となり、この中学生を武装させる。その強さは圧倒的であり、倫理観から切断されたとき、我々がいかに無力になるかを見せつける。そして孤立無援になった我々は結末を運にまかせることになるのである。この作品における運と不運の作用には、ぜひ注目していただきたい。
(週刊現代 2010/10/30号)


Tetsuya Sato

2013年1月21日月曜日

ダーク・スター・サファリ

ダーク・スター・サファリ
Dark Star Safari
ポール・セロー, 2002
北田絵里子/下村純子・訳
英治出版, 2012

2001年の1月から5月の五か月半をかけて、ポール・セローがカイロからケープタウンまで旅をした記録をつづったいわゆる紀行文学で、まずナイル川を遡行する船に乗り、ナセル湖まで達したところでビザの問題で足止めを食って周辺の土地を見て回り、それから空路でスーダンに入って各地を歩いてスーフィーの踊りを眺め、マフディーの曾孫のマフディーと会見し、エチオピアに入ってランボーゆかりの地ハラールを訪ね、アディスアベバに戻ってラスタファリと会見し、家畜運搬トラックに便乗してケニアに入り、観光客を乗せたアフリカ縦断トラックにも乗り、そのトラックが故障で立ち往生すると自分は団体旅行向きではないと悟って修道女のジープに乗り、五人乗りのプジョーのタクシーに九人が詰め込まれた状態でナイロビに着き、ナイロビの知識人と会話を交わし、外国人向けのサファリツアーを批判し、ヘミングウェイを批判し、支援団体を批判し、バスに乗ってウガンダに入って自分がかつて教えていたマケレレ大学の荒廃を嘆き、カンパラで自分の過去を探索し、売春婦と会話を交わし、ヴィクトリア湖をフェリーで渡ってタンザニアに入り、列車でダルエスサラームに移動しながらタンザニアの失敗を総括し、それから列車でマラウイを目指し、ここでも自分がかつて教えた学校を訪ねて荒廃を嘆き、援助を批判し、マラウイの失敗を総括し、丸木舟に乗って川を下ってモザンビークに入り、モザンビークの荒廃を眺めてからジンバブエに入り、ジンバブエでも荒廃を眺め、ジンバブエの白人農場主と会話を交わし、バスに乗ってヨハネスブルグを目指してヨハネスブルグの知識人と会話を交わし、問題をはらんだ南アフリカの現状を眺め、豪華な列車に乗り込んで中編の官能小説を仕上げながら、とうとうアフリカの最南端に到達する。
旅を続ける気力と体力には感心した。二十代のころに平和部隊の一員としてアフリカと接点を持ったポール・セローが自分自身の過去を尋ねる旅にもなっていて、過去には見えなかった混乱と荒廃を間近に目にしていろいろと気の滅入る思いをしたようではあるが、本人がどう言いつくろおうと、先進国の知識人という心地よい鎧をまとった事実上のヒッピー老人が愚痴を垂れ流しながら、いつでも逃げ出せるというきわめて有利な立場からアフリカの現状を総括しているに過ぎない。それにしてもアフリカの現在を説明する過程で冷戦時代の国際関係を適当にスルーしながら援助団体を目の敵にする、という態度はいかがなものか。アフリカ各地のルポルタージュは一読する価値があるし、移動手段に関する記述は貴重な報告となっているものの、「ひとりぼっちでかわいそうなポーリー」のどこまでも荒廃した心象風景に最後までつきあうのはいささか忍耐を必要とする。この内容のままトマス・ベルンハルトが書いていたら、傑出した小説になっていたかもしれないと思う。


Tetsuya Sato

2013年1月20日日曜日

テッド

テッド
Ted
2012年 アメリカ 106分
監督:セス・マクファーレン

1985年、ボストン郊外の住宅地にクリスマスシーズンが訪れ、近所の悪ガキがユダヤ人の少年を袋にしていたころ、袋にされているユダヤ人の少年からも拒絶されるほどひとりぼっちな少年ジョン・ベネットはクリスマスの贈り物にかなりおおぶりなクマのぬいぐるみを受け取り、このクマにテディと名づけて永遠に続く友情を誓い、ありがちなことではあるが、テディとお話ができたらな、と祈ったところ、いきなり奇跡がおこってテッドは歩いてしゃべるようになり、そういうぬいぐるみのクマはなかなかにいない、ということでまたたく間にテッドはセレブなクマになり、それから27年後、35歳になったジョン・ベネットはかつてのひとりぼっちの少年ではなく、レンタカーの会社で働き、交際四年目を迎えた恋人もいて、一方、27歳になったテッドはいつの間にか声変わりして、女と見ればすかさず胸に触るようなエログマと化し、マリファナはやる、お酒は飲む、コールガールを呼びつける、というような言わば好き放題な日常を送っていて、ジョン・ベネットの恋人ロリ・コリンズはジョン・ベネットとの関係が四年かかっても進展しないのはテッドに原因があると考えてジョン・ベネットにクマ離れを要求し、ロリ・コリンズを失うことを恐れたジョン・ベネットはテッドに別居を求め、そこでテッドは独立してスーパーのレジ係になって何の困難もなく恋人も見つけ、旺盛に生活力を発揮しながら毎日のようにジョン・ベネットを呼びつけてマリファナを吸う、映画を見る、パーティに呼ぶ、などの行為を繰り返すので、ロリ・コリンズはいっこうにクマ離れできないジョン・ベネットと絶交し、失意のどん底に落ちたジョン・ベネットを救うためにテッドは前足を差し伸べるが、そこへテッドを狙う魔の手が現われる。
ジョン・ベネットがマーク・ウォールバーグ、ロリ・コリンズがミラ・キュニス、テッドの声がセス・マクファーレン。ジョン・ベネットとテッドは1980年版の『フラッシュ・ゴードン』という正真正銘の駄作をなぜか信奉していて、二人の前に本物のサム・ジョーンズが降臨する。
プロットはおおむね定式にしたがい、ぬいぐるみのクマが下ネタに連結されてクマ離れできない人間が目を覆うような光景が次から次へと出現するが(そしてもちろんうちのクマのコードからは大きくはずれていることになるが)、テッドが自意識の強いクマとして描かれているのでさほどのいやみにはなっていない。周辺人物までキャラクターは確実に色分けされ、ダイアログはおおむねにおいてテンポが速く、それなりの密度を備えている。ということでコメディとして鑑賞に耐える水準にはあるものの、映画全体としてはややリズムを欠き、ところどころには泥臭さも見え、そういうところも含めてセス・マクファーレンの持ち味ということになるのかもしれないが、洗練された仕上がりであるは言い難い。ところで劇中の回想シーンに登場するディスコの場面は『サタデーナイト・フィーバー』のパロディではなくて、たぶん『フライング・ハイ』の引用であろうと思う。 


Tetsuya Sato

2013年1月19日土曜日

ヴァルハラ・ライジング

ヴァルハラ・ライジング
Valhalla Rising
2009年 デンマーク/イギリス 93分
監督:ニコラス・ウィンディング・レフン

キリスト教徒が茫漠とした北の土地に現われて異教徒を駆逐し始めたころ、その異教徒の一党の奴隷となって金をかけた殺し合いに放り込まれ、片端から敵を屠って無敵を誇る隻眼の男がいて、この男は自分を捕えた一党を皆殺しにして自由を得ると荒れ地を進んでいって異教徒を殺戮しているキリスト教徒の一行に出会い、誘われるままエルサレムを目指して旅立っていくと船は霧に囲まれて進路を見失い、洋上を漂った末に見知らぬ土地にたどり着いて、そこで蛮族の気配に遭遇し、一行のリーダーは蛮族から土地を奪って新エルサレムを作るべきだと主張するが、隻眼の男は一行から離れて森へ足を踏み入れていく。
話だけに注目すれば、状況が得体の知れない歴史的空間に放り込まれてはいるものの『ドライヴ』とまったく同じだと言えなくもない。そこが微妙に触る部分ではあるものの、作家性は明瞭であり、短いカットで構成された(かなり激しい暴力描写を含んでいるにもかかわらず)おおむねにおいて静的な場面が実に心地よいリズムでつながっていく有様をただひたすらに感嘆しながら眺めていた。大胆なフィルターワークを含む撮影、ロケ効果、音楽、美術、いずれもすばらしい(というか、いまさらあからさまなフィルターワークで自分が感動するとはまったく思っていなかった)。傑作であろう。




Tetsuya Sato

2013年1月18日金曜日

100FEET

100FEET
100 Feet
2008年 アメリカ 105分
監督・脚本:エリック・レッド

暴力をふるう警官の夫を正当防衛で殺害したマーニー・ワトソンは殺人の罪で二年間服役したあと自宅拘禁処分となり、足輪をはめられて行動を屋内に制約される。一人になったマーニー・ワトソンは風呂に入り、夫の衣類を地下室に放り込み、壁に張り付いていた夫の血痕をペンキで隠し、クロゼットの前に立って飽かずに着替えを繰り返す。ところがその晩から怪しい物音が聞こえ、どこからともなくネコが現われ、ラップ現象が起こり、ポルターガイスト現象も起こり、殺した夫が亡霊となって現われてまた暴力をふるうという身も蓋もない話である。いまどきまさかそれはないだろうと思ったが、エリック・レッドはそういう直球勝負を変化球でしかけてきて、上質の幽霊譚に仕上げている。幽霊役がマイケル・パレ。ほとんどファムケ・ヤンセン独演会という感じの映画だが、ファムケ・ヤンセン本人は非常に健闘しているし、ファムケ・ヤンセンを非常に美しく撮ることにも成功している。





Tetsuya Sato

2013年1月17日木曜日

スペル

スペル
Drag Me to Hell
2009年 アメリカ 99分
監督:サム・ライミ

銀行の融資係で昇進の機会を切望しているクリスティン・ブラウンは自分にも決断ができるということを支店長に見せるために老いたガーナッシュ夫人の返済延期を拒絶し、なおも懇願するガーナッシュ夫人を警備員を使ってつまみ出すので、ガーナッシュ夫人から呪いをかけられることになる。夫人の呪いによってクリスティン・ブラウンの前には怪しい影が現われ、迷惑千万な物理現象も出現し、心霊能力者の言葉からラミアが自分につきまとっていることを知ったクリスティン・ブラウンはガーナッシュ夫人の家を訪れて和解をしようと試みるが、すでにガーナッシュ夫人はこの世になく、三日ののちには自分もまたラミアによって地獄に引きずり込まれることを知ったクリスティン・ブラウンはラミアに生贄をささげたり、降霊術でラミアに罠をかけたり、呪いを移し替えようとたくらんだり、と必死になってあらがうが、この手の映画のヒロインの例にもれず、分相応の最期を遂げる。
いかなる期待も裏切られない。すでに冒頭、ユニバーサルのロゴが古いのである。きわめて古めかしいフレームを使った正統派のホラー映画で、あまりにも古典的な脚本にはキャラクターにもシチュエーションにも、余計なものは一切含まれていない。古い蔵から引っ張り出してきたようなこの純正100パーセント、ホラー演出三割増しのマスターピースのようなしろものにサム・ライミはきわめてサム・ライミ的な味付けをほどこし、恐怖の向こう側にほどよく笑いを仕込んで観客の呼吸をつかみ取る。視覚の面でも音響の面でもよくデザインされた、つまり、きわめてよくできた映画だが、磨きに磨いた骨董品を見せられているような気分になる。 





Tetsuya Sato

2013年1月16日水曜日

ザ・ホール

ザ・ホール
The Hole
2009年 アメリカ 92分
監督:ジョー・ダンテ

十代のデーンと十歳くらいの弟ルーカスは母親の仕事の都合でニューヨークからとある田舎町に引っ越してきて、その家の地下室で厳重に封印された上げ蓋を見つけて、封印を解いて蓋を開けると中には懐中電灯の光も届かないほど底の知れない闇があり、いったいどれくらいの深さがあるのかと紐の先に騒々しくおしゃべりをするエリック・カートマンの人形をゆわえて下ろしてみるとなぜか紐が切れてエリック・カートマンの人形は失われ、そこへ隣の家の十代の少女ジュリーも加わって今度はビデオカメラを下ろして中の様子を撮影するが、再生してみるとそこには怪しい影があり、以来、デーンとルーカスの兄弟、ジュリーの周辺では怪事が起こり、なにやら恐ろしい思いをさせられるので、穴の正体を確かめるために前の住人カールを訪ねるとカールは自分の周囲を無数の光で照らしていて、どうやら穴には始原の闇があって、人間を狙っているということが判明し、闇は恐怖を持ち出してくるので子供たちはそれぞれの恐怖と対決する。
一家がなぜ引っ越しをしたのか、兄弟にはなぜ父親がいないのか、謎の小ささも含めていたって古典的にまとまった小品ではあるものの、演出の小気味のよさはさすがにジョー・ダンテであると感心する。変人カールの役でブルース・ダーンが顔を出している。 





Tetsuya Sato

2013年1月15日火曜日

THE CLASH ザ・クラッシュ

THE CLASH ザ・クラッシュ
Stuck
2008年  カナダ/アメリカ/イギリス/ドイツ 94分
監督:スチュアート・ゴードン

プロビデンスの町の老人福祉施設で介護助手をしているブランディ・ボスキは上司から昇進の可能性を教えられて舞い上がり、土曜日出勤を承諾する。そしてその土曜日の早朝、遊びからの帰りにショッピングカートを押して歩くコート姿の男を車で撥ね、男は頭からフロントガラスを突き破って重傷を負い、狼狽したブランディ・ボスキは男の下半身を窓から生やした状態で一度は病院まで行くものの、怖気づいてそのままの状態で家に戻り、男を車ごとガレージにしまってしまう。意識を取り戻した男はブランディ・ボスキに助けを求めるが、ブランディ・ボスキは自分の昇進のことが気にかかり、ボーイフレンドにホームレスを撥ねたことを伝えると、ホームレスならたいしたことはないから大丈夫だと確約を与えてくれるので、結局ボーイフレンドと同衾して朝を迎え、ガレージを訪れるとまたしても男が助けを求めるが、昇進のためには土曜日出勤をさぼれないブランディ・ボスキとしては、すぐに助けを呼ぶことを口では約束するものの、男を残して出勤する。以降、なんとなくよくわからないまま男は置き去りにされてしまうので、男は腹に突き刺さったワイパーを自分で引っこ抜き、骨折した脚に添え木をあて、脱出しようと試みるが、そこへ現れたブランディ・ボスキが自分でも理由がわからないまま男を始末にかかるので、けっこう凄惨なことになってくる。
原案、監督はスチュアート・ゴードン。なんとなく日常の些事に邪魔されて突発事に対処できないまま、自己弁明を繰り返す様子が粘り強く描写され、非常によくできている。スティーヴン・レイはなんだかよくわからない状況に巻き込まれた気の毒な男を好演し、ミーナ・スヴァーリはなんだかよくわからない状況を自分で仕立ててしまったふつうの女性を好演している。ただ、ミーナ・スヴァーリにドレッドヘアはあまり似合わないと思うのである。 

Tetsuya Sato

2013年1月14日月曜日

ステイク・ランド 戦いの旅路

ステイク・ランド 戦いの旅路
Stake Land
2010年 アメリカ 98分
監督:ジム・マイクル

吸血鬼(雰囲気は吸血するゾンビに近い)が跋扈する世界で両親を失った少年マーティンはミスターとだけ名乗る男に助けられ、吸血鬼を狩りながら北を目指し、間もなく旅に尼僧が合流し、吸血鬼を使って世界の浄化をたくらむテロリスト同然の狂信者たち(ヘリコプターから吸血鬼を投下する)が現われ、狂信者たちの目をくぐって北への旅を続け、さらに妊婦が合流し、兵士が加わり、車を捨てて徒歩で山を越え、カナダとの国境へ近づいていく。
凍てつく冬を背景にしたロケ効果が抜群で、撮影が非常に美しい。出演者は抑制された演技を確実にこなし、いずれもきわめて印象が強い(尼僧役でケリー・マクギリス)。演出は淡々としているが、無駄がなく、視点は少年に集中し、家族の喪失と家族の再構成を経る成長譚として緊密に構成されている。この種の映画としては画期的と言えるほど背景が確実に用意され、細部にわたって目が行き届いているのがなんと言っても好ましい。力作である。 



Tetsuya Sato

2013年1月13日日曜日

キング・オブ・バイオレンス

キング・オブ・バイオレンス
King of the Ants
2003年 アメリカ 94分
監督:スチュアート・ゴードン

日雇いでペンキ塗りをしている若者が工事現場で出会った電気技師から夢はないのかと質問され、映画のなかの私立探偵と答えると、間もなくその電気技師から電話があって建設会社の社長を紹介され、その社長から尾行の仕事を与えられる。車がないので自転車をこいで標的を追いかけ、ポラロイドカメラで写真を撮り、どうにか尾行の仕事をこなして報告すると、建設会社の社長が酔って現われ、今度は標的の殺害を依頼する。若者はさまざまな条件を上げ、結局13000ドルで話がつき、標的の夫人が働く慈善団体の職員を装って標的を訪ね、置物で殴り、植木鉢を叩きつけ、冷蔵庫を倒して押し潰す。そしてファイルを見つけ出して自宅に戻り、電気技師から連絡を受けて動物園を訪れる。電気技師は若者に町を離れるように要求し、若者が報酬を求めると蟻んこ野郎と罵って首を絞め、若者の人格を貶める。一方、若者は町から出ることを拒み、殺害の現場でファイルを見つけたことを口に出し、そのファイルを友人に預けて自分の身に何かがあったら公表されることになっていると宣言する。そこで建設会社の社長は若者をさらって郊外の農場に監禁し、監禁された若者は壁に貼ってあったピンナップガールの写真で自慰にふけり、殺した男の夫人との関係を妄想する。社長一味は若者の脅しをまったく意に介さずに若者を縛って頭をゴルフクラブで殴り続け、毎日のように殴られるので若者はこぶだらけになって正気を失い、自分から頭を差し出すようになり、殺した男の幻影が現われ、そうこうするうちに機会を捉えて反撃に出て、そこへ現われた友人に助けられて農場から脱出を果たすが、言っていることがすでにおかしいので見捨てられて異様な風体のまま町を歩き、慈善団体に救われる。もちろんそこには殺した男の夫人がいて、若者はそこで傷を癒し、行くあてがないということで家に招かれ、冷蔵庫が新しくなっていることを確認し、夫人の娘と親しくなり、夫人とも親しくなるが、ファイルをうかつな場所に隠したせいで正体を知られ、再び農場を訪れて大掃除に取り掛かる。
ふつうの知能とふつうの欲望とふつうの善良さを備えた若者がどれを捨てるというのでもなく、ただ状況に巻き込まれて死体を転がしていくプロットはなかなかに面白い。身勝手ではあっても基本的には善人なので、自分がじわじわと殺している相手をふつうにいたわったりするのである。スチュアート・ゴードンとしては珍しくハリウッドで撮影され、手持ちカメラを多用している。上記のような内容だが、スチュアート・ゴードンの映画なのでやっぱりぬとぬとした物が出現する。暴力描写はかなり衝撃的で、ゴルフクラブで打たれるシーンには目を背けた。けちな建設会社の社長がダニエル・ボールドウィン、その子分の役でヴァーノン・ウェルズが顔を出している。 



Tetsuya Sato

2013年1月12日土曜日

フロム・ビヨンド

フロム・ビヨンド
From Beyond
アメリカ 1986年 85分
監督:スチュアート・ゴードン 

プレトリアス博士の研究所で実験中に事件が起こり、首なしとなった博士の死体が発見される。助手のティリンガストが犯人として逮捕されるが、警察から精神鑑定を依頼されたキャサリン・マクマイケルズ博士はティリンガストが真実を語っていると確信して実験の再現を提案する。
マクマイケルズ博士はティリンガストと研究所を訪れ、ブラウン巡査部長立ち会いのもと、プレトリアス博士の共振装置を始動する。この共振装置は人間の松果体を発達させる性質を備え、人間はこの装置の影響下に入ることで性的な刺激を受ける上に(すごくエッチな気分になるらしい)、見えない筈の存在を見ることができるようになる。 実を言うとプレトリアス博士はその見えない世界の怪物に襲われ、その結果としてあちらの世界の住人となっていたのであった。実験を続ける三人の前には奇怪に変貌した博士が現われ、早くもマクマイケルズ博士の美貌に注目して粉をかけ始める。 実を言うとプレトリアス博士は色惚けのサディストで、その性分はあちらの世界でいっそう強化されていたのであった。共振装置のスイッチを切ることでプレトリアス博士の姿は消滅したが、それは見えなくなったというだけであって、存在が消滅したわけではない。ティリンガストは装置の危険性を訴える。だがマクマイケルズ博士は発明の重要性に注目し、これが分裂症治療に適用できると主張する。
マクマイケルズ博士は再び装置を起動し、そうすると案の定、プレトリアス博士が襲いかかる。しかも装置のスイッチはすでにプレトリアス博士の支配下にあった。どうにか撃退したものの、マクマイケルズ博士は共振装置に取りつかれ(結局エッチだったのである)、家はあちらの世界の侵食を受ける。間もなくプレトリアス博士の三度目の襲撃がおこなわれ、ブラウン巡査部長はその犠牲となり、ティリンガストの額には蛇を思わせる第三の目が出現した。あわてて病院へ担ぎ込むと、今度はマクマイケルズ博士が正気を疑われることになり、怪物化したティリンガストは病院の中を歩き回って人間を襲う。病院から脱出したマクマイケルズ博士は共振装置を破壊するためにプレトリアス博士の研究所へ急ぎ、ティリンガストも救急車を奪って研究所を目指す。そして研究所ではプレトリアス博士がぬとぬとのぐちゃぐちゃになって現われ、マクマイケルズ博士を救うためにティリンガストもまたぬとぬとのぐちゃぐちゃになるのであった。
原作になったH.P.ラブクラフトの短編『彼方より』というのは上のストーリーの最初の1行くらいの内容で、あとは映画のオリジナルである。スチュアート・ゴードンはまったく迷いを抱かずに自分の趣味(よい趣味とは言い難いが)を全開にしているし、その結果を一定以上のパワーで画面に焼き付けることに成功している。異様な迫力を感じるのである。 

フロム・ビヨンド [VHS]
Tetsuya Sato

2013年1月11日金曜日

ポルターガイスト

ポルターガイスト
Poltergeist
1982年 アメリカ 114分
監督:トビー・フーパー

カリフォルニアの新興住宅地クエスタ・ヴェルデで不動産会社に勤めるスティーヴ・フリーリングは妻ダイアン、長女、長男、次女とともににぎやかに暮らしていたが、間もなく家に怪異が起こって家具や食器が勝手に動くようになり、それを目撃した妻ダイアンは激しく興奮し、察するにきわめておおらかな女性なのであろう、さしあたり害はないと判断する。しかしある嵐の晩のこと、子供部屋の外にある古木が暴れて長男を襲い、一家があわてているあいだに次女キャロル・アンが子供部屋のクローゼットに飲み込まれ、キャロル・アンは姿を消して、ただ助けを求める声だけが走査線の流れるテレビから聞こえるようになったので、一家は大学の超心理学研究室に助けを求め、レッシュ博士を筆頭とするチームは現地を訪れて現象のあまりの凄まじさに驚愕し、さらに恐ろしい体験もして、問題を解決するために霊媒のタンジーナ・バロンズを呼び寄せる。タンジーナ・バロンズは家のなかを歩いて霊界との接点をさぐり、入口と出口を発見するとキャロル・アンを救うためにロープを腰に結わえたダイアン・フリーリングが霊界へ進み、キャロル・アンを救ってこちらの世界へ生還を果たすが、クエスタ・ヴェルデは土地開発業者によって冒涜された土地であったため、さらに恐ろしい現象が襲いかかる。
脚本はスティーブン・スピルバーグ、特殊効果はリチャード・エドランド。ポルターガイスト現象が起こる場所に陽気で騒々しい一家が住んでいるので目立った害のないうちにはそれほど気にならない、という視点は面白い。現象の個々の描写は丹念におこなわれているが、全体に一貫性を欠き、造形としてはハロウィーンパーティーのような雰囲気があって、何かの怪異を目の当たりにしているという感じではない。母親役のジョベス・ウィリアムズの好ましい熱演ぶりは記憶に残る。





Tetsuya Sato

2013年1月10日木曜日

死霊のはらわた

死霊のはらわた
The Evil Dead
1982年 アメリカ 85分
監督:サム・ライミ

深い森の奥の小屋の中で死霊を呼び出す呪文を吹き込んだテープを再生すると言葉どおりに死霊が蘇って人間にとりつく。とりつかれた人間は化け物になって襲い掛かってくるので、切り刻まなければならないのである。この映画の噂が聞こえてきてすぐに(当時みんながそうしたように)違法コピーのビデオで鑑賞した。面白いのは普通ならこうした映画を決して見る筈のない母がわたしの横に座ってずっと見ていたことで、不思議に思って「面白いの?」と尋ねると「面白い」と深々とうなずいたのである。話がどうこう、スプラッターぶりがどうこう、というよりも映画が備えているパワーと工夫を凝らしたカメラワークが面白かったらしい。おそらくは大半がインカメラ・ショットで作り出されたであろう映像はいつ見ても見ごたえがある。 





Tetsuya Sato

2013年1月9日水曜日

悪魔のはらわた

悪魔のはらわた
Flesh For Frankenstein
1973年 イタリア/フランス 97分
監督:ポール・モリセイ

アンディ・ウォーホル提供。
男爵は助手のオットーとともに研究所にこもって男ゾンビと女ゾンビの製造に余念がない。男爵の思惑では完成した男ゾンビと女ゾンビが交合してこどもが生れ、そこから新しい種族が発生してそのことごとくが男爵の意のままに動く筈であったが、その夢を実現するためにはまず性欲の詰まった男の頭を捜す必要があり、またその男の顔にはセルビア人の見事な鼻が付いていなければならなかった。そこで男爵とオットーは売春宿の入り口を見張り、そこに現われた男を絶倫であると誤認して頭を切り落として持ち帰る。男爵には都合のよいことに、これはセルビア人の見事な鼻の持ち主であった。男爵とオットーは持ち帰った頭を用意した頚にちくちくと縫い付け、そうして男ゾンビと女ゾンビを完成させるが、間もなく激しい失望を味わう。すぐにも子を作らせようとして女ゾンビに男ゾンビを誘わせてみたが、男ゾンビがまったく振るい立たないからで、それというのも男ゾンビの頭に使われた男は世俗を捨てて修道院に入ることを考えていたからであった、というようなアホウな話の合間に内蔵、屍姦、近親相姦といった意味深な記号が山ほど登場するが、それよりもウド・キアの怪演ぶりが面白い。



Tetsuya Sato

2013年1月8日火曜日

巨人ゴーレム

巨人ゴーレム
Der Golem, wie er in die Welt kam
1920年 ドイツ 100分
監督:パウル・ヴェゲナー

ラビ・レーヴは魔術によってアスタトロを呼び出し、粘土の人形に命を吹き込んでゴーレムを作る。そしてゴーレムをともなって王宮を訪れ、王の前で魔術を披露してユダヤ人への圧力を取り除くことに成功するが、間もなくゴーレムは暴走を始めてラビ・レーヴの娘をさらい、ゲットーに火を放ち、シナゴーグに集まったユダヤ人は恐怖を覚えてラビ・レーヴに助けを求めるので、ラビ・レーヴは炎を収めてゲットーを救う。反ユダヤ的な俗説ぶりがはなはだしいので、どこからどう見ればいいのか、視点がいっこうに定まらない。とはいえゴーレム初めてのお使いはなかなかに笑える。 


Tetsuya Sato

2013年1月7日月曜日

カリガリ博士

カリガリ博士
Das Cabinet des Dr. Caligari
1919年 ドイツ 48分
監督:ロベルト・ウイーネ

カリガリ博士と名乗る人物がカーニバルに現われて眠り男チェザーレを看板に見世物をはじめ、チェザーレから死を予告された友人が予告どおりに殺されるので、青年フランシスがカリガリ博士の謎をあばく。いわゆるドイツ表現主義の「傑作」である。とはいえ構成の多重性も含めて話の作りはこぶりなもので、特徴的なセットも創意よりは即興性が目立っている。解釈の尾ひれをつけることは可能だが、それ自体によって明確な作品性を備えているかどうかは疑わしい。 




Tetsuya Sato

2013年1月6日日曜日

現代アフリカの紛争と国家

現代アフリカの紛争と国家
―ポストコロニアル家産制国家とルワンダ・ジェノサイド
武内進一, 2009, 明石書店

現代アフリカにおける紛争および虐殺の主要な原因を民族対立にあるとする説明に疑義を提示し、その原因をおもに植民地支配以降における社会的変容に求めようとする研究で、著者は日本貿易振興機構アジア経済研究所アフリカ研究グループ長。事例として副題にあるようにルワンダが取り上げられ、ルワンダにおける19世紀までの王政の様子、その統治メカニズム、ベルギーの植民地支配がもたらした近代化によるエスニシティや社会慣行の法制化とそれによって引き起こされた諸問題、特にベルギー人の妄想じみた歴史的民族史観によってトゥチが支配階層に固定され、一方フトゥが被支配階層に固定された経緯、この支配民族、被支配民族という人工的な関係が独立に際して対立を生み出し、以降、内戦と虐殺にいたるまで延々ともめごとを垂れ流し続ける、というルワンダ固有の状況を、さまざまな先行研究を紹介しつつ、また著者自身による現地調査の豊富な成果を交えて分析しながら、現代史における国際政治環境を背景に置き、冷戦期間中のアメリカ、ソ連のアフリカへの介入、冷戦終了による資金流入の変化とそれにともなう家産制国家の立ち往生、アフリカ諸国に対して加えられた民主化圧力と構造調整による影響などを解説する。
多角的で膨大な情報を扱っているが、記述は平易でわかりやすく、また各章のおわりに必ず「まとめ」がついているのでわたしのようなうかつな読者でも頭を整理しながら読むことができる。ルワンダ・ジェノサイドに関する分析では1994年4月6日以降の中央政府の挙動(国連機関を含む)、地方政府の挙動、知識人を含む地元有力者の挙動、農村地帯の状況などがデータをもとに詳述されていて、扇情的な記述はまったくないにもかかわらず事件の様子がある種の迫真性を帯びて立ち上がり、読んでいるうちにかなり気分が悪くなった。現代アフリカの政治的構造を知るための好著であり、豊富な注、写真資料なども興味深い。そして小党が乱立して害しか与えないような民族主義の旗を振り、教育を受けたはずの人間がどう見ても人間のクズのようにふるまう、というあたりを眺めていると、家産制国家ではないものの、アフリカから遠く離れたどこかの国を見ているようで少しく気味が悪い。


Tetsuya Sato

2013年1月5日土曜日

リオ・ブラボー

リオ・ブラボー
Rio Bravo
1958年 アメリカ 135分
監督:ハワード・ホークス

バーデット兄弟の弟ジョーが丸腰の男を撃ち殺したので、保安官のジョン・T・チャンスはジョーを逮捕して監禁する。そこでバーデット兄弟の兄ネイサンは多数のガンマンを雇って保安官事務所を監視下に置き、保安官に加勢しようとたくらむ者を排除して弟の釈放を要求する。チャンスは連邦保安官を町に呼ぶが、その到着までには六日がかかり、頼みは自分自身と二人の助手だけ、助手の一人はアル中で、一人は老人で満足に歩けない。
見どころの多い映画だが、やはりここはディーン・マーティン扮するアル中の保安官助手デュードであろう。冒頭、これが浮浪者も同然の姿で酒場に現われ、クロード・エイキンス扮するジョーがその有様を気づいて見せつけるようにグラスを上げ、痰壷に1ドル銀貨を放り込む。デュードは痰壷の口を物欲しそうに見やり、やおらに腰を屈めて拾いにかかると、そこへジョン・ウェイン扮する保安官が登場して痰壷を蹴り飛ばすのである。この間、台詞は一切なし、ただ映像が雄弁なのである。このあとでジョーの殺人を目撃したデュードは保安官助手に復帰してアルコールを断ち、禁断症状に苦しみながら敵の包囲に立ち向かう。ディーン・マーティンが実によい味を出していた。話の主軸はもちろん保安官とバーデット一味との戦いにあるが、その傍らにデュードが復活していく有様が小気味よく配置され、その隣では保安官と女賭博師フェザーズとの恋がなかなかに艶っぽく描かれる。身辺にアンジー・ディキンソンがうろうろしたりすると、いかにジョン・ウェインでも冷静ではいられないのである。ウォルター・ブレナンの口数の多いじいさんぶりもまたよろしいし、リッキー・ネルソンのちょっと小賢しい若者ぶりもまたよろしい。対するバーデット側のガンマンたちはジョーを無傷で取り戻すためにとにかくだまし討ちに専念し、小悪党ぶりを全開にして楽しませてくれる。ハワード・ホークスの演出は無駄がなく、アクションは常にテンションが高い。



Tetsuya Sato

2013年1月4日金曜日

教授と美女

教授と美女
Ball of Fire
1941年 アメリカ 111分
監督:ハワード・ホークス

むかしむかしニューヨークという名前の森に百科事典の編纂をしている八人の教授がいました、ということで話が始まって、木立のむこうからその八人の教授が「白雪姫」の小人よろしくやってくるのである。そのなかの一人、十三歳でプリンストンを卒業した文法学者のバートラム・ポッツ教授は自分が担当している俗語の資料がすでに古くなっているということに気がついて調査のために九年ぶりに町を訪れ、クラブの歌手キャサリンと出会う。キャサリンはギャングのボス、ジョー・ライラックの情婦で、そのジョー・ライラックは殺人事件で検察に追われていて、キャサリンもまた証人として追われていて、警察の目から逃れるために八人の教授が住まう一軒の家に身をひそめる。そうすると女っ気もなしに九年も引きこもって仕事をしていた教授たちはたちまちにうちにキャサリンに幻惑されてしまう。「白雪姫」を換骨奪胎した脚本はビリー・ワイルダーとチャールズ・ブラケット。
教授たちのなんとも浮世離れした挙動がなんともかわいらしいのである。ハワード・ホークスの演出はたとえばビリー・ワイルダーのような明白な才気を感じられるものではないものの、テンポが速く、きびきびとして好ましい。ダナ・アンドリュースのにやけたギャングぶり、そのギャングにボクシングの教本を頼りに立ち向かうゲイリー・クーパーのうぶな教授が見物であった。 
教授と美女 [DVD]

Tetsuya Sato

2013年1月3日木曜日

赤ちゃん教育

赤ちゃん教育
Bringing Up Baby
1938年 アメリカ 102分
監督:ハワード・ホークス

デヴィッド・ハックスリー博士は自然博物館の主催者で四年もかけてブロントザウルスの化石標本を組み上げていたが、その博物館に百万ドルの寄付の申し出があり、寄付者の代理人と会って確約を得ようとしていると、そこへいささかエキセントリックなご婦人スーザン・ヴァンスが登場してハックスリー博士を奇怪な騒動に巻き込んでいく。ハックスリー博士も状況を打開しようと非力ながらも試みるが、言葉数ではスーザン・ヴァンスが博士をはるかに上回り、どうにか口をはさむことに成功しても相手は博士の話を聞かずに関係のないことを考えていて、博士が何かを言うよりも先に行動してしまうので事態はいっこうに好転しない。
ヒロイン、スーザン・ヴァンスはとにかく騒々しくて口数が多くて、口数が多い割には肝心なことを伝えられないし、何かに気を取られると手元も先のことも見えなくなるし、さらに恐ろしいことには手元にあるのが自分の物か他人の物かもどうやらあまり気にしていない。そういう役をキャサリン・ヘップバーンは魅力全開という感じで実に快活に演じている。相当に突拍子もないキャラクターなので、次に何を始めるかと思って見ていると、これがもうすごいサスペンスなのである。ケイリー・グラントはテンポが一つ遅れた朴念仁のハックスリー博士を好演していて、これもなかなかによい感じであった。騒動に関わっていく町の警察署長、神経科医、弁護士、叔母さん、叔母さんの家の家政婦と庭師、さらにハックスリー博士の婚約者などもみな個性が豊かで、それぞれに笑えるし、スーザンが連れて現われる本物の豹もかわいらしい。とはいえ、なんといってもキャサリン・ヘップバーンがすばらしく印象的で、見終わったあともそのおばかな演技などを反芻していると思わず顔がにやついてくる。見どころが多くて、だから見ていて幸せなコメディである。 
赤ちゃん教育 [DVD] FRT-117

Tetsuya Sato

2013年1月2日水曜日

或る夜の出来事

或る夜の出来事
It Happened One Night
1934年  アメリカ 105分
監督:フランク・キャプラ

大富豪の娘エリー・アンドリュースは飛行家キング・ウェストリーとの結婚を父親に差し止められて家出する。そしてウェストリーに会うためにパームビーチからニューヨーク行きの夜行バスに乗り込むが、同じバスには新聞社をくびになったばかりの記者ピーター・ウォーンが乗っていた。ピーター・ウォーンはエリー・アンドリュースの高慢ちきな態度に反発するが、その正体を知ると特ダネになると考えて接近する。一方、大富豪のアンドリュース氏は失踪した娘のために賞金をかけ、さらに探偵社を雇ってニューヨークまでの経路を捜索させるので、ピーター・ウォーンとエリー・アンドリュースはいずれも事実上の一文無しの状態でバスを降り、夫婦と偽り、なんでも歌にする泥棒と戦い、ニンジンをかじりながらニューヨークを目指し、そうしているうちに愛が芽生える。
クラーク・ゲイブルがシャツを脱ぐとアンダーシャツを着ていない、ので、わたしもかれこれ四半世紀、アンダーシャツを着たことがない。そのクラーク・ゲイブルのいささか大雑把な雰囲気とクローデット・コルベールの敷居の高そうな様子がうまい具合にかみあって、微妙にサスペンスを含んだほほえましいコメディになっている。ウサギそっくりのクローデット・コルベールがむなしい顔でニンジンをかじる場面を含め、役者の演技に見どころが多く、ダイアログはきわめて洗練されている。父親役のウォルター・コノリーは設け役をほとんどひとりで独占していて、壁を倒してよろしいと告げる最後の台詞は最高である。




Tetsuya Sato

2013年1月1日火曜日

2012年の映画 ベスト10

  1. スカイフォール
  2. ものすごくうるさくて、ありえないほど近い
  3. マダガスカル3
  4. バーク アンド ヘア
  5. アタック・ザ・ブロック
  6. アベンジャーズ
  7. バトルシップ
  8. シャーロック・ホームズ シャドウ ゲーム
  9. アルゴ
  10. 戦火の馬
『スカイフォール』と『ものすごくうるさくて、ありえないほど近い』はその水準の高さによって自然と1位、2位におさまった。
『マダガスカル3』は3Dアニメーションによる表現をとことんまで追い求めた作品であり、わたしはその成果を絶賛してやまないし、機会があればいつでもモートやモーリスの真似をするであろう。
『バーク アンド ヘア』はひさびさのジョン・ランディスということで多少のひいきが働いているかもしれないが、きわめてバランスのよいウェルメイドの作品であることは間違いない。
『アタック・ザ・ブロック』もまた素材を徹底的に消化した作品であり、ダイアログ、画面設計、キャラクター造形の見事さにおいて抜きん出ている。
『アベンジャーズ』と『バトルシップ』はどちらも素朴に好きだと言える作品で、この二本を見ることができたことをとても幸運だと考えている。そういう意味で次点につくのが『シャドウ ゲーム』で、これはガイ・リッチーのタッチがいつわりのないところで全開になっているのがうれしかった。
『アルゴ』はきわめてよくできた作品であり、真摯な評価に値すると信じているが、残念ながらあまりにも優等生的過ぎて、つまり瑕疵がないというところがたぶん瑕疵になっている。
『戦火の馬』についてはもう少し上にあってもいいような気がしたが、スピルバーグによる第一次大戦の処理としてはおそらく穏当に過ぎるという点で10位に置いた。
10位圏内には入らなかったものの、『トロール・ハンター』『アイアン・クラッド』『ザ・マペッツ』も2012年の収穫に数えることができる思う(あと、もしかしたら『アイアン・スカイ』も)。