2012年7月31日火曜日

北野勇作『空獏』

『空獏』 / 北野勇作(早川書房,2005/08/20)


どうやら夢のなかで、いつの頃からか戦争がおこなわれている。その夢というのはひとりの人間が見ている夢ではなくて、多数の人間の眠りの上に構築された「獏」と呼ばれるシステムで制御された夢で、夢を見ている人間は目覚めの時期を知らないので、延々と続く眠りのなかでどこまでもどこまでも戦争の夢を見続けている。夢のなかでは昔なじみの悪夢のように同じ場面が繰り返され、夢を見ている人間はその場面にどこかで既視感を覚え、これから起こることを予期しながらも夢から逃れることができずに繰り返して死を経験し、そしてそれは夢のなかのことなので、そうしてもたらされた死の光景は死んだ人間の記憶に焼き付けられる。
まるで悪夢のような、悪夢の話なのである。状況は曖昧模糊としていて、視野の縁は欠けていて、掟は手の届かない彼方にあり、説明もなければ釈明もない。登場する「わたし」は日常の光景の地続きの延長としての戦場へ進み、あるいはいきなり戦場に放り出されて日常という夢に逃避する。状況は常に理不尽で、逃げ場がない上に容赦がない。かろうじて記憶にとどめられた慎ましやかな思い出が唯一の救いとなっているものの、その思い出にしてからが出所には確信がないという有様である。
この唐突さと曖昧さ、そして残酷さと滑稽さは無限に循環する悪夢という枠からはみ出し、いつしか現実の戦争と重なりあう。ここで「わたし」が黙々と呑み込み続けるのは、おそらくは現実の戦場に置かれた兵士が味わう無情さであり、退屈であり、見えない掟への諦観であろう。あとがきには「ひたすらかっこわるくてセコくてアホらしい戦争の話にしようと思った」と記されているが、まったくの話、戦争からアホらしい英雄幻想を取り除いたあとに残るのは、「ひたすらかっこわるくてセコくてアホらしい」という、ただそれだけのことなのである。戦争に閉じ込められた個人の心象を媒介に、戦争の本質が実に見事に明かされている。




Tetsuya Sato

2012年7月30日月曜日

インセプション

インセプション
Inception
2010年 アメリカ/イギリス 148分
監督・脚本:クリストファー・ノーラン


ターゲットを夢のなかに誘い込んで罠を仕掛け、秘密を盗み出すことを生業としている男コッブは日本人サイト―からの依頼で秘密を盗む代わりに思考の刷り込みをおこなうことになり、夢の設計士、鎮静剤の調合士などを招集して計画を練り、ターゲットを眠らせて用意した夢に誘い込み、罠をしかけながら夢の深層に向かって降りていくが、そもそもコッブには死んだ妻がいて、この妻に関する記憶がしばしば夢に投影され、投影されて現われた妻がコッブの仕事を邪魔する、という問題があり、そのあたりの真相が暴かれていくとミッションはなんとなく置き去りになって話はコッブのセラピーに移り、というよりももともとコッブのセラピーの話にたまたま、というか、無理矢理、という感じでミッションが乗っかっているような形になっていて、視覚的にはそれなりに面白いところがあるものの、見ているこちらとしては、いまさら自分の潜在意識と対決してもなあ、という感想が先に立ち、そこへ来て主軸があいまいなままクライマックスへともつれ込む悪い展開のせいで盛り上がりにも乏しいので、なにやら夢の構造だのメカニズムだの話をいろいろとしても、結局のところ、いまさら自分の潜在意識と対決してもなあ、という感想がまた立ち上がり、メカニズムの部分もバランスを崩した構造の上で滑り出すだけで、いっこうに面白みとなって現われない。
夢に実際的な形で目的を持ち込むことにそもそも無理があるような気がするし、夢自体を現実に近接した物理現象のなかで表現することにも違和感があり、最後まで収まりの悪い気持ちを味わっていた。明確な対立項を欠いたまま自己再確認に到達する過程は『メメント』を思い出させるが、『メメント』があのサイズだから成功していたとすれば、こちらはこのサイズなので失敗したのではあるまいか。長すぎる。






Tetsuya Sato

2012年7月29日日曜日

ダークナイト ライジング

ダークナイト ライジング
The Dark Knight Rises
2012年 アメリカ/イギリス 164分


ハービー・デント法によって千人の犯罪者をぶち込んで秩序を取り戻したゴッサム・シティに不気味なマスクをかぶった男ベインが現われて不穏な画策を始めるのでバットマンが八年間の沈黙を破って活動を始めるが、バットマンはベインによってさっさと捕えられて竪穴の底にある脱出不能な刑務所に監禁され、すっかり準備をととのえたベインはゴッサム・シティの破壊にかかり、核兵器の恐怖をちらつかせながら脅しをかけてゴッサム・シティを孤立させると配下の兵士を使って町を戒厳令下に置き、持たざる者を扇動して持てる者から略奪をおこない、無法な裁判によってひとをさばき、そのようなことをしていると竪穴から脱出したバットマンが三千人の警官を味方につけて、言わば「反動」をおこない、乱戦のなかで再びベインに挑戦する。 
冒頭に登場する飛行機の「撃墜」シーンは造形の異様さで際立っているが、際立っているのはそこまでで、以降の場面には予告編ほどの迫力はない。
悪役ベインのキャラクターは状況の進行とともに萎縮し、最終的には事実上消滅する。消滅する代償として別のキャラクターが立ち上がるが、意外ならいいというものではないだろう。しかも唐突さを糊塗するために台詞が過剰になっている。過剰と言えば台詞が全体に過剰気味で、苦悩だの信条だのを登場人物がやたらと口にするが、聞いているうちにこちらはもうどうでもよくなってくる。なにやら勢い込んでいる様子は見えるものの、テロルによる支配という要素に対する十分な考察がうかがえない。バットマンに余計な困難を与えたせいで構成は明らかに散漫になり、仮にそこは置くとしても構想に対して構築性がともなわないという点で、これは『インセプション』によく似ている。
テロルの支配下におかれたゴッサム・シティの描写は全体に甘さが目立ち、このような言い方は好みではないが、突っ込みどころが満載である。野生状態におかれた民衆はこの映画に描かれているほどおとなしいはずがない。ベインというキャラクターにもっと集中して恐怖政治を出現させてほしかった、というのが正直な感想である。
さまざまな欠陥にもかかわらず、俳優はおおむねにおいてよい仕事をしていたと思う。特にアン・ハサウェイには驚かされたし、ジョセフ・ゴードン=レヴィットには好感を持った。 


Tetsuya Sato

2012年7月28日土曜日

ダークナイト

ダークナイト
The Dark Knight
2008年 アメリカ 152分
監督:クリストファー・ノーラン


ゴッサムシティにピエロの仮面をかぶった強盗団が現われて銀行を襲い、予定にしたがって使命を終えた仲間を手際よくかたづけながら大金を奪って逃走するが、奪われたのは組織の金で、そのことから組織の金を扱う銀行の所在が明らかになり、うろたえた犯罪組織は警察の手が入るのに先立って現金をことごとく引き上げるものの、バットマンに重要証人を奪われてさらにうろたえることになり、そこへジョーカーが現われてバットマンを亡き者にしてやろうと持ちかけるので、ジョーカーは事実上のテロリストとなって手段を選ばずにバットマンをあぶり出しにかかるのである。
冒頭、ウィリアム・フィクトナーが銀行の支配人で登場して強盗団を相手に実にかっこよくショットガンを振り回すところから語り口はうれしすぎるほどに快調で、二時間半を越える長尺によどみはない。クリスチャン・ベイル、マイケル・ケイン、ゲイリー・オールドマンは言うまでもないが、ジョーカーのヒース・レジャーは特筆すべき演技を残し、やがてトゥーフェイスへと変貌するアーロン・エッカートがまたうまい。ほとんど非の打ち所のない堂々たる傑作であり、クライマックスへといたる盛り上がりは半端ではない。 






Tetsuya Sato

2012年7月27日金曜日

ケイナ

ケイナ
kaena
2003年 フランス・カナダ 85分
監督:クリス・デラポルト、パスカル・ピノン

異星人が乗り込んだ巨大な宇宙船がある惑星の近くで爆発し、それから数百年。巨大な樹木アクシスに住む人々は神への捧げ物に樹液を採取し、冒険好きの娘ケイナは一人で枝から枝へと渡っているが、そのケイナは例によって村人たちの信仰に疑問を抱き、神に対して冒涜的な態度を取った科で村を追われ、一人禁断の領域を目指して進んでいく。
フランス製のフルCG作品である。単純な対立関係に依存したストーリーには不満が残るが、美術がそれを補ってすばらしい。二つの惑星のあいだに世界樹がかかり、それを囲む雲海で奇怪な生物が遊ぶという光景はなかなかにSF的であり、衣装や小道具などにもこだわりが見え、その異世界描写は刺激的で楽しめる。超進化して口数が多くなった芋虫たちがかわいらしい。




Tetsuya Sato

2012年7月26日木曜日

ペルセポリス

ペルセポリス
Persepolis
2007年 フランス・アメリカ 95分
監督・脚本:ヴァンサン・パロノー、マルジャン・サトラピ

パフレヴィー朝末期、少女マルジは両親とともにテヘランで暮らし、共産主義者で政治犯のおじたちを迎え、父親が秘密警察だという男の子を追いかけ回し、思春期を迎えた頃にイラン革命が起こって外出の先に着る服は黒一色となり、イラン・イラク戦争が始まり、家では闇市で手に入れてきたパンクのテープを聴いて踊り、近所の家が空爆され、学校では宗教の先生に喧嘩を売り、これではまずいと気がついた両親がウィーンの語学学校へ送り出すと、ヨーロッパ的なものに出会って、というか、ドイツ的愚かしさに遭遇して戸惑いを覚え、それでも友達を作り、夜のウィーンを徘徊し、恋に破れ、なぜかホームレスを経験し、帰国して鬱になり、天上世界で神とマルクスを幻視して気力を戻し、革命防衛隊の追求をかわし、テヘランの大学で美術を学び、結婚し、離婚し、再び国外へ出るまでをオルリー空港のベンチで回想する。
原作者自身による映画化で、モノトーンを基調にしたグラフィカルな絵と、それを丹念に動かしたアニメーションは見ごたえがあり、抑圧や疎外感がたくみに表現されている。語り口がときおり平坦になるものの、作家性は明瞭であろう。ひとかどの作品である。物語の背景はそのままイランの現代史とオーバーラップしていくが、中身はあくまでもその時代を生きた十代の少女のモノローグであり、自分を包囲する現実に対して反発してみせはするが、反発の立ち位置がどうやらシャーの親戚筋で、あきらかに特権階級に属していて、ということになると、このモノローグもそういうつもりで受け止める必要がある。




Tetsuya Sato

2012年7月25日水曜日

くもりときどきミートボール

くもりときどきミートボール
Cloudy with a Chance of Meatballs
2009年 アメリカ 90分
監督:フィル・ロード、クリストファー・ミラー


大西洋上にあってサーディンしか産業のない島でサーディン産業が崩壊し、島民たちが売れなくなったサーディンを一生懸命食べていたころ、失敗ばかりを繰り返している島の発明家フリント・ロックウッドは水を食品に変える機械を発明し、さっそく動かしてみたところ、機械は七色の煙を吐いて飛び立って空の彼方へ消えてしまう。フリント・ロックウッドは失望するが、間もなく空からチーズバーガーが降り注ぎ、島民たちはこれをサーディンよりも千倍うまいと感嘆して頬張り、一躍ヒーローとなったフリント・ロックウッドは島民たちの注文を受けて遠隔操作で機械を動かし、すると空から様々な食品(おもにジャンクフード)が降り注ぐので、これを島興しに利用しようと考えた市長はいかにも健康に悪そうなテーマパークのようなものを作り上げるが、上空では機械が妙なことになって降ってくる食品が次第に巨大化し、ついにスパゲッティの竜巻が起こり、降り注ぐ巨大食品によって北半球は四時間で壊滅すると予告され、フリント・ロックウッドは世界を救うために空飛ぶ自動車で上空を目指す。
全体からするとややプリミティブな印象を受けたが、食品(おもにジャンクフード)の質感と災害の描写は非常によく出来ている。クライマックスは機械を守るためにスーパーフードとなった食品との戦いがメインになり、空飛ぶ自動車にグレムリンのように襲いかかるグミグマがなかなか愛らしい。むやみと食べてやたらと巨大化する悪い市長がブルース・キャンベルであった。






Tetsuya Sato

2012年7月24日火曜日

怪盗グルーの月泥棒

怪盗グルーの月泥棒
Despicable Me
2010年 アメリカ 95分
監督:ピエール・コフィン、クリス・ルノー


エジプトの大ピラミッドが盗まれたことで大ピラミッドを盗まずにいた泥棒たちは著しく格を落とし、自分もまたその他大勢となったことで一念発起した怪盗グル―は月を盗むことを決意するが、そのためには縮小光線と月へ達するためのロケットが必要であり、縮小光線は某所から盗むことにして、まず月ロケット建造の資金を獲得するために悪の銀行に融資を頼むと銀行は怪盗グル―を冷たくあしらい、それでもあきらめない怪盗グル―は縮小光線の強奪に成功するが、奪った縮小光線は怪盗ベクターに奪われ、奪われた縮小光線を取り戻すために怪盗グル―は怪盗ベクターの家へたびたび侵入を試みるものの、これが難攻不落であったためにことごとくしくじり、その難攻不落の砦へ養護施設にいる三姉妹がクッキーを売りにやすやすと入り込むのを見届けると、その三姉妹を家に引き取り、三姉妹を利用して縮小光線を奪い返し、改めて融資を申し込んでみると銀行は怪盗グル―をまたしても冷たくあしらうので、怪盗グル―は自力で宇宙船を建造して月を目指す。
スティーヴ・カレルの少しばかり硬そうな声でラテン系のなまりで話す怪盗グル―のキャラクターがよい。グル―を取り囲む得体の知れないミニオンの群れがなんとも愛らしい上に、これがそろって得体の知れない他者性を帯びていて、あれやこれやと勝手に動くところがかわいらしい。そして三姉妹の古典的で嫌みのない造形が見ていてなんとも心強い。デザインはどことなく古色を帯び、アクションは往年のカートゥーンを思い起こさせるが、豊富なアイデアできわめて丹念に演出されており、もちろん絵も美しいので心の底から楽しんだ。





Tetsuya Sato

2012年7月23日月曜日

ヒックとドラゴン

ヒックとドラゴン
How to Train Your Dragon
2010年 アメリカ 98分
監督:クリス・サンダース、ディーン・デュボア


相当な人数の ヴァイキング が暮らしている島があり、その島には有害生物のドラゴンがときどき大挙して押し寄せてきて家畜などを奪ったりするので、頑固な ヴァイキング は島を出るかわりにかれこれ数百年ものあいだ、ドラゴンと戦うことを自らの使命としてきたが、そのバイキングの族長ストイックの息子ヒッカップはいわゆる落ちこぼれで、父親の言葉を借りればスズメほどの集中力もなく、鍛冶屋の助手をしながら妙な発明品をこしらえて味方に損害を与えている。ところがそのヒッカップが自分で作った武器で謎のドラゴン、ナイト・フューリーを撃墜し、墜落現場にひとりおもむいて怪我をしたドラゴンと出会って結果として友情を育むことになり、ドラゴンが失った尾羽の一部を鍛冶屋で作った代用品でおぎなって二人三脚で空に舞い上がり、さらにドラゴンの習性についていろいろと学んでドラゴン退治の訓練では学んだことを実地に使って次々とドラゴンを倒すのでヒッカップはたいそうな人気を得るものの、間もなくヒッカップとドラゴンの関係があきらかになり、ドラゴンとの交流は許されることではなかったので、ヒッカップのドラゴンは捕えられ、ヒッカップは父親の叱責を浴び、父親は捕えたドラゴンに道案内をさせてドラゴンを壊滅させるべく船団を率いて出発する。
バランスの取れたシンプルなプロットに人物関係を要領よく埋め込み、ユーモアをほどよくまぶし、悪人はひとりも登場しない。ドラゴンのキャラクターはネコそのまんまで、広げた掌にそっと額を押しつけてくるところとか、いきなり立ち上がって向こうへとっとこ立ち去るところとか、嫌いな食べ物を見つけて鼻を鳴らすところとか、首筋をなでられて事実上のどをごろごろ言わせるようなところとか、なんとも言いようのないほどの愛らしい造形がほどこされていて、これはかなりずるいと思った。『リロ&スティッチ』と同様、異質な存在を近しいものへとたくみに変えて見せてくれるのである。そしてこれが空へ舞い上がるとすばらしく飛行に適した精悍なフォルムになって実に美しく空を飛び、映画史上もっとも美しいドラゴンの飛行シーンを堪能できる。
飛行シーンに限ったことではないが、ほぼ全編にわたって陰影に富んだライティングがほどこされ、絵が非常に美しい(ビジュアルコンサルタントにロジャー・ディーキンスを起用している)。美術面もよく考慮され、冒頭に現われる島の景観、バイキングとロングシップの船団なども見ごたえがあり、見渡す限りが素材への愛情に満たされている。傑作である。2Dでも十分にすばらしいが、3D版は視覚面で一層のデザインが加わっていて、相当に迫力がある。




Tetsuya Sato

2012年7月22日日曜日

メリダとおそろしの森

メリダとおそろしの森
Brave
2012年 アメリカ 100分
監督:マーク・アンドリュース、ブレンダ・チャップマン


王女メリダはどちらかと言えばお転婆な少女であったが、母親である王妃から王女としてのたしなみについてさまざまな指導を受けるようになり、そうしたことのいちいちをわずらわしく感じていて、そうしているうちにメリダの花婿を周辺の領主の息子から選ぶという話になり、メリダはこれに激しく反発するものの、なにしろしきたりであるということで状況は自動的に進行し、王子たちが弓比べで花婿としての資格を競うとメリダもまた弓を持ってその場に現われ、そもそも弓の技術には秀でていたので王子たちの的を残らず射とめ、そのようなメリダのせいで領主たちは面目を失い、もちろんメリダは母親から叱責され、城から抜け出したメリダは森で魔女と出会い、自分の運命を変えるためには母親を変える必要があると訴えて魔法のかかったタルトを手に入れ、城に戻ってそれを母親に食べさせると恐ろしいことに母親はクマに変わり、これはなんとかしなければ、ということでメリダはクマになった母親とともに城から逃れて森を訪れ、どうにか魔女の家を訪ねあてて母親をもとに戻すヒントを調べ、母親をもとに戻すためにはどうしても城に戻る必要があることがわかってクマになった母親とともに城に戻るが、メリダの父である王にとってクマは言わば宿敵であったため、クマになった母親は王に追われて森へ逃れ、母親をもとに戻す材料を手にしたメリダは馬にまたがって母親を追う。
開巻、メリダの赤いカーリーヘアが揺れ動く有様に目を奪われた。メリダの髪の描写、クマの毛皮の質感の描写は文句なしにすばらしい。
正攻法でまとめられたストーリーは直線的で、メリダの小さな弟たちの果敢ないたずらぶりがはさみ込まれるものの、伝統に縛られない自立した女性というわかりやすいメッセージをばらまきながら進んでいく。文体も直線的で、語り口に格別の個性は感じられない。ピクサーの、というよりは一時期のディズニーを思わせる仕上がりであり、そこはさすがにピクサーなので水準以上の作品にはなっているが、こちらがピクサーに求める水準には達していない。ハードルは上げないで、手元のところで手堅くまとめられているのである。
キャラクターの造形、背景描写、特に陰影の扱いに『ヒックとドラゴン』を意識しているような気配があったが、そうだとすれば、その結果はハードルを上げることにではなく、雑念に支配された小手先の処理につながっているような気もしないでもない。雑念があったとすれば、それは登場人物に与えるべきであった。どこか物足りない、というのが作品全体にかかわる印象である。 


Tetsuya Sato

2012年7月21日土曜日

TIME/タイム

TIME/タイム
In Time
2011年 アメリカ 109分
監督:アンドリュー・ニコル


遺伝子改造で人間は25歳から先は歳を取らなくなり、その代わりに余命は一年となって、あとは流通している時間を一生懸命稼がなければ死んでしまう、という世界で、スラム街の住人ウィル・サラスは時間があり余っている富裕層の町から来た男から100年分の時間を受け取って、時間があり余っている富裕層の町へ出かけていくが、そこで時間監視局に目をつけられて追われるはめになり、時間があり余っている富裕層の町でもとりわけ時間があり余っている大富豪フィリップ・ワイスの娘シルヴィアをさらって時間があり余っている富裕層の町から逃げ出して時間が足りないスラムへ戻り、そこで時間を搾取されている人びとに時間を取り戻すためにフィリップ・ワイスの経営する銀行などを襲ってスラムの人びとに時間を配り、そうすると体制は物価を上げたり利率を上げたりしてスラムの人びとから時間を搾取しようとたくらむので、すっかり恋仲になったウィル・サリスとシルヴィアのコンビは時間があり余っている富裕層の町へ乗り込んでいってシルヴィアの父親に銃を突きつけ、シルヴィアの父親の金庫から百万年(百万円みたいだな)を盗むのであった。 
ロジャー・ディーキンスの撮影は見事だが、アンドリュー・ニコルの脚本、演出はほめられたものではない。『シモーヌ』などと同様、消化不良のアイデアを抱えてだらだらと話をつないでいる。少数を不死にするために多数に死をという体制があれば、その起源があるはずだがそのあたりを考えた気配はないし、時間が流通しているという設定も話だけでまともに考えた気配がないし、百万年(百万円みたいだな)盗まれただけで崩壊する体制というのはあまりにも脆弱で、そんなものは一年だってもたないであろう、などということはまったく心配していない。うるさいことはあまり言いたくないけれど、へたくそだから言いたくなるのである。それにどう考えていないにしても、どう見てもスラムがおとなしすぎる。どういう状況であれ、人間はもっと狡猾であろう。監督と同じように頭が悪いということは決してない。






Tetsuya Sato

2012年7月20日金曜日

アバター・オブ・マーズ

アバター・オブ・マーズ
Princess of Mars
2009年 アメリカ 93分 VIDEO
監督・脚本・撮影:マーク・アトキンス


アメリカ軍特殊部隊のジョン・カーターはどうやらアフガニスタン北部とおぼしき場所で単独で偵察行動に従事していたが、麻薬密売業者のトラブルに介入して重傷を負い、アメリカ軍の最新の医療処置を受けることになり、つまり16MBの不揮発性メモリーに保存されているジョン・カーターの組織情報(つまりそうとうにすかすか、と言いたいのか)をもとに肉体を再生し、それをどういう文脈なのか、あまり注意して聞いていなかったのでさっぱりわからなかったが(おそらく注意して聞いていてもわからなかったであろうと確信しているが)念力移動によって火星に送るという計画に巻き込まれることになり、ただしその火星というのはあの火星ではなくてアルファケンタウリにあるもう一つの火星、ということで、早速、その火星に念力移動でいってみると、サーク族に捕えられ、勇気を示してサーク族のタルス・タルカスの尊敬を得てサーク族の戦士となるが、デジャー・ソリスがサーク族の捕虜となり、タルス・タルカスはサーク族の邪悪な皇帝タル・ハジュスを倒して新たな皇帝となり、ジョン・カーターは脱出したデジャー・ソリスを追って空気製造工場を訪れ、そこでデジャー・ソリスに愛を迫るアフガニスタンの麻薬密売人と対決する、といったような内容で、気のせいかもしれないが、登場人物の名前やプロットの一部がE.R.バロウズの『火星のプリンセス』と微妙に似通っているところがどうにも気味が悪い。
何を考えて作ったにしてもTHE ASYLUMのビデオ作品であり、したがってとてつもない低予算で、出演者の数は全部あわせても20人未満、それがその辺の荒れ野でうろうろしているだけ、というしろものである。四十過ぎのトレイシー・ローズがデジャー・ソリスというのもよくわからない。






Tetsuya Sato

2012年7月19日木曜日

メガ・シャークVSジャイアント・オクトパス

メガ・シャークVSジャイアント・オクトパス
Mega Shark vs. Giant Octopus
2009年 アメリカ 89分
監督:エース・ハンナ


アラスカの海で米軍がなにやらやっていると、いきなり氷河が割れてなかから古代のサメとタコが出現し、サメが飛行中の旅客機にジャンプして襲いかかればタコは石油採掘リグをひっくり返し、砲撃もミサイルも役に立たないことがわかって、だったら、ということでサメとタコを戦わせて両雄並び立たずというところへ持ち込もうとするものの、やっぱりみんなとてつもなく頭が悪いのでやっていることがまったく要領を得ないのである。
CG、特殊効果の質が悪いのはこちらも覚悟の上だが、ゴールデンゲートブリッジをサメが食いちぎるというトンデモなシーンも一瞬だけ、低予算なので海中のシーンはありあわせのフィルムを無責任につないであるだけ、戦艦、フリゲート、潜水艦(日本のタイフーン型潜水艦?!)、それからおそらく深海潜水艇も内部のセットは全部同じ、ヘリコプターにも使わないのはむしろ不徹底のように感じられた。なんというのか、きわめてTHE ASYLUMらしい作品で、少しでも何かを考えていたらここまでのものにはならないであろう。とはいえ、監督のエース・ハンナ/ジャック・ペレスには『モンスターアイランド』という珍作もあるので、まったくセンスのないひとではなかろう、という気もする。これはやはりTHE ASYLUMという製作環境に原因があると考えるべきなのであろう。




Tetsuya Sato

2012年7月18日水曜日

メガ・ピラニア

メガ・ピラニア
Mega Piranha
2010年 アメリカ 93分
監督:エリック・フォースバーグ


アメリカの科学者がなぜかベネズエラでなぜかピラニアを巨大化する実験をしていて、そのピラニアがオリノコ川へ逃げて野生化し、アメリカの大使とベネズエラの外務大臣がなぜかオリノコ川でボートを浮かべて川遊びをしていると、そこへ巨大化したピラニアが襲いかかって大使も大臣もトップレスのお姉さんたちもみんな食べてしまうので、大使が暗殺されたとなぜか思いこんだアメリカの国務長官は特殊部隊の調査官を現地に派遣し、調査官を迎えたベネズエラ国軍の大佐はアメリカへの敵意をむき出しにして調査官もアメリカ人の科学者も全部スパイだと決めつけて捕えにかかり、そのあいだに巨大なピラニアの大群はさらに巨大化しながら川を下って川から飛び出して町を破壊し、アメリカ海軍の軍艦がベネズエラの領海外から国際法をものともしないで砲撃すると、海水では生きられないと予告されていたピラニアは海水をものともしないで海へ入って軍艦を沈め、そのままさらに巨大化しながらフロリダを目指して進むので、アメリカ海軍の潜水艦が魚雷で攻撃すると潜水艦に襲いかかり、間もなくフロリダに到達すると海から飛び出して町を破壊し、これはもうまったく考えなしに核攻撃しかないという話になってくると、件の調査官がこのピラニアには共食いの習性があるということを唐突に思い出し、シールズの隊員とともに海へ乗り込み、シールズの隊員があらかた食われたところでどうにか一匹を傷つけることに成功し、そうするといったいなにがあったのか、ピラニアはなぜか全滅してしまうので、みんなで万歳三唱をする。
THE ASYLUM製作。見なきゃよかった。 






Tetsuya Sato

2012年7月17日火曜日

フランケンフィッシュ

フランケンフィッシュ
Frankenfish
2004年 アメリカ 84分
監督:マーク・ディッペ


フロリダの湿地帯で異常な死体が発見され、検死官が生物学者とともに沼地の奥へ調査へおもむく。そうすると三軒並んだボートハウスが水上にあり、その一軒ではヒッピーめいたカップルが暮らし、その隣では魔女めいた老女が暮らし、三軒目では友人を怪物に殺されたことで復讐に燃える男が暮らしている。そこへ老女の引っ越しの手伝いに訪れている娘とその恋人が加わり、あれやこれやとやっていると夜中に魚が襲ってくるのである。登場人物はよけいな問答をあまりしないでてきぱきと動き、逃げようとしたらエンジンがかからない、などというおバカなことがないように、あらかじめエンジンはかけておく。そして怪物は怪物で本能に突き動かされてしたい放題のことをして、見事なジャンプも披露する。一回転ひねりぐらいはしたように思うのである。で、この巨大な人食い魚の正体は遺伝子改造された雷魚で、狩猟マニアが狩の獲物にするために特別に発注したもので、その狩猟マニアの一味もあとになって登場して分相応の最期を遂げる。CGにはやや難があるものの、プロットには格別の無駄と言える無駄はなく、全体に頭を使ってひねった痕跡があり、特にそこは無条件で評価したい。拾い物。






Tetsuya Sato

2012年7月16日月曜日

ピラニア リターンズ

ピラニア リターンズ
Piranha 3DD
2012年 アメリカ 83分
監督:ジョン・ギャラガー


ヴィクトリア湖の事件から一年後、同じアリゾナ州のクロス湖周辺で成人向けのストリップ・バーを併設したろくでもないウォーターパーク『ビッグ・ウェット』がオープンするが、プールの水を地底湖からくみ出していたので、その地底湖からピラニアの大群が押し寄せてくる。監督は『フィースト』三部作のジョン・ギャラガー。
冒頭、ゲイリー・ビューシイとクルー・ギャラガー(監督のパパ)の老人二人が夜中に牛を探して湖に入ってピラニアに食われ、公序良俗にことごとく楯突くプールではライフガードが本人役のデヴィッド・ハッセルホフで、子供がピラニアに噛まれても「小僧、『ナイトライダー』を知ってるか」などと言っているだけで、これがまったく役に立たない。
自称フィッシュハンター、デヴィッド・ハッセルホフのばかばかしいいじり方(ご本人も悪乗りをしている)も含め、これは間違いなくジョン・ギャラガーの作品であり、つまりキッチュで、安っぽくて、せせこましくて、『ピラニア3D』でアレクサンドル・アジャが示したような度を超して悪趣味なカタストロフはどこを探しても見つからない。ウォーターパークでのパニックシーンもあっさりとしていて、そしてここがジョン・ギャラガーらしいところだけれど、まったく別種の悪趣味が顔を出して、ピラニアがどうこう、という以前に軽薄な人間どもは勝手に自滅して勝手に血しぶきを噴き上げる。シリーズ二作目という意味ではあきらかに観客の期待に背いているが、監督は自分の作風に忠実にしたがい、自分の作品を仕上げている、と言うべきであろう。どことなくたどたどしい手つきがどことなくほほえましい(ほめていいのかどうか、わからないけど)。


Tetsuya Sato

2012年7月15日日曜日

ものすごくうるさくて、ありえないほど近い

ものすごくうるさくて、ありえないほど近い
Extremely Loud & Incredibly Close
2011年 アメリカ 100分
監督:スティーヴン・ダルドリー


マンハッタンで宝石店を営むトーマス・シェルは息子のオスカーに対して、察するにある種の科学精神にもとづいて対等の関係を結び、オスカーは父親に対して非常に親密な感情を抱いていたが、9.11の同時多発テロで父親を失い、失ったことを受け入れることができないまま、一年後、父親のクローゼットで封筒に入った鍵を見つけ、この鍵の正体を確かめることにして封筒に記されていたブラックという名前だけを頼りにニューヨーク在住のブラック姓の人々の住所を調べ、各種サバイバル・グッズを入れたリュックを背負って訪問していく。
ジョナサン・サフラン・フォアのかなり込み入った原作は未読。父親がトム・ハンクス、母親がサンドラ・ブロック、オスカーの調査活動に途中から参加する老人がマックス・フォン・シドー、オスカーが住んでいるアパートのドアマンがジョン・グッドマン。
映画は9.11の前後とその一年後の二つの時間枠を自在に動き、アスペルガー症候群を抱えているようにも見える主人公オスカー・シェルの心象を緻密に描写していく。まず、ロケ中心の映像が非常に印象的で美しい。構成は確かで、忍耐強い語り口は見ていて心地よい。そしてオスカー役のトーマス・ホーンを含め、出演者はいずれも実によい演技をしていて、特にサンドラ・ブロックには驚かされた。マックス・フォン・シドーはさすがの貫録であり、出演シーンは短いものの、ジョン・グッドマンの使い方もなかなかにうまい。丹念に作られた立派な作品だと思う。






Tetsuya Sato

2012年7月14日土曜日

ゴモラ

ゴモラ
Gomorra
2008年 イタリア 135分
監督:マッテオ・ガローネ


母親が営む小さな雑貨屋で配達の仕事をしている少年はなんとはなしに、という感じで組織に足を踏み込んで麻薬を運び、砂漠の齧歯類のように見えなくもない若者二人はボスはいらないと主張して勝手なふるまいをするので袋にされ、それでも懲りずにあほうなことを繰り返し、組織から分離した連中は抗争をしかけ、組織で金の運び屋をしている男は荒れ果てた団地で金を配って歩きながら分離した連中の影におびえ、オートクチュールのコピーを量産する地下工場では仕立て屋が中国人の誘いを受けて組織を裏切り、職にあぶれた若者は産業廃棄物の不法投棄の仕事に拾われ、その現場では何も知らないアフリカ人や子供が使われている。 
ロベルト・サヴィアーノによるノンフィクション『死都ゴモラ』の映画化。原作は未読。ナポリに拠点を置いて地下経済を支配する犯罪組織カモッラのおもに末端における風景をドキュメンタリー調のスケッチでまとめている。実際にナポリでロケがおこなわれている模様だが、荒廃ぶりがすさまじい。『それでも生きる子供たちへ』のエピソード『チロ』に輪をかけたような状態で、巨大なプロジェクトが立ち腐れして、そこに人間が穴居人のように住み着いて、ほかにすることがないので犯罪に走っているのである。並行して走る複数のエピソードはいずれも丹念に作り込まれ、俳優もきわめてリアルな演技をしているが、語り口に文体が乏しく、やや単調に流れるところが惜しまれる。対象の違い、表現形式の違いはあるとしても、往年のイタリア社会派のようなパワーがない。 






Tetsuya Sato

2012年7月13日金曜日

警視の告白

警視の告白
Confessione di un commissario di polizia al procuratore della repubblica
1971年 イタリア 105分
監督:ダミアーノ・ダミアーニ


パレルモ市庁と地元財界、マフィアが癒着している。善良な警視は法の適用における不正に絶望し、遂に超越的な正義の行使を試みる。警視の行動に異常を感知した若き検事補はその行動を追求するが、やがて現実の腐敗を目の当たりにして戦いを誓う、というような内容なのである。製作時期が時期だけに少々赤いが、イタリアの南北格差やマフィアの政界進出が大問題になっていた時期でもあるので、底辺労働者が赤くなるのは当然のことであろう。
荒っぽいカメラワークにリズ・オルトラーニの杜撰なスコアが重なったドキュメンタリー調の演出は、相当に力が入っていてまがまがしい迫力を生み出している。マーチン・バルサム、フランコ・ネロも熱演していて、けっこうな見応えなのであった。




ところでその昔、シチリアの首都パレルモから内陸のモンレアーレまで車で移動したことがあって、途中に団地のごとき建物がずらりと並んでいるのを見て旧市街との対比にちょっと驚いた。地元の人々には失礼な話だが、古色蒼然としたマフィアの里というイメージを抱えていたわたしはパレルモにそうした近代的な風景があるとは予想していなかったのである。映画はその近代的な一帯の開発に関わるマフィアがらみの汚職の話で、「壁から指が生えている」とか「蛇口をひねると血が出る」などという台詞が登場する。開発に反対した地権者や組合幹部などをコンクリートで固めてビルの土台に埋めていたのである。
パレルモ滞在中に一度だけ、マフィアのように見える連中を目撃した。夕食を食べようと「ヴィラ・チェザーレ」という名のレストランに入っていったら、まず店長とおぼしき男がハリウッド映画の悪役系俳優ポール・シナー(『スカーフェイス』の麻薬カルテルのボス)そっくりのハンサム中年で、注文した料理を運んできた男はこれも悪役系俳優ロバート・ダヴィ(007『消されたライセンス』の悪役)のそっくりさん、しかもご丁寧に頬に刀傷がある。どっちも黒いスーツを実に見事に着こなしていて恐ろしく愛想のいい悪役笑いを浮かべていて、ロバート・ダヴィの方は料理をいちいちワゴンで運んできてわざわざ目の前で取り分けてくれる。パスタの果てまでそうするものだから、こちらとしては「冷める、やめてくれ」と言いたいところだったが、なんだか嬉しそうにやっていたので口には出せなかった。最後にフルーツを注文したら、これもやはりワゴンで運んできて、口元にやおら壮絶な笑みを浮かべるとナイフを取って切り始めた。察するにナイフ使いなのであろう。とどめにやってきたのが絵に描いたようなマフィアのドンとその一家で、太った親分とごてごてした女房、貧血気味なのか痩せて気力のなさそうな息子と健康そうに太ってはいるけれどやはり無気力そうな娘という四人組が店に入ってくると、店長のポール・シナーが両腕を広げてこれを迎えて親父殿と抱擁を交わしたのである。キッチュに汚染されたこちらの頭は老いたドンと駄目な二代目、隙間に潜り込んで乗っ取りを企む悪い番頭という構図を思い浮かべて感心しながら眺めていたが、あれは本物のマフィアだったのであろうか、それとも観光客用の演出だったのであろうか。オペラ劇場(『ゴッドファーザー PART III』の撮影で使われたマッシモ劇場)の裏手、海岸寄りにあった店だと記憶している。まだあるのかどうかは知らないが、行くことはあまりお勧めしない。料理がとにかくひどかったのである。ちなみにオペラ劇場をはさんだ向かい側には「パパガッロ」というレストランがあって、こちらは涙が出るほどすばらしい料理を出してくれる。

Tetsuya Sato

2012年7月12日木曜日

シシリアン

シシリアン
The Sicilian
1987年 アメリカ 115分/140分
監督:マイケル・チミノ


1947年、シチリアの村モンテレプレでサルヴァトーレ・ジュリアーノは飢えた村人に配るために小麦を盗んで警察に追われ、馬に乗って逃れると警察に捕えられていた山賊の一味を解放して仲間に加え、土地のない農民に土地を買う金を与えるために軍の輸送列車を襲い、公爵の屋敷を襲って金品を奪い、さらに公爵を誘拐して身代金を要求し、そのように無法を働くサルヴァトーレ・ジュリアーノをマフィアのドン・マジーノは息子のようにいとおしんで保護を与えるが、ドン・マジーノの一派とは利害関係が一致しない共産主義者が無視できない勢力を獲得すると、ドン・マジーノはサルヴァトーレ・ジュリアーノと取り引きをして恩赦と引き換えに共産主義者を恫喝するように仕向け、ただ恫喝するはずが裏切り者のしわざによって虐殺が起こり、サルヴァトーレ・ジュリアーノは孤立し、サルヴァトーレ・ジュリアーノを始末するためにカラビニエリの部隊が送られる。 
劇場公開版はサルヴァトーレ・ジュリアーノの死体が放り出されるところから始まるが、DVDに収録されているバージョンは小麦泥棒の場面から始まっていて、オリジナルより30分ほど長い。
クリストファー・ランバートはなにやら熱演をしているし、ピショネッタ役のジョン・タトゥーロもなりきっているし、テレンス・スタンプの公爵ぶりはさすがの風格だが、『シシリーの黒い霧』と同じ素材を扱っているとは思えないほど、映画は空疎な紋切型をなぞり続ける。マフィアはどこからか切り取ってきたようにマフィアだし、サルヴァトーレ・ジュリアーノは山に入って山賊になると、当然のようにいつも本を手にしているのである。察するにプルタルコスを読んでいるのであろう。紋切型なら紋切型で、思い切って紋切型に圧縮すればそれなりのものになったはずだが、いや、いっそオペラ仕立てにでもしていればもっとましなものになったはずだが、なぜかおおまじめに言わばロマンに仕上げようともくろんでいて、紋切型は作り手の単なる鈍さとしてこちらの目に映ることになる。マイケル・チミノは妙なヒロイズムを振りかざすよりも、劣情と結託しやすい材料を扱ったほうがよい結果を出すのであろう。 






Tetsuya Sato

2012年7月11日水曜日

シシリーの黒い霧

シシリーの黒い霧
Salvatore Giuliano
1962年 イタリア 124分
監督:フランチェスコ・ロージ


シチリアの村モンテレプレで生まれたサルヴァトーレ・ジュリアーノは第二次大戦中に盗みを働いたことで警察に追われて山に入るとそのまま山賊になり、シチリアの独立運動が起こると独立派によって祭り上げられて行動部隊のリーダーとなって軍隊と戦い、独立運動が終わって独立派が恩赦を受けると生命の危険を感じて山に残り、マフィアの保護を受けた結果、マフィアの手先となって誘拐、恐喝などの行為に走り、1947年、選挙で人民連合が勝利をおさめ、共産主義者たちが集会を開いているところへ部下を率いて近づいて無差別に発砲して多数を殺害する事件を起こし、1950年、死体になって発見されるが、カラビニエリの発表にはいかにも不審な点があり、逮捕されたジュリアーノの仲間は山賊と警察、マフィアの癒着を暴露する。 
映画は1950年のサルヴァトーレ・ジュリアーノ暗殺で始まり、ナレーションをまじえながら1945年前後の状況と暗殺事件の経過を並行して描き、後半は共産主義者虐殺事件の公判に移る。フランチェスコ・ロージの演出はきびきびとしていて、ドキュメンタリー調の撮影はひとつひとつがいちいち様になっていて、特に群衆描写は破格の迫力がある。とにかくかっこいいのである。ただマフィア関係の記述がやや抑え目になっているのは、なにかしらの配慮が働いた結果であろうか。 






Tetsuya Sato

2012年7月10日火曜日

パレスチナ

パレスチナ
Kurtlar Vadisi Filistin
2011年 トルコ 111分
監督:ズベイル・シャシュマズ

イスラエルにモシェ・ベン・エリエゼルという司令官がいて、イスラエルの強さを世界に示すためにガザ支援船『ガヴィ・マルマラ』強襲を命令するとポラットが二人の仲間とともに早速パレスチナに乗り込んできてモシェを殺すと宣言し、制止しようとしたイスラエル兵と交戦しながら東エルサレムを駆け抜けてパレスチナ人の知人の家に潜伏し、一方、ポラットの潜入を知ったモシェ・ベン・エリエゼルは配下の部隊をパレスチナに送り込み、そこでイスラエル軍とパレスチナ警察が交戦を始め、ポラットとその仲間も戦闘に加わり、イスラエル兵多数を死傷させて潜伏場所を変え、パレスチナにあるイスラエル軍の拠点に襲撃を加え、怒ったモシェ・ベン・エリエゼルがパレスチナに迫害を加えると基地に乗り込んでいってパレスチナ人捕虜多数を解放した上で武器を与え、最後はイスラエル軍と武装したパレスチナ人市民の市街戦。
『イラク 狼の谷』の続編で、今回はイスラエルが悪の帝国なのである。
例によってプロットはあってなきがごときしろものだし、主役のネジャーティ・シャシュマズはあいかわらずの大根ぶりで魅力がないが、製作費がだいぶ増えている様子でクライマックスの市街戦などは迫力のある仕上がりになっている。
市街戦に投入されるイスラエル軍の戦車はおそらくM60ベースのSABRAであろう。あと、IMI タボールが一瞬だけど登場する。市街戦は投石から始まってイスラエル軍が白燐弾を撃ち込むとパレスチナ側が小火器、火炎瓶で応戦し、イスラエル軍がSH60を投入するとポラットがロケットランチャーで撃墜する。SH60の墜落シーンはフルスケールのモックアップをクレーンで落としているようだが、これもなかなかの迫力であった。映画としては二級品だが、やる気は認めなければならないと思う。 




Tetsuya Sato

2012年7月9日月曜日

佐藤亜紀『メッテルニヒ氏の仕事』第三回

うっかりしていました。
『文学界』2012年8月号に『メッテルニヒ氏の仕事』第三回が掲載されています。



Tetsuya Sato

イラク 狼の谷

イラク 狼の谷
Kurtlar vadisi - Irak
2006年  トルコ 122分
監督:セルダル・アカル

トルコ映画である。悪いアメリカ人がクルド人と結託して地元のアラブ人とトルコ人をいじめていると、そこへテロリスト同然のトルコ人が仲間と一緒にやってきて、悪いアメリカ人にいやがらせをしたり、狙撃したり、爆弾を仕掛けたりする。
2003年7月に起こったトルコ兵拘束事件が話の起点になっていて、それで恥辱を受けたと感じたトルコ軍将校が自殺し、その旨を記した遺書を主人公ポラット・アレムダルに残すので、主人公がクルド人自治区まで出かけていって仕返しをしているようなのである。
人物の配置は単純化され、対立関係はクルド人代表、アラブ人代表、トルコ人代表を一人ずつ並べることで説明される。だからビリー・ゼイン扮する悪役サム・マーシャルもアメリカ人代表という以上の意味はない。わかりやすいことはわかりやすいが、そのせいでリアリティが著しく乏しくなっている。おまけにプロットは不鮮明で、主人公の復讐の主旨もはっきりしない。もともとはトルコのTVシリーズのキャラクターらしいが、元特殊部隊という設定の割にはやっていることが素人臭いし、それを演ずるネジャーティ・シャシュマズは俳優としては明らかに素人で、ヒーローが二重に素人同然だからなのか、ビリー・ゼインが率いる得体の知れないアメリカ軍もかなりわびしくて、若干の歩兵と妙に寸詰まりなハマーを持っているだけである。
ということで映画自体もかなりわびしい仕上がりだが、結婚式襲撃、アグレイブの蛮行、臓器摘出、という具合にアメリカ軍の悪逆非道ぶりがすごいのと、生活の細部などエキゾチックな描写が面白いのでとりあえず退屈することはない。アグレイブ刑務所の場面でゲイリー・ビジーが医師として登場するが、やせ方が少々気になった。アラブ側でシェイクをやっていたハッサン・マスードがかっこいい。リドリー・スコットの『キングダム・オブ・ヘヴン』でサラディンをやっていたひとである。 




Tetsuya Sato

2012年7月8日日曜日

ピープルvsジョージ・ルーカス

ピープルvsジョージ・ルーカス
The People vs. George Lucas
2010年 アメリカ/イギリス 92分
監督:アレクサンドレ・O・フィリップ


『スター・ウォーズ』ファンのインタビューを中心に構成したドキュメンタリーで、ハリウッド型の製作システムのなかでジョージ・ルーカスが抱えることになった一種のトラウマに言及しながら、ジョージ・ルーカスが作品を言わば「占有」しようとする動きに対してファン心理が反発する有様を克明に記録している。ゲイリー・カーツ、コッポラなどの発言も織り込まれ、ファンが製作した二次創作、ファン編集の『スター・ウォーズ』などが豊富に引用され、関連する言及のある作品として『サウスパーク』『Spaced』なども引用され、反発したファンのジョージ・ルーカス叩きには終わらせないで『スター・ウォーズ』という社会現象を総括する。目配りがいいし、構成もうまい。で、当然のことではあるが、ジャー・ジャー・ビンクスは非常に評判が悪いのである(わたしも嫌いだ)。DVDの特典映像に収まっている『15分間スター・ウォーズ』は素人芝居とはいえなかなかの力作であった。このひとたちの熱狂ぶりを見ていると、こちらももう一度見たくなってくる。




Tetsuya Sato

2012年7月7日土曜日

カティンの森

カティンの森
Katyn
2007年 ポーランド 122分
監督:アンジェイ・ワイダ


1939年のドイツ、ソ連によるポーランド侵攻から翌年のカティンの森、43年のドイツ軍による現場の発掘、ポーランド解放後および人民共和国成立後のカティンの森にかかわる問題を中心に現代史におけるポーランドを総括する。槍騎兵大尉の妻が全体を貫通するヒロインとして登場するが、人物は状況に応じて入れ替わり、それぞれの状況において素描される。説明はしばしば省かれるが、絵はきわめて雄弁である。まず冒頭、失礼ながら、高齢の監督の手つきとは思えないダイナミックな描写に感心した。終盤、カティンの森の当時の状況がきわめて淡々とした場面となって登場するが、淡々としているだけにかなりこたえる。




カティンの森 [DVD]

Tetsuya Sato

2012年7月6日金曜日

ディファイアンス

ディファイアンス
Defiance
2008年 アメリカ 137分
監督:エドワード・ズウィック


1941年、ドイツ軍占領下のベラルーシ。ドイツ軍及びドイツ軍に加担する地元当局がユダヤ人の虐殺や連行に取り掛かり、両親を殺害されたビエルスキ家の兄弟は森へ逃れ、そこで同様に難を逃れているユダヤ人のグループと遭遇、ビエルスキ兄弟はなりゆきで避難民の保護者となり、膨張するグループのために食料を確保し、武器を調達し、共同体のしくみを整えていく。
もとより攻撃的な組織ではないので戦闘場面などは控えめだが、田舎のユダヤ人と都市の同化ユダヤ人との微妙な温度差、兄弟の対立、リーダーシップ、地元官憲、男女関係、飢餓、チフス、ペニシリンの入手手段、ドイツ軍捕虜の取り扱い、パルチザンの冷淡なふるまい、ドイツ軍の攻囲、シュトゥーカによる爆撃、そしてエクソダス、とありそうなことはすべて盛り込み、それなりにキャラクターを立て、エレム・クリモフの 『炎628』からもいくらか引用し、全体をほどよいバランスできちんと整理しているところはいかにもエドワード・ズウィックの作品であり、当然ながら見ごたえがある。ダニエル・クレイグ、リーヴ・シュレイバーは印象に残る演技を残し、ジェイミー・ベルが三男役で健闘していた。




ディファイアンス プレミアム・エディション [DVD]
Tetsuya Sato

2012年7月5日木曜日

ナチスの墓標 レニングラード捕虜収容所

ナチスの墓標 レニングラード捕虜収容所
In Tranzit
2008年 ロシア/イギリス 113分
監督:トム・ロバーツ


1946年の冬、レニングラードにある女性用の中継監獄にドイツ軍捕虜が50人ほど送られてくる。監獄にいるのは所長以下、警備兵も民間の自由雇用人も女性ばかりで、ロシア側は捕虜をファシストとして扱いはするものの、間もなくちらほらと恋が芽生え、所長は所長でNKVDの大佐に恋心を抱き、そのNKVDの大佐は捕虜のなかにSSの戦犯がいると主張して監獄の医師に諜報活動を要求し、その医師の夫は戦傷で精神の均衡を失って監獄の門衛をしながら奇怪な行動を取り、それはそれとして独立採算を求められた中継監獄では捕虜をユダヤ人が管理している鉄道車庫に派遣するが、そのユダヤ人の提案でダンスパーティが催されることになり、捕虜には楽器が与えられ、残った捕虜はパーティに招待され、レニングラードの女たちと捕虜とのあいだにも恋心が芽生え、その隙間でNKVDの大佐が戦犯逮捕のための画策を進め、潜伏中の戦犯は卑劣な罠を仕掛けて分相応の最期を遂げる。
状況は面白いものの、どうにもとりとめがないのである。ロシア的情感に流すならば、余計な文脈を与えるよりもスケッチの積み重ねに徹したほうがよかったし、状況の遷移を扱うならば情感はむしろ余計であろう。両立させるには、あきらかに演出力が不足していた。NKVDの大佐の役でなぜかジョン・マルコヴィッチが顔を出している。 




ナチスの墓標 レニングラード捕虜収容所 [DVD] 
Tetsuya Sato

2012年7月4日水曜日

12人の怒れる男

12人の怒れる男
12
2007年 ロシア 160分
監督:ニキータ・ミハルコフ


法の頭上にロシア的な精神が輝いているところがすぐれてロシア的であり、したがって登場する陪審員も決して無名の個人にはとどまらず、むしろ進んで自己を開陳し(いや、その開陳ぶりがすごいのである)、法廷が提供する情報はロシアの現実に関する手がかりとなり、それはそのまま陪審員たちの地雷原と化していく、というところはやはりアジアなのであろう。案の定、近代的な法感覚は存在しないので、オリジナルが示したような無名の個人の実用性を安易になぞることはできないのである(ナイフの持ち方と証人の視力くらいであろうか)。構成はきわめて構築的で、撮影が美しく、編集がうまい。そして俳優が実に見事な仕事をしている(ミハルコフ本人はとにかくとしても)。ということで、見ごたえのある「ロシア映画」になっていた。カフカスの外科医のナイフさばきが抜群にかっこいい。
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Tetsuya Sato

2012年7月3日火曜日

戦火のナージャ

戦火のナージャ
Utomlyonnye solntsem 2: Predstoyanie
2010年 ロシア 150分
監督:ニキータ・ミハルコフ


1941年6月、収容所にいたコトフ大佐はなぜか58条の対象からはずされ、そこへ現われたドイツ軍機が収容所を爆撃し、生き延びた大佐はいつの間にか懲罰大隊の兵士となり、一方、逮捕されたはずのナージャはいつの間にかドミトリの保護下でピオネールの団員となっていて、ドイツ軍の攻撃から逃れる市民とともに船に乗り込み、その船が撃沈されると生き延びて水上を漂う機雷にすがって洗礼を受け、父親を探し出す決意をしていつの間にか看護師になっている。で、そうしたことを1943年の時点でドミトリがスターリンの命令で調べ始めるという構成になっているけれど、この二重の時間軸も含め、必ずしも明確な骨格は備えていない。 
原題は『太陽に灼かれて2』で、つまり確実に完結していた『太陽に灼かれて』の続編ということになるが、あの結末から考えるとリセットボタンを何度か押したような痕跡も見え、しかも『太陽に灼かれて3』が完成しないと脈絡がつかないことになっているのだとすると、何を考えて作ったのか、というのが正直な感想になる。とはいえ冒頭のラーゲリのシーンから、避難民の群れ、沈没する船、懲罰大隊の塹壕と身長183センチ以上で構成された士官候補生の援軍、雪上の戦闘、ドイツ軍による虐殺、なんとなく間抜けなドイツ空軍といった、言わば小ネタはいずれも非常によくできていて、とりあえず見ていて飽きることはない。 




戦火のナージャ [DVD]

Tetsuya Sato

2012年7月2日月曜日

太陽に灼かれて

太陽に灼かれて
Utomlyonnye solntsem
1994年 ロシア/フランス 135分
監督:ニキータ・ミハルコフ


内戦の英雄セルゲイ・ペトロヴィッチ・コトフ大佐が妻マルーシャと娘ナージャとともに休暇で芸術村のダーチャにいると、そこへマルーシャの幼馴染みであり、マルーシャの恋人でもあったドミトリが10年ぶりに姿を見せ、ドミトリを知る人々は興奮して迎え、ドミトリとマルーシャは川辺のピクニックで過去を語り、二人を囲む人々はフランス語で会話を始めてピアノを弾いてカンカンを踊り、フランス語を解さないコトフ大佐は表情を隠して食事を始め、ドミトリがナージャに伝える即興のおとぎ話にはある種の事実が織り込まれ、間もなくマルーシャは取り乱し、コトフ大佐は取り乱したマルーシャを追い、マルーシャが気を取り直したころ、ドミトリはコトフ大佐に来訪の目的を明かして車を待つ。
人生を奪われ、裏切られたと感じて自滅へと走るドミトリがオレグ・メンシコフ、その自滅に巻き込まれるコトフ大佐がニキータ・ミハルコフ。オレグ・メンシコフの演技がすごい。丹念なスケッチとそのスケッチを上塗りしていく人物の狂騒はさすがにミハルコフという感じで、きわめてテンションの高いものに仕上がっている。また終盤、NKVDの出現からスターリン気球の上昇にいたる一連の場面の恐怖感は並大抵のものではない。 




太陽に灼かれて [DVD]

Tetsuya Sato

2012年7月1日日曜日

バトル・フォー・スターリングラード

バトル・フォー・スターリングラード
Oni srazhalis za rodinu
1975年 ソ連 162分
監督・脚本:セルゲイ・ボンダルチュク


1942年の夏。ドイツ軍の攻撃にあって中隊規模にまで減少した連隊はドン川沿いに戦闘を続けながらスターリングラードを目指して撤退する。戦闘は前半で二回ほど。ドイツ軍戦車が丘を越えてわらわらと現われ、農家を破壊し、タコ壺を蹂躙し、対戦車ライフルに撃退される。ソ連軍兵士たちは敵が守勢にまわるのを見るとすぐさま着剣、ウラーと叫んで突撃していた。
原作はショーロホフらしい。セルゲイ・ボンダルチュクの演出プランは『戦争と平和』をほとんどそのまま踏襲していて、吹き上がる爆煙はなにやら芸術的に美しく、戦場にはあきらかに広大な空間があり、兵士たちは文学的に傷を負う。
全編にわたって、というわけではないが、確実に監督の美意識が勝利している瞬間があって、ソ連軍部隊が展開する短いショットにもなぜかはっとさせられた。転落してさかさまになる戦車、炎上する麦畑、暴走するヒツジの群れ、口笛を吹きながら前進してくるドイツ軍、荒野に唐突に出現するおさげの看護婦、といった具合に印象的で魅力的な場面がけっこうある。後半はドン川を渡河したソ連軍残存部隊が再集結してスターリングラードを目指すわけだけど、話のほうは兵士たちが臆病で逃げてきたのではないかと疑う村の住民と、食料確保のためになんとかしたい兵士たちとのやりとりで終わる。戦闘場面で盛り上げることにはこだわらずに、疲れた兵士たちの撤退劇に主軸を置いて雰囲気を出すことに成功している。大祖国戦争的なメッセージとセルゲイ・ボンダルチュク的なかったるさにつきあわなければならないが、ひとかど以上の作品であることは間違いない。ちなみに監督本人も兵士の一人で出演していて、負傷して野戦病院に担ぎ込まれると医師が靴を切り取ったことで延々と恨み言をいい(あんたは人間の仮面をかぶった悪魔だ、人民の敵だ、その靴はまだ一か月しか履いていない新品だ、立派な牛皮でできている)、麻酔なしで手術されると、また恨み言のようなことを言い続ける。




バトル・フォー・スターリングラード(前編) [DVD]
バトル・フォー・スターリングラード(後編) [DVD]
Tetsuya Sato