2013年10月31日木曜日

クライヴ・バーカー 血の本

クライヴ・バーカー 血の本
Book of Blood
2009年 イギリス 101分
監督:ジョン・ハリソン

心霊現象の研究者メアリ・フロレスク博士は怪現象が目撃された家で調査をおこない、その家が死者が歩く道の十字路にあたることを発見し、調査に同行した若者は死者のメッセージを肌に刻まれて生きながら血の本になる。
クライヴ・バーカー『血の本』のプロローグ及びエピローグの映画化。いかにも重そうな空気を帯びたスコットランド・ロケが実に陰鬱な感じでなかなかによろしい。オリジナルに顕在するセクシャリティに関わるモチーフをほどよく消化し、正統派の幽霊屋敷ものにクライヴ・バーカーのテイストを盛り込んだ脚本もそれなりによくできていて、演出上の才気は格別に感じられないものの、きわめて真面目に映像化しているところが好ましい。 



Tetsuya Sato

2013年10月30日水曜日

死霊のはらわた(2013)

死霊のはらわた
Evil Dead
2013年 アメリカ 91分
監督:フェデ・アルバレス

ドラッグ中毒でオーバードーズの経験もあるミアはドラッグを絶つために兄や友人などと山小屋にこもるが、小屋の地下から無数の動物の死体と古文書のようなものが見つかり、教師をしている男が古文書を開いて「読むな、書くな、唱えるな」とあるページの文句を唱えるので森の奥でなにかがよみがえってミアにとりつく。
1982年の『死霊のはらわた』のリメイク。リメイクする以上はオリジナルを超えるような努力をなにかしてほしい、とどうしても思うわけだけど、例によって人物関係に無用な設定を加えた結果、話はとてつもなくとろくなり、登場人物は例によって要領が悪い、という有様で、サム・ライミが余計なものを刈り込んで視覚表現に徹したものに余計なものをてんこ盛りにしたことでかなり悲惨な仕上がりになっている。そういうところでゴアシーンばかりを強調されてもいらいらするだけで、つまり『死霊のはらわた』がどうこうという以前に『キャビン』のあとでこういう創意もないし、しゃれっ気もないものを出してくる神経の太さがわたしにはどうにもわからない。 


Tetsuya Sato

2013年10月29日火曜日

サイレントヒル

サイレントヒル
Silent Hill
2006年 カナダ・日本・アメリカ・フランス 126分
監督:クリストフ・ガンズ

母親ローズ・ダ・シルヴァは娘シャロンを夢遊病から救うために、娘が無意識に口したウエストバージニアの町サイレントヒルを訪れるが、そこは火災によって久しく放棄された土地で、入口は封鎖されている。それでも前へ進んでいくと途中で娘を見失い、娘を探して町へ入るとそこは降りしきる灰で霞んでいる。ローズ・ダ・シルヴァは娘の名を叫びながら町をさまよい、すると唐突にサイレンが鳴り、続いていきなり闇が訪れ、不気味な影が奥からぞろぞろと現われる。
コナミの同名のゲームの映画化。ちなみにこのゲームはやったことがない。
冒頭、ラダ・ミッチェルが夢遊病の娘を探してうろうろし始めたあたりですでに不安を感じ、ラダ・ミッチェルが一度拾い上げたぬいぐるみのクマを投げ捨てたところでポイントを下げ(そういうところをわたしはカウントしているのである)、あとはこの頭の悪いヒロインの行動に苛々し続けた。消化もできない癖にキャラクターを増やしすぎているし、話にもならない手がかりにストーリーの展開を頼るという、なんだかどこかのホラーゲームみたいな安易な進め方が気に入らない。怪物の造形などはそれなりに不気味だが、ただ、これはゲームのままなのではあるまいか。空間がまだしも造形的なだけ『アローン・イン・ザ・ダーク』よりはいくらかましだが、雑で不潔。

Tetsuya Sato

2013年10月28日月曜日

アローン・イン・ザ・ダーク

アローン・イン・ザ・ダーク
Alone in The Dark
2005年 カナダ・ドイツ・アメリカ 98分
監督:ウーヴェ・ボル

かつて孤児院にいた時代になにか恐ろしいことをされた記憶を持つエドワード・カーンビーは謎を解くために超常現象の調査にあたっていたが、一万年前に滅んだ謎の種族アビカニ族の遺産をチリで手に入れて帰国したところ、謎の男の襲撃にあい、そのアビカニ族のコレクションを持つ博物館へかつての恋人を訪ねると、そこでは謎の怪物の襲撃にあい、帰宅するとかつての孤児院の仲間で同様になにか恐ろしいことをされた人々の襲撃にあい、政府の秘密機関713の情報によって謎の怪物が大挙出現していることがあきらかにされると、真相を追ってすでに廃坑となった金鉱へ飛び込んでいく。
同じくウーヴェ・ボルの『ハウス・オブ・ザ・デッド』と比べると破格の大作ということになると思うが、へたくそと鈍感な独りよがりは見事なまでに一貫性を確保しており、その点ではまったく予想を裏切らない。登場人物は魅力を欠き、人物関係は関係を欠き、ナレーションによる補足がおこなわれているにもかかわらず話は終始意味不明で、713がなにを狙ってなにを追っているのか、ハシェンズ博士がなにをたくらんでいたのか、主人公にはいったいなにがわかっていたのか、最後まで見てもまったくわからない。冗長なだけで考えた痕跡のない恐怖演出はコミック演出すれすれだし、戦闘になるとマズルフラッシュが考えなしに延々とまたたき、それが催眠効果を誘うので見ているこちらは眠くなる。 

Tetsuya Sato

2013年10月27日日曜日

クリーチャーズ 異次元からの侵略者

クリーチャーズ 異次元からの侵略者
John Dies at the End
2012年 アメリカ 99分
監督:ドン・コスカレリ

なぜか醤油と呼ばれている黒い液体を摂取すると見えないものが見えるようになり、そういうものをたまたまからだに入れてしまったデヴィッド・ウォンはすでに同じ状態にあるジョンの事件に巻き込まれて怪しい刑事の手から逃れ、怪しい高校生にかどわかされ、怪しい博士から真相とおぼしきものを教えられて、異次元にあるもうひとつの世界がこちらへ押しかけてこようとしているのでなんとしても阻止しなければならないというような話になり、怪しい博士から爆弾を受け取ったデヴィッドとジョンは異次元へ出かけていって、その世界で恐怖政治をおこなっている巨大な生体コンピューターと戦うことになる。 デヴィッド・ウォンの話を聞きにやってくるジャーナリストがポール・ジアマッティ。出演者の演技は安定しているし、シチュエーションやアイデアなどにけっこう気の利いたところがあるものの、プロットは寝ぼけているようにしか思えないし、全体としてドン・コスカレリの演出は抑揚に乏しく、面白みに乏しい仕上がりになっている。 

Tetsuya Sato

2013年10月26日土曜日

ダーケストアワー 消滅

ダーケストアワー 消滅
The Darkest Hour
2011年 アメリカ 90分
監督:クリス・ゴラック

自分たちで開発したSNSを売り込むためにモスクワにやってきたショーンとベンは仲間だと思っていたスカイラーに権利を奪われて意気阻喪するとクラブにもぐり込んでやけ酒をあおり、そうしているうちにアメリカ人旅行者のナタリーとアンと知り合い、四人で記念撮影などをしているところで停電が起こり、外へ出てみると頭上の空には黄ばんだオーロラがかかっていて、そこからないやら光るものが降下してきて、その光るものが近づいてきた警察官を瞬時に灰に変えるので、四人とスカイラーを加えた五人はクラブの倉庫に逃れてそこで食料を食いつぶしながら数日を過ごし、どうやら静かになってきた、ということでアメリカ大使館を目指して無人の町となったモスクワを進み、ようやくたどり着いた大使館は廃墟と化していて、遠くに生存者の存在を認めてそこへたどり着くと電気技師が部屋をファラデーの檻で囲って生き延びていて、ロシア海軍の潜水艦が救援のためにモスクワ川まで来ていることを知って、電気技師が作り出した電磁砲を手に出発する。
 製作はティムール・ベクマンベトフ。プロットはふつうにB級SFをしていて、本来ならばアメリカの田舎町でプロムの晩に侵略が始まって、生き残った高校生が、というようなところをモスクワを舞台にやっていて、だったらアメリカ人が主人公である必要などまったくなかろうという気がするものの、うるさいことを言うつもりはない。 電磁波でできた見えないエイリアンの気配を探るために首から電球をぶら下げて、という下りはなんとなく『サイレントヒル』を思い出させるが、先行作品の引用というよりも理詰めで考えた結果であろう。電球や携帯電話などの使い方は面白い。
アイデア自体に格別の新味はないものの、処理のしかたに頭を使った痕跡が見えるところは好ましいし、そこにモスクワの自警団のようなものが絡んできたりするとなんとなく好感度は高くなる。ただ、プロットはバランスが悪いし、主人公たちは総じて魅力に乏しく、演出はリズムを欠いている。アイデアはあるけど構成力がない、ということになるのかもしれない。 

Tetsuya Sato

2013年10月25日金曜日

スプライス

スプライス
Splice
2009年 カナダ/フランス/アメリカ 104分
監督:ヴィンチェンゾ・ナタリ

製薬会社の研究所で働く生化学者のクライブ・ニコリとエリサ・カストは遺伝子結合によって新種の生物を開発し、会社はその生物から医薬品に転用できるプロテインの抽出を要求するが、好奇心によって遺伝子の結合をやめられないエリサ・カストは実験生物に人間の遺伝子を加えて胚に埋め込み、その結果として人工の子宮からさらに新種の生物が現われ、エリサ・カストはクライブ・ニコリの要求を蹴って処分を拒み、倫理に反する実験なのでひとには言えないままこっそりと生物の生長を見守っていると、これが見る見るうちに成長して、ついに実験室では飼えなくなって廃屋となった農場の納屋に移し、生物は少女のような外見を備え、知性を発揮して自我を主張するようになり、すると母親から理不尽な圧力を受けて育てられたエリサ・カストはこの実験体に対して母親のような理不尽な圧力を加えるようになり、実験生物の心はクライブ・ニコリのほうへなびき、エリサ・カストはいよいよ実験体に対して残酷にふるまい、一方クライブ・ニコリのほうは実験体になにやら怪しい感情を抱き、とうとう交合におよんだところをエリサ・カストに目撃され、これはもう、どちらも善悪の区別がつかなくなっているようなので実験体を始末しようという話になり、納屋を訪れてみると当の実験体は死にかけていて、納屋の裏にさびしく埋葬される、というところで終わっていたらよかったような気がするのだが、そいうことにはならずに変異を遂げた実験体が地面を割って現われて大暴れする。
クライブ・ニコリがエイドリアン・ブロディ、エリサ・カストがサラ・ポーリー。人物造形にひねりがあり、脚本と演出がよくまとまっているので、単なるマッドサイエンティストものやモンスターものに終わっていない。登場する人工生物がよくできていた。 

Tetsuya Sato

2013年10月24日木曜日

プロフェシー

プロフェシー
The Mothman Prophecies
2002年 アメリカ 119分
監督:マーク・ぺリントン

ジョン・A・キールの同名のノンフィクションを題材に、まず時代背景を1960年代から2004年に変更し、次に2年ほどの時間経過を数日に短縮し、そしてもつれたまま放り出されたエピソードの山から要点だけを摘み上げて要領よくまとめている。ただし主軸は期待の超常現象よりも予言の方に移動していて、だからUFO目撃事例やUFO搭乗体験、キャトルミューティレーション、UFOマニアの大襲来などといったいかがわしい出来事はまったく登場しないし、モスマン(蛾男)も画面を一瞬横切るだけ。そういうものをじっくり見物したければ、たとえばシャマランの『サイン』あたりを見ろ、ということであろう。
リチャード・ギアが妻を失った新聞記者で、実はその妻が死の直前に怪しい物を目撃していて、妻がノートに書き残したその物の形状がウエストバージニア州ポイントプレザントの怪物目撃報告のスケッチと酷似している、ということで当人はワシントン・ポスト紙の花形記者であったが、大統領選の行方を追うという本来の仕事からふらふらと離れて田舎の町に腰を据え、地元の婦人警官とともに目撃証言をあさり始める。奇怪な光を見た者は目のまわりに火傷を負い、奇怪な声を聞いた者は偏頭痛に悩み、電話からは奇怪な声が流れて惨事を予告する。そしてそこへ死んだ筈の妻の姿がちらりほらりと現われるので、記者は激しく狼狽して右往左往することになる。泣いて苦しむほど激しく愛していたらしいのだけど、困ったことにこれが本筋とほとんど関係がない。それでも泣いて叫んでいるのはもともとの話がばらけた超常現象の集合体で、それだけでは話をつないでいくのが大変だからなのである。
クライマックスの大事件は原作と同じで橋の大崩落。リアルで丁寧な演出がFANTASY IIの精巧なミニチュア・ワークとうまく融合していて、この場面はたいそう見ごたえがある。よく考えるとおかしいところが多いし、ネタ殺しといえばネタ殺しのような気もするけれど、それなりのセンスできれいに作られた映画であった。 



Tetsuya Sato

2013年10月23日水曜日

ミッドナイト・ミート・トレイン

ミッドナイト・ミート・トレイン
The Midnight Meat Train
2008年 アメリカ 100分
監督:北村龍平

事故の写真を撮ってタブロイド紙に売っているカメラマンのレオンは向上心から自分の写真を画商に売り込もうとしたところ、被写体への迫り方が乏しいといったことを指摘されるので、深夜に地下鉄の駅でチンピラがかつあげをしているところへ迫って写真を撮り、その写真を画商にほめられて似たような写真を撮ることになるが、被写体を求めて夜の街をさまよううちに地下鉄の駅からあらわれた男と地下鉄でおこなわれている謎の虐殺事件が接続され、関連を確信したレオンは男を追って男の勤め先である食肉処理場に潜入し、男を追って深夜の地下鉄の駅にもぐり、ついに現場の撮影に成功すると男の反撃にあってカメラを奪われて食肉処理場の地下にある地下鉄の廃駅で目を覚まし、レオンのガールフレンドのマヤはレオンが証拠を奪われたことを知るとレオンのエージェントのジャーギスとともにホテルにある男の部屋を訪れ、もたもたしているうちに発見されてジャーギスは姿を消し、警察に駆け込んだマヤは刑事からジャーギスの居所を告げられて深夜の地下鉄の駅を目指し、一方レオンは食肉処理場を訪れて解体処理用のさまざまな刃物を見につけて食肉処理場の地下の廃駅へ下り、目の前を通り過ぎる地下鉄に男に追われるマヤの姿を認めて地下鉄に飛び乗り、格闘の末の男を倒し、地下鉄が停車した先で肉を食らう父祖と出会い、父祖のために肉を処理する仕事を継ぐ。
クライヴ・バーカーの同名の短編の映画化で、レオンがブラッドリー・クーパー、画商がなぜかブルック・シールズ。疾走する地下鉄はなかなか魅力的に撮られているし、少々余計なカメラワークを除けばゴアシーンもおおむねにおいて成功しているように見えるが、かなりシンプルな原作を100分の話にするために追加された枝葉の部分が登場人物の行動を著しく混乱させている。そして決定的な失敗として、クライマックスで出現するはずの畏怖すべき父祖を登場させないことで、それでそのまま原作と同じ結末にしても説得力は生まれない。


Tetsuya Sato

2013年10月22日火曜日

フェーズ6

フェーズ6
Carriers
2009年 アメリカ 85分
監督:アレックス・パストール

致死率100パーセントの疫病が全世界に蔓延し、感染をまぬかれた兄弟とそれぞれのガールフレンドのあわせて四人が安全な場所を求めて道に車を走らせる。そうするとひとりが不器用な善意から感染し、感染したひとりからまたひとりが感染し、エゴと暴力が顔を出し、殺人がおこなわれ、男女の愛情も肉親の愛情も生存のために振り棄てられ、ようやく安全な場所へたどり着いてもそこにいる男女はしょせん他人同士であり、交わすべき言葉もないのでぼくは孤独を感じたりするのである。
かなり淡々としてはいるが、終末を迎えた世界のディテール(放棄された町、ショーウィンドウ、死体の山など)は低予算ながらもよく作り込まれ、出演者もわかりやすい演出で充実した演技を見せている。なんというのか、若造のサンダンスなモノローグが少々じゃまではあるものの、野心の見えるまじめな作りは好ましい。ちなみに主役の兄弟のうち、がさつな兄を演じているのはJ.J.エイブラムス版『スター・トレック』でカークを演じたクリス・パイン。 




Tetsuya Sato

2013年10月21日月曜日

ビヨンド・ザ・リミット

ビヨンド・ザ・リミット
Beyond the Limits 
2003年 ドイツ 107分
監督:オラフ・イッテンバッハ 

女性記者がとある墓地を訪れる。管理人から死者にまつわる話を聞いて面白い記事にまとめるためであったが、請われた管理人は死んだばかりの男について話し始める。それはダウニングという名前の男で、この男はパトゥーチという男からある物を受け取る手筈になっていたが、いくら待ってもそのパトゥーチが現われない。それというのもパトゥーチに対して憎しみを抱くギャングのジミー・レヴィンソンという男がパトゥーチの女房を殺し、パトゥーチはジミーの追及を恐れて自殺していたからであった。そこでダウニングがジミーの家を訪れてパトゥーチの荷物の所在を問い質すが、ダウニングはジミーとその一味に捕えられて殴られる。さて、ジミーはダウニングを始末するために始末屋モーティマーとその相棒を家に呼ぶが、このモーティマーはパトゥーチの親友で、パトゥーチ本人から死の直前に復讐の依頼を受けていた。モーティマーはジミーとその仲間のそれぞれの脚に手際よく弾丸を撃ち込み、その場に居合わせたジミーの女房どもと一緒に縛り上げ、ビニール袋、ワイヤー、ハンマー、ピストル、ナタなどを使って拷問を加え、一人また一人と殺していく。するとジミーは隠したコカインの所在を明らかにし、モーティマーはコカインを吸入して盛り上がり、隙を見せて女房の一人に殺される。するとそこには死んだ筈のパトゥーチが現われ、モーティマーを殺した女房を殺し、ショットガンでジミーを殺し、コカインを我が物にして家から出てきたところを勝手に逃げ出していたダウニングに殺される。ところでダウニングがボスのために探していたのはコカインではなくて箱の中に収まって赤く輝く心臓で、それが何かというと話は変わって15世紀のヨーロッパ某所、時の教会に異を唱えた修道院長ジェームズ・フリンは弾圧を嫌って偏狭に逃れ、信仰者たちとともに祈りの生活に励んでいたが、そこへ教会の手先デミング師が兵士を率いて現われて、信者たちを虐殺し、フリン師を捕えて城へ連れ去る。このときデミング氏はフリン師の教会から木箱を回収するが、ここに収まっていたのが赤く輝く心臓で、実はこれがベリアルの心臓なのであった。悪魔を崇拝するデミング師はフリン師に拷問を加え、フリン師が作成した魔道書の訳を手に入れようと試みるが、高潔な心を持ったフリン師は最後まで拒んで焼き殺される。そこでデミング氏は魔道書の挿し絵を頼りに復活の儀式を進め、村の娘たちをかどわかしては生け贄に捧げ、死体は森に捨てて異端者の仕業ということにして、配下の士官デニスを捜査のために派遣する。デニスは高潔な心の持ち主で、その恋人アナベルも高潔な心の持ち主であったが、どちらも婚前に性的な交渉をおこなっていて、そのことで恐れの気持ちを抱いていたが、それはそれとしてアナベルはデミング師の右腕となって悪事を働くトム・ブリュースターに狙われていた。そしてブリュースターはデニスの不在中にアナベルの家を訪れ、アナベルの父を殺し、アナベルをかどわかしてデミング師に渡す。事実を知ったデニスは城を訪れてブリュースターと対決し、一方、デミング師はベリアル復活の儀式のためにアナベルのからだに剣を向ける。
話がどこへ転がっていくのか、まるでわからない映画なのである。ただ、それが楽しいわけではない。


Tetsuya Sato

2013年10月20日日曜日

ボスニア

ボスニア
Lepa sela lepo gore
1996年 ユーゴスラビア 108分
監督:スルジャン・ドラゴエヴィッチ

少数のセルビア人兵士がムスリム勢力に追い立てられてトンネルで立ち往生している、という状況を中心に戦火のボスニアをコラージュし、兵士たちの断片的な回想を軸にチトーの死から戦争までを概観する。例によって交戦相手には知人がいるし、犠牲になるのは家族や隣人であり、恨みは増幅されてとめどを失い、西欧のマスコミは事実をゆがめるつもりでやってくる。 "Let's go" "Why not" という台詞を自然にしゃれで取り込めるほど文化的な連中が内戦を戦っていた、と思うと、なんだかとても悲しくなる。ところどころみ現われるコミカルな演出や、歴史的な文脈のなかで語ろうとする試みはクストリッツァの『アンダーグラウンド』を思い起こさせる。自由に回想を挿入した大胆な構成は必ずしも成功していないが、記憶にとどめるべき作品であろう。


Tetsuya Sato

2013年10月19日土曜日

ノー・マンズ・ランド

ノー・マンズ・ランド
No Man's Land
2001年 ボスニア・ヘルツェゴビナ/スロベニア/イタリア/フランス/イギリス/ベルギー 98分
監督:デニス・タノヴィック

1993年のボスニア・ヘルツェゴビナ。ボスニア軍の前線交替要員が夜の霧の中で道に迷い、セルビア、ボスニア両軍の前線の中間地帯に入り込む。夜明けと同時にセルビア軍の攻撃に遭遇し、生き延びた二人は中間地帯にあった放棄された塹壕に転がり込むが、一人は砲撃で吹き飛ばされる。セルビア軍は偵察のために二名を派遣し、この二名は中年の古参兵と配属されたばかりの新兵であったが、塹壕に到達すると古参兵の方が吹き飛ばされたボスニア兵の身体の下に地雷を仕掛ける。生き延びていたボスニア兵はセルビア兵のうちの古参兵を射殺、新兵の方にも傷を負わせ、一方、地雷を仕掛けられた兵士はまだ生きていることが判明するものの、ピンを抜かれた後なので身動きできなくなっている。ボスニア、セルビア両軍の前線部隊は上層部に連絡、そのうちに国連監視団にも連絡が入って退屈していたフランス軍の小部隊が状況確認のために動き出す。その動きをマスコミが嗅ぎつけて、気がつくと塹壕周辺は西側メディアで埋まっている。
『キプール』を思い出した。姿勢に若干の相違はあるものの、体験を未消化のまま吐き出しているという点で、この二つの映画はよく似ている。作者の個人的な体験や観察がまったく発展しないまま素材として処理されているので、できあがってきた物は素人臭くて出来の悪い記録映画と大差ない(だからどちらもおそろしく退屈だ)。『キプール』の場合は体験にひたすらに吸着していたことから雑然とした視点にもいちおうの言い訳があったが、こちらは妙にジャーナリスティックな目配りがあるために立ち位置が曖昧になっていて、そのせいで言い訳ができなくなっている。マスコミや、フランス軍の良心的な軍曹は余計な存在であろう。塹壕の中の三人と国連監視団の政治的迂回に話を集中すべきであった。はっきり言って、ネタ殺しである。


Tetsuya Sato

2013年10月18日金曜日

キプール 勝者なき戦場

キプール 勝者なき戦場
Kippur
2000年 フランス/イスラエル/イタリア 118分
監督:アモス・ギタイ

第4次中東戦争が始まり、予備役に登録していた若い兵士が車に乗って国境を目指して進んでいく。しかし合流すべき部隊はどこかへ移動した後で、国境地帯はすでにシリア軍によって制圧されていた。二人は道中で軍医と出会って救援部隊の一員となり、ヘリコプターでゴラン高原を飛びまわって負傷兵を後送する仕事に参加する。だが最後には当の救援ヘリコプターも被弾し、墜落してしまうのであった、というのがアモス・ギタイ監督の個人的な経験らしい。
ゴラン高原でロケを敢行して戦車を何台もうろうろさせているものの、いわゆる戦闘シーンは一切なし、会話と言えるような会話もなく、ただうつむいて黙っているという時間でかなりの部分が占められている。たぶん、そうして戦場での時を過ごしたという記憶が強いのだろう。つまりこの映画はその個人的な印象をそのまま記憶の中から引きずり出してフィルムに定着したようなおもむきがあり、そうした手法の作家性に注目するならば映画版の印象派と言っても差し支えないのではないかという気もするのだが、未消化の映像をつなぎあわせただけのへたくそな映画だと言ってしまった方が正確かもしれない。戦場におもむいた人間にしか描き得ない退屈さが、この映画には描かれている。作品に作家性を求めるのではなく、作家という状態に作家性を求めるとこういうことになるのであろう。 


Tetsuya Sato

2013年10月17日木曜日

地獄の黙示録 特別完全版

地獄の黙示録 特別完全版
Apocalypse Now Redux
2001年 アメリカ 203分
監督・脚本:フランシス・フォード・コッポラ

79年版よりも50分ほど長い。ウィラード大尉によるキルゴア中佐のボード強奪と逃走、どしゃぶりの雨の中でのプレイメイトとの遭遇、ドラン橋の彼方にあるフランス人のゴム園などのシーンが追加されている。さらにカーツ大佐の狂気と矛盾に関するダイアログが少しばかり増やされている。
79年版の感想でも書いたことだが、わたしにはこの映画をベトナム戦争と結びつける必要があるとは特に考えていない。見た目には明らかにベトナム戦争をやっているけれど、そこに描き出される空気があまりにも幻想的で、かつあまりに肉感的であるために、むしろ原初的な人間の存在と、その行為の質感が際立ってくる。
これは特にキルゴア中佐において顕著であったが、サーフボード強奪というエピソードが加わることで、その印象は強化された。中佐のボードは中佐にとって間違いなく神聖な存在であり、それをウィラード大尉が唐突に盗み出すというこの場面は、無理矢理押し込めば中佐の本末転倒した戦争行為に対する批判と見ることもできなくはないが、むしろ神話的な立場からの方が説明がしやすい。つまり王笏を奪われた王が盗賊を追って大音声で背後から迫るという光景である。プレイメイトとの場面はベトナム戦争の狂気という枠に縁取られてはいるが、ここにも妙な要素がもぐり込んでいる。例によって指揮官はいないし、何をしている部隊なのかよくわからない。水兵たちはをいきなり雨の中を転げ回るし、プレイメイトは陰鬱な独白へと走っていく。若い水兵は窓から窓へと走り回って中の行為を観察し、その行為を自分が継承しようと督促に励むが、窓の中では肝心の行為そのものがまったく始まらない。独白が続いているからである。そして行為は完遂されることなく場面は終わり、後にはランスの静かな狂気のみを残すことになる。しかしながらこの場面で描き出されていたのは狂気ではない。狂気の原因となりえる本質的な無意味さなのである。強引を承知でまたホメロスを持ち込むが、キルケの島だと言えばわかりやすい。魔女はひどく非力だが、状況がその非力を補っている。そして水兵たちが転げ回るのは、彼らがその時豚に変身していたからではないのだろうか。豚に変身した兵士はキルケにとってもオデュッセウスにとっても無意味なのである。ランスは無意味さのどん底に叩き込まれて、顔にペイントを始めるのである。こうしておけば見つからない、というのが本人の口から出てきた理由であった。
ここまで統一されていた質感は、フランス人のプランテーションへ到着したところで妙に崩れる。入植者たちはしきりとフランス統治時代を振り返り、アメリカの失敗を予言する。ダイアログは懸命に映画を現実へ結びつけようとするが、空転するばかりでことごとくが失敗に終わっている。追加されたこのエピソードで成功している場面は、蚊帳をかぶった全裸の女性の立ち姿だけであろう。これがその後のカーツ大佐の軍団へと、巧みに印象をつないでいる。この部分だけが魔術的に際立っているので、どう思い出してもほかの部分の印象が希薄になる。
カーツ大佐の追加されたダイアログも感心しなかった。ここでもプランテーションの場面と同様に、映画を現実のベトナム戦争に結びつけようと試みている。戦争の矛盾と無意味が言葉によって説明され、怒りと焦燥がメッセージとなって届けられはするものの、やはり浮いているのである。もしかしたら、ここに織り込まれているメッセージはこの映画の企画当初からのものではないのだろうか。つまりジョンソン政権の末期でベトナム戦争がまだ続いていた頃、コッポラとジョン・ミリアスが書き上げた共同脚本の中にあったのではないだろうか。その後、79年版でこの部分が脱落していたのは、あまりにもミリアス色が強かったからではないのだろうか。別段、コッポラをかばおうとしているわけではない。ただ、この特別完全版に描かれるカーツ大佐の焦燥感と自己破壊願望は、ジョン・ミリアスの素朴な好戦主義に通じるものがあるような気がしてならない。政治的な素材を扱うためにはミリアスがしているような類型化が必要だが、コッポラは人間の本性に対して忠実すぎる。
コッポラが何を考えて大量のメッセージを復活させたのか、その理由はわからない。企画段階の初心に戻ろうとしたのであろうか。それによって映画が損なわれたことは、ほぼ間違いないだろう。そもそも、ベトナム戦争を描くという目論見のみから観察すれば、79年版もこの特別完全版も失敗作だと言わなければならない。監督の才能があまりにも大きな芸術作品を生み出してしまったからである。そこに見えるのはコッポラの卓越した手つきのみであり、ベトナム戦争も見えなければ、実を言えば一点の狂気も見ることはできない。 


Tetsuya Sato

2013年10月16日水曜日

地獄の黙示録

地獄の黙示録
Apocalypse Now
1979年 アメリカ 155分
監督・脚本:フランシス・フォード・コッポラ

ここに描かれているのはベトナム戦争ではない。現代の戦争ですらない。どちらかと言えばホメロスの「イリアス」に近い。アルカイックな精神を背景とした神話の世界だと言った方が正確かもしれない。
マーチン・シーンはそのままオイディプスだし、マーロン・ブランドのカーツ大佐は心を狂わせたアガメムノンであり、キルゴア中佐はトロイアの渚に集うギリシアの武将の諸々の表象の集合体である。まさにその理由によって空輸騎兵は牛を運び、牛を屠り、浜に集って肉を焼くのである。映画の舞台が現代であることによって何か違いが生じているのだとすれば、おそらく罪の前にすでに黄泉の国が横たわり、親殺しに先立ってそこを潜り抜けなければならないという逆転であろう。我々のモラルはすでに古代と多くの点で異なっているので、父性を確認するために川を溯りながら書類を読まなければならなかったのである。これは映画史上、最高の叙事詩だ。


Tetsuya Sato

2013年10月15日火曜日

フルメタル・ジャケット

フルメタル・ジャケット
Full Metal Jacket
1987年 アメリカ 116分
監督:スタンリー・キューブリック

イギリスロケのベトナム戦争映画というのは当然のことながら天気が悪い。ところどころに取ってつけたようなヤシの木が生えているけれど、これも低温と曇天で元気がなくてうなだれている。もちろんこれはこの映画を見る上で重要な要素ではないが、やはり気になる。
第一部:訓練、第二部:戦場といういつもの二部構成になっていて、まず第一部はよくできたドキュメンタリー映画に見える。実際、狙いもそうなのだと思う。だからそれだけに第一部の最後の場面の流血がひどく白々しい。それまでそれなりにリアルな世界が展開していたものが、その瞬間にまがい物に転じる。軍曹の胸から血が文字どおりどぴゅっと飛び出すというあのショットは必要だったのか。弾丸がこっちから入っているのに血糊がこっちへ飛び出すというのはいかにも変だし、せめて穴が開いたくらいの描写にして倒れて終わりでも十分に意味は通じたと思う。
第二部の寒そうなベトナムの海兵隊の展開シーンは描きこまれた物量に感心する。しかし兵士たちのインタビューの場面は苦痛を感じるほど長い。ようやく部隊が動き始めるとほっとする。戦闘シーンは全体によいと思う。特に兵士たちの発砲のまとまりの悪さはうまくできている。しかしジョーカー二等兵の苦悩は長すぎる。それがまた撃った後の苦悩なので身勝手が際立ってちょっといらいらする。だったら最初から撃たずに撃たれていればいいなどと考えているうちにやっと苦悩の時間が終わってミッキーマウス・マーチがやってくる。ミッキーマウス・マーチの場面はとてもきれいだが、しかしいったいこの兵隊は何を指して「もう恐れはしない」と言っているのか。


Tetsuya Sato

2013年10月14日月曜日

戦場

戦場
Go Tell the Spartans
1979年 アメリカ 114分
監督:テッド・ポスト

いわゆる軍事顧問団の派遣初期の状況を背景にしていていて、原題にある「スパルタ人に行きて伝えよ」という文句はインドシナ紛争時代にフランス軍が残した記念碑に由来している。そしてテルモピュライの史実そのまま、フランス軍が全滅したその場所でアメリカ軍事顧問団と南ベトナム軍もまた全滅する。
系統的には「ベトナムの傷跡」に属する内容だが、その「傷跡」は余計な手出しをした結果であるという政治的に前進した解釈が加えられていて、単なる傷の舐めあいに終わっていないところは評価に値する。脚本は目配りが利いていて偏見がない。初老の少佐(バート・ランカスター)が率いる米軍部隊のユーモラスな描写も楽しくて、けっこうな見応えである。 


Tetsuya Sato

2013年10月13日日曜日

ディア・ハンター

ディア・ハンター
Deer Hunter
1978年 アメリカ 183分
監督: マイケル・チミノ

ペンシルバニアに鉄工を主要産業とするロシア系移民の町があり、そこに暮らす若者たちが徴兵されてベトナム戦争に送り込まれる。やがて捕虜になって北ベトナム軍の虐待を受け、過酷なロシアン・ルーレットに挑戦して反撃を加え、捕虜収容所を逃げ出して生還を果たす。だが心はすでに傷を負い、昔には戻れなくなっている、というような話をまず1時間、結婚式、1時間がベトナム、最後の1時間を情緒に流すというひどく単純な枠組みで構成している。それぞれの場面はそれなりに見ごたえがあり、ロバート・デ・ニーロをはじめとする出演者の熱演ぶりにもただ感心させられる。ビルモス・ジグモンドの撮影はすごいし、ジョン・ウィリアム(ギター)の音楽もよい。すべてをとにかくまとめあげたマイケル・チミノの手腕も当然評価されるべきであろう。問題はベトナム戦争の傷跡というこの手前勝手なテーマをどう解釈するか、ということになるのだろうけれど、思うに肝心なところは「ベトナム戦争」そのものではなくてベトナム戦争の「傷跡」の方であり、その範囲に限って言えば、それは60年代からのヒッピー・ムーブメントを含めて初めからアメリカの国内問題だったということになるのではあるまいか。そうだとすると、徴兵猶予された間抜けな若造が唾を引っかけていた相手は、実は善良な労働者階級の息子たちで、休日には森へ入って鹿を撃ち殺している下衆野郎だが、それでもちゃんと心があるし、その心に傷を負えば鹿を殺すのにも躊躇するようになるという、どちらかと言えば当たり前のことが説明されているだけなのである。この映画が公開されるまで、誰がベトナムへ行っていたのか、アメリカ人はよく知らなかったのかもしれない。 


Tetsuya Sato

2013年10月12日土曜日

エニグマ

エニグマ
Enigma
2001年 イギリス/アメリカ/ドイツ/オランダ 119分
監督:マイケル・アプテッド

1943年のイギリス。数学者トム・ジェリコは神経衰弱に陥って政府の暗号解読機関からひと月ほど離れていたが、急遽呼び戻されて再び任務につくことになる。ドイツ軍側が突如として暗号を変更したからであったが、そうなったことの背後にはどうやらスパイの存在があり、情報機関から派遣されてきた世にも陰険な諜報員が飄々として捜査活動にあたっている。一方、海軍は大西洋で問題を抱えていて、アメリカを出発した三つの輸送船団がドイツのUボート艦隊に狙われているが、その位置を掴むことができないという。情報を探るためには暗号を解読しなければならず、暗号を解読するためには新たな鍵を見つけなければならないが、海軍に与えられた猶予期間は四日に過ぎず、トム・ジェリコの予測によれば解読には十か月を必要とした。そしてそれはそれとしてトム・ジェリコには神経衰弱になった原因があり、情報機関から送り込まれた陰険な諜報員がジェリコにつきまとうのもそのことと無関係ではなかったが、つまりジェリコは女性関係で悩みがあって、しかもその相手であった女性が二日も前から行方不明になっていた。というわけでジェリコは仕事はそっちのけで元恋人クレアの失踪の原因を探り、陰険な諜報員はジェリコの前に再三現われ、クレアのルームメイトであったウォレス嬢は探偵ごっこにのめり込み、そうしているあいだもスパイはどこかで活動を続け、しかも大西洋ではUボートの群れが輸送船団を待ち構えているのであった。
どことなく話の詰めが甘く見えるのは、非情な功利主義をプロットに折り込みながら、それを手短に片づけようとしているためであろう。その点を除けば快調な作品であり、マイケル・アプテッドの手際のいい演出は見ていて実に心地よい。リズムがいいのである。加えて数学者たちはそれらしいし、官僚機構はどうしようもないし、諜報員は陰険だし、官憲は戦時下でも活発に活動しているし、戦争で動員された女たちは男性優位主義の豚野郎に怒りを抱いて働いている。話のほとんどは暗号解読センターの周辺で展開するが、舞台となるセンター自体の描写がかなり分厚いし、ほかにも輸送船団とそれを狙うUボート、東部戦線のドイツ軍、カタリナ飛行艇、徹夜明けで爆睡しているケイト・ウィンスレット、といった具合に見ごたえのある場面がたくさんあって、とてもお得な映画であった。


Tetsuya Sato

2013年10月11日金曜日

アンツィオ大作戦

アンツィオ大作戦
Anzio
1968年 イタリア・アメリカ・フランス・スペイン 117分
監督:エドワード・ドミトリク

1944年1月。イタリア戦線を展開中の連合軍はローマの南70キロの地点にあるアンツィオに上陸、ドイツ軍の抵抗がまったくないことを罠と解釈し、その場に腰を据えて陣地戦の準備に取り掛かる。従軍記者のディック・エニスはジープを借りてあたりを走り回るが、試みに道を北上してみると、なんとそのままローマ市内に入ってしまう。市民に訊ねるとローマにドイツ軍はいないという返答があり、エニスはその事実を司令部にもたらすが、安全を重視する将軍は塹壕を掘って時間を稼ぐ。
上陸から一週間、いなくなっていたドイツ軍も戻ってきてすっかり展開を終え、アメリカ軍はその右翼を突くべくレンジャー部隊二個大隊を派遣する。敵前哨戦は森閑としているが、実はそれが罠であった。あちらでは野積みされた藁の山に窓が開き、こちらでは藪の欠き割りがぱったりと倒れてドイツ軍の機関銃陣地が姿を現わし、さらに丘を越えて戦車の群れが現われる。ドイツ軍戦車はアメリカ軍レンジャー部隊に20秒の猶予を与えて降伏を勧告し、レンジャー部隊の指揮官は降伏を拒絶するので戦闘になり、700人以上いた部隊は瞬時に7名まで減ってしまう。その光景を目撃した従軍記者のエニスは無線で司令部にいる将軍を呼び出して憶病者めと罵るが、それでもとにかく自軍の陣地まで戻らなければならない、ということで戻り始める。そうすると目の前には地雷原が現われ、ドイツ軍の新たな防衛ラインが出現し、迷路のような鉄条網が左右に広がり、戦場の真ん中には父親の帰りを待つ善良なイタリア人の一家があり、荒野ではドイツ軍の狙撃兵が待ち構えていている。
監督、出演も含めてアメリカ映画のような外見を備えていても、正体はディノ・デ・ラウレンティス製作のマカロニ戦争映画である。それが悪いというつもりはまったくないが、でも冒頭、ナポリの宮殿の階段をだらだらと登っていくロバート・ミッチャムの背中に主題歌「世界は君のもの」がかかって、この、製作当時でもすでに時代遅れで能天気な歌を聞いているうちに頭がおかしくなってくるのである。戦争映画にリズ・オルトラーニを使ってはいけない。ナポリの出撃場面はおそらく米海軍の基地を背景に、ただ撮っただけ。上陸場面に登場する舟艇のバリエーションは豊かだが、実際に映画のために用意されたものかは疑問が残る。それに対してローマ入城の場面は妙に力が入っていた。でも動員されたエキストラの服装が気になった(コロセウムの前で通行人を集めたのか)。劇中に登場する兵員数は最大で中隊規模、中盤以降は分隊規模まで縮小し、戦闘は小火器中心で、ほかに戦車(M41?)数輌が登場するが迫力はない。全体にデザインを欠き、イマジナリティ・ラインのずれやパースのずれが見苦しい。ロバート・ライアンは二度顔を見せるだけ、ロバート・ミッチャム扮する従軍記者は戦争の不条理を目撃して人間の本質を問いかけるが、特に意味のあることは言っていない。伍長役のピーター・フォークは良心的な演技をしていたが、役そのものは説明が多くて魅力がない。




Tetsuya Sato

2013年10月10日木曜日

メンフィス・ベル

メンフィス・ベル
Memphis Belle
1990年 イギリス/日本/アメリカ 107分
監督:マイケル・ケイトン・ジョーンズ

第二次大戦中、B17に乗り込んで計25回の爆撃任務を果たした若者たちの物語。搭乗員は二十歳になるかならないかのこどもで構成されていて、それが最後の任務として過酷な昼間爆撃に送り出される。ドイツ軍の対空砲火にさらされるし、もちろん迎撃機も舞い上がってくる。被弾して魔法瓶を粉々にされ、飛び散ったトマト・スープを見て血だ血だと騒ぐのである。まわりでは僚機が火を吹いて落ちていく。真っ二つに割れた機体もあれば、操縦席をえぐり取られてどこかへ漂っていく機体もある。機銃座は吹き飛ばされて足元には虚空が広がる。機体は穴だらけになり、着陸脚は動かなくなる。それでも俺たちは生きて帰るんだ、ということで頑張って任務を果たしてメンフィス・ベルは帰還するのである。マシュー・モディーンが絶叫を放って仲間にシャンパンをぶっかける姿は、それまでがそれまでだけに納得がいく。うまくはないが、正直に作られた映画である。ただ空戦場面にむらがあって、B17の飛行シーンも含めていいところは抜群に迫力があるのに、いくつかのミニチュア・ワークは感心できるような仕上がりにはなっていない。


Tetsuya Sato

2013年10月9日水曜日

戦火の勇気

戦火の勇気
Courage Under Fire
1996年 アメリカ 117分
監督:エドワード・ズウイック

湾岸戦争の話である。夜間の戦車戦が砂漠で始まり、アメリカ陸軍のサーリング中佐が指揮する戦車隊がイラク軍の陣地に攻撃を加える。さらにイラク軍の戦車部隊と交戦するが、このときイラク軍の戦車がアメリカ軍の戦車の車列に紛れ込み、指揮官のサーリング中佐は味方の戦車を敵と誤認して攻撃を加え、親友を戦死させてしまう。戦後、中佐は身分を国防省に移し、陸軍では中佐の行動を調べるために審問が開かれ、結審に先だって不問に付されることが中佐本人に内示される。だが戦死した兵士の家族には、死亡の原因が友軍の攻撃であることは知らされていない。サーリング中佐は胸にわだかるものを抱え、酒に逃れて家族との関係を損なっていく。そこへ直属上官の准将から新たな命令が与えられた。中佐は命令にしたがって、戦死した一人の将校が名誉勲章にふさわしいかどうかを調べ始める。
調査の対象となったウォールデン大尉は救急ヘリコプターのパイロットで、イラク軍の攻撃を受けた補給班を救った英雄であった。サーリング中佐はまず補給班のクルーと面談し、継いでウォールデン大尉のクルーとも面談する。中佐は証言の中に矛盾を見つけ、真相を求めてヘリコプターのクルーを追及し、真相を求めるあまり時間をかけて准将から叱責を受け、調査からはずされてもなお追及をやめようとしない。戦死したウォールデン大尉のために真実を伝えなければならないと考えたからである。そう考えながら、中佐は自分自身の罪を問うていたからである。
で、最後になると涙なしには聞けないような痛々しい事実が明らかになるわけだけど、とにかく生真面目な作りに好感が持てる。デンゼル・ワシントンは心に重荷を抱えた陸軍中佐を熱演しているし、メグ・ライアンも努力家の女性兵士という役を実にそれらしく演じている。脇役連もみないい演技をしていて、ルー・ダイアモンド・フィリップスはほんとに壊れているし、マット・デイモンの看護兵はとにかくかわいそうに見えるのである。スコット・グレンは例によっていい味を出しているし、さらに嬉しいのは准将役のマイケル・モリアーティで、これは意外なまでに風格があった。淡々として抑制された演出はドラマを盛り上げ、そしてエドワード・ズイックの作品の特徴ではあるが、戦闘場面に迫力がある。まがりなりにも軍事行動をしているように見えるのである(ただし毎度のことで、位置関係が把握しにくいという欠点がある)。内容が内容だけにアメリカ軍の協力がある筈はないので、おそらく本物はヒューイ・ヘリコプターと若干の車両くらいであろう。M1やT-54、A10、アパッチなどはモックアップやミニチュアを使っていると思うのだけど、これがまたよくできていた。ジャーナリスティックな関心を個人の名誉にすりかえるあたりに少々難が見えるものの、とにかく迫真の戦争映画なのである。



Tetsuya Sato

2013年10月8日火曜日

レバノン

レバノン
Lebanon
2009年 イスラエル/フランス/レバノン/ドイツ 90分
監督:サミュエル・マオズ

1982年、レバノン内戦中のレバノン戦争で、無能な指揮官、文句の多い装填手、ひとの命を奪いたくない砲手、泣き虫の運転手の四人を乗せたイスラエル軍の戦車がレバノンに入り、歩兵部隊とともに市街地を進んでいくと、誰が間違えたのかシリア軍の占領地域内にもぐり込み、歩兵に見捨てられてしまうので単独で安全地帯への脱出を試みる。
ほぼ全編が戦車の内部だけ、外の様子はペリスコープ越しにしか見えない、という徹底した手法が採用されているが、結果からすれば、これはわざとらしいだけであろう。見ているうちになんとなく『キプール』を思い出していた。個人的な心象ばかりが前に出すぎて、ひとりよがりのようにしか見えないのである。それにしても登場するこの戦車の汚さはいったいどういうことなのか。イスラエル軍では戦車をあんな状態で使うのか。床には水がたまって不気味なゴミが浮かんでいるし、車室の壁も掃除をしたような痕跡がないし、なぜかそこら中がじとじと湿っているし、おまけになぜか袋いっぱいのクルトンを搭載していて、RPGの直撃を食らうとそのクルトンがはじけてあらゆる場所に、いかにもばっちい感じでへばりつくのである。演出に違いないが、度を越している。乗っている連中も訓練を受けているように見えなくて、誰の命令も聞かないし、ペリスコープで余計なものばかり見ているし、動かなくなると動かないと言って騒ぐだけだし、そうするとそのたびに外から歩兵の指揮官がやってきてなだめたり励ましたりするのである。これでは見捨てられて当然であろう。とりあえず構成上の破綻はないものの、格別おもしろいところはない。 

Tetsuya Sato

2013年10月7日月曜日

ワンス・アンド・フォーエバー

ワンス・アンド・フォーエバー
We Were Soldiers
2002年 アメリカ 138分
監督:ランダル・ウォレス

1965年のベトナム、イア・ドランでの三日間にわたる戦いを事実に基づいて描いているという。まず冒頭、フランス軍が例によってひどく厭世的に全滅し、それから10年後、フォート・ベニングで空輸騎兵の編成が始まる。訓練風景が淡々と描かれ、将校の妻たちの生活が素描され、編成の進行にしたがって若い将校とその年若い妻が基地に到着し、こどもが生まれ、ベトナムに派遣された軍事顧問団の断末魔の通信が兵士の手によって傍受される。やがて下された派遣部隊増強の決定に基づいてムーア中佐以下の第七騎兵連隊第一大隊もベトナムに送られ、尾根と乾いた川床の間の小さな平原で北ベトナム正規軍一個師団と対決する。
主演はメル・ギブソン、マデリーン・ストウ。空輸騎兵やミニガンなどが本格的に投入された最初の戦闘であり、同時にアメリカ軍と北ベトナム正規軍との間でおこなわれた最初の本格的な戦闘でもあるということだが、戦闘は第二次世界大戦とまったく同じ種類の歩兵戦で最後にはM16に着剣して突撃していた。ベトナム戦争を扱ったこれまでの映画との最大の違いは、北ベトナム軍の兵士を人間として描いているところである。指揮官が知的だったり、兵士が手帳に奥さんの写真をはさんでいたり、突撃に先立って顔に不安を浮かべたりするわけである。もしかしたら過去にも同様の描写をした映画があるのかもしれないが、少なくともメジャー作品ではほかの例をわたしは知らない。進歩したという言うべきなのだろうか? 全体をとおしてまじめな作りで戦闘シーンにも手抜きがない。概して好感が持てる映画だと思うのだが、不思議なことに画面上で何が起こっていようとも妙にしらけているのである。こちらの目にはこの戦争をバランスのよい悲劇に仕上げたいという作り手の悲壮なまでの決意ばかりが伝わってきて、そのせいで敵味方の兵士たちも銃後に残された妻たちも涙に濡れた手で作り出されたアニマトロニクスのように見えてきてしまう。おそらくバランスがわざわいになっているのであろう。公平な悲劇などというものはありえないからである。 


Tetsuya Sato

2013年10月6日日曜日

ブラザーフッド

ブラザーフッド
Tae Guk Gi
2004年 韓国 148分
監督:カン・ジェギュ

1950年。朝鮮戦争が勃発し、靴磨きのジンテと高校生のジンソクのイ兄弟はソウルから避難する途中、陸軍に強制徴募されて前線に送られる。兄のジンテは弟の除隊を実現させるために英雄になろうと考えて危険な作戦に志願し、そうしているうちに軍隊への適性を示すようになり、前線が北へと移るにつれて反共原理にも呑み込まれる。一方、あくまでも個人であり続ける弟は兄の行動に反発し、共産勢力の反攻と同時に兄弟の仲は重大な局面を迎え、部隊再編成のために立ち寄ったソウルでは決定的な悲劇が起こり、再編成された部隊の大隊長が状況に追い討ちをかけるので、結果として兄は南を憎んで北へ転向し、弟は兄を取り戻すために戦場を越える。
朝鮮戦争を最初から終わりまで、ひととおりやるという明確な目的を備えており、その目的に対して忠実に、手間を惜しまずに真面目に作られた作品である。映像は厚みと躍動感を備え、冒頭、50年代のソウルからすでに引き込まれる。戦闘場面はかなりの迫力があり、絵はクールである。塹壕戦、夜襲、市街戦とバリエーションが豊富で、登場する車両、兵器類にもこだわりが見える(コルセアのCGがちょっとしょぼいが)。平野を埋め尽くして突撃してくる人民解放軍は大迫力であった(銅鑼を鳴らしてほしかったが)。兄弟関係が果てしなく煮詰まっていくプロットは朝鮮戦争の性格を的確に表わしており、ダイアログは適度に抑制されて冗長を避け、キャラクターのコストパフォーマンスは優れている。殴り合いの場面が全体に多い、という印象は否めないものの、情緒的な場面はどこでも比較的短めに押さえられ、愁嘆場に時間をかけるような愚は犯していない。立派な映画であった。


Tetsuya Sato