2013年2月28日木曜日

恋人よ帰れ!わが胸に

恋人よ帰れ!わが胸に
The Fortune Cookie
1966年 アメリカ 125分
監督:ビリー・ワイルダー

TVカメラマンのハリー・ヒンクルはフットボールの試合中継中に選手のブーン・ブーン・ジャクソンに激突され、脳震盪を起こして病院に送られる。見舞いのために病院に現われたハリー・ヒンクルの義兄(姉の夫)ウィリー・ギングリッチは評判の悪い弁護士で、ハリー・ヒンクルの負傷を脊髄損傷、部分麻痺に格上げしてフットボール・チーム、スタジアムなどを訴えて高額の損害賠償(オハイオ州最高額、当時)を得ようとただちにその場で決心する。そして気の進まないハリー・ヒンクルをこの詐欺行為に引きずり込み、心配してやってきたブーン・ブーン・ジャクソンをだまし、被告弁護団が送り込んできた医師団をだまし、被告弁護団が送り込んできた私立探偵とそのジェミニ計画の裏をかき、とにかく悪辣なことをいろいろとするのである。
善良なだけの男ハリー・ヒンクルがジャック・レモン、悪徳弁護士がウォルター・マッソー。ウォルター・マッソーの悪役ぶりが特に目立つ作品だが、思い出してみると、1964年のシドニー・ルメット版『未知への飛行』でもタカ派の軍事アナリストというかなり強烈な悪役をやっていたし、70年代には『突破口』の銀行強盗チャーリー・ヴァリック、80年代には『パイレーツ』のバーソロミュー・レッド船長という具合にふてぶてしくて口の減らない悪役をやっているわけで、悪役の多いひとなのかもしれない、と改めて思ってみたりする。本作では目つき面つきが貪欲な悪徳弁護士そのままという感じで、しかも決してただでは転ばないし、転ぶときにはまわりをできる限り道連れにしようとがんばっていた。これに比べるとジャック・レモンはやや印象が希薄だが、当人のせいというよりも役柄のせいであろう。ジャック・レモンの別れた女房役でジュディ・ウェストが登場し、この悪女ぶりもなかなかのもので、ニューヨークのアパートのシーンが面白い。映画自体の作りはやや渋めで、結果としてかなり痛みを背負う話になってくるので少し重たい。


Tetsuya Sato

2013年2月27日水曜日

ねえ!キスしてよ

ねえ!キスしてよ
Kiss Me, Stupid
1964年 アメリカ 126分
監督:ビリー・ワイルダー

ネバダ州クライマックスという名前はすごいけれど、かなりさびしい町に作曲家志望のピアノ教師と作詞家志望の自動車整備工がいて、一緒になって五十曲以上も作っていたが、まだ一曲も売れていない。そこへラスベガスからロサンゼルスへ旅する途中、たまたまクライマックスを通りかかった人気歌手ディノが登場するので、それを見た自動車整備工はディノをクライマックスに足止めし、ピアノ教師の家を宿に差し出して曲を売り込もうと画策する。そしてピアノ教師は妻を愛するあまりになにもなくても嫉妬にもだえ、その妻は美人で、歌手のディノはただもうセックスに狂っているので話は難しいことになってくる。
ディーン・マーティンそっくりの人気歌手がディーン・マーティン、嫉妬深いピアノ教師がレイ・ウォルストン、その妻がフェリシア・ファーで、妻を守るために急遽呼び寄せられる代理の妻がキム・ノヴァク。怪しいものはすべて疑い、ことごとくを嫉妬のネタにしていくレイ・ウォルストンがかなり笑える。非常によくできたコメディで、ダイアログは例によって練り込まれ、とりわけキム・ノヴァク、フェリシア・ファーの女優陣が魅力的な作品だが、劇中、キム・ノヴァクが一粒だけ流す涙がなんとも物悲しくて泣けるのである。




Tetsuya Sato

2013年2月26日火曜日

あなただけ今晩は

あなただけ今晩は
Irma La Douce
1963年 アメリカ 146分
監督:ビリー・ワイルダー

パリ。生真面目でうぶな警官ネスターは娼婦ばかりのカサノバ街の担当となり、法律違反が堂々とまかり通っているのを目の当たりにした結果、自身の判断で一斉検挙に取りかかり、捕えた客のなかに上司の警部が混じっていたことから職を失う。行く宛てのないネスターはカサノバ街を訪れ、諸般の事情で娼婦イルマのヒモとなるが、ネスターはイルマを愛するあまり、イルマに客を取らせまいとして、謎の英国紳士に変装してイルマの客となる。
ネスターがジャック・レモン、イルマがシャーリー・マクレーンで、どちらも持ち味が実にうまく引き出され、ビリー・ワイルダーとI.A.L.ダイアモンドによる脚本は例によって無駄がなく、小道具や通りすがりの脇役にいたるまでこまかく配慮されている。ルー・ジャコビ扮するカフェのマスターが魅力的で、事実上の狂言回しを引き受けているが、顔を出せば得体の知れない理屈を振り回し、しかもその過去は経済学の教授だったり軍人だったり弁護士だったり、あるいは産婦人科の医師だったりと、思いつくままに広がってどうにも得体の知れないことになっている。シャンパンのボトルを抱えて眠りこけているイルマの愛犬コケットもいい。どの場面も手間をかけてていねいに作り上げられていて、見ていて幸せになるコメディである。精密に作り込まれたカサノバ街のセットもすごい。


Tetsuya Sato

2013年2月25日月曜日

クロニクル

クロニクル
Chronicle
2012年 アメリカ 89分
監督:ジョッシュ・トランク

シアトルに住む高校三年生のアンドリューは察するところ全世界に公開する意図をもって生活のすべてをビデオに録画することに決めてカメラを持ち歩くようになり、ところかまわずにカメラを向けるせいで近所のチンピラにからまれたりチアリーダーから気味が悪いと言われたり、といったような目に遭っていたが、閉鎖された農場の納屋でおこなわれたパーティにいとこで友達のマットに誘われて出かけていって、マットにカメラを置いてくるように言われたにもかかわらず、やはりカメラを持っていってパーティ会場でところかまわずカメラを向けたので不快な体験をすることになり、納屋の外でひとりで泣いているところに同じ高校のスティーブが現われ、呼ばれるままにいってみると窪地の底に穴があり、穴のかたわらにマットがいて、マットとスティーブが次々と穴へ入っていくのでアンドリューもまたカメラを抱えて穴にもぐり、そこでなにやら恐ろしいことが起こって、気がついてみると三人の高校生はテレキネシスをあやつる超能力者になっていて、さっそく三人でつるんであれやこれやと試しながら能力を磨き、まもなく車のような大きな物も動かせるようになり、自分を持ち上げることで自在に空を飛べるようになり、しかしアンドリューが考えなしに能力を使ったことでひとを傷つける結果を招くのでマットの提案でルールが定められ、しかし家庭が事実上崩壊しているアンドリューは父親の暴力に出会って追い込まれる形でよからぬ考えを抱き、さらに病身の母親の薬代を稼ぐために近所のチンピラを超能力で襲ったり、ガソリンスタンドを超能力で襲ったりといったことを始め、そこへさらに父親が暴力で追い打ちをかけ、抑えの利かなくなったアンドリューは騒ぎを起こし、アンドリューをとめるために現われたマットとシアトルの市街地で超能力合戦を繰り広げる。
ありそうな素材ではあるが、視覚的によくデザインされているし、練り込まれた脚本とまじめに手間をかけた堅実な演出が好ましいし、クライマックスの超能力戦はたいへんな迫力がある。手法としてはPOVが採用されていて、カメラの持ち手によって視点の散逸が避けられないところに多少の無理は感じるものの、超能力を獲得したあとのアンドリューは宙に浮かべたカメラを自在にあやつるので視点の制約を受けることがない、といったようにシチュエーションを生かした新機軸が盛り込まれているし、カメラがどこにもないと超能力を使ってそこらからカメラを集めてくる、という場面があって、この無理矢理ぶりには感心した。 

Tetsuya Sato

2013年2月24日日曜日

ゼロ・ダーク・サーティ

ゼロ・ダーク・サーティ
Zero Dark Thirty
2012年 アメリカ 158分
監督:キャスリン・ビグロー

高卒でCIAにリクルートされたという女性分析官がパキスタンの支局に派遣されてオサマ・ビンラディンの追跡にあたり、捕虜を尋問し、推理をめぐらし、腰のすわらない上司を恫喝し、テロにねらわれ、テロによって同僚を失い、ようやく糸口をつかんでペシャワルに監視チームを送り出し、ついにビンラディンの隠れ家を探し当てるとそれからはワシントンで政治の重たい腰に苛立ち、それでもようやくシールズの部隊とともにアフガニスタンを訪れてステルスヘリコプターの発進を見送り、作戦終了後、部隊が持ち帰った死体を検分する。
無駄口をいっさい叩かずに強烈な158分を作り出したキャスリン・ビグローの手腕は確実に『ハート・ロッカー』を超えていて、自信に満ちた文体が自在に流れるありさまに、こちらはただもう口を開けて見入っていた。映像はリアリティと厚みを備え、物語性はほぼ排除され、視点は対象に距離を取って安易な感情移入を阻み、その結果としてほとんど一切が非人間的で鈍感な物理現象にからめ取られ、パキスタンの夜空を舞うステルスヘリコプターの雄姿はもっぱら不安のみをあおり、続くシールズの作戦は暴力的で、どうかすると滑稽で、人間の品位をおとしめるために作られた気味の悪い機械のように見えなくもない。驚くほどモダンで、ものすごい映画が誕生した。 


Tetsuya Sato

2013年2月23日土曜日

ハンガー・ゲーム

ハンガー・ゲーム
The Hunger Games
2012年 アメリカ 143分
監督:ゲイリー・ロス

パネムという国があって、そこはどうやら13の地区にわかれていて、そのうちの12の地区がかつて反乱を起こして鎮圧されて、国家はその記憶を国民が失わないように、という配慮から、ということらしいのだけど、年に一度、反乱を起こした12の地区から12歳から18歳の男女一人ずつを選び出して最後の一人になるまで殺し合いをさせる行事をおこなっていて、第12地区に暮らすカットニス・エバディーンは自分の妹の身代わりにこの行事に志願する。 
最初の一時間をだらだらと状況説明に使い、一時間を過ぎたあたりからようやくゲームが始まって、それで少しはましになるのかと思ったら、結局最後までだらだらしておしまいで、この二時間半はかなり長い。プロットはお粗末で演出はまるでやる気がない。しかも肝心のゲームがいんちきばかりで面白くない(途中でルールを変えるのは問題外だし、都合よく遺伝子改造されたスズメバチの巣があったりとか、致死性の毒を持った木の実があるとか、小学生が書いた小説じゃあるまいし、だいたい、いきなり飛び出してくるCGの怪物はいったいなんですか)。反乱地域の取ってつけたような貧困描写は背景を欠いているので説得力がまるでないし、集められた少年少女もヒロインがやたらとクローズアップされる一方で影らしい影も与えられていない。周辺のおとなも魅力がなくて、ウディ・ハレルソンも役柄がよくわからないし、ドナルド・サザーランドはまったくのアルバイトに徹している。未来都市の描写もいただけない、というか、美術は全体に凄惨なことになっている。 



Tetsuya Sato

2013年2月22日金曜日

ダイ・ハード/ラスト・デイ

ダイ・ハード/ラスト・デイ
A Good Day to Die Hard
2012年 アメリカ 98分
監督:ジョン・ムーア

ニューヨーク市警の皆殺し専門刑事ジョン・マクレーンはかれこれ数年も音信不通の息子がモスクワで逮捕されて公判を待っていることを知ってモスクワの裁判所まで出かけていくが、そこで爆発が起こって裁判所の壁が吹き飛ばされ、武装した男たちが裁判所へ突入し、かわって息子が公判の被告ユーリ・コマロフを連れて路上に現われ、武装した男たちが逃走する息子とユーリ・コマロフを追いかけるのでジョン・マクレーンも追跡に加わって道を車の墓場に変え、ジョン・マクレーンがようやく息子と言葉を交わすと、そのときにはすでになにやらの面倒の渦中にある。
で、そのなにやらの面倒がいまひとつすっきりとしていないし、面倒を引き起こすロシア側のキャラクターの造形もあわせていまひとつすっきりとしない。
ブルース・ウィリスはジョン・マクレーンという看板を背負っているだけで、息子役のジェイ・コートニーを含め、登場人物は全体に魅力に乏しく、90分ほどの短い尺にもかかわらずだれ場があって、ダイアログに無駄が目立つ。というわけでスクリーンを眺めながら、モスクワを訪れたジョン・マクレーンが息子を発見してみると息子はすっかり記憶を失っていて、いったいなにがと思っていると実は息子はトレッド・ストーンの犠牲者で、そこへクリス・クーパーが率いる得体の知れない組織が襲いかかって、などということをこちらで勝手に考え始めることになるのである。
監督は『マックス・ペイン』のジョン・ムーア。ある意味一貫している仕事ぶりで、ジョン・マクレーンが立った場所はあらかたが廃墟と化すというコンセプトは徹底しているし、冒頭のカーチェイスの二次被害ぶりも徹底しているだけあってある種の見物に仕上がっているが、これほどの騒ぎを起こす背景を欠いているので結果としてはバランスが悪い。劇中に登場して機関砲を撃ちまくるMi-24、Mi-8の雄姿は一見に値する。 


Tetsuya Sato

2013年2月21日木曜日

ジャッジ・ドレッド

ジャッジ・ドレッド
Dredd
2012年 イギリス/アメリカ/インド/南アフリカ 95分
監督:ピート・トラヴィス

核戦争後のアメリカには汚染された荒野から塀によって隔てられたメガシティ・ワンという超巨大な都市があって、戦前の建物のあいだに超巨大な建築物がそそり立ち、おそらくは巨大すぎてまったく管理が行き届かないそういう建築物を根城に超凶悪な犯罪者が幅を利かせて治安を著しく悪化させているので、陪審員と判事と処刑人の仕事をまとめて引き受ける超強力な裁判官が犯罪者を追跡してその場で判決を下して処刑する、というようなことをしていると、その裁判官のなかでもベテランの一人ドレッドに新人の裁判官をテストするようにという指示が下り、そこへまた殺人事件が起こるので、ドレッドが新人をともなって事件の現場となった二百階建ての巨大なビルに出かけていくと、そこは超凶悪ぶりに輪をかけた『ママ』が率いるギャングの根城で、犯罪の証人を連行しようとしたドレッドと新人はビルに閉じ込められて『ママ』の手下たちの猛攻を浴びるので、例の音声入力インターフェースがついたインチキくさいピストルで反撃に出る。
状況は『ザ・レイド』にちょっと似ているけれど、こちらはもっぱら暴力沙汰に専念していて生き別れの兄弟なんか出てこない。監督は『バンテージ・ポイント』のピート・トラヴィス。決してうまいひとだとは思わないが、スタイルを作る技術は心得ている。ケープタウンとヨハネスブルグとCGで作り出されたメガシティの風景というのがモダンなリアリティを備えていて、服装や車や武器がほとんど現代のままで、それがどちらかと言えばどれもいくらか古びている、というのもそれらしい。主演のカール・アーバンは終始ヘルメットをかぶったままで、見えるのは無精ひげを生やした口元だけ、というヒーローらしからぬ無名性は面白いし、相棒のサイキック娘もキャラクターがきちんと消化されていて、少々場数を踏んだところで暴れ始めるあたりは好ましい。対する悪党一味の人相の荒廃ぶりもなかなかのもので、深い頬傷をつけて『ママ』を演じたレナ・ヘディは独特の存在感を発揮していていた。3Dで鑑賞したが、3Dでなにをやっているのかというと、ハイスピードショットによる顔面破壊を飛び出す絵にしてみました、というようなことで、あきらかに悪趣味ではあるけれど、とてもよくできていたことは認めなければならないだろう。
ちなみに95年版のスタローン版は公開当時に劇場で見ているけれど、やたらと高音域に傾いた銃声がとにかく耳に痛かったという以上の記憶がない。 


Tetsuya Sato

2013年2月20日水曜日

ワン、ツー、スリー

ワン、ツー、スリー(1961)
One, Two, Three
監督:ビリー・ワイルダー

ベルリンの壁がまだなかった頃、コカコーラの社長令嬢スカーレットはベルリン滞在中に監視の目を盗んで東側を訪れ、そこで東ドイツのミサイル技術者で共産党員のオットー・ピフルと恋に落ちて秘密裏に結婚してしまう(あたしが彼のシャツを洗って、彼があたしの脳味噌を洗うの)。事実を知ったコカコーラの西ベルリン支社長マクナマラ氏は驚愕し、そこへコカコーラの社長夫妻が視察のためにやって来ると知らされて、事実を糊塗するために奔走を始める。
マクナマラがジェームズ・キャグニー、東ドイツの共産主義青年がホルスト・ブッフホルツ、社長令嬢がパメラ・ティフィン。ジェームズ・キャグニーが最初から最後まで猛烈なハイテンションで手段を選ばずに卑劣な策を弄し続けるのである。いわゆる東側のキャラクター、西ベルリン側の第三帝国を引きずったような異様なキャラクターも立ちまくり、マシンガン・トーク型のノンストップ・コメディで、ほぼ全編にわたって意地の悪い冷戦ジョークが満載されている。結末に登場する瓶のラベルにまで目が離せない傑作なのである。


Tetsuya Sato

2013年2月19日火曜日

アパートの鍵貸します

アパートの鍵貸します
The Apartment
1960年 アメリカ 125分
監督:ビリー・ワイルダー

保険会社の社員C・C・バクスターは上司の情事のためにアパートの自分の部屋を貸していて、そのせいで好きな時間に部屋にいることができないばかりか、部屋からもれる音や声で隣人からあらぬ疑いをかけられている。そのバクスターはエレベーターガールのフラン・キューブリックに強い関心を抱いていたが、当のフラン・キューブリックは会社の上級管理職J・D・シェルドレイクの愛人であり、そのシェルドレイクに捨てられたと信じたフラン・キューブリックは、たまたまそう信じた場所が例によってC・C・バクスターの部屋であったため、C・C・バクスターの寝室で大量の睡眠薬を服用し、死にかけているところをてC・C・バクスターに発見される。
よくよく乱れた会社であるなあ、とまず感心するが、映画自体はコメディと呼ぶには痛々しい。上司の要求を断れない男、恋愛運の悪さにどこかで傷ついている女、どうにもうまく噛みあわない二人のあいだの歯車といった大軸に細部が恐ろしく巧妙に埋め込まれていて、しかも、そのコストパフォーマンスが猛烈に高い。登場人物にしても小道具にしても、アパートの構造にしても(部屋の入口、台所の入口、寝室の入口がワンショットに収まるように作られている)、とにかく無駄な部分がないのである。ジャック・レモンは小心さとプライドのあいだで揺れ動く男を好演し、シャーリー・マクレーンの皮一枚下に絶望を隠した顔もなかなかにすごい。


Tetsuya Sato

2013年2月18日月曜日

お熱いのがお好き

お熱いのがお好き
Some Like It Hot
1959年 アメリカ 121分
監督:ビリー・ワイルダー

禁酒法時代のシカゴ。二人の楽士が聖バレンタインデーの虐殺を目撃する。ギャングに消されることを恐れた二人はすでにもぐりの酒場での仕事を失い、なけなしの金もドッグレースに費やしてなくしていたので、女装して女ばかりの楽団へもぐり込んでそのままフロリダへ逃走する。フロリダに到着した二人のうちの一方は楽団の歌姫を攻略するために夜はシェル石油の御曹司に変身し、もう一方はどこかの金持ちの爺さんに粉をかけられて貞操の危機にさらされるが、そこへギャングの一行が会合のためにやってくる。
冒頭、いきなり始めるカーチェイスと銃撃戦から警察による酒場の手入れ、さらに聖バレンタインデーの虐殺とギャング映画的な見せ場を連ね、楽士二人が女装すると、今度は一転してほとんどパロディのような恋愛映画にもぐり込んでいく。改めて見ると、やや古びた印象があるものの、それぞれの場面は抜かりなく演出されていて、結果としては見どころが多い。楽団の歌姫シュガーに扮したマリリン・モンローは美しいものの、どこか荒んだ気配があって、私生活での結果がわかっているだけに見ているこちらを(いまだに)心配させてしまう。ワイルダー映画のモンローはある意味、きわめてモンロー的なモンローなので、そうした仮面のぶれがかえってよく見えるのかもしれない。


Tetsuya Sato

2013年2月17日日曜日

昼下がりの情事

昼下がりの情事
Love in The Afternoon
1957年 アメリカ 134分
監督:ビリー・ワイルダー

アリアーヌは私立探偵クロード・シャヴァスを父に持ち、コンセルヴァトワールでチェロを習う学生で、1822年からこちら、一度も問題を起こしたことのない家の出の若者とつきあっていたが、名うてのプレイボーイでアメリカ人の大富豪で、どうかすると父親ほども年が離れているフランク・フラナガンの姿を父親が盗撮してきた不倫現場の証拠写真に発見して好ましく思い、そのフラナガンを不倫相手の夫が射殺しようとたくらんでいると知って、急ぎホテルに駆けつけて不倫の現場に潜入し、名前も身分も明かさぬままに危険を伝え、そしてそこでフラナガンの現物と出会った結果、アリアーヌはいよいよ恋に落ちて、再びフラナガンの前に現われるとあたかも恋の玄人であるかのようにふるまい始める。
オードリー・ヘップバーンがとにかくチャーミングで、そのヘップバーンが父親の事件簿(不倫ばっかり)をネタにして思いつくままに架空の恋の経験を語り、恋人のリストを聞いて苛々し始めるゲイリー・クーパーがまた実にいい感じなのである。そしてモーリス・シュヴァリエはおとなを演じて、味わい深い。リッツの廊下を右往左往する給仕の群れとジプシー楽団、嫉妬にもだえるゲイリー・クーパーとジプシー楽団とのあいだを酒を載せて行ったり来たりするワゴン(ここの音楽の仕込み方が絶妙なのである)、オペラ座で連れの女を見失った瞬間にまわりの女を物欲しそうに眺め始めるゲイリー・クーパーといった楽しい描写が山ほどもあり、クライマックスの駅の場面では練り込まれたダイアログの勝利と力強い演出の勝利を目の当たりにさせられて、ちょっとないような感動を味わえる。


Tetsuya Sato

2013年2月16日土曜日

七年目の浮気

七年目の浮気
The Seven Year Itch
1955年 アメリカ 104分
監督:ビリー・ワイルダー

マンハッタン島に住むインディアンが妻子を避暑に送り出し、自分たちは土地に残って漁に狩りにと精を出していた頃から五百年後、マンハッタン島に住む男たちは妻子を避暑に送り出し、漁に狩りにと精を出すべきところを、解放感に浮かれてよからぬほうへと傾いていく。出版社に勤めるリチャード・シャーマン(三十八歳)もまた妻子を避暑に送り出し、入れ替わりに同じ建物の真上の部屋に金髪美女が出現したことを知って理性を失い、しかも小心で平凡で、音響効果付きシネスコサイズの想像力の持ち主であったために、いちいち怖い考えに耽るのである。
かなりの部分が主人公リチャード・シャーマンのモノローグによって埋められているが、モノローグと見えるものは、かなりカリカチュアされているものの、中年男の頭のなかをそのまま反芻したようなしろものである。単細胞な空想場面も同様で、だから自分自身が中年の坂を転げ落ちていく状態であらためて見直すと、おかしい、というよりも、まあそういうものだ、という感想が先に立つ。リチャード・シャーマンに扮したトム・イーウェルはモノローグとのずれを感じさせない点でリアルな中年男であろう。マリリン・モンローはとにかく美しくて魅力的。気の利いた台詞は山ほどあるし、出演者はいずれも達者だが、どちらかと言えばマリリン・モンローを見せるために作られたような気配があって、そのせいでテンションが持続しない部分もある。カメラの視線にまで妙な煩悩が混じるのである。


Tetsuya Sato

2013年2月15日金曜日

麗しのサブリナ

しのサブリナ
Sabrina
1954年 アメリカ 113分
監督:ビリー・ワイルダー

大富豪ララビー家の長男ライナスは巨大企業グループを率いる実業家で、その弟デヴィッドは間抜けな結婚で失敗を繰り返すプレイボーイであったが、ララビー家の運転手フェアチャイルドの娘は運転手の娘とも思えぬサブリナという名前を持ち、ララビー家の次男デヴィッドに恋心を抱いていた。そこでフェアチャイルド氏は「月に向かって手を差し伸べるな」と娘を諭し、料理修業のためにパリへ送るが、サブリナはパリでサン・フォンタネル男爵と知り合い、具体的な説明はまったくないものの、どうやら女修業を終えて「月のほうに手を伸ばしてもらう」ために帰国する。丁度このときデヴィッドはララビー家の一層の発展のためにライナスが仕掛けた政略結婚を控えていたが、見違えるほど美しくなったサブリナに夢中になってしまうので、ライナスは間抜けな事態を回避するために無理矢理デヴィッドを負傷させる。そして非情なたくらみを抱いてサブリナに近づいていくが、世に言うところのミイラ取りがミイラになり、という話である。
サブリナに扮したオードリー・ヘップバーンは特にその表情が魅力的。ハンフリー・ボガートは女っ気のない中年の実業家に扮して不思議なくらいにはまりまくり、ウィリアム・ホールデンは髪を金色に染めて現われ、言われみればプレイボーイに見えなくもない。ビリー・ワイルダーの危なげのないがっちりとした文体は鮮やかにサブリナの心象を描き出し、また語り口には無駄がなく、しばしばコミカルなダイアログはきわめてよく考慮されている。


Tetsuya Sato

2013年2月14日木曜日

第十七捕虜収容所

第十七捕虜収容所
Stalag 17
1953年 アメリカ 119分
監督:ビリー・ワイルダー

1944年のクリスマス前。ドイツ軍の第17捕虜収容所にはソ連軍の女性兵士を含む連合軍捕虜あわせて4万が収容されており、そのなかのとあるキャンプにはアメリカ軍の軍曹ばかりが630人もまとめられている。つまり軍曹ばかりというバラックがいくつかあって、ある晩、そのうちの一つから二人の軍曹が脱走し、収容所を囲む森の手前で射殺される。軍曹たちは密告者の存在を予感し、収容所の所長は懲罰として脱走のあったバラックからストーブを取り上げ、クリスマスには全員にクリスマスツリーを贈るという話を撤回する。それから間もなくアメリカ軍の中尉がなぜか軍曹ばかりのバラックに送られてくるが、その中尉は護送の途中でサボタージュをおこなってドイツ軍に被害を与えているらしい。それを仲間内の話として囁くと収容所当局の耳にも入り、中尉はすぐさま連行されてしまうので、いよいよ密告者がいるようだという話になってくる。そして真っ先に疑いの目を向けられるのがセフトンという名の軍曹で、収容所に送られてきた日に荷物と靴を盗まれたことを根に持っているのか、黙々と商売に精を出していて、煙草を貨幣として流通させ、競馬をしきり、密造酒を売り、望遠鏡を製造してソ連軍女性兵士を煙草一本二十秒で覗かせるほか、ストッキングでドイツ軍兵士を買収するというようなこともやっていた。そのうえ、セフトンはどうやら士官学校のドロップアウトで、放り込まれてくる中尉とは同郷で、おまえが任官できたのは母親が金を積んだからだとか、まだ大佐になれないのかとか、ねちねちとしつこくからむのである。軍曹たちはセフトンを密告者であると決めつけてリンチを加え、やがてセフトンは本物の密告者を嗅ぎ当てて報復をおこなう機会を狙う。
ウィリアム・ホールデン扮するセフトンが少々ダークな役を演じているが、全体的な雰囲気はシットコムに近い。登場人物はいずれも明確なキャラクターを備えて期待を裏切らない行動を繰り返すし、場面に生彩を与えるためにアイデアが惜しげもなく使われている。多分に造形的な作品であり、その範囲ではそもそもが映画であるという嘘を前提にしている。リアリティがないというのではなくて、それらしさを重要視していて、そして成功しているということである。
バラックのなかの汚れ具合にまず目を奪われる。リアリズムなのか、下士官の捕虜だからなのか、それとも男所帯だからという設定からなのか、あるいはその全部なのかはよくわからないが、ひどく汚れている(一説によると忠実に再現されているらしい。ちなみに赤十字の視察が来るときには掃除をする)。そういうところでアメリカ軍の軍曹たちが淡々を日々を送りながら、いちおうクリスマス・パーティの準備は進めていて、ソ連軍の女兵士があっちのほうでシラミを取るために裸になって並んでいると聞くと、その裸が見えないことは知っていてもセフトンの望遠鏡の前に長蛇の列を作るのである。スープを運ぶバケツは洗濯桶と共用だし、洗濯用の水にはスープを使っているような気配がある(察するに薄いのであろう)。軍曹の一人は心が壊れているし、ハリウッドの女優に心を奪われている軍曹もいるし、アメリカ本国のクレジット会社から督促状を何通も受け取る軍曹もいる。ドイツ軍軍曹とのいかがわしい馴れ合いぶり、ドイツ軍兵士の奇妙な間抜けぶり、所長のしゃちほこ張った野心家ぶり、などもきっちりと描き込まれていて緩みがない。さすがはワイルダーだと思うのである。



Tetsuya Sato

2013年2月13日水曜日

翼よ!あれが巴里の灯だ

翼よ!あれが巴里の灯だ
The Spirit of St. Louis
1957年 アメリカ 136分
監督:ビリー・ワイルダー

チャールズ・リンドバーグは大西洋無着陸横断飛行に旅立つ前夜からパリ到着まで。その合間にリンドバーグの郵便飛行機時代、どさ回り時代、空中サーカス時代、陸軍航空隊時代の回想が織り込まれ、さまざまなエピソードが紹介されていく。
ジェームズ・スチュワートは実用主義的な冒険家のリンドバーグを好演し、それぞれの回想シーンはよく作り込まれ、大西洋無着陸横断飛行の場面では実際にリンドバーグが経験したであろう孤独、睡魔、不安、恐怖などが巧みに練り込まれている。よくできた映画であると同時に優れた航空映画でもあり、"Spirit of St. Louis"については細部にわたる描写があって、離陸から着陸までがすばらしく魅力的に描かれているので、見終わった頃にはこの不格好な飛行機がなぜか好きになっていた。いろいろとすごい場面があるけれど、燃料切れの郵便飛行機からパラシュートで脱出すると、そのパラシュートに向かって無人となった飛行機が旋回しながら追ってくる場面はなかなか恐ろしかった。


Tetsuya Sato

2013年2月12日火曜日

情婦

情婦
Witness for The Prosecution
1957年 アメリカ 117分
監督:ビリー・ワイルダー

自称発明家のレナード・スティーブン・ヴォールは中産階級の未亡人エミリー・ジェーン・フレンチ殺害の容疑で逮捕される。状況証拠はすべてヴォールに不利であったが、法廷弁護士ウィンフレッド・ロバーツ卿は高齢と病身を押し、さらに看護婦と戦いながらヴォールの弁護を引き受ける。
見るからに善良そうな男ヴォールがタイロン・パワー、そのドイツ人の妻がマレーネ・ディートリッヒ、弁護士ロバーツがチャールズ・ロートン、ロートンにしつこくつきまとう猛烈な看護婦がエルザ・ランチェスターである。チャールズ・ロートンの老獪な弁護士ぶりがまず目を牽き、その弁護士とエルザ・ランチェスター扮するけたたましい看護婦とのやりあいがとても楽しい。クリスティの戯曲は読んだことがないのでオリジナルとの差分を得ることもできないが、ダイアログにしても場面の作り方にしても、かなりワイルダー的な要素が組み込まれているものと考えている。モノクル、葉巻、魔法瓶といった小道具もおそらく映画に固有のものであろう。ダイアログはよどみがなく、展開には瞬時の切れ目もなく、常になにかが起こっているか、あるいは起こりかけており、その緊張感はただごとではない。クライマックスの法廷シーンもしたがって否応もなく盛り上がる。




Tetsuya Sato

2013年2月11日月曜日

アウトロー(1976)

アウトロー
The Outlaw Josey Wales
1976年 アメリカ 132分
監督:クリント・イーストウッド

ミズーリの農夫ジョージー・ウェルズは家族を北軍の民兵に殺害されて銃を取り、南軍側の民兵に身を投じて南北戦争に参戦する。戦後はお尋ね者となってミズーリを逃れ、途中でチェロキーの酋長が仲間に加わり、シャイアンの娘、野良犬も仲間にしながらテキサスを目指し、テキサスに入るとカンザスからの移民の老婆とその孫娘ローラも加わって、やがて一行は寂れた町の彼方にある小さな農場に辿り着く。
冒頭、ジョージー・ウェルズが家族を失う場面の寡黙な描写でまず引き込まれ、タイトルロールの背後に流れる派手な戦闘場面には思わず心を奪われる。続く敗戦後の逃避行では追っ手をかわすシャープな場面の連続がすばらしく、そのあとはほどよくユーモアを取り込みながら要所要所でそれぞれに特異な状況のガンファイトを折り込んで、最後は義理と人情でほろりとさせるという具合でとにかく見どころの多い作品である。生真面目な作りが好ましく、ブルース・サーティースの撮影もまた美しい。クリント・イーストウッドは状況に呑み込まれたまま銃を取って元に戻れなくなった男を好演している。ジョン・ヴァーノン、サム・ボトムズ、ウィル・サンプソンなどの脇役も個性豊かで、特にチーフ・ダン・ジョージ扮する負け惜しみの多い酋長が記憶に残る。淡々としている割りには口数が多くて、しかも老いてなお盛んなのである。 






Tetsuya Sato

2013年2月10日日曜日

アウトロー(2012)

アウトロー
Jack Reacher
2012年 アメリカ 130分
監督:クリストファー・マッカリー

ピッツバーグで狙撃用のライフルを使った無差別殺人事件が起こり、警察は現場で発見した遺留品から犯人をつきとめて逮捕するが、黙秘する犯人はジャック・リーチャーを呼ぶように求め、事件を担当する刑事と地方検事がジャック・リーチャーなる人物を調べたところ、元陸軍将校で戦争の英雄で憲兵として犯罪捜査にも通暁していて、ただしすでに軍を退役して所在不明であることがわかり、そのような人物をどのように呼べばよいのかを思案しているとそこへ当のジャック・リーチャーが現われ、犯人の弁護士ヘレン・ロディンの要請を受けて事件を調べ始めると待ち構えていたようにいかにもありそうな陰謀が浮かび上がり、けっこうな面構えの悪党どもが顔を出す。
見ているうちにジョン・フリンのきわめてよくできた新作を眺めているような気分になってきた。人物造形やダイアログなどの雰囲気が70年代のB級ハードボイルド映画によく似ている。トム・クルーズ扮するジャック・リーチャーは昔だったらリー・マーヴィンかロバート・デュヴァルがやっていた役かもしれない(それを言うとロザムンド・パイクはカレン・ブラックあたり、ということになるのであろうか)。そう思うとこの配役は少々重さを欠くような気もするが、それはそれとしてトム・クルーズはこのキャラクターを非常にシャープで魅力的に演じているし、最終的に明らかにされる正義感としてふるまいを見るとトム・クルーズというキャラクターによって初めてバランスが取れているような気もしないでもない。冒頭の狙撃シーン、車載カメラとクレーンを駆使したカーチェイスシーン、クライマックスの採石場の戦闘シーンはちょっとないような見物になっている。特に終盤、助っ人して登場するロバート・デュヴァルが実にいい感じで、老年のスナイパーが敵の銃声に耳を傾けながら目を閉じている様子は尊いとしか言いようがない。陰謀の黒幕として登場する謎のロシア人がヘルツォークで、これがまた異様な迫力を出していた。目配りがよくて、リズムがよくて、これは映画好きが映画好きのために作り上げた好編である。 





Tetsuya Sato

2013年2月9日土曜日

サンセット大通り

サンセット大通り
Sunset Boulevard
1950年 アメリカ 110分
監督:ビリー・ワイルダー

若くて貧しい脚本家が借金取りに追われて車を走らせていると、いきなりタイヤがパンクするので路傍に見えたガレージに逃げ込む。ガレージには庭が続き、庭の奥には屋敷があり、そしてその屋敷には無声映画時代の恐ろしい亡霊が執事と一緒に住んでいて、うっかり足を踏み入れた若い脚本家は恐ろしい目に遭うのである。
着想の大胆さ(当時)には何回見てもぞっとさせられるが、何回見ても語り口の心地よさが抜群なので、とにかく見ているだけでうっとりとする。無駄な台詞、無駄な登場人物がまったくない。グロリア・スワンソンのテンションは相当なものだが、その脇でかたくなに佇んでいるエリッヒ・フォン・シュトロハイムが抜群にいい。



Tetsuya Sato

2013年2月8日金曜日

失われた週末

失われた週末
The Lost Weekend
1945年 アメリカ 101分
監督:ビリー・ワイルダー

酒浸りになって書けなくなった(あるいは書けなくなって酒浸りになった)作家が酒に浸って週末を過ごす話である(どうでもいいことだが、わたし自身の経験からすると、飲んで書いた文章はまず使えない)。当人はアル中だと自嘲的に告白するが、一晩にライウィスキー一本程度という軽いアル中で、ただ、飲み始めると時間を忘れて飲み続ける。だから約束は忘れるし、どうかすると約束をすっぽかすために酒を飲むし、三十三歳で一文無しで、支出はすべて兄に頼り、その兄から禁酒を言い渡されている関係で、飲み続けるために少々汚い真似をしなければならなくなっている。ということで出入りのお手伝いの給金をくすね、盗みを働こうとして叩き出され、とうとうタイプライターを質入れしなくてはならなくなると、ヨム・キプールの祭りのせいで非ユダヤの質屋までが店を閉めていて、絶望のあまり町をさまよい、顔見知りに金を無心し、つまらないことで失神して依存症患者の治療施設に叩き込まれる。で、最後は幻覚を見るようになるのである。
レイ・ミランドはこのアル中男を熱演し、じわじわと状況が進行する有様はほとんどホラー映画の乗りであった。酒に浸って居直るのではなく、ひたすら羞恥心にまみれているので、アル中男はただ恥じ入って事実上の怪物と化し、ホラー映画や怪奇系SF映画の場面でよくあるように、心配した恋人がやってくるとドアを閉ざし、それでも押し入ってくると「見るな」と叫ぶのである。こういう役なので、レイ・ミランドには似合っていた、ということになるのかもしれない。
ビリー・ワイルダーの演出も実にたくみに恐怖をあおり、そこへミクロス・ローザがミュージカル・ソウかなにかを使って本当にホラー映画のような音楽をつけている。乗り、というよりも、まるっきりのホラー映画なのかもしれない。実際、開巻間もなくレイ・ミランドが一杯のショットグラスを求めてバーを訪れ、バーテンが背を向けたところでグラスに口を近づけていく様子などは鏡が効果的に使われているせいもあってドラキュラ映画を見るようだったし、治療施設の夜の場面も、あっちで幻覚を見た男が狼男のように「うぎゃー」と叫べば、こっちでも誰かが「うぉう」と叫び、それが薄暗がりのなかで動く不気味な影として描き出され、そこらのホラー映画などは裸足で逃げ出すような迫力があった。結果としては、要求される文体にまったく差異がなかった、ということになるのであろう。


Tetsuya Sato

2013年2月7日木曜日

深夜の告白

深夜の告白
Double Indemnity
1944年 アメリカ 106分
監督:ビリー・ワイルダー

1938年のロサンゼルス。保険外交員ウォルター・ネフは石油会社の重役ディートリクスンの家へ自動車保険の更新のために訪れたところ、応対に現われたディートリクスンの妻フィリスに牽かれる。そのフィリスから夫に知られないように夫を死亡特約付き障害保険に加入させる可能性について打診され、ウォルター・ネフは悪巧みの気配を嗅ぎ取るものの、いわゆる金と女への欲望に抗しきれなくなって、自分から犯罪に関わっていく。
ジェームズ・M・ケインの原作小説をビリー・ワイルダーとレイモンド・チャンドラーが脚色している。あきらかに自分を色男だと考えているハードボイルドな保険外交員がフレッド・マクマレイ、心の腐った(と自分で言う)人妻がバーバラ・スタンウィック、事件の真相を探る保険調査員がエドワード・G・ロビンソンである。冒頭、フレッド・マクマレイはすでに撃たれた状態で登場し、無人のオフィスに入っていって、そこで親友の調査員へ向けてレコード盤に事件の真相を語り始める、という構成になっている。夫殺害の場面、アパートでのきわどい遭遇場面など、渋いサスペンス演出が随所に見られ、語り口によどみのないところはさすがだと感心するが、前に一回会っただけの保険外交員が二度目に会ったときにはすでになれなれしくなっていて、しかも、あんた俺に惚れてるだろモードを隠しもしないということになると、いかに時間を節約するためであるとしても、いささか疑問を抱かずにはいられないのである。つまり、ハードボイルドなモノローグというのは、語り手の現実認識について、第三者に多少の疑問を抱かせる種類のものなのであろう。





Tetsuya Sato

2013年2月6日水曜日

ニノチカ

ニノチカ
Ninotchka
1939年 アメリカ 110分
監督:エルンスト・ルビッチ

ロシアの通商部から三人の男がパリに派遣される。この三人は帝政ロシア時代にスワナ公妃が所有していた十四点の宝飾品を持参しており、ソビエト・ロシアの人民を翌年の飢餓から救うためにこれを売却しようとたくらんでいたが、当のスワナ公妃がそのたくらみを事前に知り、財産を取り戻すために男友達のレオン・ダルゴー伯爵を派遣する。ダルゴー伯爵は三人のロシア人の前に現われて公妃のために事態を複雑にしていくが、ソ連当局はその対策としてニーナ・イヴァノバ・ヤクショーバ同志に全権を与えてパリに送る。同志ヤクショーバは鉄の女であったが、ダルゴー伯爵はそのヤクショーバ同志にひとめぼれするので、これはこれで事態は複雑になっていく。
グレタ・ガルボが最高に美しい。笑わないグレタ・ガルボもきれいだけど、例の食堂の場面で笑い転げているグレタ・ガルボはもっと美しいと思うのである。映画自体はいたって幸せなコメディで、冒頭、三人のロシア人がホテルのロビーを出たり入ったりする場面からすでに笑える。この三人は映画の最後までつきあうことになるわけだけど、その誇りに満ちた気弱さとうかつさはいつもどこか笑えるのである。ダルゴー伯爵にたぶらかされてホテルでどんちゃん騒ぎをする場面など実にうまくできているし、同志ヤクショーバ、つまりニノチカを駅まで迎えに出かけていって、そこで無理もない勘違いする場面などは最高であった。いや、やっぱり区別はつかないのである。後半に登場するモスクワのメーデーの場面のいかがわしさもすばらしいし、それを見下ろすニノチカの部屋でのむさくるしい生活ぶりも立派なコメディになっている。で、気がつくとわたしはビリー・ワイルダー的な部分にもっぱら反応していて、しっとりとしたところにはあまり反応していないということになるわけだけど、それにしてもこれはいろいろと嫌みな薬味が効いていて、やはりヨーロッパの人間が作った映画だと思うのである。 





Tetsuya Sato

2013年2月5日火曜日

スカーフェイス

スカーフェイス
Scarface
1983年 アメリカ 170分
監督:ブライアン・デ・パルマ

1980年のフロリダ。キューバからやってきたトニー・モンタナは地元のギャング、フランクの子分となり、度胸を示してその片腕となるとボリビアの麻薬王ソーサとの商談を独断でまとめ、その結果をフランクからなじられると独立を決意し、フランクから攻撃を受けるとフランクを殺し、独自の組織を作り出して全米にコカインを供給するが、やがて脱税の罪で追い詰められ、それが発端でボリビアのソーサとの関係も悪化し、最愛の妹を奪ったという理由で兄弟分のマニー・リベラを殺し、ソーサの私設軍隊と戦って蜂の巣にされて死んでしまう。
1932年の『暗黒街の顔役』のプロットにオリヴァー・ストーンが大幅な肉付けをおこない、その結果、上映時間が倍になっている。もともとがかなり盛りだくさんの内容なので、そこにモダンな文脈で説明を加えていくと、3時間弱というのはやむを得ないのかもしれない。アル・パチーノは熱演しているが、この人物造形には疑問を感じる。自分の言葉に勝手に興奮して前後の見境のなくなるような人間が、いったいギャングのボスとなってボリビアの狡猾な地主(しかもイギリスで教育を受けている)と対等にやりあえるものであろうか。トニー・モンタナの成功は、トニー・モンタナの行動と今一つ結びつかないところが多いのである。チェーンソー、グレネードランチャーまで登場する暴力シーンのテンションは高いが、いくつかのサスペンス・シーン(たとえばクラブでのトニー襲撃)は冗長に感じた。空間や時間などの距離を説明するためにカメラは頻繁にパンしてまた戻ってくるが、これもいささか長く感じた。ただ肉付けしたから長くなった、というわけではなさそうである。





Tetsuya Sato

2013年2月4日月曜日

暗黒街の顔役

暗黒街の顔役
Scarface
1932年 アメリカ 93分
監督:ハワード・ホークス

禁酒法時代のアメリカ。古いタイプのボス、ロイが何者かによって殺害され、ロイの縄張りはジョニー・ロヴォが引き継ぐが、そのロヴォの片腕となって現われたトニーはジョニーの指示に従わずに強引に縄張りを広げ、やがてジョニーの裏切りにあってジョニーを殺し、最愛の妹を奪ったという理由で兄弟分のリナルドを殺し、リナルド殺しの罪で警察によって包囲され、トンプソンで蜂の巣にされて死んでしまう。
ギャング映画の起源に位置する作品である。ポール・ムニ扮する主人公トニーの悪党ぶりはスクリーン映えしているが、かなり粗削りなプロットをほとんど膨らませずに映像化したような気配があって、それが結果としてある種のスタイルを作り出している一方、どこか名場面集といった風情もつきまとう。登場人物の描写も場面によってばらつきがあり、時間的にも空間的にも広がりが感じられない(日めくりカレンダーを上から一枚ずつトンプソンの銃弾が跳ねのけて、それで時間の経過を説明するという思い切ったシーンには感心したが)。




Tetsuya Sato

2013年2月2日土曜日

ライフ・オブ・パイ/トラと漂流した227日

ライフ・オブ・パイ/トラと漂流した227日
Life of Pi
2012年 アメリカ/台湾 127分
監督:アン・リー

ボンディシェリで動物園を営む一家に生まれたパイ・パテルは母親からヒンドゥー教徒としての教育を受け、やがてキリスト教にも関心を抱き、さらにイスラム教にも関心を抱き、内的世界で異なる宗教の習合を進めながら青年期に達したころ、動物園を経営する父親が廃業してカナダに移住することを決め、察するに動物園の動物をアメリカまで運んで売りさばくためであろう、パイ・パテルは家族、動物園の動物一式ととも貨物船に乗り込み、そこで粗暴なコック、肉汁をライスにかける仏教徒の船員と出会い、マリアナ海溝周辺海域に達したところで激しい嵐に遭遇し、その嵐のなかで甲板に出たパイ・パテルは危険の予兆をつかんで家族のいる船室に戻ろうとするが、いまどきの船としては珍しいことに下部デッキはすでにたっぷりと浸水していて、船倉にいたはずの動物たちがなにをどうやったのか逃げ出しにかかり、家族から切り離されたパイ・パテルは甲板に戻っていくつかの偶然によって救命ボートの上に投げ出され、その救命ボートが船から放たれて波を滑り、波のあいだに船を見ると救いようもなく沈没していく最中で、嵐がどうにか静まってみると、ボートの上にはパイ・パテルのほかにシマウマ、オランウータン、ハイエナ、トラがいて、ハイエナがシマウマに襲いかかり、オランウータンがハイエナに反撃を加え、ハイエナがオランウータンを倒すとそれまで黙っていたベンガルトラがハイエナを倒し、残されたパイ・パテルはベンガルトラと一緒に太平洋を漂流することになる。
トラのリチャード・パーカー氏は非常にいい演技をしていたと思う。開巻に映し出される動物園の微妙にぺらぺらとした様子にいささかという以上の危惧を抱き、漂流が始まってからはラッセンの悪夢としか思えないような、ひどく薄っぺらな太平洋の波間を破って現われる微妙に薄っぺらなクジラを見て同様の危惧を抱いたが、ここに現われる漂流の様子は最終的に神秘主義へと傾斜していく語り手の内的宇宙で純化され、聖化された体験の再話であり、わざわざ3Dであるにもかかわらず奥行きをまったくともなわないのは、自己完結した神秘体験が厚みを意味するところの異端を阻むというメカニズムから成立していることが理解される。ここで聖性がまとう他者性の表現はなかなかに興味深い。いかにもアン・リー的な、ということになるのかもしれないが、表層のデザインに特化したスタイルが、おそらくは意図した結果であろうと推察しているが、素材が求める構造にきわめてよく適合する結果となり、映画をひとかど以上の作品に仕上げている。『トラと漂流した227日』という副題は観客に誤解を与えるだけであろう。


Tetsuya Sato

ジュリア

ジュリア
Julia
1977年 アメリカ 117分
監督:フレッド・ジンネマン

リリアン・ヘルマンの短編に基づく。劇作家リリアン・ヘルマンはダシール・ハメットと共同生活を送りながら新作を書き上げようと呻吟していたが、ハメットから環境を変えるようにと勧められてパリへ移り、そこで親友ジュリアが重傷を負ったという知らせを聞いてウィーンへ駆けつける。ジュリアは大胆さと繊細さと知性を備えた女性であり、リリアン・ヘルマンが劇作家を目指すよりも前に医学を目指してオックスフォードへ進み、さらにフロイトの門下となるべくウィーンに移り住んでいたが、そこで親ナチの学生運動を目撃し、激しい反発を感じていた。リリアン・ヘルマンはアメリカへ戻って『子供たちの時間』を書き上げて絶賛を浴びる。そしてモスクワ演劇祭への招待を受けて再びパリに到着したところ、ジュリアからの伝言を持った人物が現われ、その頼みを聞いて反ナチ活動家のための資金をベルリンまで運ぶ仕事を引き受けることになる。
リリアン・ヘルマンがジェーン・フォンダ、アメリカ人でありながらドイツで反ナチ運動にのめり込んでいくジュリアがヴァネッサ・レッドグレーヴ。聡明で有能なジュリアと対照的に頭の回転がやや悪く、怒りっぽくて融通の利かないリリアン・ヘルマンのキャラクターが面白い。
全体はリリアン・ヘルマンの回想形式で構成されていて、ジュリアとの思い出、作家活動、パリからベルリンまでのサスペンスの三軸がかなり複雑に絡み合う。釣り糸を垂れるリリアン・ヘルマンのシルエットに淡々としたナレーションが覆い被さり、油絵の下絵が時間とともに姿を現わす有様を説明しながら湖面の波紋がオーバーラップして夜の駅を滑り出す機関車へ、という冒頭の場面がなんともすごい。場面は説明のないまま再び現われた波紋に埋まって執筆中のリリアン・ヘルマンへと移っていく。回想に浸る現代から大戦前夜の不穏な中過去(ダグラス・スローカムの撮影によるその映像は圧倒的に不穏でまがまがしい)、そして無垢の状態の大過去へと滑らかに切り替えていくジンネマンの手つきが素晴らしい。冒頭以外でも病院、列車、ベルリン、とすごい場面が並んでいて、とりわけリズミカルなショットの積み重ね(回想から回想へ)、心象表現の巧みさには感心させられる。ストーリーだけを追っていけば女性同士の友情の映画だが、後半に入って悪夢とともに出現するジュリアの非実在性は、記憶は鮮明であると宣言する語り手の言葉が実は改訂された結果であることを示しているのかもしれない。
視点は終始、リリアン・ヘルマンに固着したままで、観客に与えられる情報は著しく制約され、実を言えばジュリアを含む人物関係もはっきりとしないが、これがこの映画で主人公に与えられた視野なのであろう。ドイツ系のジンネマンがアメリカ人の視野としてこうデザインしたのだとすれば興味深い。ジェーン・フォンダ、ヴァネッサ・レッドグレーヴは印象的な演技を残し、男優陣のジェイソン・ロバーズ、マクシミリアン・シェル、ハル・ホルブルックも魅力的である。特にダシール・ハメットを演じたジェイソン・ロバーズのかっこよさは破格であろう。





Tetsuya Sato

2013年2月1日金曜日

わが命つきるとも

わが命つきるとも
A Man for All Seasons
1966年 イギリス 120分
監督:フレッド・ジンネマン

ロバート・ボルトの舞台に基づく。ヘンリー八世の離婚問題で、カトリック教徒としての立場を固持してあくまでも反対し、反逆罪に問われて処刑されたトマス・モアの最後の季節を描いている。役者をよくそろえていて、ポース・スコフィールドのトマス・モアももちろんだけど、ロバート・ショーのヘンリー八世がいかにもという雰囲気を出していて実によろしい。ちなみに権力の臭いを嗅ぎつけてトマス・モアの周辺をうろちょろするのが若いジョン・ハート、ヘンリー八世の横にいてほとんど人形同然のアン・ブリンがヴァネッサ・レッドグレイブである。白眉はクライマックスの法廷場面になるが、これはもうなんとも言ってみようがない。演劇的に完成されたダイアログの最良の見本なのである。 



Tetsuya Sato