2012年12月31日月曜日

もうひとりのシェイクスピア

もうひとりのシェイクスピア
Anonymous
2011年 イギリス/ドイツ/アメリカ 129分
監督:ローランド・エメリッヒ

16世紀末のロンドンで女王の側近ウィリアム・セシルとその息子ロバート・セシルが芝居を弾圧しているとイングランド王位継承の問題でセシル父子と対立するオックスフォード伯エドワード・ド・ヴィアが書き溜めておいた芝居台本をベン・ジョンソンを通じて放出し、『ヘンリー五世』の公演がおおあたりして観客が作者を求めて声を上げると、匿名の作者に替わって俳優ウィリアム・シェイクスピアがいきなり名乗りを上げ、以降ベン・ジョンソンはオックスフォード伯の天才とシェイクスピアの盗人ぶりを間近に眺めて心を狂わせ、宮廷では王位継承問題をめぐってエセックス伯ロバート・デヴァルーとセシル父子が対立を深め、不本意ながらエセックス伯に与するオックスフォード伯は『リチャード三世』を使って群衆を扇動する。
『もうひとりのシェイクスピア』という邦題は意味不明。なぜ『アノニマス』のままでいけないのか。冒頭、デレク・ジャコビが現代の劇場に現われて前口上を述べ、それから舞台を越えてタイムスリップしていく様子はなかなかに楽しいが、この序盤から期待されるような構造的なまとまりはない。空間的に散らかっていくし、時間軸もばらけていく。つまり、おおむねにおいて大雑把な作りではあるものの、16世紀風俗のてんこもりは楽しいし、いかにもローランド・エメリッヒなスペクタクル描写、たとえば氷結したテムズ川で進行する女王の葬儀といった場面には思わず目を奪われたし、エドワード・ド・ヴィア シェイクスピア説に大幅な肉づけをおこなったジョン・オーロフの脚本はよくまとまっている。リス・エヴァンスのオックスフォード伯は風格があり、ヴァネッサ・レッドグレーヴはいくぶんカリカチュアされたエリザベス一世を楽しそうに演じている。そしてデヴィッド・シューリスのウィリアム・セシルがばつぐんにいい。ということで映画的にはまずまずというとこではあるが、楽しめるところがたくさんある作品に仕上がっている。「君に文体なんかない」とエドワード・ド・ヴィアに言われるベン・ジョンソンがかわいぞう。 


Tetsuya Sato

シカゴ

シカゴ
Chicago
2002年 アメリカ/カナダ 113分
監督:ロブ・マーシャル

1920年代のシカゴ、踊り子ヴェルマ・ケリー(キャサリン・ゼタ=ジョーンズ)が夫と妹を射殺したその晩、うだつの上がらないもう一人の踊り子ロキシー・ハート(レニー・ゼルウィガー)はクラブのスターになる日を夢見ていたが、浮気相手の男が口にしていたマネージャーへのコネはまったくの嘘で、男は女としたかっただけであったので、一ヶ月も経ってから事実を知ったロキシー・ハートは未来を見失ってこのセールスマンを撃ち殺してハリソン検事補に絞首台を約束されるが、ぶちこまれた先の刑務所で女看守長からやり手弁護士ビリー・フリン(リチャード・ギア)の名を聞くと、亭主にない金をはたかせて必死の思いで雇い入れ、雇われたビリー・フリンは勝訴のためなら手段を選ばないロクデナシの守銭奴ではあったが仕事はいちおうちゃんとやる、というところで収まらないのは先にビリー・フリンを雇っていながら公判日程でロキシー・ハートに先を越されたヴェルマ・ケリーで、それまでは自分の事件が新聞をにぎわせていたものが、ロキシー・ハートの事件が起こってからは次第に隅の方へと追いやられ、玩具店にロキシーちゃん人形が出回る頃には紙面の上にわずか7語というところまで落ちぶれていて、そこへ新たな殺人が起こって夫と夫の情婦二人のあわせて三人をいっぺんに射殺した富豪令嬢が逮捕されるとビリー・フリンもそちらの方へと傾いていって、今度はロキシー・ハートの公判日程が怪しくなる。で、というような無体なまでに殺伐とした展開で、つまり有名になりたい女たちのサクセス・ストーリーなのである。
面白い映画だけど、どちらかと言うとボブ・フォッシーによるもともとのミュージカルがよく出来ていたのではないだろうか。映画の功績はそれを慎重にスクリーンに移し変えたことと、出演者を魅力的に動かすことに成功していることであろう。キャサリン・ゼタ=ジョーンズはどちらかと言うと苦手な女優だが、今までに見た中では最高に素晴らしかったと思う。歌も踊りも迫力があった。レニー・ゼルウィガーは相変わらず重そうな感じではあるものの、がんばっている。リチャード・ギアは少々歳を取り過ぎではないか、という気がしたが、踊りもタップも立派であった。





Tetsuya Sato

2012年12月30日日曜日

レ・ミゼラブル

レ・ミゼラブル
Les Misérables
1998年 イギリス 120分
監督:トム・フーパー

艤装を残したまま15度以上傾いている木造帆船(戦列艦?)を乾ドックに入れるのにドックの水を張らないで船体の下にころも入れずにただ人数を頼みにロープで引っ張る、という冒頭は採石場の代替イメージであるとしても、そのようなことをしたら竜骨が半永久的なダメージを受けるのではないか、とちょっと心配になったものの、ミュージカルの映画化作品としてはおそらく破格の仕上がりであり、歌うという行為を映画的なパースの中に確実に定着させている。そのために採用されたクローズアップの多用は視覚的な迫力をもたらしただけではなく、俳優の演技を間近に観察できるという楽しみを与えることに成功した。ジャン・ヴァルジャン役のヒュー・ジャックマンは宿命的な人物を演じるにはややモダンすぎるような気がしたが、ジャヴェール役のラッセル・クロウは不寛容の権化として現われて相当に見ごたえのある演技を残している。ファンテーヌ役のアン・ハサウェイの演技力、歌唱力には正直なところ驚かされた。主要登場人物を囲む若いキャストもみないい仕事をしていて、特にエボニーヌとガヴローシュは記憶に残る。終盤、共和主義者がバリケードの上に立って歌う場面はなんだか七月王政版のヴァルハラみたいで少々やり過ぎではないかという気もしないでもないが、どちらかと言えば直情型の素材を非常にうまく処理している、ということでこれは立派な映画なのだと思う。




Tetsuya Sato

2012年12月29日土曜日

スピーシー・オブ・コブラ

スピーシー・オブ・コブラ
Hisss
2010年 インド/アメリカ 93分
監督:ジェニファー・チェンバース・リンチ

脳腫瘍におかされて余命数か月のジョージ・ステイツは蛇神ナギンから不老不死の石ナグマニを手に入れるためにインドの山奥を訪れ、交尾中のコブラを発見すると案内人の制止を振り切り、案内人をナイフで脅してオスのほうのコブラを捕獲して持ち帰り、するとジョージ・ステイツの思惑どおり、メスのほうのコブラは蛇神ナギンとなって女の姿に変身し、ホーリー祭の最中の町へ下りていって、そこで蛇使いの笛の音色にあわせて身をくねらせたり、それを見て淫欲にかられた男どもを殺したり、街灯でポールダンスのようなことをしたり、DV男を殺害したり、水浴びをしたりしながらオスのコブラを探してジョージ・ステイツの隠れ家に近づいていく。
監督がジェニファー・リンチなので、もしかしたらなにかしら前衛的な意図があるのかもしれないし、事件を捜査していく刑事(イルファン・カーン)の周辺なども義母の様子がおかしいなどと妙に謎めいていたりするものの、ふつうに正面から見ている限りでは散漫でひとりよがりが目立つへたくそな映画であり、それ以上でもそれ以下でもない。蛇女のVFXはそれなりに高い水準にある。 





Tetsuya Sato

2012年12月28日金曜日

プテラノドン

プテラノドン
Pterodactyl
2005年 アメリカ 92分
監督:マーク・L・レスター

トルコ、アルメニア国境地帯に調査におもむいた間抜けな古生物学者の一行と、そこを根城にしている間抜けなテロリストの集団、そのテロリストを掃討中の間抜けな米軍特殊部隊が突如として蘇ったプテラノドンの群れに遭遇する。どう蘇ったのかさっぱりわからないが、どこかの穴から翼竜の卵が「おむすびころりんすっとんとん」といったあんばいで転がり出て、次の瞬間には卵が割れて、なかから手踊りの翼竜が首を出すのである。なお原題は「プテロダクティルス」で劇中でも翼竜を指差してプテロダクティルスと叫んでいたが、今回は邦題のほうが正しくて、あれはプテラノドンであろう。そのプテラノドンが人間をさらってひなのエサにしたりするので、テロリストや特殊部隊がやたらと撃ちまくるわけだけど、このプテラノドンはいったい何でできているのか、ロケット弾の直撃でも食らわないと滅多なことでは死んでくれない。
激闘の末に間抜けなテロリストは全滅、間抜けな特殊部隊も全滅し、これで研究成果を持ち帰れなければ俺はクビだと嘆いていた間抜けな古生物学者が恋仲の大学院生と生還を果たすが、一緒に連れてきた間抜けな学部生が全滅しているわけだから、あんた、やっぱりクビだろうね。マーク・L・レスターとも思えない気の抜けた演出とくだらない脚本はかなり壮絶。





Tetsuya Sato

2012年12月27日木曜日

グラバーズ

グラバーズ
Grabbers
2012年 イギリス/アイルランド 94分
監督:ジョン・ライト

北アイルランドの海に浮かぶいかにも妖精じみた小さな島の沖合に宇宙から飛来した怪物体が落下し、その光を見た漁船が近づいていくと乗組員はひとりまたひとりと海に引きずり込まれ、翌朝、島の海岸には切り裂かれたゴンドウクジラの死体が山ほどもあがり、ロブスターの罠には未知の怪生物がひっかかり、これはなんだといぶかっているうちに今度は島で住民がひとりまたひとりと消え、島の警官と島の海洋環境学者が調べていくと怪生物の存在があきらかになり、しかもその怪生物は凶暴で血を吸う習性を持ち、ただし血を吸われた人間の血中アルコール濃度が0.2パーセントに達していると血を吸った怪物のほうが引っくり返るということもわかるので、だったら飲んだくれていればいいというようなことになり、島中の人間を島でたった一軒のパブに集めて飲めや歌えの大騒ぎをしていると問題の怪物が大小取り混ぜ、嵐のなかを大挙して押し寄せてくるので飲んだくれて呂律がまわらない上に集中力もあやしい人びとが立ち向かう、という、たぶんアイルランド人しか思いつかないような種類の「怪獣映画」で、緊迫した場面に展開する酩酊したカメラワークがなかなかにすごい。
モンスター映画における演出の基本はしっかりと押さえ、警官、科学者ほか島の住民のキャラクターは酔っぱらっても大丈夫なようにしっかりと立たせ、プロットはひたすらにシンプルにしておもにキャラクターとダイアログで持たせるところに自信のほどがうかがえる。怪物の造形、挙動などもけっこうな仕上がりで、これは大満足。 





Tetsuya Sato

2012年12月26日水曜日

地獄の変異

地獄の変異
The Cave
2005年 アメリカ・ドイツ 97分
監督:ブルース・ハント

カルパチア山中に巨大な洞窟が発見され、洞窟ダイバーを中心とする探検隊が送り込まれるが、爆発事故によって入り口をふさがれ、出口を求めてさまよっていると地底世界に適応した怪物に襲われる。
けったいな邦題がくっついているけど、邦題から予想されるようなC級ではなく、それなりの予算をかけて真面目に作られた映画である。実際のかなり大きな洞窟や地底湖でロケがおこなわれており、その映像だけでも見ごたえがあるし、登場人物も専門家ばかりで余計な悶着はあまりない。『ディセント』のような素人のパーティでも『スタッグ』のようなおばかの集団でもないのである。わたしの場合、行動する場合でも手順がしっかり決まっていて、行動に先立ってチェックリストを確認する、というだけでなんとなく評価が高くなる、という傾向があるけれど、それをそれらしく見せるだけでもそれは技術だと思うのである。ただし演出はやや平板で盛り上がりに乏しく、モンスターの造形は不気味さで『ディセント』の勝ち。




Tetsuya Sato

2012年12月25日火曜日

グエムル 漢江の怪物

グエムル 漢江の怪物
Gwoemul
2006年 韓国 120分
監督:ポン・ジュノ

アメリカ軍基地から廃棄された薬剤が漢江に流れ込み、それから数年後、市民でにぎわう河川敷に怪物が現われて虐殺を働き、さらに売店を営む一家から長男の娘をさらう。怪物はウィルスに汚染されていたという理由で一家を含む目撃者は感染を疑われて隔離されるが、一家は結束して脱出を果たし、地図と武器を手に入れて長男の娘の救出に行く。
怪物の問題は間もなくウィルスの問題に横滑りし、対処にあたる権力機関もまたこの横滑りに振り回され、つまり権力機関もまた横滑りするので、怪物とまじめに戦おうとするのは非力な主人公一家だけである。父親、長男、次男、長女、孫娘はそれぞれにキャラクターがよく造形され、非力な上に間抜けなせいで余計な手間がかかる部分もふがいなく横滑りしていく背景にうまく結合させて消化している。随所に盛り込まれたコミック演出の呼吸がいいし、冒頭、日常の風景のなかに怪物が出現し、いきなり恐慌状態が出現する描写は冴えている。作家性は明確であり、映画としての質も高い。そして怪物の造形も悪くないし、CGもそれなりにきれいにできているし、よく動いていると思う(重さの表現にやや疑問を感じたが)。手間のかかった立派な作品である。ただ、いわゆるモンスター映画ではない、というより、そもそもそういう映画では全然ないので、生理的な部分で古典的な図式を求めると『真昼の決闘』を見たジョン・ウェインのようなことをつい言いたくなる、というのがたぶんこちらの問題であろう。




Tetsuya Sato

2012年12月24日月曜日

カニング・キラー 殺戮の沼

カニング・キラー 殺戮の沼
Primeval
2007年 アメリカ 94分
監督:マイケル・ケイトルマン

内戦下のブルンジで巨大なワニがひとを食べて暴れていて、爬虫類学者がそれを生け捕りにするというのでCNNならぬNNCが独占取材をくわだて、三人のクルーを現地に派遣する。政府軍の兵士に守られてフツ族系民兵の交戦しながらルシジ川を北上し、こういう果てた場所によく出現するユルゲン・プロフノウをガイドに雇い、現地に到着して問題のワニに遭遇するとこれがたいそうな大物で、捕獲用の檻は獲物に壊されてしまうし、近所ではフツ族系民兵が村人の虐殺を続けているし、ということで捕獲をあきらめて脱出にかかるとフツ族系民兵が襲ってきて、銃弾は飛んでくるわ、ロケット弾は飛んでくるわ、という具合なので、ほんとに恐ろしい思いをした、というような話である。
で、ワニが巨大化して人間を襲うようになったのも、実は内戦と虐殺と関係していて、大量の死体が川に流されたからだ、という説明がついている。つまりこれは「ルワンダもの」の変化球で、獰猛な人食いワニもまた人間の行為の犠牲者だったのである。で、そういうジャーナリスティックな御託を思い出したように並べていると、やっぱりワニが出てきて大暴れをして、くぼみにはまり込んだレンジローバーの運転席で例によって、動けえ、などと叫んでいるうちにワニにオカマを掘られたりしているので、つまり「ルワンダもの」は言い訳なのであろう、とこちらは考えることになる。しなくてもいいような言い訳をしながら作った映画なので、どっちつかずの内容になり、どっちつかずだからなのか、もともとなのかはわからないが、妙に気取った語り口も不器用で、思いついたように右や左へ振れまくる。というわけであまり感心しなかったが、「ルワンダもの」としてはとにかく、「巨大ワニもの」としては破格の予算が投入されており(ワニがゴム製のおもちゃだったことがあるからね)、ワニのCGもよく出来ている。





Tetsuya Sato

2012年12月23日日曜日

コモド・リターンズ

コモド・リターンズ
The Curse of The Komodo
2003年 アメリカ 92分
監督:ジェイ・アンドリュース

海軍のとある高級将校がその昔、恐竜が出てくる映画を見て、これは殺人兵器に使えると思ったのだそうである。そういう間抜けな話でも時間をかけて吹いてまわると予算がつくのか、ホノルルから500キロほど離れた島で実験が始まって、さすがに恐竜を使うことはあきらめて、かわりに巨大なコモドオオトカゲを作って腹を空かせたままにしておくというようなことをしていると、例によってどこかで失敗があって島に送り込まれた間抜けな特殊部隊があっという間に踏みつぶされてしまう。怒った高級将校が実験に携わった博士を呼び、島へ行って証拠を消してこいと命令すると博士とその助手は自分たちは騙された、食料増産計画に協力しただけのつもりだった、などと世にもしらじらしい抗議をし、その博士の娘というのはまるっきりのアホウであったが、博士の娘を演じている女優がそうだから、ということではなくて、どちらかと言えば作り手がそう決めているからであって、そういうわけでもっぱらトップレスを披露することを目的に登場するこの博士の娘は島にある博士の屋敷で二人の男と暮らしていて、その屋敷というのは電気を流した柵で囲われていてコモドオオトカゲが入ってこれないようにしてあるものの、柵に電力を供給している発電機というのが縁日の屋台で使われているような代物なのでいつ止まっても不思議ではないし、しかもジープのエンジンも調子が悪い。というような島に博士とその助手が到着した頃、ホノルルのカジノでは強盗殺人事件が発生し、現場から逃走した三人の男女がヘリコプターに乗り込んでオアフ島から脱出し、そうすると折からの嵐に巻き込まれて問題の島に不時着する。
つまりまったく無用のプロットがいくつも用意されているわけで、これは出来の悪い脚本の見本のようであるなあ、などと感心していると、そこへたいそう出来の悪いコモドオオトカゲがよたよたと現われてこの連中に襲いかかるのである。1999年の、いちおう真面目に作られていた『コモド』とはおそらくなんの関係もない。




Tetsuya Sato

2012年12月22日土曜日

コモド

コモド
Komodo
1999年 アメリカ 89分
監督:マイケル・ランティエリ

ノース・カロライナのとある島にコモドオオトカゲが大量発生し、その島で油田の試掘をしていた石油会社は絶滅危惧動物の存在を保護団体に知られるのを恐れて密かにオオトカゲの殲滅を図る。そこへオオトカゲに両親を殺された少年が精神的な問題を克服するために精神科医に連れられて島にやってくる。
この二本立ての展開がまだるっこしい。どちらかへまとめられなかったのだろうか。少年が問題克服のために野性化して勝手にオオトカゲと戦い始めるのも決して悪くはないのだが、好みとしては会社の都合に絞り込んでほしかったところだ。肝心のコモドオオトカゲについて言えば、CGはティペット・スタジオだけあってさすがの仕上がりであり、メカニカルの方も手抜きがない。問題があったのは脚本である。基本設定は『U.M.A/レイク・プラシッド』とほぼ同じことになるが、あちらがそれをコメディとして扱うだけの居直りを見せているのに対して、こちらはまだ何か余計なことを考えているようにも見える。演出にはそれなりの迫力があったと思うので、ちょっと残念。 



Tetsuya Sato

2012年12月21日金曜日

U.M.A/レイク・プラシッド

U.M.A/レイク・プラシッド
Lake Placid
1999年 アメリカ 82分
監督:スティーブ・マイナー

邦題の頭についている"U.M.A"は真っ赤な嘘である。未知動物などは一切出現しない。
アメリカ東部、メイン州の人気のない静かな湖でまず冒頭、いきなりダイバーが下半身を何かに食われる。目撃するのは不純異性交友中の十代男女ではなく保安官なので、その後の展開はすこぶる速い。ビル・プルマン扮する狩猟監督官がすぐに現われて現場の指揮を取り、続いてブリジット・フォンダ扮する生物学者が到着し、さらには直ちに生物の正体を言い当てる謎の金持ちオリバー・プラットがやってくる。早い段階で登場人物を絞り込み、人物造形と人間関係をきっちとしたダイアログで見せることでうまい具合に話をつないでいく。そして一貫しているのは主要登場人物の極めて現代的な弱腰である。この映画には予想していたような大格闘や血まみれの大殺戮は登場しない。いささか騒々しくはあるものの、手順を心得た仕事熱心な連中が真面目に捕獲作業をこなしていく話なのである。最後に生物が間近に出現し、さらに生殺与奪の権利が人間の側に与えられた時、この連中はどう決断を下したのか。これもまた環境の一部であると考えたのである。いったいここでは何が起きたのか。
総体としてはいわゆるB級モンスター映画のプロットが使用されており、主要なカメラ・ワークもそれに準じていると考えていいだろう。演出もそうだと言えばそうだし、結末も基本的にはB級映画の定式をなぞっている。しかし肝心の生物は主人公たちが接触した段階ですでに怪物としての自然な状態にいることをやめており、また主人公たちもモンスター映画のヒーロー、ヒロインとしての具体的なモチベーションを与えられていない。現代にあって人間が狂信を捨て、あるいは別種の狂信に乗り換えて無条件の敵対関係を求めようとしなくなった時、怪物映画もまた一歩進んだのである。前に向かって進んだのか、それとも後ろに向かって進んだのか、そこのところは判然としないが、ここでは骨格だけを残して人物から怪物からすべてを総入れ替えして、考えさせる内容を変えることで終着点を変更している。ポスト・モダンという言い方はあまりしたくないのだが、スプラッター映画で進行していたものがこの方面にもやってきていると考えてもいいのではないだろうか。物語は進化するのではなく、角度を変えて我々の前に出現するのである。





Tetsuya Sato

2012年12月20日木曜日

未確認生命体 ザ・フロッグ

未確認生命体 ザ・フロッグ
There's Nothing Out There
1991年 アメリカ 91分
監督:ロルフェ・カネフスキー

高校生のグループが森と池に囲まれた別荘へ遊びにいくと、例によって怪物が出現して襲ってくる。緑色のおたまじゃくしに手がはえたような怪物で、しかも目からは催眠光線を放ったりする。自主制作映画なのであろう。16ミリのブローアップで、画質が悪い。もちろんサム・ライミのような先例もあるのでそれだけを理由にばかにしてはいけないわけだし、グループの中にホラー映画オタクを一人放り込んで先読みをさせるという、時代の流れの先をいく工夫をすでにしていたことは注目に値すると思う。でも、とてもへたくそで野暮ったいのである。まず冒頭のビデオ店のシーンが長すぎるし、そのビデオ店があまりにもひなびて、しかも暑苦しいのでわたしはアメリカ映画ではなくババリアかどこかの独立プロの作品を借りてきたのかと勘違いしてしまった。その後もすごかった。学校が休みに入って高校生が校舎の出口から飛び出してくると、カットが替わってフリスビーがあっちとこっちから飛んできて空中ですれ違って、それを一回じゃなくて二回も三回もするというのは、なんだろうね。だいたいその調子。

未確認生命体 ザ・フロッグ【字幕版】 [VHS]
Tetsuya Sato

2012年12月19日水曜日

ロード・オブ・ザ・リング:王の帰還

ロード・オブ・ザ・リング:王の帰還
The Lord of the Rings: The Return of The King
2003年 ニュージーランド・アメリカ 201分
監督:ピーター・ジャクスン

「二つの塔」に続く第三部。ローハンが危機を脱する一方、サウロンの新たな軍勢はゴンドールに迫り、ガンダルフはピピンとともに報せを携えてゴンドールの都ミナス・ティリス(この都市の映像は楽しい)へと馬を走らせる。だがゴンドールの執政デネソールは長男ボロミアの死を知ってすでに立ち往生を決め込んでおり、困ったガンダルフはローハンに援軍を求め、ローハン王セオデンは行き掛かりを捨てて軍勢を集め、ゴンドールを目指して進軍を始める。そしてサウロンの絵に描いたようなン万の大軍がオークやトロルその他諸々を取り混ぜて、投石器や攻城塔も並べて平原を埋め、ミナス・ティリスに攻め込んでいく。戦端が開かれ、阿鼻叫喚の描写がおこなわれ、フロドはゴラムを案内に従僕の鏡サムを連れ、指輪と使命の重みに苦しみながらモルドールを目指して進んでいく。
三部作の完結編であり、ピーター・ジャクスンは第一部、第二部で播いた種を間違いなく収穫して途方もないクライマックスを作り上げている。つまり、好みの問題はともかくとして、映画が生み出した視覚情報としてのこのスケールは空前絶後と言うべきであろう。しかも話は終局に向かって動いていくだけなので結末の遅延を意図した不可解な拡散が押さえ込まれて、だから上映時間では第一部や第二部よりも長いのに、それほど長さを感じさせない(でも登場人物はやっぱりインフレ気味だが)。というわけで、三部作中ではいちばん気に入ったような次第である。 





Tetsuya Sato

2012年12月18日火曜日

ロード・オブ・ザ・リング:二つの塔

ロード・オブ・ザ・リング:二つの塔
The Lord of the Rings: The Two Towers
2002年 ニュージーランド・アメリカ・ドイツ 179分
監督:ピーター・ジャクスン

「旅の仲間」に続く第二部。サルマンの軍勢がローハンへ攻め込み、ファラミア率いるゴンドールのコマンドがモルドールの兵に攻撃を加えればサウロンの軍はゴンドールを侵すという具合で戦闘シーンが数多く登場し、クライマックスは要塞での攻防戦で、ン万のオークが攻め寄せてくるのを英雄たちが文字通りばったばったとやっつける。
これが「イリアス」ならよかったのに、と思いながら見ていました。相変わらず風景は美しいし、作り出された様々なイメージも見事な仕上がりで、とにかく丁寧な仕事ぶりには感心するし、これでこの世界が好きだったら本当に文句はなかったと思うのだけど、残念ながらやっぱりちょっと難しそう。こういう妥協のない世界にはどうしても反発を感じてしまうのである。 




Tetsuya Sato

2012年12月17日月曜日

ロード・オブ・ザ・リング

ロード・オブ・ザ・リング
The Lord of the Rings:  The Fellowship of the Ring
2001年 ニュージーランド・アメリカ 178分
監督:ピーター・ジャクスン

「指輪物語」第一部「旅の仲間」の映画化。過去におこなわれたかなり寂しい試み(たとえばラルフ・バクシの)に比べると、力の入り方は桁違いである。映像には厚みがあるし、風景は幻想的で美しいし(ニュージーランドのロケ効果は抜群である)、キャスティングも実に凝ったものとなっていた(とりわけイアン・マッケランのガンダルフには生臭いほどの存在感があった)。あの長大な小説の映像化というきわめて制約の多い作業の成果として見た場合、きわめて忠実にその視覚面を補足しているという理由から、このピーター・ジャクスン版は正統の位置にあると考えてよいだろう。そして同じ理由から、つまり「指輪物語」というプロジェクトからの逸脱をまったく意図していないために、この映画は物語という再現行為のそのまた再現に終始し、映画として単独で存在することを放棄しているように見えなくもない。映像が原作に対してあまりにも忠節を尽しているので、今一つ映画に見えてこないのである。 





Tetsuya Sato

2012年12月16日日曜日

ホビット 思いがけない冒険

ホビット 思いがけない冒険
The Hobbit: An Unexpected Journey
2012年 アメリカ/ニュージーランド 170分
監督:ピーター・ジャクスン

ドラゴンのスマウグがはなれ山に現われてドワーフの王国を襲い、それ以来ドワーフは流浪の民となるが、祖国の奪還をもくろむ13人がガンダルフの助けを得てビルボ・バギンズの家に集まり、ビルボ・バギンズもまたガンダルフから「忍びの者」として仲間に加わるように誘われ、一度は断るもののドワーフたちの歌声を聞いてその気になり、ガンダルフに13人のドワーフ、ビルボ・バギンズを加えた旅の仲間が中つ国を進んでいくとドワーフのリーダー、トーリン・オーケンシールドに恨みを抱くオークに襲われ、オークから逃れながらガンダルフに誘導されて裂け谷に着き、そこでエルフのエルロンド卿の歓迎を受け、エルロンド卿の知恵によってはなれ山に近づくための手がかりを得るが、一行のもくろみはそこに現われたサルマンの反対にあい、旅の仲間はガンダルフが時間を稼いでいるあいだにエルフの里を抜け出して山を越え、野営をしているうちにゴブリンに捕まり、仲間からはぐれたビルボ・バギンズは地底のそこでゴラムと出会い、ゴラムが落とした指輪をポケットに入れ、ゴブリンに捕えられたドワーフたちがガンダルフの助けで脱出する一方、ビルボ・バギンズは指輪の力で姿を隠してゴラムから逃れ、旅の仲間が集まったところへオークの群れが襲いかかる。 
映画的な意味での時間的、空間的構成はほぼ完全に排除され、はっきり言ってめりもはりもないところで淡々と物語だけが進行していく、という作り方は『ロード・オブ・ザ・リング』よりも徹底していて、察するにトールキンが好きな人々にとってはこれ以上はないくらいの体験になっているのではないかと推察するが、トールキンが退屈な人間にとってはトールキンと同様に退屈である。加えて決定的に決裂している善悪というのはどうにも見ていて相性が悪くて、終盤ゴブリンがばったばったと切り倒されたりワーグの群れがワシの群れに放り出されたり、という場面を見ていると、そろそろ和解したらどうか、という気持ちになる。物語的な紆余曲折とも相性が悪いので、ビルボ・バギンズがゴラムに剣を突きつける場面では、あとで面倒になる前にやっちまえ、というようなことを考えている。美術面は例によって水準が高いし、お金のかかった絵は見ごたえがある。24fpsのハイ・フレーム・レートはきわめてクリアな映像を出現させているが、妙に正直すぎるせいか、テレビ映画のように見えなくもない。 

Tetsuya Sato

2012年12月15日土曜日

カットスロート・アイランド

カットスロート・アイランド
Cutthroat Island
1995年 アメリカ 122分
監督:レニー・ハーリン

17世紀後半のカリブ海。モデカイ、ドーグ、ハリーの海賊三兄弟はスペイン人から奪った金塊をカットスロート・アイランドに隠し、島の地図を3つに分けてそれぞれで保存していたが、お宝の独り占めを企んだドーグはまずハリーを捕らえ、宝の地図を奪おうとする。だがハリーは辛くも逃れ、一人娘モーガン・アダムズに地図を託す。だがその地図はラテン語で記されていた。そこでモーガンはラテン語がわかる人間を探すためにジャマイカに潜入し、医師を名乗る男を奴隷に買い取ってドーグとの戦いを開始する。
海賊モーガンがジーナ・デイヴィス、怪しい医者がマシュー・モディン、凶悪な海賊ドーグがフランク・ランジェラである。復元された2隻の帆船、ポート・ロイヤルのセットなど、豪華な映画には違いないが、レニー・ハーリンの演出は例によって暴力的なだけでリズム感に乏しい。それにジーナ・デイヴィスに魅力がない。これでは殴られ損であろう。ほかの監督がほかのキャストで荒削りなところをきちんと均して丁寧に作っていたらもっとましな映画になっていたかもしれないと思う。プロダクションというのは不思議なもので、元締めのところで荒っぽいとなぜかジム・ヘンソンの仕事(桶の中のウツボね)までが荒っぽくなるのである。 




Tetsuya Sato

2012年12月14日金曜日

ポランスキーのパイレーツ

パイレーツ
Pirates
1986年 フランス/チュニジア 166分
監督:ロマン・ポランスキー

16世紀か17世紀初頭のカリブ海、悪名高い海賊バーソロミュー・レッド船長は諸般の事情で船を失い、どうやら何かを勘違いをしているフランス人の子分とともに筏で洋上を漂っていたが、すでに食料は尽き、水は尽き、筏のそばにはサメが現われ、空腹に負けたレッド船長は腹を満たさんものとしてついに子分に襲いかかり、子分は逃れようとして筏のマストをよじ登り、レッド船長は逃れるところを阻もうと剣でマストを倒しにかかり、そこへスペイン船ネプチューン号が姿を現わすので助けを求めて近づいた二人はすぐさま捕らわれの身となって営倉にぶちこまれるが、船のコックから事実を知らされて営倉の壁に開いた穴から隣室を覗くと、そこには黄金色に輝くカパテク・アヌアクの玉座が神々しく鎮座していて、法感覚に乏しいレッド船長はこれこそ自分の所有物であるとただちに確信し、この黄金の玉座を手に入れるためにあの手この手の画策を開始するのであった、というような話で、ウォルター・マッソー扮する凶暴無比なレッド船長が手段を選ばずに無類の活躍をする。
スペイン人の冷酷ぶり、海賊の極悪非道ぶりが絵に描いたようで、そこはなかなかに楽しめるものの、パッケージどおりにコメディだと思って見始めると肩透かしを食う可能性がある。ポランスキーが考えている笑いというのは、どちらかと言うと人間が無様さを発揮する場面にあるようで、それはそれで理解はできるものの、ストレートに映像化されてしまった場合、結果としてはあまりにも文学的になりすぎて、そのせいで笑えないということになるのである。一方、そのつもりで見るならば当然ひとかど以上の映画になっているし、復元されたガレオン船だけでも見応えがある。 



Tetsuya Sato

2012年12月13日木曜日

エリック・ザ・バイキング

エリック・ザ・バイキング
Eric the Viking
1989年 イギリス 104分
監督・原作・脚本:テリー・ジョーンズ

神々の黄昏の時代、太陽は隠れ、地上には夏も冬もなくなり、人々は争いに生きて平和を顧みようとしない。ヴァイキングのエリックもまた仲間とともに遠征をおこない、略奪、殺人などをおこなっていたが、さらにレイプに取りかかろうとしたところで、これは野蛮すぎるのではないか、と疑問を抱き、占い師を訪れて予言を聞き、神々の黄昏を終わらせるために仲間とともに伝説の国ハイブラジルを求めて旅立っていく。その話を聞いた鍛冶屋は争いが終われば鍛冶屋が困窮すると考え、すべての鍛冶屋の利益のためにエリックのたくらみを領主「黒のハーフダン」に密告し、するとハーフダンも腰を上げてエリックの船を追うのであった。
エリックがティム・ロビンス、酷薄な領主ハーフダンがジョン・クリーズ(楽しんでいる)、そのハーフダンの船で漕ぎ手を鞭で打っているのがなぜか関根勤である。
テリー・ジョーンズの演出は必ずしもうまくはないが、 ヴァイキング グ船で出発するにあたっては左右両舷で重量のバランスを取るとか、出発するとバイキングたちが船酔いを起こして船縁から顔を出して吐きまくるとか、その ヴァイキング 船にはなぜかキリスト教の伝道師(フレディー・ジョーンズ)が乗船していて忘れずに布教に務めているとか、南の国ハイブラジルが芸術に届かずに苦悶しているとか、けったいなアイデアが満載されているし、人物造形もそれなりに面白いという具合で、決して悪くはないのである。





Tetsuya Sato

2012年12月12日水曜日

長い船団

長い船団
The Long Ships
1964年 アメリカ・イギリス・ユーゴ 138分
監督:ジャック・カーディフ

リチャード・ウィドマーク扮するヴァイキングのロルフ、といっても破産寸前の船大工の長男という設定らしいのだが、これが黄金の鐘に関する根拠の怪しい話をはるかビザンチンから持ち帰って父親に船と乗員を無心し、船がないとなるとハラルド王の船を盗み、乗員は噂で釣って拾い集め、あるいは王の船の乗員を漕ぎ手座に鎖でつなぎ、王に追われた場合に備えて王女をさらって人質にし(もちろん追われる)、虚言をあやつり、仲間をだまし、必要な場合にはオーディンもだまし、目的のためならば手段を選ばないという態度で旅立っていく。実際に黄金の鐘を捜しにいく、というよりも、何かペテンへの衝動に突き動かされて、という気配が濃厚で、だからラス・タンブリン扮する弟も兄の主張については信じたいと願っているような状態なのである。そのロルフと対立するのがシドニー・ポワチエ扮するムーア人の王アスナーで、こちらはこちらで黄金の鐘に取り憑かれていて、本当に発見した場合に備えて輸送用の船の模型などを作っていて、女房からもほとんど愛想を尽かされている。それが海岸に流されてきたロルフの一行を発見し、いったんは戦闘がおこなわれるものの、ロルフは勝ち目がないものと見て降伏し、そこから先は運と舌先に委ねることにする。
リチャード・ウィドマークがインテリ臭くてシニカルで無責任、というあまりヴァイキングらしくない人物を力まずに演じていて面白い。全体に陽気な雰囲気で人命は軽い。そしてもちろんヴァイキングはハレムを見ると歓声を上げて突撃する。原題どおりにかなり大きなヴァイキング船が(わざわざ複数形にするほどではないが)登場するほか、ラテン帆の船なども登場する。




Tetsuya Sato

2012年12月11日火曜日

バイキング

バイキング
The Vikings
1958年 アメリカ 111分
監督:リチャード・フライシャー

ヴァイキングのラグナーはノーサンブリアを襲撃して王を殺し、生き残った王妃はラグナーの子を生み落とす。それから20年、ラグナーの粗暴な息子エイナーは奴隷エリックが放った鷹によって左目を失い、怒ったエイナーはエリックに緩慢な死を与えるが、実はこのエリックこそがエイナーの父ラグナーがノーサンブリアの王妃に生ませたこどもであり、イギリスからイタリアへと送られる途中、ヴァイキングの襲撃にあって奴隷の身に落とされてはいたが、エイナーにとっては腹違いの弟なのであった。その事実に気がついたイギリスの裏切り者エグバート卿はエリックを救い、一方、ラグナーとエイナーの親子はエグバートの入れ知恵でウェールズを襲い、ノーサンブリアの王アエリアの婚約者モルガナをさらう。ノーサンブリアの王からたんまりと身代金を取ろうという魂胆であったが、エイナーはモルガナに愛を抱き、奴隷のエリックもまたモルガナに愛を抱き、エイナーがモルガナを押し倒したところをエリックがエイナーを打ち倒し、エリックがモルガナの手を引いて小舟に乗って逃走すると、気がついたエイナーが父ラグナーとともに長い船に乗って追いかけてくる。そこでエリックの船は霧の中へもぐり込み、ヴァイキングもまた危険を冒して船を霧の中へと乗り入れる。エリックは方位磁石を持った黒人を連れていたので霧の中でも方角を見失うことがなかったが、ラグナーの船は暗礁に衝突して沈没し、エイナーが追跡を断念すると、エリックはラグナーを海中から救い、モルガナをノーサンブリアへ送り届ける。すると狭量なアエリア王はラグナーを殺し、ついでにエリックの左手を切り落とし、エイナーがエリックへの復讐を誓って騒いでいると、そこへアエリア王への復讐を誓ったエリックが姿を現わし、ラグナーの最期を知ったエイナーはエリックと結んでアエリア王の城を攻める。
エイナーがカーク・ダグラス、エリックがトニー・カーチス、モルガナ姫がジャネット・リーである。奴隷のエリックは登場するやいなやエイナーに喧嘩を売って傷を負わせているが、こんな調子で20年もやっていたのか、とか、だったらどうして今日まで生き延びてこられたのか、とか、この黒人はどこからやってきたのか、とか、見ていると疑問に感じることがそれなりにあるし、たぶんプロットはそうとうに軋んでいたと思うのだが、戦闘場面などはそれなりに真面目にやっていたのではないかと思う。小振りのヴァイキング船が三隻、イギリスの古めかしい帆船が一隻、復元されて登場する。





Tetsuya Sato

2012年12月10日月曜日

バーン・アフター・リーディング

バーン・アフター・リーディング
Burn After Reading
2008年 アメリカ/イギリス/フランス 93分
監督・脚本:イーサン・コーエン、ジョエル・コーエン

もしかしたら何かを考えているにしても傍目には堂々巡りをしているようにしか見えないブラッド・ピットがなかなかにすごい。嘘をついている時間はない、と言う割には嘘にまみれている上に、自宅の地下室でファッキングマシーンを原価100ドル(ディルド代別)で自作しているジョージ・クルーニーの内的宇宙もなかなかにすごい。これに比べると女性陣には意外なまでに幻想がない。整形美容のことしか考えていないフランシス・マクドーマンドもいちおうは自分の現実のなかにいて、ただふるまいが無謀でがさつなだけなのである。その女性の現実が目に入らずに、自分が思い描く現実について語り続けたリチャード・ジェンキンスが本作ではいちばん気の毒なキャラクターであろう。
頭の悪い人間が動かし始めた見通しの悪い犯罪、という点では『ファーゴ』によく似ているが、その頭の悪い人間をCIAという官僚機構が官僚機構特有の鈍感さですりつぶしていくあたりでこの作品には救いがない。「こんなにいいお天気なのに」(ノースダコタ基準)などとは誰も言ってくれないのである。スパイ映画のパロディのようなフレームを悪用し、物語性を排除しながら視点は細部にまでゆきとどき、語り口のリズムには狂いがない。ティルダ・スウィントンの女医さんが怖い。堪能した。 






Tetsuya Sato

2012年12月9日日曜日

オー・ブラザー!

オー・ブラザー!
O Brother, Where Art Thou?
2000年 イギリス・フランス・アメリカ 106分
監督・脚本:イーサン・コーエン、ジョエル・コーエン

1930年代のアメリカ。ミシシッピ州の刑務所から三人の囚人が脱獄する。ダムの完成によって間もなく湖底に沈む一帯にお宝が隠してあるからである。鎖につながれたまま野原を走り、線路に達してそこで盲目の預言者に遭遇し、鎖を取り除いて休んでいると目を爛々と輝かせた怪物のような保安官が出現する。恐ろしい保安官から逃れて森を抜け、少々怪しい再洗礼派か何かの儀式にもぐりこみ、そこで罪を洗い清められてからさらに進むと悪魔に魂を売ったばかりの黒人ギター弾きに遭遇する。4人でラジオ局を訪れて歌を売り、再び保安官の襲撃にあって森を逃げる。途中、ベビーフェイス・ネルソンの英雄ぶりを見学した後、川の中で三人のあやかしの女たちのとりこにされ、一人はヒキガエルに変えられてしまい、二人は町へ逃れてそこで大木(の枝)を裂く怪力の追い剥ぎに出会う。金を奪われた二人は次の町へ進むが、脱獄囚の中でもとりわけ虚言癖の目立つ一人はそこで別れた妻と七人の娘に再会する。お宝というのはそもそも嘘で、脱獄の本来の目的は妻を婚約者の手から奪い返すことにあった。ところが当の妻は驚くほど非協力的で、しかも怒っているのである。
コーエン兄弟は原作はホメロスの『オデュッセイア』なのだと言っている。たしかにそうだと言えばそうなのだが、アメリカ南部をワンダーランドに仕立て上げるための言い訳のような気もしないでもない。演技陣は最高だし、音楽もよい。撮影も美しい。クライマックス近くに登場するクー・クラックス・クランのマスゲームはもしかしたら必見かもしれない。





Tetsuya Sato

2012年12月8日土曜日

ファーゴ

ファーゴ
Fargo
1996年 アメリカ 98分
監督:ジョエル・コーエン
脚本:ジョエル・コーエン、イーサン・コーエン

金持ちの家に婿入りして肩身の狭い思いをしている小心な男が一攫千金をたくらんで自分の女房を誘拐する。ところが誘拐の実行犯として雇った二人組はまるで呼吸があっていないし、一方が無口で凶暴そうなマルボロマンなら、もう一方は全体として変な顔をした小男で、それが前金代わりに受け取った車をナンバープレートなしで乗り回しているものだから、そこら中で目撃されている。それでも計画は実行に移され、二人組は逃げていくあいだにさらに事件を起こすので、妊娠8か月の警察署長がつわりと空腹感に悩まされながら犯人たちを追いかけていく。
小心な婿がウィリアム・H・メイシー、マルボロマンがピーター・ストーメア、変な顔がスティーブ・ブシェミ、妊娠8か月の警察署長がフランシス・マクドーマンド。タイトルは事件の起点になるノース・ダコタ州の町の名で、幸か不幸か、このあたりがどの程度に田舎なのかは映画を見た範囲でしかわからないが、コーエン兄弟はその田舎の情景に殊更にスローで間抜けに聞こえるな会話を持ち込むことによって人生の恐るべき停滞ぶりを描くことに成功している。





Tetsuya Sato

2012年12月7日金曜日

ノーカントリー

ノーカントリー
No Country for Old Men
2007年 アメリカ 122分
監督・脚本:ジョエル・コーエン、イーサン・コーエン

テキサスの片田舎で失業者の男が荒野へ狩りに出て、そこで関係者全滅状態の麻薬取引の現場に遭遇し、見つけた二百万ドルを持ち逃げするが、妙な親切心を起こしたせいで身元が割れ、組織の殺し屋に狙われる。組織の殺し屋は常識的な次元を超えたところで殺戮をおこない、その様子を遠くから眺めている老保安官は自分の時代の終焉を感じて引退を決意する。
トミー・リー・ジョーンズは老保安官を演じて説得力があり、ハビエル・バルデムの殺し屋は否定しがたい異常さを日常性に同居させている。ジョシュ・ブローリンもなかなかに印象的な演技を残していた。撮影は美しく、音の扱いはこまやかで、緊張は持続し、きわめて物質的な暴力がところどころで顔を出して人間の運命に非情な抑圧を加えていく描写は薄ら寒さを感じさせる。しかしコーエン兄弟は状況全般をあるがままに投げ出すのではなく、老保安官のモノローグを通してそこに一定の距離感を与えることで、観客にある視点を提示する。この視点が見たままなのか、それともたちの悪い冗談なのか、はっきりしないところに戸惑いを覚える。実はコーエン兄弟版『トラフィック』だった、てことはないだろうね?





Tetsuya Sato

2012年12月6日木曜日

レボリューショナリー・ロード

レボリューショナリー・ロード
Revolutionary Road
2008年 アメリカ/イギリス 119分
監督:サム・メンデス

第二次大戦後、フランクとエイプリルはバーで出会い、結婚して一児をもうけるとレボリューショナリー・ロードという嫌味な名前の郊外住宅地に家を求め、そこで二人目の子供が生まれ、結婚生活の七年目の夏を迎える。フランク・ウィーラーは電子機器を扱うノックス社の社員で会社までは自家用車と鉄道を乗り継いで通勤し、会社の秘書を相手になれた手つきで浮気をする。エイプリル・ウィーラーは専業主婦をするかたわら、女優への夢を抱いて市民劇団の立ち上げに参加している。だが舞台は失敗に終わり、夫のしつこい慰めに苛立ち、自分のまわりがひどく虚しいものとして映るようになり、理想と現実のはざまの暗がりに転がりながら、現実を打破するアイデアを思いつく。つまり家を売却して一家を挙げてパリに移り、そこで自分が国際機関に職を得て夫を助け、夫はどこにあるのかわからない才能を開花させるために何かをする、という空想的な計画を立てて夫を説得、夫は軽率にも計画に乗り、自分たちはパリに移住する、とそこら中に吹聴するが、間もなくフランク・ウィーラーに昇進の可能性が生まれ、さらにエイプリル・ウィーラーの妊娠が判明、計画は妊娠を理由に中止となり、そこへ服を着た絶望が現われて無礼な調子で非難を繰り返すので、夫婦のあいだに決定的な亀裂が入り、最終的な段階を迎える。
表現はきわめて洗練されており、言葉数の少ない画面にも膨大な情報が織り込まれ、場面の流れはリズミカルで心地よい。隣人や同僚の扱い、夫婦の視野と子供たちとの関係なども心理的な次元でたくみに消化されており、相変わらずうまいと感心させられた。ただ、うんざりするような現実をあまりにも洗練された表現で包み込むと、表現自体に非人間的な冷たさが見え、人間的な問題に対する作り手の誠実さに疑問が生まれる。
小市民があたりまえに抱える不幸をことさらに暴き立てて、それで何が面白いのか。ケイト・ウィンスレットは絶望的な主婦を熱演し、レオナルド・ディカプリオも悪くない仕事ぶりを見せている。そしてこの二人の喧嘩の場面というのが監督の腕がいいからなのか、それとも監督本人の経験の反映があるからなのか、不愉快なほどリアルにできていて、似たような経験が少なからずあるこちらとしては、ホラー映画を見ているようで恐ろしかった。 


Tetsuya Sato

2012年12月5日水曜日

ジャーヘッド

ジャーヘッド
Jarhead
2005年 アメリカ 123分
監督:サム・メンデス

アンソニー・スオフォード『ジャーヘッド アメリカ海兵隊員の告白』に基づく。
十八歳で海兵隊に入隊したスオフォードは訓練終了後、ペンドルトン基地に配属され、そこでさらに訓練を受けて偵察狙撃小隊の配属となり、みんなで楽しく『地獄の黙示録』を鑑賞し、1990年、湾岸に送られる。そして熱砂の砂漠でNBC防護服をつけて走り、退屈と戦い、銃後に残してきた恋人の貞操に疑問を抱き、やがて戦争が始まるとまず友軍の空爆を受け、イラク兵の死体を目撃し、炎上する油田を眺め、油まみれになり、結局、一発も撃たずに凱旋する。
少なからず感情面が強調された原作を徹底的に咀嚼し、自伝的な要素をあらかた取り除き、おもに戦争に関わる表象を取り出して補足、映画的な改変を加えながら、奥行きのある映像詩に仕立て上げている。表層に漂うモチーフを見て解釈を加えることは簡単だし、造形面に見えた若干の瑕疵(たとえば語り手が崩壊家庭出身であるということは指摘されるだけで機能していない、砂への反応を示す描写には性急さが見える)を指摘することも可能だし、あのM1エイブラムズは撮影用のモックアップだったのか、そうだとすれば『戦火の勇気』で使われたやつの使い回しなのか、でもあれとはだいぶシルエットが、といったことを気にすることも可能だが、ここはむしろ劇映画としてのマスターピースぶりに感心したい。つまり湾岸戦争はこうだった、とか、戦争は悲惨なんだ、とかいったような話はさておいて、すばらしく品位の高い映像が音声、音楽、音響と限りなく有機的に融合し、最後まで続くその流れにゆったりと身を任せていると、これがとてつもなく心地よいのである(それだけに本邦で加えられた無用のボカシがとにかく邪魔であった)。
視点の類似、構成上の類似から『フルメタル・ジャケット』と比較されることが多いようだが、キューブリックのよくも悪くも正直でジャーナリスティックな取り組みに対して、こちらはまず映画であり、その一点において揺るぎを知らない。





Tetsuya Sato

2012年12月4日火曜日

ロード・トゥ・パーディション

ロード・トゥ・パーディション
Road to Perdition
2002年 アメリカ 117分
監督:サム・メンデス

1931年のアメリカ。マイケル・サリヴァン(トム・ハンクス)は町のボス、ジョン・ルーニー(ポール・ニューマン)の下で汚い仕事をこなしていたが、家へ帰れば妻と二人の息子がいる厳格なカトリックの父親となる。冬のある日、マイケル・サリヴァンは息子たちとともにジョン・ルーニーの家へ出かける。そこではルーニー配下の男の葬儀がおこなわれているが、死んだ男の兄は弟の死のことでルーニーに怒りを抱いている。老齢のジョン・ルーニーはマイケル・サリヴァンに対して慈愛に満ちた父親のようにふるまい、サリヴァンもまた寡黙ながら良き息子のようにふるまう。そしてジョン・ルーニーの息子であるコナー(ダニエル・クレイグ)はその光景を見つめて笑みを浮かべ、笑みの下に激しい苛立ちを隠している。
難しい話ではない。コナーはへまをしでかして父親から叱責を受け、そのことからマイケル・サリヴァンを逆恨みするようになって、サリヴァンの家族に手をかける。妻と息子を殺されたマイケル・サリヴァンは生き延びた息子とともに町から逃れ、事実を知ったジョン・ルーニーは激しく心を乱されて息子をなじる。マイケル・サリヴァンは復讐のために組織を離れ、組織は殺し屋を放ってサリヴァンを追わせる。
ストーリーに何か新味があるわけではないし、登場人物や状況の作り方にひねりがあるわけではない。むしろ逆に、愚直なまでに古めかしくて凡庸な内容の映画である。ところがなぜだろうか、冒頭、少年が自転車をこいで出勤する労働者の群れに分け入っていくところから、ひどく胸が騒ぐのである。マイケル・サリヴァンが自分のために最初の殺人を犯す場面では、あまりの緊張感に吐き気を催していたのである。そしてサリヴァン親子の逃避行が始まり、ジョン・ルーニーと教会で会見するあたりから、涙が止まらなくなっていたのである。
なぜ泣いているのか、自分でもよくわからなかったが、しばらくしてから、これはあまりにも美しいものを見ているから泣いているのだと気づいた。恥ずかしい話だが、映画が終わるまでわたしはほとんど間断なく涙を流し続けて、劇場から出てきた後も、思い出したように目を濡らしていた。語られている話に意味があるのではない。その語り口に意味があるのだ。厚く塗られた絵が素晴らしい。光線が美しく交錯し、スクリーンには冬の空気がありありと映し出されている。それは雨の前触れの湿り気であり、あるいは春の前触れの温もりである。出演者の演技が素晴らしい。トム・ハンクスがこれほどの俳優であるとは、わたしは一度も考えなかった。日常の中で作り上げた父親という仮面の下から嗚咽がこみ上げてくる有様が、ゆっくりと進行する時間の中で、静かに明らかにされていくのである。ものすごい映画であった。




Tetsuya Sato

2012年12月3日月曜日

アメリカン・ビューティ

アメリカン・ビューティ
American Beauty
1999年 アメリカ 122分
監督:サム・メンデス

傑作である。いわゆる家庭崩壊の話ではない。開巻、すでに家庭は崩壊している。その先の話なのである。ケヴィン・スペイシー扮するレスター・バーナムは向上心に満ちた妻から黙殺され、さらに娘からは軽視され、14年続けてきた仕事も失いつつある。家にあるのはもっぱら妻の秩序であり自分の居場所はどこにもなく、寝室も同じベッドを分けているだけで性的関係が損なわれてから久しい。だが男としてのリビドーは備えている。だから起き抜けにシャワーを浴びながら一発抜くのだ。この場面のケヴィン・スペイシーの演技はまったく疑問を感じさせないほど日常的で、素晴らしい。
行き場を失ったこの亭主はどうやら自覚的に壊れることにして、中産階級の伝統的な使命である義務と責任を放棄して20年逆戻りする。会社を恫喝して退職金をせしめ、その金で隣家の伜からマリファナを買い、あこがれの車ファイアバードを手に入れる。そして自分の場所を宣言するために、この車をガレージの入り口に安置する。このファイアバードは妻の向上心のいわば妥協的な象徴である小ベンツをガレージから締め出すための手段である。したがって映画が終わるまで、ファイアバードは1ミリもその場を動かない。そして本人はようやくせしめた自分の場所にこもって肉体を鍛練し、昼間はハンバーガー屋でハンバーグを焼く。この場面のケヴィン・スペイシーの演技は一切の責任から解放された中年男の無心を感じさせ、素晴らしい。
亭主は娘ジェーンの友人アンジェラ・ヘイズに懸想している。懸想して、その若い肉体に思いを馳せた瞬間に、どうやらどこかで抑制が外れたようである。早速娘の部屋に忍び込んで手帳を盗み見て、電話番号を調べて衝動的に電話する。もちろん一言も言葉は出ないがダイアル表示で犯行は瞬時にばれ、娘の軽蔑をさらに買うことになる。一方、アンジェラは普段から豊富な性的体験をジェーンに語り、さらにジェーンの父親レスター・バーナムを性的対象として臭わせる。亭主レスター・バーナムが筋肉について考え始めたのはそもそもこの会話を盗み聞きしたからであった。というわけでレスター・バーナムの人生における最後の晩、彼は身につけた筋肉を少女に誇示する機会を見つけ、少女は期待どおりの反応を示す。だが亭主が少女の服を脱がそうとした時、性的経験を誇っていた当の少女が実は処女であったことを本人の口から知らされる。だから優しくしてほしい。そう言われて、主人公レスター・バーナムは至福を味わうのである。汚れていた筈の存在は実は無垢であり、その無垢な存在は自分の前に身を投げ出している。壊れた家に住むこの壊れた男はその瞬間、夢に描いていた美が実在のものであることを知り、そして幸せなまま、死ぬ。両隣を含めて人物関係が実によくデザインされており、時に舞台演出を思わせる場面の構成にはまったく無駄がない。




Tetsuya Sato