2014年9月30日火曜日

戦火の愚かなる英雄

戦火の愚かなる英雄
A Farewell to Fools
2013年 ルーマニア/ドイツ/ベルギー 84分
監督:ボグダン・ドライヤー

第一次世界大戦中に(たぶん)ルーマニア出兵に参加して(たぶん)頭部に負傷してそのまま友軍に捨てられた(と思しき)フランス兵セオドアは地元の村人に拾われて、それから30年というもの、村の阿呆の地位を占めて教会の塔で暮らしながら釣りをしたり子供と遊んだりしていたが、1944年8月、村でドイツ兵一人が何者かによって殺害され、ドイツ軍当局は犯人が名乗り出ない場合には村の有力者10名を処刑すると宣言し、当然のことながら犯人は名乗り出ないので、死の恐怖にすっかりおびえた村の有力者たちは村の阿呆セオドアを犯人にしたてることに決め、セオドアを夕食に招いて説得にかかり、セオドアがその気になってくると盛大な葬式や豪勢な棺桶、巨大な墓石などを約束し、セオドアがついに了解するとその場にいた公証人を使って契約書を作り、そこでセオドアが盛大な葬式を死ぬ前に見たいと言い始めるので有力者たちは夜中に村人を集めて葬式の予行をおこない、棺を墓場まで運んで埋葬の予行もおこない、セオドアが満足したと叫ぶのを聞いてやっと安心するが、もちろん安心するのはまだ早い、というような話で、セオドアがジェラール・ドパルデュー、村の司祭がハーヴェイ・カイテル。
ハーヴェイ・カイテルの司祭が微妙に俗っぽい感じでなかなかにいい。雰囲気なども悪くはないが、全体に泥臭い仕上がりで、こちらには見えない思い入れがあるのか、それとも単に要領が悪いだけなのか、ドパルデューのパートに余計な時間をかけすぎてたからではないかと疑っているが、周辺キャラクターの造形が単調なままで、物足りなさをなんとなく最後まで引きずっていく。


Tetsuya Sato

2014年9月29日月曜日

素晴らしき戦争

素晴らしき戦争
Oh! What a Lovely War
1969年 イギリス 144分
監督:リチャード・アッテンボロー

ヨーロッパ諸国の元首、外相などがテントに集まってセルビア問題について語り、記念撮影などをしているとカメラマンがオーストリアの皇太子夫妻に赤いひなげしを一輪ずつ渡し、これによって皇太子夫妻は象徴的に暗殺されて、その場にいた元首、外相は開戦の可能性について言葉を交わし、ブライトンの桟橋ではキッチナー&ヘイグの看板を掲げた店が「第一次大戦」の出し物を開いて無名の男女を呼び集め、ドイツがベルギーに侵攻したころ、劇場ではいかがわしいレビューが始まって歌姫が若者を駆り集め、集められた若者たちは前線へ送られ、戦場における犠牲者が数となって看板に大きく貼り出され、軍の高官たちが優雅に舞踏会へ繰り出す一方、戦場では兵士たちが泥にまみれ、中間地帯でドイツ兵と親睦を深め、ローマ法王は聖金曜日の肉食を大目に見ると約束し、ラビは前線でブタを食べることを大罪にしないと約束し、ミサに集まった兵士たちは身も蓋もない讃美歌を歌い、戦場で兵士に分け与えられる赤いひなげしは一本一本が死亡フラグとなり、野戦病院は地獄の到来を予感し、ソンムの会戦が最終段階を迎えて各国が講和に向かって動き始めたころ、野は白い十字架によって埋め尽くされる。
ジョアン・リトルウッドによるミュージカルの映画化で、空間はきわめて象徴的に配置され、状況はしばしば抽象化され、戦場のシーンはあるものの、いわゆる戦闘シーンは一度も登場しない。そのかわりに第一次大戦中に兵士たちが戦地で歌っていた歌が豊富に引用され、そのむなしいまでのナンセンスが心理的なリアリズムをもたらしている。ポーカーフェイスの『モンティパイソン』だと言えばわかりやすいかもしれない。初監督のリチャード・アッテンボローは非常に丹念な仕事をしており、演出はもちろん美術、衣装面での手抜かりもない。前線から銃後まで、精密な風俗描写には感心した。構成が構成だけにはっきりとした主人公はいないし、兵士となって前線に立つのはおもに地味な俳優だが、ゲストスターの顔ぶれがものすごくて、冒頭でポアンカレの役でイアン・ホルムが顔を出すし、オーストリアの宰相はジョン・ギールグッドだし、イギリスの元帥はローレンス・オリヴィエ、ヘイグにジョン・ミルズ、兵士を兵役に引きずり込む美貌の歌姫はマギー・スミス、反戦婦人運動家はヴァネッサ・レッドグレーヴ、パーティシーンのちょい役でダーク・ボガード、さらにジャン=ピエール・カッセルがフランス人大佐に扮して歌って踊るという具合で、そういう細部も見ごたえがある。 

Tetsuya Sato

2014年9月28日日曜日

アレキサンダー

アレキサンダー
Alexander
2004年 アメリカ 173分
監督:オリバー・ストーン

マケドニア王フィリッポス二世の子アレクサンドロスの誕生から王位継承、東征からその死までを老境のプトレマイオスが回想する。
話の継ぎ目にエキゾチックなダンスと宴会、というのはいまさらなかろうと思う。これだけでも作り手の誠意と見識を疑いたくなる。撮影は全体にデザインに乏しく、美術は怪しい。主演のコリン・ファレルは魅力に乏しく、うすばかめいた腑抜けた顔にはいかなる夢想も誇大妄想も感じられない。とはいえ退屈に見える主要な原因は俳優本人よりも想像力の乏しい演出にある。あれだけの短期間にあれだけのことをした、ということは猛烈に忙しかったわけであり、実際のところ、得体のしれない能書きを垂れている暇はなかったのではあるまいか。対するにこのアレクサンドロスは最初から最後まで何かをしているようには見えなかった。おそらくは最初の段階でアレクサンドロスに対する距離感の設定に失敗しているのであろう。同性愛描写も邪魔なだけ。それに比べると母親オリュンピアスはアンジェリーナ・ジョリーの一貫した演技もあってなかなかに魅力的で、そういうことならこちらの主演で『王女メディア』か何かを作ったほうがよほどに面白かった筈である。
独りよがりなだけで見どころのほとんどない映画だが、マケドニア軍やペルシア軍や装備はかなり手間をかけて復元されているように見えた。ガウガメラの戦いのマケドニア式ファランクス、インドの戦闘での戦象など映像で初めて見る光景が登場し、これは興味深かった。とはいえ、残念ながら戦闘場面自体は全般に作りが悪く、状況がほとんど把握できない。特に最後のインドでの戦闘シーン、あの地形であの部隊展開は信じられない。もしヒュダスペス河畔の戦闘のつもりなら渡河作戦だった筈である。


Tetsuya Sato

2014年9月27日土曜日

アレキサンダー大王

アレキサンダー大王
Alexander the Great 
1956年 アメリカ 135分
監督:ロバート・ロッセン

ピリッポス二世と王妃オリュンピアスのあいだに生まれたアレクサンドロス三世は学友とともにアリストテレスのもとで教育を受けながら戦場の栄光に焦がれているとピリッポス二世の命で王の留守を預かる摂政となって王都ペラの統治にあたり、続いてカイロネイアの戦いで父を窮地から救い出し、使節としてアテナイに送られてペラへ戻るとピリッポス二世が暗殺されて王位を継承することになり、そのまま父の東征事業も継承してマケドニア軍およびコリントス同盟軍を率いてアジアに侵入、グラニコスの戦いでペルシア軍を破り、イッソスの戦いでもペルシア軍を破ってダレイオス三世の妻子を捕虜にし、ダレイオス三世が側近によって殺害されると側近を処刑、そのままとりつかれたように東進を続けてインドへ侵入、アジア化したアレクサンドロスに周囲の批判が高まったころ、突然目が覚めたように撤退を開始してバビロンに到着するとダレイオス三世の娘ロクサネと結婚し、祝宴中に倒れて後継者をはっきりと指名しないまま死亡するまで。 
監督、脚本は『オール・ザ・キングス・メン』のロバート・ロッセン。 アレクサンドロスがリチャード・バートン、ピリッポス二世がフレデリック・マーチ、誰もはっきりと言わないけれどディオニュソス信奉者の母オリュンピアスがダニエル・ダリュー、アテナイ人メムノンがピーター・カッシング、そのラディカルな妻ベルシネがクレア・ブルーム。マケドニアはスペインで撮影されていて、ふつうの村がそのまま背景に使われている。ペルシアはトルコで撮影されているらしい。衣装、美術などが凝っていて面白いし、イッソスの戦いの前のペルシア軍の多民族ぶりもなかなかに楽しい。戦闘シーンではペルシアの鎌戦車が登場するが、あえなく敗退する。マケドニア式の槍も登場するが、ファランクスで使われることはなく、もっぱらテントの支柱に使われている。基本的に戦闘は騎兵のがむしゃらな突撃だけで、史実に即してデザインしようとした痕跡は見受けられない。ピリッポス二世の暗殺までがほぼ前半を占めていて、いかにもマケドニア的な無節操な政治劇が展開し、後半はかなりざっくりと東征を扱うという構成で、アレクサンドロスの短い生涯を最初から最後まで追うという主旨に対して非常に正直に作られていて、映画として出来がいいかどうかは少々疑問を感じないでもないものの、アレクサンドロスという扱いにくい素材をバランスよくよくまとめていると思う。 


Tetsuya Sato

2014年9月26日金曜日

オール・ザ・キングスメン

オール・ザ・キングスメン
All the King's Men
1949年 アメリカ 104分
監督:ロバート・ロッセン

アメリカの南部の州のとある町で一人の男が会計に立候補する。町の有力者たちが平然とおこなっている不正を暴くためであったが、妨害にあって落選する。その後、男は独学で法律を修め、市民の立場から不正に対する弾劾を続け、知事選が始まるといきなり後ろ盾を得て候補者となる。実はすでに立候補している男が対立候補の票を割るための当て馬に利用したのであった。本人はそうと知らずに従来どおりの演説をおこない、見かねた周囲の人々が真相を告げると、飲むことを知らなかった男は飲むことを覚え、告発演説を即興でおこなうことで大衆操作に関する感触を掴む。その知事選では落選したが、男は四年後をにらんで活動を続け、政治家として一歩前進することで取引することも学習し、再び知事選に出馬して当選を果たす。善意から出発した男は善の始まりには悪があると語るようになり、数々の不正をおこなって告発を闇に葬り去り、公共事業によって民心をつかみ、政敵は背後を探って弱みを掴み、家庭を顧みず、ただ周囲の者をその配下へと組み敷いていく。
二時間に満たない長さに濃密な内容が盛り込まれていて、語り口には無駄がなく、映像はダイナミックでテンポが速い。善良だが鈍重な田舎者が政治家の顔を得ていく過程をブロデリック・クロフォードが実にみごとに演じている。


Tetsuya Sato

2014年9月25日木曜日

宮廷画家ゴヤは見た

宮廷画家ゴヤは見た
Goya's Ghosts
2006年 アメリカ/スペイン 114分
監督:ミロス・フォアマン

異端審問所に所属するロレンソ神父は異端摘発の強化を主張して拷問を復活し、その網にかかった娘イネス・ビルバトゥアは拷問によってユダヤ教徒であることを告白する。その事実をロレンソ神父の口から聞かされたイネスの父トマス・ビルバトゥアは拷問による告白の有効性に疑問を抱き、拷問による恐怖はいかなる信仰にも勝るので拷問によって得た告白に真実はないと主張するが、これに対してロレンソ神父は神が力を与えてくれるので信仰は拷問による恐怖に勝ると反論し、それならば、ということでトマス・ビルバトゥアは神父を捕らえて拷問を加え、神の力を試みる。そして神父は拷問の恐怖にすぐさま屈して自分が教会を混乱させるために送り込まれたお猿であると告白し、トマス・ビルバトゥアは署名入りのその告白を種に娘の解放を神父に迫り、神父の懇願にもかかわらず異端審問所は娘の解放を拒むので、神父の告白は国王カルロス四世の手を経由して教会に届き、教会の糾弾を恐れた神父は国外に逃亡、いきなり15年が経過してフランス軍がスペインに現われ、フランス軍占領下のマドリードでは理性の光を浴びて俗人となったロレンソ神父が異端審問所を告発し、解放されたイネスは獄中で産み落とした自分の娘を探して町を歩き、その娘の父親が自分であることを知ったロレンソ神父は事実を糊塗するために奔走するが、ウェリントン率いるイギリス軍の接近によってフランス軍はマドリードから後退、神父は逮捕されて宗教裁判によって有罪判決を受け、悔い改めることを勧められる。
ランディ・クエイドが実はハプスブルクな顔をしていた、というのは意外な発見であった。ハビエル・バルデム扮するロレンソ神父の変節ぶりは見ごたえがあり、ナタリー・ポートマンは悲劇的な母娘二役に挑戦してなかなかの役者根性を発揮している。よく考慮された脚本と慎重な演出は見ていて非常に心強く、ゴヤの視界に現われたであろう様々な顔がたくみに配置されているのが面白い。 


Tetsuya Sato

2014年9月24日水曜日

じばくやさん


じばくやさん、じばくやさん
じばくのひとを、くださいな
じばくやです、じばくやです
じばくのひとをあげましょう
じばくのひとをひとりください
じばくのひとをひとりですね?
じばくのひとをふたりください
じばくのひとをふたりですね?
じばくのひとをもっとください
じばくのひとをもっとですね?
じばくのひとを、かいました
じばくのひとにめいれいすれば
じばくのひとはじばくします
じばくのひとにめいれいします
じばくのひとはあっちにいって
じばくのひとがしたがいます
じばくのひとにめいれいします
じばくのひとはこっちにいって
じばくのひとがしたがいます
じばくのひとがあっちにいます
じばくのひとがこっちにいます
じばくのひとにめいれいすれば
じばくのひとがじばくします
じばくのひとにめいれいします
じばくのひとはじばくしなさい
じばくのひとがあっちでじばく
じばくのひとがこっちでじばく
まわりのひとが、ふっとびます
すごいおと、すごいひめい
うでやあしがとびちります
すごいおと、すごいひめい
したいがごろごろころがります
すごいおと、すごいひめい
くるまがごうごうもえています
すごいおと、すごいひめい
おみせがほのおをふきあげます
すごいおと、すごいひめい
まるでこのよのじごくです
じばくのひとがじばくして
じばくのひとがもういません
じばくのひとがじばくして
じばくのひとがもういません
じばくのひとがたりません
じばくのひとがひつようです
じばくのひとをかいましょう
じばくやさん、じばくやさん、
じばくのひとを、くださいな
じばくやです、じばくやです
じばくのひとをあげましょう


Copyright ©2014 Tetsuya Sato All rights reserved.

2014年9月23日火曜日

オーバードライヴ

オーバードライヴ
Snitch
2013年 アメリカ/UAE 112分
監督:リック・ローマン・ウォー

ミズーリで建築業を営むジョン・マシューズは離婚した妻と暮らす息子が麻薬密売容疑で逮捕され、しかもそれが事実上の誣告であるにもかかわらず救済策がないまま懲役10年の実刑判決を受けたのに驚いて連邦検事との面接を求め、捜査協力を申し出て息子の減刑を要求し、連邦検事が拒否すると勝手に潜入捜査の手はずを整えて麻薬密売組織に足を突っ込み、DEAもジョン・マシューズのサポートにまわり、ジョン・マシューズが自前のトラックを使って麻薬の輸送を成功させるとカルテルのほうがジョン・マシューズに評価を与え、大物が引っかかってきたのを知った連邦検事は息子の減刑と引き換えにジョン・マシューズに潜入捜査の続行を求める。
ジョン・マシューズがドウェイン・ジョンソン、連邦検事がスーザン・サランドン、DEAの捜査官がバリー・ペッパー、カルテルのボスがベンジャミン・ブラット、ジョン・マシューズに巻き込まれる元麻薬密売人が『ウォーキング・デッド』のジョン・バーンサル。実話の映画化ということで、それで主役がドウェイン・ジョンソンだとどうなるのかと思っていたら、アクションなしで家族の不幸に苦悩する父親を熱演していて、これがなかなかに見ごたえがあった。アクションシーンになるのは終盤のフリーウェイくらいだけど、18輪トラックの疾走ぶりも含めて迫力がある。映画の主旨は初犯でも20年を食らう可能性がある現行法制度の問題を指摘することにあるようで、だから麻薬組織は地元もカルテルも恐ろしいことは恐ろしいけれどそれぞれの流儀で淡々とビジネスをしているだけ、いちばん怖いのは法と権力を握っている連邦検事という構図になっていて、抑制された演出は全体に緊張感が高く、渋めのキャストもよく動いていて、それぞれにいい味を出している。

2014年9月22日月曜日

デンジャラス・バディ

デンジャラス・バディ
The Heat
2013年 アメリカ 118分
監督:ポール・フェイグ

FBIニューヨーク支局に勤務する捜査官で有能だけど高慢な上にやたらと野心的なせいで同僚からとにかく嫌われているサラ・アッシュバーンは麻薬犯罪の捜査のためにボストンに送られてボストン市警察の刑事でシャノン・マリンズと組むことになるが、このマリンズ刑事は誰であろうと罵り倒し、犯人逮捕のためならば手段を択ばない恐ろしい人物で、この二人がかみ合わない行動を繰り返しながら結束を固めていくといういわゆるバディ物。
サラ・アッシュバーンがサンドラ・ブロック、シャノン・マリンズがメリッサ・マッカーシー。サンドラ・ブロックのコメディエンヌぶりも楽しいし、そのサンドラ・ブロックともっぱら低次元の争いを繰り返すメリッサ・マッカーシーの迫力がすごい。なによりも毒舌ぶりが相当なもので、ほぼマシンガントークな台詞まわしは見ごたえがある。主役二人の身も蓋もないどたばたぶりを見せることに主眼があるので事件や捜査活動などはかなり適当に扱われているが、その分、悪役のほうも適当に三枚目という感じに収まっていて、そのあたりの作り方は『アザー・ガイズ』によく似ている。 


Tetsuya Sato

2014年9月21日日曜日

パーフェクト・ストーム

パーフェクト・ストーム
The Perfect Storm
2000年 アメリカ 129分
監督:ヴォルフガング・ペーターゼン

ちっぽけなカジキ漁船が巨大な嵐に突っ込んでいく、という話で、嵐と大波の描写は冗談抜きにすごかった。大迫力である。波と風にもまれるのは漁船だけではなくて、小型ヨットからコンテナ運搬船、貨物船、沿岸警備隊の巡視船と多彩であり、サイズの違いから見える波の大きさや船体の動揺の差が実に丁寧に描かれていた。どの船も美しかったが主役の漁船の美しさは特筆ものである。両舷から伸びたアームからシーアンカーを下ろして走る姿が格別であった。この漁船、吃水がほとんどないのであろう、大波の上で転覆して、まるで転がるようにしながら復原する有様は圧巻である。アイガー北壁のようにそそり立つ巨大な波に向かって目を見開いたジョージ・クルーニーの船長もよかった。マリー・エリザベス・マストラントニオも漁船の船長に扮していい味を出していた。ダイアン・レインの姿を見るのも久しぶりだが、地味な役を淡々と演じていて好感が持てる。マイケル・アイアンサイドが一人で悪役のようなことをやっていたけれど、船主という以上の理由が見当たらないのでちょっとかわいそうなのであった。演出は手際がいいし、見せる物はしっかりと見せるという徹底ぶりが嬉しい映画である。1991年に実際にあった話だということだが、実話の範囲をもう少しはっきりと示すべきだったかもしれない。 





Tetsuya Sato

2014年9月20日土曜日

セッションズ

セッションズ
The Sessions
2012年 アメリカ 95分
監督:ベン・リューイン

六歳のときにポリオにかかって首から下が麻痺したマーク・オブライエンは優秀な成績で大学を卒業したあと詩人兼ジャーナリストとして活動していて障害者のセックスに関する記事の執筆依頼を受けてセックスをしている障害者にインタビューをしてみたところ、どうやら異次元の世界が存在するらしいと気がついて自らも障害者向けのセックス・カウンセリングを受け、カウンセラーからセックス代理人の存在を知ったマーク・オブライエンは不安を抱えながらも挑戦を決意してセックス代理人のシェリルと対面する。 
実話の映画化ということになるらしい。よくバランスが取れたやさしいタッチの映画で、扱っていることは性愛でもそれが生存状態における根源的な感触に還元されていくところが美しい。ほとんどの時間を鉄の肺のなかで過ごして数時間しか外出できないけれどストレッチャーに乗ってどんどん出かけていくマーク・オブライエンがジョン・ホークス(『パーフェクト・ストーム』で非モテ男バグジーをやっていたひとだった)、シェリルがヘレン・ハント、マーク・オブライエンからやっかいな相談を受け(それは婚外交渉では?)、相手が横たわったままなので祭壇の前であからさまな告白まで聞かされる神父がウィリアム・H・メイシー。ジョン・ホークスが魅力的で、主人公を取り巻く女性たちも実にいい感じに描かれている。 


Tetsuya Sato

2014年9月19日金曜日

変態小説家

変態小説家
A Fantastic Fear of Everything
2012年 イギリス 100分
監督:クリスピアン・ミルズ、クリス・ホープウェル

童話作家で『ハリネズミのハロルド』などの作品を発表しているジャックは離婚を契機に妙なところにはまり込んでビクトリア朝時代の連続殺人に関する研究を始め、部屋の壁にべたべたと関連資料を貼りつけた末に『死の時代』と題した脚本の企画を練っていると、いつの間にか殺人鬼の影を身辺に感じるようになって部屋に閉じこもって下着姿でナイフを握って恐怖におびえ、その異様な有様に近所の子供たちも恐怖を感じているとエージェントから『死の時代』に興味を示している脚本エージェントがいるという連絡があり、まともな格好をして出てこいという指示があるので汚れ物の山をひっくり返しているうちに惨事が起こってコインランドリーに行かなければならなくなり、実はこのコインランドリーにこそジャックの恐怖の原点があったので、精神分析医に電話で相談して励まされて勇を鼓して出かけていくとそこでも恐ろしいことになる。 
製作、主演がサイモン・ペッグで、サイモン・ペッグ独演会で、とにかくいろいろとやってくれる。だからサイモン・ペッグを鑑賞する映画としては十分に面白いし、コラージュ的な画面のつなぎにも工夫が見えるし、劇中に挿入される童話やアニメーションなども悪くはないが、映画としては整理が悪いし、なんでもかんでも詰め込んだせいか、主人公のキャラクターも決して整理されていない。それにしても『変態小説家』というひどい邦題はなんとかしてほしいと思う。 


Tetsuya Sato

2014年9月18日木曜日

Lucy/ルーシー

Lucy/ルーシー
Lucy 
2014年 フランス 89分
監督:リュック・ベッソン

人間の脳機能を研究しているノーマン博士が人間が自分の脳の能力を20パーセントを超えて使えるようになったらどうなるかというような内容の講演をおこなっていたころ、アメリカ人旅行者ルーシーは台北で犯罪に巻き込まれて腹に新開発の麻薬を埋め込まれ、それが体内に漏れ出したことで脳が異常に活性化して突如として連絡を受けたノーマン博士にも説明できないような事態になる。 
ルーシーがスカーレット・ヨハンソン、説明するノーマン博士がモーガン・フリーマン。説明するひとだからモーガン・フリーマンなのはあたりまえだとしても、スカーレット・ヨハンソンというキャストが素材の雰囲気によくあっている。チェ・ミンシク率いる韓国人マフィアの凶暴ぶりもなかなかに楽しい。ある種のナンセンスをはらみながら自在に構成された絵が緊密な時間を作っていて、それが一定以上の強度に達しているところが素朴にすばらしいと思う。スクリーンを眺めながらなんとなくエンキ・ビラルを思い出していた。 
Tetsuya Sato

2014年9月17日水曜日

ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー

ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー
Guardians of the Galaxy 
2014年 アメリカ/イギリス 121分
監督:ジェームズ・ガン

1988年、母親の死に耐え切れずに病院から駆け出した少年ピーター・クイルは突如として現われた宇宙船によってさらわれ、それから26年後、アウトローの一味となってとある惑星で墓荒らしのようなことをしてオーヴを発見していると例のサノスの下請けをしているロナンの配下に襲われて逃げ出し、そうするとオーヴを一人占めにしようとしたということで仲間のヨンドゥから賞金がかかり、惑星ザンダーにたどり着くとロナンが送り込んだ暗殺者ガモーラに襲われ、賞金目当てのあらいぐまのロケットとその相棒のグルートにも襲われ、どたばたとしているうちに惑星ザンダーの治安を守るノバ軍によってまとめて逮捕されて刑務所に送られるので、とにかく刑務所から抜け出してオーヴを売り飛ばして山分けしようということでガモーラ、ロケット、グルートを仲間に加え、家族をロナンに殺されたドラックスも仲間に加え、どたばたの末に刑務所からの脱出を果たして銀河の半分を横切って買い手のところへ出かけていくとそこへロナンの軍勢が襲いかかり、オーヴの正体を知ったピーター・クイルはロナンのたくらみを阻止するために立ち上がる。 
監督は『スリザー』、『スーパー!』のジェームズ・ガンで、ここでもある種の異才を発揮して雑念をともなう間抜けさをしっかりと織り込んでいる。あくまでも『マーベル』の系譜のなかにあって、そのせいで悪の根源と言えばサノスという構図が踏襲されていて、そこに微妙なものどかしさを感じないでもないものの、それはいずれ『アベンジャーズ』で解決されるものと考えて脇に置いて、もっぱらその手前の部分に注目していくとキャラクターはとにかく豊かだし、ダイアログは気が利いているし、アクションもクリアだし、余計な手間はかけないし、泣き所もちゃんと盛り込んでいるし、あらいぐまはちゃんとあらいぐまだし、ヴィン・ディーゼルは『アイアン・ジャイアント』以来のことをしているし(たぶん)、ハワード・ザ・ダックも顔を出すし、ということでたいそう充足感の高い作品に仕上がっている。満足しました。

Tetsuya Sato

2014年9月16日火曜日

デュエリスト/決闘者

デュエリスト/決闘者
The Duellists
1977年 イギリス 101分
監督:リドリー・スコット

フランス陸軍の二人の軽騎兵将校、デュベールとフェローがストラスブールを皮切りに、ナポレオン戦争の全期間を通じて決闘を繰り返し、ワーテルローのあともまだ決闘する。
キース・キャラダイン、ハーヴェイ・カイテルというかなり特異なキャスティングだが、キース・キャラダインは再三決闘を仕掛けられて、それに応じながらも行為の愚劣さに困惑する男デュベールを、ハーヴェイ・カイテルは見境なく決闘を仕掛けては、その行為に疑いを抱けない男フェローを、それぞれ実に魅力的に演じている。おそらくキース・キャラダインはキャリアで最高の仕事をしているし、ハーヴェイ・カイテルのフェロー(らっ!)はとにかく印象的で忘れ難い。リドリー・スコットはこの劇映画第一作で十分すぎるほど視覚的な特徴を示し、同時に忍耐強い演出力を発揮している。後半で目立つフィルターワークがややうるさいが、撮影は全体に美しく、細部にわたる目配りもよい。エドワード・フォックスが大陸軍の将校で、アルバート・フィニーがフーシェの役で顔を出している。

Tetsuya Sato

2014年9月15日月曜日

許されざる者

許されざる者
Unforgiven
1992年 アメリカ 132分
監督:クリント・イーストウッド

極悪非道の名が高いウィリアム・マニーはすでに悪事から足を洗い、妻の墓の傍らで二人の幼い子供を養いながら農夫となって豚を育てている。そこへキッドと名乗る若者が現われて賞金稼ぎの仕事に誘い、一度は断ったウィリアム・マニーは子供の養育費ほしさから考えを変え、そこにかつて相棒ネッドも加わり、三人でワイオミングのひなびた町を目指して進んでいく。町では一人の娼婦が二人連れの牧童の一方によって顔を切られ、町を仕切るダゲット保安官の采配によって牧童と娼館の主人とのあいだではすでに話がついていたが、それでは収まらない娼婦たちによって二人の牧童にあわせて千ドルの賞金がかけられていた。その賞金を目当てに英国人の名高いガンマン、イングリッシュ・ボブが登場するが、保安官によって瞬時に返り討ちにされ、町に到着したマニーたちの前にもこの保安官が強圧的な態度で立ち塞がる。
ウィリアム・マニーがクリント・イーストウッド、保安官がジーン・ハックマン、ネッドがモーガン・フリーマン。ウィリアム・マニーは十年ぶりに銃を握り、久々に馬にまたがるが、その馬はすでにひとを乗せることを忘れているので何度となくマニーを振り落とす。相棒ネッドはライフルの名人で知られていたが、これもライフルを握るのは久々で、チームの三人目キッドにいたっては大言壮語を繰り返すもののひとを殺したことは一度もなく、しかもどうやら近眼らしい。対するダゲット保安官は老いてなお強壮で、小さな町に四人もの保安官助手を配置してたくみに平和を守っているが、その一方でこつこつと自分の家を建てていて、その家はなぜか奇妙に歪んでいる。何もかもがもどかしくて心地の悪さに満たされていて、それが不穏な静謐のなかに配置され、過去がよみがえり、暴力がおこなわれ、登場人物たちは加害者も被害者も自己正当化を繰り返し、やがて更生した悪の権化が闇の底から雨を破って現われて男たちにモラルを問い掛けて立ち去っていく。深みがあり、味わいもある実に堂々とした作品である。エンディング・クレジットの最後に現われる「セルジオとドンへ」という献辞は涙を誘う。 

Copyright ©2014 Tetsuya Sato All rights reserved.

2014年9月14日日曜日

砂漠の流れ者

砂漠の流れ者
The Ballad Of Cable Hogue
1970年 アメリカ 122分
監督:サム・ペキンパー

二人の仲間に水を奪われ、砂漠に放りだされたケーブル・ホーグは神様、お助け、などとつぶやきながら渇きに苦しみ、四日目、力尽きようとしたところでたまたま水を掘り当てる。見つけた泉は二つの町の中間にあり、交通の要所に面していたので、ケーブル・ホーグはその土地を政府から買い求め、銀行から融資を受けて小屋を建て、駅馬車の運営会社と契約を交わす。そうしてそこに腰を据えていれば、いつかは自分を裏切った二人組が現われるもの、と想定していて、三年の後、事実はそのとおりとなってケーブル・ホーグは復讐を果たし、そのあとでたいそうあっけなく死んでしまう。
『砂漠の流れ者』という邦題に反して主人公ケーブル・ホーグはほとんど移動しない。時代はすでに二十世紀の初めに差しかかっていて、馬車に代わって自動車が走り始めている。基本的には善人のみが登場し、砂漠の風景は穏やかで、自分に忠実だが少々不器用な男といかがわしい牧師の組みあわせはなかなかに笑えるし、そこへ交わる安っぽい娼婦がまたきらきらと輝いていて、なんだか心が温まるのである。ペキンパーの強いて言えばコミカルな演出はどちらかと言えば野暮ったいが、ジェイソン・ロバーズ、デヴィッド・ワーナーという大好きな役者が二人出ていて、それぞれが魅力を全開にしていて、そこへステラ・スティーヴンスが加わって、それもまた魅力的ということになれば、もう言うことは何もない。 

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2014年9月13日土曜日

グローリー

グローリー
Glory
1989年 アメリカ 122分
監督:エドワード・ズイック

南北戦争中に実在した黒人連隊の話らしい。このあたりの事情は知らないけれど、マサチューセッツ第54連隊ということは義勇軍であろうか。そうなるとマシュー・ブロデリックがいきなり大尉から大佐に昇進している理由もわからないでもない。
かなり素早く、しかも低予算で作られているような気がしてならないが、戦闘シーンなどはそれなりに頑張っている。とはいえ、エドワード・ズィックという監督は歴史的な正確さよりも歴史的なギミックの再構築に関心を持っているようなので、あまり信用しない方がいいと思う。つまりギミックを通じて状況を再現することをもっぱらの目的としていて、社会史的な、あるいは批判的な発想をそこへ入れようという考えをしないようなのである(それが悪いというわけではない。『レジェンド・オブ・フォール』では同じ指向性がよい方へ振れている)。そうでもなければ20世紀末という製作時点で、ただ勇気を示すという理由だけで"白人に率いられた黒人の部隊"が"無謀な突撃をおこない、事実上の全滅を果たす"という状況を無批判かつ肯定的に扱える筈がないのである。もちろんそこで個人やその意識がきちんと説明されていて、監督の視線も個人に注目しているならばやりようはいくらでもあるわけだけど、残念ながらこの映画には図式以上のものは登場しない。白人の大佐も黒人の兵隊も南軍も、どれも表面にゴチック体でそう記されたアイコンのように見える。いや、南軍に至っては、敵という以上の意味付けが与えられていなくて、見ているうちに南軍である必然性すらが怪しくなってくるのである。北軍の将校の堕落ぶりも堕落を先に立てたようなうそ臭さが漂うし、ついでに言えばマシュー・ブロデリックは馬の手綱を握るのに慣れていない。しかもモーガン・フリーマンはモーガン・フリーマンという理由だけで昇進する。ある種の頑張りで作られた映画には違いないけれど(そしてその範囲では好感が持てるけれど)、欠点が目立つ映画でもある。

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2014年9月12日金曜日

西部開拓史

西部開拓史
How the West Was Won
1962年 アメリカ 162分
監督:ジョン・フォード、ヘンリー・ハサウェイ、ジョージ・マーシャル、リチャード・ソープ

シネラマ(当時)の大作西部劇で、開拓民一家の半世紀にわたる歴史を描く。

最初にかなり長い序曲(昔流行った)があって、それからプレスコット一家が西を目指して川を進む。美人の娘二人は農業が嫌いで東部が恋しくてならないが、カール・マルデンの父親が進めと言うのでそうも言っていられない。そこへいかがわしい狩人(ジェームズ・スチュアート)が現われると長女のイブ(キャロル・ベイカー)は瞬時に恋に落ちてしまう。あれやこれやがあって川下りの途中で一家は悲惨な事故に遭い、長女は両親を葬ったその土地を開拓しようと決意する。するとそこへジェームズ・スチュアートがやってくるので二人は結婚するのであった。
一方、次女のリリス(デビー・レイノルズ)は踊り子になってサクラメントの町で暮らしていたが、親切な老人の遺言のおかけでカリフォルニアの金鉱を相続することになる。すでにゴールド・ラッシュが始まっているのである。そこで早速西を目指して幌馬車隊に加わると、財産目当ての賭博師(グレゴリ-・ペック)が寄ってくる。途中、世にも恐ろしいインディアンの襲撃などがあり、それやこれやでリリスは賭博師に惹かれるようになっていくが、金鉱がまったくのスカだったことがわかった時点で賭博師は姿をくらましてしまう。だが二人はリバーボートで再会を果たし、賭博師が実業家への転身を誓ったので結局結婚するのであった。
一方、イブはジェームズ・スチュアートの元狩人と一緒に農場をしていて、すでに二人の息子をもうけていた。ところがすでに南北戦争が始まっていて、イブは夫に加えて長男のゼブ(ジョージ・ペパード)までをオハイオ義勇軍(北軍)に送り出すことになる。戦闘で夫は戦死し、その報せを聞くと妻は虚しさを感じて死んでしまう。帰郷したゼブが見たのは両親の墓石なのであった。ゼブは農場を弟に任せ、騎兵隊に参加すべく西に向かって進んでいく。ここは監督がジョン・フォード。
ちょうどその頃、大陸横断鉄道の建設が進んでいて、ゼブはその警備を命じられる。ゼブとしてはインディアンとの協定を守って平和裏にことを進めたいところであったが、鉄道側の代表キング(リチャード・ウィドマーク)は協定を守ろうとしない。狩場の未来を危ぶんだインディアンは白人の不誠実をなじり、バッファローの大群を暴走させて鉄道の建設基地へ叩きつける。ゼブは開発の波に虚しさを感じて西を目指す。
さて、すでに老齢に達したリリスは夫亡き後、夫が残した借財を整理してアリゾナを目指す。そこにはまだ土地があったし、近所では甥のゼブが保安官をしていたのである。リリスは鉄道の駅でゼブの一家の出迎えを受ける。ところが同じ時、悪党のチャーリー・ギャント(イーライ・ウォラック)が子分を引き連れて現われた。ギャントはゼブの宿敵であり、しかも列車強盗を企んでいた。そこでゼブは銃を取って列車に乗り込み、襲撃を待ち受ける。激しい銃撃戦があり、列車は脱線転覆し、悪は倒され、そして一家はアリゾナの荒野を進んでいくのであった、というのがおおむねの本筋で、これで2時間40分。その後に現代アメリカの高速道路が映し出され、父祖の時代を称えるナレーションがスペンサー・トレーシーの声で覆い被さり、最後に終曲が入ったりする。
お金がかかっているし、すごいシーンはたしかにすごいし(バッファローの暴走はCGじゃないからね)、大作には違いないが、余計な大作ぶりが鼻につく。脚本も見せ場をつなぐための辻褄合わせだし、監督が4人も必要だったのか、その点にも疑問がある(最初の2パートと最後がヘンリー・ハサウェイ、南北戦争がジョン・フォード、大陸横断鉄道がジョージ・マーシャル、つなぎの部分がリチャード・ソープ)。オールスター・キャストもただ出しているという感じで消化されていない。結局、最初から最後まで元気に歌って踊っていたデビー・レイノルズがこの映画の主演ということになるのだろうか。 



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2014年9月11日木曜日

征服されざる人々

征服されざる人々
Unconquered
1947年 アメリカ 147分
監督:セシル・B・デミル

1763年。イギリス人アビゲイル・ヘイルは病身の弟を守るために海軍の強制徴募隊に抵抗し、強制徴募隊がアビゲイルの弟を死に至らしめる一方、アビゲイルは強制徴募隊の指揮官を死に至らしめる。裁判がおこなわれ、死刑の判決が下されるが、ジョージ三世のお慈悲によってアビゲイルには絞首台か、さもなくば植民地での奴隷労働かを選ぶことが許される。植民地送りを選んだアビゲイルは競売に付され、ガースと名乗る商売人とガースを嫌うクリストファー・ホールデン大尉とのあいだで競り合いとなり、結局ホールデン大尉が6ペンスの差で競り落とす。ところがホールデン大尉はガースへの悪意から行動していただけで、そもそも奴隷制度を嫌悪していたこともあって、ただちにアビゲイルを解放する。ところがその証文を用意する筈の公証人はガースの側に与してアビゲイルを再び奴隷に落とし、ガースの子分に売り渡す。
さて、そのガースというのは北米植民地の諸悪の根源のような人物で、白人の側にいながらも先住民の族長に取り入ってその娘を娶り、そうしてオハイオの広大な土地を譲り受ける一方、白人植民者の西進を阻んで毛皮取引の利益を独占するために先住民をけしかけて戦争を引き起こそうとたくらんでいた。ホールデン大尉は戦争を回避するために平和の使節となって奥地へ進むが、ガースはすでに手を回していて、ホールデン大尉の一行は先住民族の襲撃を受ける。そこでホールデン大尉はガースを亡き者としない限りは状況は好転しないと判断し、与えられた任務を放棄してガースを追う。そして現在のピッツバーグのあたりにやってくると、そこではガースが経営する酒場で解放された筈のアビゲイルがなんと床を拭いている。
ホールデン大尉はアビゲイルが差し出したガースの悪事の証拠を掴み、アビゲイルを連れて酒場から脱出するが、アビゲイルを連れて出たことにはアビゲイルに対する感情があったからではなくて、アビゲイルを連れ出せばアビゲイルに感情を抱くガースが後を追ってくると考えたからであった。そうと知ったアビゲイルは心に傷を負い、そこへ現われたガースは駐屯部隊の指揮官を味方につけてホールデン大尉からアビゲイルを取り戻し、取り戻されたアビゲイルは先住民の虜となって命の危険にさらされる。だがそこへホールデン大尉が救出に現われる。新たに与えられた任務を放棄してきたのであったが、先住民のまじない師にコンパスを見せてコンパスの針をまじないで動かしてみろと挑戦し、まじない師が針を指差してこれはそもそも一定の方角を指すのではないかと指摘すると、さらにコンパスのトリックで挑戦し、愚かな先住民に恐怖の念を起こさせてアビゲイルの奪回に成功する。
ホールデン大尉はアビゲイルに愛を告白し、砦に戻って戦争の危機を伝えるが、砦の指揮官はホールデン大尉を任務の放棄と脱走を理由に逮捕して軍法会議に送り込み、そこへ悪党ガースが悪意に満ちた証言をするのでホールデン大尉は死刑の判決を受けて執行を待つ運命となる。そしてアビゲイルはホールデン大尉を救うためにガースの前に身を投げ出し、ホールデン大尉はガースが仕組んだ罠から逃れて救援を呼ぶために道を走る。だが本隊には送り込めるほどの軍勢はなく、砦には先住民の勢力が迫る。そこでホールデン大尉は一計を案じ、白人植民者を危機から救うのであった、とこれだけ書いてもまだエピソードの半分も説明していない。出来はともかく、このてんこ盛りは立派であろう。
昔の映画(と言っても第二次大戦後だけど)なので先住民(劇中でははっきり蛮族と言っている)は野蛮な人々として描かれているが、その野蛮な人々がアビゲイルを火刑にする場面のサディスティックな描写には少々身を引いた。1915年の『チート』と変わらないのである。趣味が一貫しているということになるのだろうか。
ホールデン大尉がゲイリー・クーパー、アビゲイルがポーレット・ゴダード、インディアンの族長をボリス・カーロフが演じている。


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2014年9月10日水曜日

OK牧場の決斗

OK牧場の決斗
Gunfight at the O.K. Corral
1957年 アメリカ 122分
監督:ジョン・スタージェス

ダッジシティの保安官ワイアット・アープはフォート・グリフィンでクラントン一家を取り逃がし、代わりにドク・ホリデイをリンチから救う。ワイアット・アープに救われたドク・ホリデイはダッジシティに現われて恩を返し、二人のあいだには友情が芽生える。ワイアット・アープは女賭博師ローラ・デンボウと恋に落ちるが、そこへトゥームストーンにいるワイアット・アープの兄から連絡が入るので、ワイアット・アープはドク・ホリデイとともにトゥームストーンを訪れ、クラントン一家と対決する。
クラントン一家が画面に登場するまでに1時間と15分ほど。バート・ランカスターとカーク・ダグラスという二大スターの競演自体が重要な見せ場になっていて、カーク・ダグラス扮するドク・ホリデイが自分のために注いだグラスの中身をバート・ランカスター扮するワイアット・アープが飲み干せば、そのあとではバート・ランカスターが自分のために注いだグラスの中身をカーク・ダグラスが横から手を出して飲み干してしまう。真ん中に線を引っ張ってどこまでが対称になっているかを、キャラクターの差分を適当に加えながら眺めているだけでもけっこうなサスペンスがあり、そういう意味では見せ場の連続のような映画である。
冒頭近くでドク・ホリデイにナイフでやられる悪党にリー・ヴァン・クリーフ、クラントン一家の末弟ビリーにデニス・ホッパー、クラントン一家の仲間トム・マクロウリーにジャック・イーラム、ワイアット・アープの弟モーガンにデフォレスト・ケリー、と改めてみると結構なキャスティングになっていて、そういうところも楽しめる。




Tetsuya Sato

2014年9月9日火曜日

リオ・ブラボー

リオ・ブラボー
Rio Bravo
1958年 アメリカ 135分
監督:ハワード・ホークス

バーデット兄弟の弟ジョーが丸腰の男を撃ち殺したので、保安官のジョン・T・チャンスはジョーを逮捕して監禁する。そこでバーデット兄弟の兄ネイサンは多数のガンマンを雇って保安官事務所を監視下に置き、保安官に加勢しようとたくらむ者を排除して弟の釈放を要求する。チャンスは連邦保安官を町に呼ぶが、その到着までには六日がかかり、頼みは自分自身と二人の助手だけ、助手の一人はアル中で、一人は老人で満足に歩けない。
見どころの多い映画だが、やはりここはディーン・マーティン扮するアル中の保安官助手デュードであろう。冒頭、これが浮浪者も同然の姿で酒場に現われ、クロード・エイキンス扮するジョーがその有様を気づいて見せつけるようにグラスを上げ、痰壷に1ドル銀貨を放り込む。デュードは痰壷の口を物欲しそうに見やり、やおらに腰を屈めて拾いにかかると、そこへジョン・ウェイン扮する保安官が登場して痰壷を蹴り飛ばすのである。この間、台詞は一切なし、ただ映像が雄弁なのである。このあとでジョーの殺人を目撃したデュードは保安官助手に復帰してアルコールを断ち、禁断症状に苦しみながら敵の包囲に立ち向かう。ディーン・マーティンが実によい味を出していた。話の主軸はもちろん保安官とバーデット一味との戦いにあるが、その傍らにデュードが復活していく有様が小気味よく配置され、その隣では保安官と女賭博師フェザーズとの恋がなかなかに艶っぽく描かれる。身辺にアンジー・ディキンソンがうろうろしたりすると、いかにジョン・ウェインでも冷静ではいられないのである。ウォルター・ブレナンの口数の多いじいさんぶりもまたよろしいし、リッキー・ネルソンのちょっと小賢しい若者ぶりもまたよろしい。対するバーデット側のガンマンたちはジョーを無傷で取り戻すためにとにかくだまし討ちに専念し、小悪党ぶりを全開にして楽しませてくれる。ハワード・ホークスの演出は無駄がなく、アクションは常にテンションが高い。 

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2014年9月8日月曜日

100万ドルの血斗

100万ドルの血斗
Big Jake
1971年 アメリカ 110分
監督:ジョージ・シャーマン

1909年、メキシコ国境に近いマッキャンドルの牧場をジョン・フェインが率いる無法者の一味が襲って雇い人7人を殺害、ジェイク・マッキャンドルズの孫をさらって百万ドルの身代金を要求するので、現場にいたジェイク・マッキャンドルズの妻マーサは家を出たまま戻らない夫ジェイクを呼び寄せて身代金の輸送と孫の奪還を依頼し、10年ぶりに戻ったジェイク・マッキャンドルズは自分に孫がいると聞いて顔をしかめると息子二人と馴染みのアパッチの四人でメキシコ国境を越え、ジョン・フェインの一味と対決する。 
ジェイク・マッキャンドルズがジョン・ウェイン、マーサがモーリン・オハラ、ジョン・フェインがリチャード・ブーン。ジョージ・シャーマンの演出は水準はクリアしているものの、冴えはない。いちおうのツボは押さえようとした痕跡はあるが、まとめ方は要領が悪いし、たぶん必要以上にひとが死んでいるし、死に方が妙にむごたらしい。再解釈がほとんど入らないまま放り込まれたジョン・ウェインのキャラクターとそうした定式からずれたところに現われる暴力性はどうにも収まりが悪い。『マクリントック』が時代に馴染めないまま晩年を迎えるとこういうことになるのであろうか。
仕上がりのほうはともかくとしても時代の風潮を明確に意識した作りになっていて、異色な点に注目していくとこれはジョン・ウェイン主演のマカロニ・ウエスタンだと言えなくもない。時代背景が20世紀初頭に設定され、冒頭で東部と西部における文明化の度合いが無用なまでにしつこく強調され、テキサスレンジャーは自動車を使い、バイクは派手に岩場を走破し、敵対する双方がスコープ付きのスナイパーライフルで相手を狙い、セミオートマティック(ベルグマン・ベアード?)も登場する。 



Tetsuya Sato

2014年9月7日日曜日

惑星X悲劇の壊滅

惑星X悲劇の壊滅
Queen of Outer Space
1958年 アメリカ 80分
監督:エドワード・バーンズ

アメリカの男たちを乗せたロケット船が謎の引力だかなんだかで金星に引き寄せられて、到着してみると金星はミニドレスにハイヒールの若い女性ばかりの場所で、だいぶ前に男は残らず追放されていて、男を知らない金星美女にアメリカの男たちが男を教えにかかると火山の大爆発が始まって、アメリカの男たちは金星美女を一人ずつ選んで脱出する、というような内容であったと記憶している。こどもの頃にテレビで一度見た切りの映画だが、オリジナルは生意気にもシネマスコープだったらしい。



こちらは『Amazon Women on the moon』(ジョン・ランディス, 1987年)でぶつ切りでテレビ放映される『Amazon Women on the moon』冒頭。



ただ、ジョン・ランディスの『Amazon Women on the moon』は1953年の『Cat Women of the moon』が原型だという話もあって、どちらもおおむね似たような内容の映画だけど、衣装などを見ると『惑星X悲劇の壊滅』が直接の引用元ではないかと思う。

Tetsuya Sato

2014年9月5日金曜日

異国伝/ンダギの民

(ん)

 その昔、とあるところにそれは小さな国があった。あまりにも小さいので地図に載ったことがなかったし、旅行者向けの案内書にも載ったことがない。その国の民は、自分たちをンダギの民と呼んでいた。ならばンダギとは国の名かと尋ねると、そうではないと言う。国の名は別にあって、それは秘密にされていた。異邦人にはもちろんのこと、相手がンダギの民であっても国の名は絶対に口にしてはならなかった。そして口にした者は例外なく罪に問われ、罪に対して与えられる罰は例外なく死刑と定められていた。
 ンダギの民の間では死刑はちょっとした見せ物で、いつでも大勢の見物人が集まった。執行には妙に華やいだ気分がつきまとい、歌の名人が歌を歌えば笛や太鼓が音をあわせ、見物人たちは一斉に踊った。死刑囚も首切り台の上で踊ったし、首切り役人も負けずに踊った。首切り役人が下手に踊るとやじが飛んだ。だから首切り役人は踊りのうまい者から選ばれていたという。やじが飛ぶと、首切り役人のみならず法の威厳もまた損なわれたからである。ちなみに死罪となるのは国の名を口にした者だけで、盗みを働いた者は手を、姦淫を犯した者は鼻を切られた。いかなる疑問も入る余地はない。
 ンダギの民はそれで満足していたが、異邦人の中には余計な疑問を抱く者がいた。ンダギの民がンダギの民に対して国の名を教えることができないのなら、実際に国の名を知る者は一人もいないのではないかと考えたのである。知らない者が知らない事を口にできる筈はない。だとすれば死刑に処された者たちは、偽りの上に偽りを重ねて殺されたのではあるまいか。
 そのようなことはない、とンダギの民は請け合った。罪を犯した者だけが、大法官の前に身を投げ出して罪を告白していたからである。ンダギの民がンダギの民を疑いに基づいて捕えることは決してなかった。だとすれば、と異邦人はさらに余計な疑問を抱く。死刑に処された者たちは、実は偽りの上に偽りを重ねて自殺をしていたということになるのではあるまいか。
 そのようなこともない、とンダギの民は請け合った。まずンダギの民は自殺しない。死刑に処された者は数多いが、自殺をした者は過去に一人もないからである。それにンダギの民は自分の国の名を知っている。知っている筈がないと言われても、知っているのだから知っている。もし知らないということになれば、それは国の名を口にした以上の大罪を犯すことになる。したがって偽りの上に偽りを重ねているということもない。
 国の名を口にした以上の大罪。そう聞いて異邦人は耳を立てる。国の名を口にした者が死刑となる国で、それ以上の罪にはいかなる罰を与えられるのか。それは死刑なのか、それとも死刑よりも恐ろしい罰なのか。
 死刑ではない、とンダギの民は言う。国の名を知らないと告白して大法官の前に身を投げた者は、踵を切り落とされるのである。
 ここでは異邦人は罰の意味について考える。盗みを働いた者が手を切り落とされるというのはよくあることで、罰の意味にも疑問はない。姦淫を犯した者が鼻を切り落とされるというのも、なんとなくわかるような気がしないでもない。ほかのところでなくて幸いだ。国の名を口にした者が死刑になるというのは、いかにも辺境じみてはいるが、それはそういうものだと受け入れられないこともない。だがそれを上回る罪を犯して、なぜ踵が切り落とされることになるのだろうか。
 それは言えない、とンダギの民は顔を背ける。
 法によって禁じられていたからではない。踵の問題に触れることに、どこかやましさを感じていたからである。
 実を言うと、ンダギの民にはいささか特殊な嗜好があった。人間の踵の皮を、最上の美味と考えていたのである。もちろんどの踵の皮でもよいというわけではない。美味の中でももっとも美味とされたのは、春に二人目の子を生んだ女の踵から、晩秋の時期に取れた皮であった。よく脂が乗っていて、心地よい歯応えがあるのだという。
 ンダギの民は幼い頃から踵の皮を惜しむようにして与えられ、長じるにしたがってその美味の虜となっていった。美味に焦がれて自分の踵の皮を食べる者も中にはいたが、それは最低の行為とされていた。美味を味わう以上はしかるべき儀式にのっとって皆で食べ、皆で感想を述べあわなければならなかった。趣味を心得たンダギの民なら、誰の踵の皮がうまいかをよく知っていた。踵の皮がうまいとされた者は社交界の寵児となり、酒を酌み交わす集まりには必ず招かれ、多くの者がその足元にひれ伏した。ただしそうした集まりに異邦人が招かれることは決してない。ンダギの民は野蛮とそしられることを恐れたからである。つまりどこかしらに、自分たちの嗜好を恥じるような気持ちがあったのである。
 恥じてはいない、とンダギの民は言う。異邦人を招かないのは恥じたからではなく、異邦人が新たな美味の存在を知って強欲に駆られるのを恐れたからにほかならない。
 そんなことはしない、と異邦人は主張する。踵の皮がうまいわけがない。
 喜びを知らない者よ、とンダギの民は言う。他人の趣味に鼻を突っ込む暇があれば、国へ帰って他人の女房の脚の間に鼻を突っ込め。
 ンダギの民は決して友好的な民族ではなかった。そもそも愛想のよい方ではなかったし、しつこく質問を続ければ怒りをあらわにすることもあった。怒りの度を越せば槍を手にして挑んできたし、その槍には鋭利な穂先がくくりつけられていた。穂先には、時には毒が塗ってあることもあった。怒りに走りやすい一方で、冷めるのも早かった。だからすぐに許しを乞えば、危険は確実に回避できた。だが威嚇に対して威嚇を返すせば命を落とした。人数や武器で優勢であっても、ほぼ間違いなく命を落とした。ンダギの民は勇猛で、誇り高いことで知られていた。全員が優れた戦士だった。しかも死を恐れていなかった。死んだ者は必ず天国に導かれると信じていたからである。ンダギの民の天国は肥沃な土地で、無数の脚が地面から生えていた。
 そこでは踵の皮が食べ放題だ。
 それが異境の民の天国であった。

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2014年9月4日木曜日

異国伝/惑星の壊滅

(わ)

 その昔、とあるところにそれは小さな国があった。あまりにも小さいので地図に載ったことがなかったし、旅行者向けの案内書にも載ったことがない。理由は簡単で、その国は絶海の孤島にあったからである。もちろん海図にも載っていなかったので、大洋を渡ってこの島を訪れた船はわずかに一隻を数えるのみであった。
 その船には三人の男性優位主義者が乗り込んでいた。祖国の女たちから豚野郎めとの罵りを受け、世をはかなんで国をあとにしたのである。折り重なる波をいくつも越えて大海原をどこまでも進み、イルカと並んで船を走らせ、海で暮らす様々な生物に散々に卑猥な言葉を浴びせながら、楽園を求めて旅を続けた。上陸しては失望とともに船に戻り、凪にはまって渇きに苦しみ、あるいは嵐にもまれて死ぬ思いを味わった。
 そうしながら一年が経ち二年が経ち、そして三年目の終わりにさしかった時、壮絶な嵐に遭遇した。たちまちのうちに帆を奪われ、帆桁は飛ばされ、帆柱は倒れて索具とともに海中に消えた。男たちは叫びを上げて斧を手にして甲板を走るが、その甲板は波に洗われて泡の下に姿を隠す。最後の抵抗のつもりで錨を下ろせば、ただちに怒濤が押し寄せてきて軽々と持ち去った。気がついた時には船は完全に自由を奪われていた。船体は軋んで不気味に叫び、船底には無量の水が溜まり、船首楼では恐怖に脅えた山羊が鳴く。男たちは決死の思いで戦った。ポンプを動かして水を汲み出し、補助の帆を張って船首を風上に向けようとした。身体を舵輪に固く結んで目を見張り、嵐に向かって雄叫びを上げた。戦いながら夜を迎え、夜を徹して戦いを続け、やがて払暁を見た時に男たちは勝利を宣言した。風はまだ吹き荒び、波は大きくうねっていたが、すでに危機は脱していた。だが、かなり流されていた。どこにいるのかわからなかった。夜明けを待って一人が天測をおこなった。そこは海図に記されていない未知の海域であった。そして船は修理を必要としていた。嵐には勝ったが、船は航行能力を失っていたのである。
 男たちは漂流していた。七日目に水が尽き、九日目には食料が尽きた。十日目に空を舞う鳥を見て、その翌日に島影を見つけた。男たちは島に上陸した。
 驚くべきことに、そこは女ばかりの島であった。女たちは皆若くて美しかった。三年にわたる航海の結果としてそう見えたのではなく、事実としてそうであったと伝えられる。しかも着ている服は身体をわずかに覆うばかり、足には踵の高いサンダルを履いていたのではなはだしく扇情的な姿に見えた。軍隊に属する女たちは、同じ服装で装飾的な槍を携えていた。船を出迎えたのは槍を持った女兵士で、海岸のその場所がたまたま岩場であったことから踵の高いサンダルが災いとなり、兵士たちは次々と滑って傷を負った。
 男たちは耳慣れぬ言葉を話す女たちに捕えられ、その国の宮殿に連行された。やがて女王が姿を現わしたが、これは絶世の美女であった。ただし仮面をかぶっていたと伝えられている。不思議なことに女王は男たちの言葉を流暢に話した。すると残りの女たちも男たちの言葉を話すようになった。時間を節約するためであろう。女王は男たちに滞在を許し、船の修理に要する資材の提供を約束した。
 さて、男たちが船の修理に励んでいると、女たちが好奇の視線もあらわに近づいてきた。聞けば島の女たちは男を見たことがないという。男性優位主義者たちはこれに勝る機会はないと考え、女たちの教育を始めた。いかなる教育がおこなわれたのかは定かではないが、教育と称して何も知らない女性に接吻を強要したり、あるいは肉体的な接触を求めたりした模様である。三人の男は教育の成果としてもっとも従順な女を三人選び、それぞれの妻とした。だがこのことはやがて女王の耳に入り、怒りを覚えた女王は男たちを捕えさせた。三人の男性優位主義者は抗議とともに説明を求め、女王は応えてその国の秘められた歴史を遂に明かした。その国では過去に男たちがすべてを恣にしたので、女たちの怒りを買って滅ぼされたというのである。三人の男の運命もまた明らかであった。
 わずらわしいので子細は省くが、男たちが危機一髪という時、突然火山の爆発が島を襲った。恐ろしい傷を仮面で隠していた女王は燃え盛る溶岩に飲み込まれて死に、男たちはそれぞれの妻を伴って島から逃れた。海を渡って祖国に戻り、そこで島の女たちは自分の夫がいずれも男性優位主義者であるという事実を知らされた。そしてもちろんその事実を補強する事実を経験によって知っていたので、ただちに祖国の女たちに与すると自分の夫を豚野郎と罵った。島は七割までが海中に没し、航路が開拓された現在では船舶の通行の障害となっている。

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2014年9月3日水曜日

異国伝/老人の偉大

(ろ)

 その昔、とあるところにそれは小さな国があった。あまりにも小さいので地図に載ったことがなかったし、旅行者向けの案内書にも載ったことがない。荒涼とした高原の彼方にあって青い霞をまとって横たわり、その国を目指す旅人は道標の代わりに星を見つめた。乾いた風を押し切って石のごろつく荒野を渡り、苦労の末に辿り着くとそこには清涼な泉があり、実を稔らせた木々があった。だが土地の者は貧しく、楽しみを知らず、ただ生きるために日々を費やした。訪れる隊商は珍しく、他国との交渉を知らなかった。
 そこは隔絶した場所で、そこで生まれた者の多くは、そのままそこで生涯を終えた。歩くことを覚えたこどもは親を手伝って水を運び、やがて力を備えると父親の隣で鋤を引いた。若者となれば鍬を振るい、あるいは汗を拭って鎌を振るい、やがて収穫の分け前を得るようになると速やかに所帯を構えて子をもうけた。仕事に明け暮れて年を稼ぎ、子を導いて人生の盛りの時期を迎え、子が肩を並べたことに気づいて人生の盛りの時期を終えた。人生の盛りの時期を終えると、心に風が吹き始める。心に風が吹き始めた者は気鬱を訴えて塞ぎ込んだ。働くことをやめ、食べることをやめ、そうしているうちに風は心を満たして外に溢れ、身体をめぐって臓腑の隙間に入り込み、頭や手足の先へ達していく。
 老いの時期を迎えた者は、内側の風に吹かれて大きくなった。風に馴染めば馴染むほど、身体は大きく、そして希薄になっていった。子の顔を再び見下ろすようになり、かざした掌の向こうに孫の顔を見るようになると、老人は家から出ていった。希薄な身体は壊れやすかった。家に残れば天井で頭を打つかもしれなかったし、孫がぶつかってくるかもしれなかった。仮に家に残っても、できることは何もなかった。家族の声は蚊の囁きのように聞こえたし、自分の声は家族の耳に届かなかった。懸命に喉を震わせても、音となって口から出ることはなくなっていた。物を持ち上げることもできなかった。希薄な身体は食べ物も水も受けつけなかった。だから老人は黙って家を出た。家族は静かに見送った。
 外へ出れば、老人は一人ではない。通行人に注意して通りを歩き、町のはずれまで進んでいけば、そこにはほかの老人がいた。様々な大きさの巨人が荒野に佇み、ある者はまだ小さくて色を保ち、ある者は大きくて背後の風景と混ざりあい、またある者は巨大となって大気の中に薄められ、わずかにかつての輪郭を保つ。老人たちは希薄の度合いに応じて仲間を作った。仲間同士であれば言葉を交わすことができたからである。
「どうかね?」 

「まあまあだ」 
 風が身体を満たしているので飢えを感じることはない。気鬱の病はすでに去り、不思議なほどに心は軽い。思い出話に花を咲かせ、笑いで希薄な喉を振るわせた。時には家族が老人たちの居場所を訪れ、家のことや畑のことを報告する。老人たちに聞くことはできなかったが、それでも聞くふりをして頷いた。すべきことはもう何もない。
 時間の経過にしたがって、希薄の度合いが増していく。風に希釈されて、どこまでも大きく広がっていく。輪郭だけを残した者が、その輪郭すらも失って消えていくのを見ることがある。一人が消えると、残された者たちは夜空に瞬く星を見上げた。
「あれは、消えたのではない」と一人が言う。
「そう、広がっていったのだ」と一人が頷く。
 そして残された者は眠りに就き、新たな日を数えて空へと広がっていく。

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2014年9月2日火曜日

異国伝/冷気の感触

(れ)

 その昔、とあるところにそれは小さな国があった。あまりにも小さいので地図に載ったことがなかったし、旅行者向けの案内書にも載ったことがない。雪を抱いた険しい山の裾にあって住民の多数は農耕に励み、残りは杖を携えて羊の群れを導いた。豊かではなかったが、貧しくはなかった。水と光に恵まれて、生きるのに十分なだけの収穫を得た。それぞれの者はそれぞれの畑と家を持ち、家にはいくらかの貯えを置き、中には牛を飼う者もあった。羊飼いだけが共同の小屋で暮らしていた。多くを知ることも多くを望むこともなく、ある物によって足ることを知り、たまに訪れる行商人は総出で迎え、羊毛の代価として身を飾る小物を得るのを楽しみとしていた。
 その国を旅していると、不意に異様な感触を覚えることがあった。耳や首筋に冷たい手が触れるのを感じて、驚いて振り返っても誰もいない。寂しい道でも多くのひとが集まる場所でも、時には寝台の温もりの中でも、冷たい何かが現われて、身体のどこかに触れていった。昼の光の中で目を凝らしても、それを見ることはできなかった。土地の人々はそれを手と呼んでいた。誰の手かは知らないが、と言って皆で笑う。初めは誰もが驚いたが、二度三度と遭遇するうちに気にしなくなった。ただ触っていくだけで、ほかには何もしなかったからである。ひどく冷たいのが迷惑ではあったが、特に言うべき害はなかった。
 手は大昔からそこにいて、大昔からそうしていたという。昼夜の別なく現われて、かつては父祖の身体に触れ、今は子孫の身体に触れていた。だから手は父祖との絆だと言う者がいた。手は冬でも現われ、夏でも現われ、そしていつでも同じように冷えきっていた。陽が照っても雨が降っても、雪が降っても手の冷たさは変わることがない。だが不作の年には、手はいつもより冷たくなるのだと言う者がいた。
 その国の人々は手に親しみを抱いていた。いきなり触られて冷たさに驚いても、決して邪険にはしなかった。病の床にある時に、手が額に触れていったことを覚えている者がいた。憤って顔を赤くした時に、手が頬に触れたことを覚えている者がいた。多くの者が、手がいつ、どこに触れたかを覚えていた。だからその国の人々は、手は癒し慈しむのだと考えていた。
 ある時、その国を危機が襲った。北方から騎馬の民が押し寄せてきたのである。王を抱かぬその国には軍と言える軍がなく、呼集に応じた民兵団は一瞬で全滅した。使者となって話をつけに赴いた者は、布の袋をぶら下げて戻った。袋の中には、使者の首が入っていた。騎馬の軍勢は家を焼き、畑を荒らし、羊を殺した。男も女も等しく首を刎ね、こどもと見れば足を掴んで手近の壁に叩きつけた。
 その晩も一軒の家が焼かれた。一組の夫婦が首を刎ねられ、多くの羊が焼き殺された。だが幼い娘は生き延びて、畑の中に逃げ込んだ。少女は蹄が土をえぐる音を聞きながら、畑の中を這って逃げた。松明の炎が頭上を駆け抜け、遠ざかってはまた近づいた。息を殺して唇を噛み、少女はただひたすらに逃げ続けた。やがて蹄の音は彼方に去り、松明の炎も見えなくなった。畑を抜け出して腰を上げ、間近に見える茂みの奥に飛び込んだ。途端に尖った枝が身体に刺さり、少女は血のにじんだ唇を噛み締めて大きな悲鳴を飲み込んだ。それから潅木の枝を押し分けて、隙間から家の様子をうかがった。家が燃えていた。燃え上がる炎を背にして多くの騎兵が行き交っていた。少女は身体を丸めて泣き始めた。
 火照った頬に冷たい手が触れるのを感じて、少女は顔を上げた。手は少女の頬を撫で、冷たい指先で涙を拭い、額に触れてそこで止まった。少女はなおも涙を流し、手が髪を撫でるのを感じながら間もなく眠りに落ちていった。
 馬の嘶きを聞いて目覚めた時には、まだ家が燃えていた。赤い炎に照らされて、騎馬の軍勢は大混乱に陥っていた。
 馬は棒立ちとなって騎兵を落とし、騎兵は見えない敵を探して剣や槍を振り回す。ただ闇雲に辺りを走り、誤って味方に傷を負わせ、あるいは誤って燃え上がる炎に飛び込んでいった。混乱の中で恐れを感じた一人が逃げ出すと別の一人が後に続き、さらに続こうとした多くの者が逃げるための馬を得ようと混乱に拍車をかけていく。味方同士で殺し合い、乗り手を失った馬を残し、生き延びた者は北へと去っていった。
 夜明けを迎えた後、少女は土地の者に救い出された。養い親に引き取られて健気に育ち、時とともに多くのことを記憶の底ににじませていった。だがその時に手がどこに触れ、またどのように触れたのか、それを忘れることは決してなかった。

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2014年9月1日月曜日

異国伝/留守の心得

(る)

 その昔、とあるところにそれは小さな国があった。あまりにも小さいので地図に載ったことがなかったし、旅行者向けの案内書にも載ったことがない。その国に至る道は暗い森にはさまれて木の根にしだかれ、緑の苔に埋もれていた。森の先では水を豊かにたたえた泉が静謐の底に横たわり、道は泉を回りながら生い茂る草の中へ消えていった。泉を背にして奥深い木立を抜けていくと、川のせせらぎが聞こえてくる。木立の先には野原が広がり、野原の中央には壁に蔦を絡めた町があった。町にひとの気配はない。辺りには一つの人影もない。
 ある時、一人の旅人がふとした気まぐれから街道を離れて森へ踏み込み、泉の脇を通って木立をくぐり、町の前に立って門を叩いた。一夜の宿を求めるつもりであったのか、それとも単なる好奇心からそうしたのか、いずれであったのかは知られていない。何度叩いても返答がないので壁を伝って調べていくと、開いている通用門が見つかった。
 旅人は町の中へ入っていった。狭い石畳の道が縦横に走り、道の両脇には窓を並べた家々が層を重ねる。だが路上に人影はなく、家の中にもひとが動く気配はない。息をひそめる者もない様子で、耳を澄ましても物音一つ聞こえない。料理の匂いもしなければ、汚物の臭いもしなかった。よくよく見れば傾いでいる看板があり、鎧戸ははずれかかって窓から下がり、いくつかの家ではたわんだ壁が傾いていた。町が住む者を失って久しいことは明らかであった。どの家もくすみ、荒廃の兆しの中で佇んでいた。いずれは朽ち果てて消える運命にあった。ところがよく見ると補修を受けた痕跡がある。縄を巻きつけて傾きを直した看板があり、板を打ちつけて窓に止めた鎧戸があり、真新しい丸太を斜めにあてがわれた壁があった。いかにも不器用ではあったが、ひとが手を入れた跡には違いなかった。旅人はいぶかり、それから一軒を選んで中へ入った。
 そこは商人の家であった。足を踏み入れると同時にすえたような臭気が顔を覆う。床には藁の残骸が散り、蜘蛛の巣が垂れ下がる棚には大きな樽が並んでいた。樽の一つに寄って栓を抜くと、中から琥珀色の液体が迸った。匂いに誘われて鼻を近づけ、舌を差し出して味を確かめた。葡萄酒はひどく枯れた味がした。栓を戻して、奥の部屋へ入っていった。壁に大きな炉が穿たれ、棚にはいくつもの壺が並び、部屋の中央にはがっしりとした食卓が置かれていた。壺の底では干涸びた種や干涸びた葉が見つかった。床には水甕が置かれていたが、中には一滴の水も残っていない。食卓の上は白い埃で覆われていた。
 旅人はさらに奥へと続く扉を開けた。扉の向こうには柱廊をめぐらした中庭があり、中庭の中央では水盤に水が貯えられていた。旅人は水盤の前に進んで顔を上げた。頭上には吹き抜けを囲んで鎧戸を下ろした窓が並ぶ。旅人はそこで初めて声を出した。
「誰か、いませんか?」 

 だが返答はなく、辺りに動く物の影はない。もう一度呼びかけてから、柱廊の奥に見える両開きの扉に近づいていった。
 そこは主人の部屋であった。広くはないが多くの物が壁に並び、床にも木箱や小箱の山があった。どれもが埃をかぶり、小振りな机は蜘蛛の巣に覆われている。旅人は机に歩み寄り、蜘蛛の巣をはらって顔を近づけた。机の上に、蝋をこびりつかせた小さな燭台が転がっていた。旅人は燭台を手に取った。指の先でくすみを擦り、目の前に掲げてじっと睨んだ。そして燭台を素早く懐に隠し、振り返ったところで剣の切っ先と対面した。
 剣を握っていたのは白髪を乱した男であった。顔は白い髭に埋もれて目と鼻以外は見ることができない。吊り上がった目は血走り、尖った鼻はわずかに赤みを帯びていた。
「そいつを戻せ」 

 そう言いながら男は剣を突きつけた。
 旅人は頷いて、手を懐に差し入れた。
「ゆっくりとだ」 

 旅人は再び頷き、ゆっくりと燭台を取り出して男に差し出した。すると男は首を振り、剣の先で旅人の背後を指し示した。
「元へ戻すんだ」 

 そこで旅人は男に背を向け、机の上に燭台を戻した。振り返って両手を上げたが、男は剣を下ろそうとしない。
「よし。ほかに盗んだ物は?」 

「葡萄酒を少し」 
「そいつは大目に見てやろう。そのほかには?」 
「何も。着いたばかりだ」 
「嘘だったらただじゃおかねえから、そう思え」 
「本当だ。何も盗ってない」 
「誓え」 
「誓う」 
 ようやく男は剣を下ろし、それから背後に顎をしゃくってこのように言った。
「町から出ていけ」

  だが旅人は拒んだ。男が身分を明かしていなかったからである。家の者には見えなかったし、下働きの者だとしてもいささか汚れ過ぎていた。まして役人とは見えず、むしろ泥棒のように見えてならなかった。泥棒だとすれば邪魔者を追い出した後で何を始めるかは明らかであり、そうであるとするならばただ引き下がって独占を認める理由がない。旅人は泥棒ではなかったが、機会を見過ごさない程度の柔軟さを備えていた。旅人が身分を尋ねると、留守番であると男は答えた。
 町が無人となった事情については、男は何も知らなかった。男は自分の父親から仕事を継ぎ、父親もまたその父親から留守番の仕事を引き継いでいた。仕事のためには留守番の心得が残されていて、それによれば男は無人の町における法の執行者であり、資産の管理人であり、また同時に修繕も掃除もする用務員でもあった。無法者を追い払い、なくなる物がないように注意を払い、壊れたところがあればそこを直し、あるいはそれ以上壊れないように対策を講じる。掃除は嫌いだと溜め息をついた。一人ではとても手が回らないとうなだれた。仕事以外のことも、すべて一人でこなさなければならなかった。朝には水を汲み、昼には薪を割り、夕には火を焚いて食事を作った。その合間に仕事をこなし、畑の手入れにも気を配るので夜には疲れ果てているという。
「でもよ、食うには困らねえ。誇りだって感じてる」 

 男はそう言いながら、旅人を門まで見送った。門の前で、旅人は足を止めた。そして男に歳を尋ねた。よくわからない、と男は答えた。男の後は誰が仕事を継ぐのかと尋ねると、息子が継ぐという返答がある。その息子はどこにいるのかと尋ねると、男は笑みを浮かべて腹を叩いた。
「さあな。ここかもよ」 

 それから真顔になって、町のことを口外しないようにと旅人に頼んだ。旅人が約束すると、礼だと言って小さな宝石を差し出した。町の資産の一部だが、経費として認められているという。旅人は留守番に挨拶を送り、留守番は旅人に挨拶を送って町の門を固く閉ざした。
 旅人は約束を守らなかった。国へ戻ると酒を飲んで宝石を見せ、手に入れた経緯を周りの者に話して聞かせた。町に眠る財宝について、多少の尾鰭をつけたことは言うまでもない。盗賊どもは話を聞いてすぐに飛び出し、行動力で劣っていても残忍さでは負けない者は旅人を殺して宝石を奪った。旅人の死後も話は残ってひとの口から口へと伝えられ、やがて噂となって王の耳に届けられた。王は話に関心を抱き、兵を送って留守番の男を捕えさせた。町にはすでに盗賊どもによって火が放たれていた。男は焼け跡に立ち尽くしていたところをおとなしく捕まった。王は男に拷問を加えた。だが男は最後まで口を割ろうとしなかったので、男の腹から子を得る方法は明かされることなく闇に消えた。

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