2013年5月31日金曜日

アマルフィ 女神の報酬

アマルフィ 女神の報酬
2009年 日本 125分
監督:西谷弘

テロ対策を専門とする外交官黒田康作がテロの予告を受けてローマに現われ、そこで日本人観光客の娘が誘拐される事件にかかわると、誘拐犯が実はテロを計画していたという、ひとつ間違えばすべてがすれ違っていたであろう危ういプロットが怖かった。
驚きはローマやアマルフィの風景にまったく魅力がないことで、どちらもテレビドラマに出てくる東京のようにぺったりとしていた。よほどの短期間のロケだったのでフレームをまともに決めている時間がなかったか、そもそも風景にまったく興味がなかったか、それともその両方なのかはわからないが、BSでやっているイタリアののどかな村の番組のほうがよほどきれいに撮れているのではないだろうか。
ただ、それはそれとしても空間的に広がりのあるドラマを作ろうという野心は見えたし、そのモチベーション自体は好ましいと思うので、あとはそれをテレビの二時間ドラマからいかにして映画に格上げするかであろう(ショットが長い、何かと言えば間を取りたがる、意味のない会話で時間を取る、感情表現が目に見えないといけないと思い込んでいる、結局のところでたらめに見える、といったどこかのアサイラムが染まっているような悪癖とはそろそろ決別したほうがいいと思う)。女性(特に天海祐希)を事実上の無能力者として扱おうとする視点が気に障った。いまどき、あれはないのではないか。


Tetsuya Sato

2013年5月30日木曜日

恋空

恋空
2007年 日本 129分
監督:今井夏木

高校一年生の美嘉はなくした携帯を図書室で発見するがアドレス帳がことごとく削除されて、そこへ電話をかけてきた声の主が自分の犯行であることを告げ、美嘉に関心を抱いているなら美嘉からかけるまでもなくかけてくるはずであるとアドレス帳の無効を宣言して、夏のあいだ名前も姿も隠したまま電話によるコンタクトを保ち、9月の始業式で初めて姿を現わすと美嘉とヒロとは恋仲になり、美嘉はヒロの部屋で交接を経験し、美嘉はヒロの前の恋人の差し金でお花畑でレイプされ、さらに悪評をふりまかれ、美嘉は必ず美嘉を守ると宣言するヒロに抱かれて図書室で再び交接を経験し、美嘉がこの交接によって妊娠するとヒロはそれまでの金髪を黒髪にしてスーツ姿で美嘉の両親の前に現われ、美嘉はヒロとともに生まれてくる赤ん坊のことを考えて未来の家族を夢に描き、美嘉はヒロの前の恋人に突き飛ばされて流産し、ここまでで高校一年のクリスマスなので展開が速いのに驚くが、高校二年の春になると美嘉はヒロから別れを言い渡され、美嘉はヒロに心を残したまま高校三年になって大学生の恋人を作り、それから大学生になり、その一年目のクリスマスイブに美嘉がヒロが自分の前から去った理由を知り、美嘉はヒロの病床にかけつけ、美嘉は死の床にあるヒロの看病にふけり、美嘉はヒロを見送り、美嘉はヒロの日記からヒロがつねに美嘉を見ていたことを知り、それらすべてを三年後に思い起こして感慨にふける。
つまりヒロインは純愛という自分の劣情にしたがって男を消費したのである。男は悲劇の渦中に置かれたヒロインの劣情に奉仕するために登場し、セックスもレイプも状況を確保するための記号に過ぎず、ヒロインの身に何が起ころうとすべては同じ次元で展開し、ヒロインは決して実質的な被害を受けないので物理的なリアリズムを必要としない。たった一つの目的に沿って思いつく限りに雑念を並べているという点でまったく無駄のない、揺らぎのない内容であり、その内容はことさらに淡々とした演出によって噛まずに飲み込めるものとなっている。ヒロインの退屈さも含めて、おそらくはデザインされた結果であろう。TSUTAYA ONLINEのアンケートで十代から三十代の女性から泣ける映画ナンバーワンに選べれているというのもうなずける。ただし正確には泣ける映画ではなく抜ける映画と言うべきかもしれない。


Tetsuya Sato

2013年5月29日水曜日

愛のむきだし

愛のむきだし
2008年 日本 238分
監督・脚本:園子温

カトリックの家に生まれたユウは小学生の頃に母親を亡くし、父親テツはユウが高校生となる頃に神父となり、父親と息子は司教館で暮らしていたが、そこへカオリと名乗る女が現れて父親を誘惑し、結婚を迫るので誘惑に負けたテツは別宅にユウとカオリを住まわせるが、間もなくカオリは姿を消し、テツは息子に罪を求めて告解を迫り、生来温和なユウは父親を喜ばせるために罪を作り、不良グループの仲間となって喧嘩や万引きなどをしていたが、聖職者から見てもっとも罪深い罪ということで仲間から入れ知恵されてパンチラの盗撮をたくらんで、その道の達人から特訓を受けてすぐに名人の域に達するものの、当然、父親からは勘当同然の扱いを受け、そのことによって神父と信徒のあいだの関係が消え、父子関係がよみがえったなどと喜んでいるうちに再びカオリが過去の男の連れ子ヨーコを連れて姿を現してテツとの関係回復を求め、そのヨーコは謎の集団に襲われて通りかかったユウに救われ、そもそも自分のマリアを探し求めていたユウはヨーコにマリアを発見するが、実はユウの周辺では邪教ゼロ教会の魔手が迫り、その支部長のコイケは神父を教団に取り込むことで一挙に雑魚信徒を稼ぎ出そうとたくらんでいて、ユウの前にヨーコが転校生として現れたに続いて自らも転校生となって現れ、ユウとヨーコの関係を撹乱し、ユウの所業を暴き、ユウが家から追い出されたのを機に一家を教団に引きずり込むので、事情を知ったユウはヨーコを救い出すために仲間とともに活動を始め、とりあえずヨーコの奪還に成功するが、結局は自身も教団に捕らわれて修行を受ける身となり、今度は内部から情報に近づいて準備を整え、単身、教団本部に乗り込んでいく。
ほぼ四時間の長尺だが、明瞭なキャラクターとリズミカルな場面つなぎ、パワーのある演出と細部への丹念な作り込みのおかげで退屈しない。主筋だけに注目すればおかしいところがけっこう目立つし、オウム真理教に酷似した教団の層に厚みがないといった欠点も見える。好みからすればややラディカルだし、象徴表現がやや単調だし、性的な表現に寄り過ぎてもいるが、プロセスをなおざりにせずに細部を描き込んだ結果としての四時間であり、それを緩ませもせずにまとめ上げた技術と体力はたいへんなものであろう。作り手のこだわりが見え、充実感がひしひしと伝わってくるのは、とにかくうれしいものである。


Tetsuya Sato

2013年5月28日火曜日

たそがれ清兵衛

たそがれ清兵衛
2002年 日本 129分
監督:山田洋次

出羽海坂藩の平藩士井口清兵衛は妻に労咳で先立たれ、借金のほかにも惚けた母親と二人の娘を一人で抱えて苦しい生活を強いられている。同僚とのつきあいもことごとくを断り、夜の時間は虫かご作りの内職に費やし、風呂に入る間もない有様で悪臭を漂わせながら無精髭を顔にたくわえ、着物に裂け目ができて足袋に穴が空いてもつくろう手段がないような有様であったが、一方、子供たちの成長を間近に眺めて幸せを味わい、庭を畑に変えて百姓仕事に精を出していると、自分には百姓があっていると実感する。そうした日々を送るうちに、ある日のこと、旧友飯沼の妹朋江が前に現われる。朋江は嫁ぎ先に離縁して実家にもどったところであった。幼なじみの二人は旧交を暖め、日没の後、清兵衛は朋江を家に送る。そこでは朋江の前夫が酒の勢いにまかせて旧友飯沼に喧嘩を売っており、来合わせた清兵衛は代人として名乗りを上げると、その場で果たし合いの日時が定まってしまう。相手は使い手ということであったが清兵衛はそれを木刀で打ち据え、噂はたちまち藩内に広まってあれは使い手であったかという噂が流れていく。以来、朋江は清兵衛の家に頻繁に出入りするようになり、やがて清兵衛は旧友飯沼から朋江との結婚話を持ち込まれるが、清兵衛は五十石取りの平藩士の生活の辛さを理由に話を断る。朋江が清兵衛を訪ねることはなくなり、跡目問題で藩内は騒然となり、権力争いが終結を見て城代家老が新たに決まると、その城代から藩命が下り、清兵衛は使い手で知られた一人の藩士を切らなければならなくなる。そこで清兵衛は朋江を呼び寄せて支度を頼み、自らの胸の内を朋江に伝えて戦いの場へとおもむくのであった。
藩士の生活というのを淡々と描いて、そのあたりの描写はなかなかに興味深い。真田広之、宮沢りえは非常によい演技をしていると思うし、場面の一つひとつがきちんとこなされているのはやはり監督の力量であろう。生活描写はとにかく魅力的なのである。それだけにドラマの作りの悪さが残念でならない。娘のナレーションを主軸にした外枠はおそらく完全に不要な部分である。妻に先立たれて、という部分もおそらく不要であろう。生活が大変で、という説明の口実にしかなっていないし、朋江ちゃんが好きだったんでがんす、では死んだ妻の立つ瀬がない。清兵衛の生活をもっと平坦なものにして、話を絞り込んで20分短くしたら傑作になっていたかもしれないと思うのである。 


Tetsuya Sato

2013年5月27日月曜日

酔いがさめたら、うちに帰ろう。

酔いがさめたら、うちに帰ろう。
2010年 日本 118分
監督:東陽一

塚原安行は帰宅して血を吐いて病院へ運ばれ、ガンマGTPが危険領域を突破していることが検査でわかり、断酒を決意して通院するものの、すぐにアルコールに手を出したため、精神病院に入院して治療を受け、アルコール依存症はどうにか克服するものの、腎臓は癌に冒されている。という話の合間に離婚した妻が子供を連れて、家族同然のように親しみを込めて塚原安行を励ましたりする。
塚原安行のモデルは鴨志田穣で、元の妻は西原理恵子になる。浅野忠信をはじめ、出演者はおおむねにおいてがんばっているように見えたが、東陽一による脚本は素人芝居の悪い見本のようであり、場面の構成はひとりよがりで、ダイアログに抑制がない。そして東陽一による編集はひとりよがりで、連続性の乏しさをダイアログに依存している。とはいえ、もっとも決定的な欠陥は、ところどころにインサートされる西原理恵子の絵のほうがよほどに雄弁に見えるという事実であり、その事実に気がつかないまま、西原理恵子の絵をそのまま使っている鈍さにある。 





Tetsuya Sato

2013年5月26日日曜日

少年メリケンサック

少年メリケンサック
2008年 日本 125分
監督・脚本:宮藤官九郎

レコード会社の契約社員栗田かんなは契約切れ間際になって謎のパンクバンドを発見し、社長からコンタクトを取るように命じられるが、実際にコンタクトをしてみるとこれが20年前に解散したバンドでメンバーはことごとくおじさんになっており、これはやばいと栗田かんなが考える間もなく社長がネットに流した映像は相当なアクセス数を稼ぎ出し、ツアーの日程もいつの間にか決まってしまっているので逃げ場がなくなり、奇跡を期待してつきあい始めると奇跡が起こる、というような内容である。
宮崎あおいは文句なしにかわいらしいし、少年メリケンサックのメンバー(特に木村祐一)も悪くないし、まるっきりGACKTなTELYAが歌う「アンドロメダおまえは」もなかなかにすごいし、けっこういい場面もそれなりにあるにもかかわらず、全体としてのリズムがとにかく悪い。不器用につなぎあわされたテレビのミニシリーズのように見えるのである。キャラクターの造形にやたらと時間をかける一方、映像で何を表現するのかをあまり考えていないのではあるまいか。 




Tetsuya Sato

2013年5月25日土曜日

さんかく

さんかく
2010年 日本 99分
監督:吉田恵輔

百瀬(30歳)と佳代(29歳)のカップルが同棲している部屋へ佳代の妹、桃(15歳)が夏休みのあいだ滞在し、百瀬は桃のなれなれしい態度に接しているうちに次第に桃に引き寄せられ、桃が実家へ帰ると百瀬は桃の留守電にしつこくメッセージを残しながら佳代との関係解消を宣言して部屋を出るので佳代は事実上のストーカーと化して百瀬を追い、神出鬼没で百瀬の生活を脅かしてから百瀬の前で自殺未遂を演出して病院へ運ばれてそれを最後に百瀬の前から姿を消し、百瀬は桃を求めて桃の実家に接近し、そこで桃と桃の男子同級生と遭遇して同級生からストーカーとなじられて袋にされ、そこでようやく自分のばかさ加減に気がつくと、桃の実家は佳代の実家でもあったので目の前に佳代が姿を現わし、佳代の愛情過剰を見せつけられて佳代との関係修復を思い至ったところでまた桃の男子同級生が現われて百瀬のストーカーぶりを非難する。ちなみに桃もまた東京を訪れたときに学校の先輩を追いかけるので、主要登場人物三人がなんらかの形でストーカー行為をしていたことになる。
百瀬と佳代のキャラクターの立ち上がりがやや遅くて(あるいはこちらの理解が悪いのか)序盤でやや戸惑いを感じたが、人物造形がはっきりしてくると映画の動きが見えてきた。こまかなカットを重ねることで事実上の三重ストーカーという構成を破綻なく収めており、ところどころに感心できる演出もあって水準の作品には仕上がっているが、惜しむらくは周辺人物がうまく消化されていない。




Tetsuya Sato

2013年5月24日金曜日

吸血鬼ドラキュラ

吸血鬼ドラキュラ
Horror of Dracula
1958年 イギリス 82分
監督:テレンス・フィッシャー

身分と真意を偽って城に潜入したジョナサン・ハーカーは女吸血鬼を倒すことに成功するものの、ドラキュラに血を吸われて吸血鬼となる。ハーカーの行方を追って城を訪れたヴァン・ヘルシングは変わり果てたハーカーを見つけるが、ドラキュラはすでに逃げたあとであった。ドラキュラは女吸血鬼を殺された報復としてハーカーの婚約者ルーシーを吸血鬼に変え、ルーシーの兄アーサー・ホルムウッドの妻ミナにも手にかけるが、ヴァン・ヘルシングによって追い詰められ、朝日を浴びて滅ぼされる。
中盤以降の展開は早く、演出もスピード感がある。ブラム・ストーカーの原作は大幅に圧縮され、登場人物も大幅に改変され、クリストファー・リー扮する吸血鬼はベラ・ルゴシのような重たさはまったくなくて、軽快で、ほとんど何も考えていない。不動産屋をかどわかして屋敷を購入して、というような面倒なことも一切しないのである。ただ悪事が見つかると逃げるだけ。ということで、そのへんの犯罪者とあまり変わりがない。思いきりはよいと思う。


Tetsuya Sato

2013年5月23日木曜日

魔人ドラキュラ

魔人ドラキュラ
Dracula
1931年 アメリカ 74分
監督:トッド・ブラウニング

ドラキュラ伯爵が不動産屋レンフィールドをしたがえてイギリスを訪れ、セワード博士の娘ミナを狙い、ヴァン・ヘルシング教授の杭によって滅ぼされる。ブラム・ストーカーの原作に基づくブロードウエーの舞台劇からの翻案、ということで、登場人物は大幅に圧縮され、後半はセワード博士の屋敷からほとんど一歩もでないまま、ヘルシング教授とドラキュラ伯爵の対決が続けられる。一室から出ないで二人劇、という形まで圧縮していたらもっと面白かったであろう、と思うのはいまだから、であろう。ベラ・ルゴシの怪人ぶりはなかなかにすごいが、前向きに鑑賞するためには大時代な感情移入を必要とする。


Tetsuya Sato

2013年5月22日水曜日

バーナード・アンド・ドリス

バーナード・アンド・ドリス
Bernard and Doris
2006年 アメリカ/イギリス 103分
監督:ボブ・バラバン

どうやらアルコールで問題を起こしたことのあるバーナード・ラファティは大富豪で独身で年の割には少々ふしだらにも見えるドリス・デュークの執事となり、献身的に仕えて信頼を勝ち取り、アルコールでまた問題を起こして信頼を失うが、ドリス・デュークが卒中に襲われて病床に横たわると再び現われて献身的な看護を続け、ドリス・デュークの死後はめでたく遺言の執行人となる。
執事がレイフ・ファインズ、大富豪がスーザン・サランドン。コメディに分類されているが、精神的に不安定な要素を抱えた中高年男女が地雷原で手榴弾を投げ合いながらじゃれているような場面が最初から最後まで延々と続く事実上のホラーである。この半端ではなく怖い映画をボブ・バラバンは端正で古典的な演出で仕上げ、レイフ・ファインズ、スーザン・サランドンはきわめて水準の高い演技を披露し、特にスーザン・サランドンは印象に残る。

Tetsuya Sato

2013年5月21日火曜日

イン・ハー・シューズ

イン・ハー・シューズ
In Her Shoes
2005年 アメリカ 131分
監督:カーティス・ハンソン

姉は法廷弁護士で、すでに三十を過ぎていて、容姿容貌に自信がなくて、自分の食欲と太ることを警戒していて、自分自身の存在証明については社会的な関係に強く依存している。妹は二十代の後半で、容姿容貌にしか自信がなくて、読書能力と計算能力に障害があり、安易な男性関係に流れる習性があって、嘘つきで手癖が悪くて、どんな仕事をしても長続きしない。
姉がトニ・コレット、妹がキャメロン・ディアス。
姉はずべ公の妹を重荷に感じているし、妹は淡々とずべ公をしながらどこかで劣等感を抱いていて、傍目には仲が悪いように見えても実は姉妹の絆は強かった、という話に祖母、父親とその後妻、会社の上司、同僚、たくさんの犬などが出入りする。
心に軋轢を抱え、迷いを抱いた現代人の再出発を定式に浸して作ったような気配も見えるが、カーティス・ハンソンの語り口は心地よく、キャメロン・ディアス、トニ・コレットが魅力的で最後まで飽きさせない。主人公姉妹のプロフィールが手際よく紹介されたあと、姉妹は喧嘩を始めて姉は仕事から離れ、妹は東海岸を南下していく。南下していった先にマイアミがあり、ここで姉妹の祖母としてシャーリー・マクレーンが登場するのだけど、このおばあさんとそれを囲む老人軍団がなかなかにすごい。みんな死にかけているので、人間が成長できるなどとはかけらほども信じていないらしい。劇中でははっきりとした言及がないものの、姉妹の父親のフェラー氏はユダヤ系で、二人は非ユダヤとの結婚でできた子供で、フェラー氏はその後、ユダヤ系の後妻をもらっていて、という設定になっているみたい。





Tetsuya Sato

2013年5月20日月曜日

サイドウェイ

サイドウェイ
Sideways
2004年 アメリカ 123分
監督:アレクサンダー・ペイン

サンディエゴに住む離婚歴のある英語教師でエスプレッソを飲むワイン通でニューヨークタイムズの読者で古ぼけたサーブに乗っている作家志望で太っていて禿げていて、という具合にあきれるほどたくさんの記号をぶら下げた中年男マイルズ(ポール・ジアマッティ)が大学時代のルームメイトで俳優でセックス狂いで結婚を一週間後に控えた中年男ジャックと一緒にカリフォルニア一帯のワイナリーを歩きまわる。
ワインの蘊蓄に傾いたコメディかと思っていたが、そういう思い込みはやはり禁物であって、人生行路を見失った中年男がひたすらに身の不運を嘆き続けるという話なのである。主役の二人はよい演技をしているし、ところどころ笑えるし、風光明媚だし、ワインもおいしそうに見えるし、ワイナリーめぐりをしてみたいという気持ちにもなるけれど、訳知り顔で人間の内面の浅さをあざ笑うこの監督の悪趣味は見ていてそれほど愉快ではない。やればいいというものではないと思う。ちなみに人生の居心地の悪さ、未練たらたらな様子、あれやこれやがあって最後には結婚式が控えているところは同じ監督の『アバウト・シュミット』と同じであった。




Tetsuya Sato

2013年5月19日日曜日

スーパーバッド 童貞ウォーズ

スーパーバッド 童貞ウォーズ
Superbad
2007年 アメリカ 114分
監督:グレッグ・モットーラ

高校卒業を二週間後に控えた非モテ系の三人組がいて、そのうちの一人がクラスでいちばんクールな女の子と家庭科の調理実習で一緒になった縁でなんとなくパーティに呼ばれることになり、残りの二人も芋づる式にそこへ加わり、宴会用の飲み物を手に入れるために一人が偽造免許証を手に酒屋へ入っていくが、そこから妙なことになり、散々苦労してパーティ会場まで飲み物を運んでいくとなにやらせつないことになり、それでも収まるところに収まるものの、本当のところ当人がそれで大人になりたいのかは、いささか疑わしい、という童貞喪失系のコメディである。途中でこの三人、というか偽造免許証を握って酒屋へ出かけた一人に猛烈にからむ二人組の警官(セス・ローゲンとビル・ヘイダー)が滅茶苦茶ぶりがなかなかにすごいが、この二人組もかつて大人になるという「挫折」を味わい、そのせいでどこかに悲哀を背負っている。そのようなものであろう。それなりによくまとまっていると思う。




Tetsuya Sato

2013年5月18日土曜日

鬼教師ミセス・ティングル

鬼教師ミセス・ティングル
Teaching Mrs. Tingle 
1999年 アメリカ 06分
監督:ケヴィン・ウィリアムソン

小さな町の貧しい家では奨学金をもらえなければウェイトレスになるしかない。ウェイトレスになりたくない女子高生の主人公は必死に勉強をして首席を狙うが、ちょっとした事故に遭遇して卒業試験を盗んだ嫌疑をミセス・ティングルにかけられる。ミセス・ティングルは歴史の教師で、かれこれ25年も学校で生徒をいびっている。女子高生とその仲間二人は状況を放置しておけば首席になるどころか放校を免れないと判断し、教師の家に押しかけて説得しようと試みる。しかしながらミセス・ティングルは「ウェイトレスにおなり」と言い放ち、ここに七面倒な状況が出現することになるのだが、展開の方に今一つまとまりがない。順次、状況を遷移させながらそれなりのことをしようという努力はわかるものの、早々と限界に達してハードルを越えられないという感がある。ただしミセス・ティングルことヘレン・ミレンは本当に不気味で怖いので、それだけでも十分に見る価値はある。 

Tetsuya Sato

2013年5月17日金曜日

ザ・メキシカン

ザ・メキシカン
The Mexican
2001年 アメリカ 127分
監督:ゴア・ヴァビンスキー

なぜか犯罪組織の使い走りをしているジュリーは恋人のサマンサとラスベガスへ行く約束をしていたが、一挺のピストルを受け取るためにメキシコへ行くことになり、それを怒ったサマンサは一人でラスベガスへ出かけていく。メキシコへ到着したジュリーはピストルを手に入れるが、その直後にトラブルに巻き込まれ、一方、サマンサもジュリーのトラブルに連動してトラブルに巻き込まれていく。
ヴァビンスキー作品の常としてプロットの主軸に対する集中力は乏しいが、登場人物がそれぞれに抱いている雑念は例によって面白い。そしてその雑念がプロットと得体の知れない綱引きをする形でプロットが進行していくことになるので、見た目には話がどう転ぶのか、いまひとつよくわからない、ということなるのである。それを魅力と見るか、絞まりの乏しさと見るかは、好みの分かれるところであろう。無理矢理に話を結末へ向かって押し込んでしまうあたりには多少の難を認めるが、わたしには好みの作品であった。ブラッド・ピットにはややムラがあり、ジュリア・ロバーツはおとなしすぎる。アラン・シルヴェストリがエンニオ・モリコーネばりの悪乗りした音楽をつけていて、これは楽しい。 



Tetsuya Sato

2013年5月16日木曜日

マウス・ハント

マウス・ハント
Mouse Hunt
1997年 アメリカ 99分
監督:ゴア・ヴァビンスキー

金に困った兄弟が遺産で受け取った家をオークションにかけて売り飛ばそうとする。ところがそこには一匹のネズミが住んでいて、先住権を主張して抵抗を開始する。
ネズミに襲いかかる凶暴無比なニャジラもかわいいし(足が)、クリストファー・ウォーケン扮するネズミ退治のプロも実によろしい。しかしなんといってもこの映画のいいところはネズミが(猫もだが)人間の理屈ではまったく動かず、ただ自分の目的に沿って黙々と行動しているところであろう。動物が主要な役割を担って映画に登場する場合、その役割はしばしば単に人間の機能を代行していることが多いが、この映画のネズミはネズミの姿そのままで、だから当然台詞もない、しかしネズミの理屈を掲げて正々堂々と人間どもに宣戦を布告し、ネズミ獲りのプロも怪しい方法でやっつけて、それでも命は救うために警察に無言電話をかけたりする。この得体の知れなさがちょっとない。シンプルなストーリーにあまり品のよろしくない笑いがちりばめられていて、しかも納得できるハッピーエンドで、これはとても好きな映画なのである。 



Tetsuya Sato

2013年5月15日水曜日

ウェザーマン

ウェザーマン
The Weather Man
2005年 アメリカ 102分
監督:ゴア・ヴァビンスキー

立派な家庭人である上にピューリツァー賞受賞作家で全米から尊敬を集めているロバート・スプリッツェルの息子デヴィッド・スプリッツはシカゴのローカル局のお天気キャスターで24万ドルの年収があるが、気象予報士ではなく、学位もなく、お天気キャスターだという理由からなのか、町中で知らないひとにファーストフードをぶつけられている。そして妻ノリーンには離婚され、家と子供の養育権は妻に奪われ、妻は新たな結婚相手を見つけようとしていたが、スプリッツ本人は別れたその妻にまだ未練たらたらで復縁の機会を狙っている。そして十五歳の息子マイケルは薬物中毒の治療でカウンセリングを受けていたが、カウンセラー(男性)はマイケルに危険な視線を向け、十二歳ほどの娘シェリーはふてくされている上に肥満して、親に隠れてタバコを吸っている。そのような状況でスプリッツは全米ネットの「ハロー、アメリカ」のオーディションを受け、人生を取り戻そうとたくらんでいる。
中年になってしまうと自分をほめることは難しくなり、ひとにほめてもらうことも少なくなり、気がついてみると自分の人生に足を取られ、我を張ろうとすれば、ただもうまわりと間が悪くなるだけ、というのはある意味、実感がある。苛立って四文字言葉を叫び続けるニコラス・ケイジはなかなかにいい味を出していた。ゴア・ヴァビンスキーの語り口はたくみで飽きさせない。周辺の人物、特に妻ノリーンの造形が少々単純すぎるようにも感じられたが、主人公デヴィッド・スプリッツの視点に固着しているせいだろうか。



Tetsuya Sato

2013年5月14日火曜日

摩天楼を夢みて

摩天楼を夢みて
Glengarry Glen Ross
1992年 アメリカ 100分
監督:ジェームズ・フォーリー

不動産販売会社のニューヨークにある支社に本社のトップセールスマンが現われてすぐにも結果を出さなければ解雇すると檄を飛ばし、解雇の恐怖におびえたセールスマンたちがうろたえたり怒ったりしながらエゴをむき出しにしてしゃべり続ける。デヴィッド・マメットの戯曲からの翻案で、場面の構成もおそらくは演劇的に限定されている。
冒頭、病気の娘を心配して電話にかじりついている初老のセールスマンがジャック・レモン、その横で別の電話をかけているセールスマンがエド・ハリス、電話の横にトイレがあって、そのトイレの入り口でエド・ハリスが文句をつける支社長がケヴィン・スペイシー、支社の向かいのレストランのバーに現われていきなり能書きを垂れ始めるのがアル・パチーノ、そのバーカウンターでうなずいているのがジョナサン・プライス、午後七時半のミーティングで檄を飛ばすトップセールスマンがアレック・ボールドウィン、自分はこの仕事に向いていないと嘆くのがアラン・アーキン、という具合で、この地味な話にすさまじいキャスティングである。90年代初頭だとしても心理的にあまりにも古めかしいし、造形がやや類型的であるという印象もあるが、全員が演技力全開という雰囲気で、悲哀に満ちたジャック・レモン、やたらと自信過剰のアル・パチーノ、とにかくふてくされているエド・ハリスなど、いずれも見ごたえがある。 




Tetsuya Sato

2013年5月13日月曜日

ロスト・イン・トランスレーション

ロスト・イン・トランスレーション
Lost In Translation
2003年 アメリカ 104分
監督・脚本:ソフィア・コッポラ

アメリカの中年俳優がサントリーのCM撮影のために東京を訪れ、なぜか倦怠している。いっぽう同じホテルでは夫のカメラマンに同行してきた大学を出たばかりの若妻が、なぜか倦怠している。この2人はうっかりフリーツアーに申し込んだものの、現地では何もかもに違和感を感じて立ち往生し、そのままホテルのバーに缶詰め状態になってふてくされている間抜けなツアー客のような状態でこの退屈な映画の前半を過ごし(つまり観客にもこの気持ちをつきあえ、ということであろう)、中盤、なんとなく2人でつるんで出かけるようになると、いきなり日本人の友達などが出現し、クラブのようなところで騒いだり、カラオケボックスで歌ったり、などするものの、やっぱり倦怠しているのである。若妻シャーロットのほうは察するに夫が若はげなのが気に入らなくて、毛生え薬などを使っているのが我慢ならないのであろう。中年俳優ボブ・ハリスのほうは、これは最後までよくわからない。中年の危機とか何かなのかもしれないが、よくわからない(よく見ていなかったわたしがいけないのだと思う)。
全編にわたって冴えないダイアログ、連続性の乏しい撮影と編集(都内のロケ地が変、とか、つながっていない、というのではなく、カットが変わると橋や車が消えてしまう。ところでファックスはいったいあの部屋にあったのかなかったのか)、ばかばかしい内容、という具合で、しかもビル・マーレーには魅力がなく、スカーレット・ヨハンソンは顔が監督によく似ている。主役の2人を取り囲んでいる漢字の山がまるで疎外感を惹起しているかのようなことになっているけれど、こういうタイプの人たちだったらパリでもローマでも同じことになるであろう。わざわざ東京でやる必要はない。悪い意味でサンダンス映画祭向き。実は開巻、スカーレット・ヨハンソンのアンニュイな下着姿が映ったところですでに反発していたのである。




Tetsuya Sato

2013年5月12日日曜日

グーニーズ

グーニーズ(1985)
The Goonies
監督:リチャード・ドナー

オレゴン州の海沿いにある小さな町で再開発のようなことが進行していて、マイキーとブランドの兄弟もそのせいで町から離れることになっていたが、それを面白く思わないマイキーは家の屋根裏で見つけた古い地図を頼りに海賊「片目のウィリー」の財宝を見つけ出せば財宝を使って家を取り戻して町にとどまることができると考え、友達3人を引き連れて海岸へ進み、連れ戻しにきた兄ブランドも巻き込み、兄のガールフレンドたちも巻き込み、地下へ地下へと進んでいくと怪しい気配を嗅ぎ取った悪党フラテリ一家が背後から追いかけ、前には片目のウィリーが残した罠の数々が待ち構え、それでも果敢に進んでいくと地底の湖に浮かぶ海賊船にゆきあたる。
主人公は子供たちで最終的にはファミリームービーの定式に回収されるものの、フラテリ一家の家族関係が微妙にゴシックだったり、あからさまに死体が転がったり、もちろん骸骨もごろごろしているし、というあたりで多少の変化球が加えられてはいる。しかし考えてみると宝探しというのは本来このようなものであろう。リチャード・ドナーの演出はややリズムが悪くて、もっと楽しいものになるはずのものがいまひとつ乗りに乗れないまま放置されているようなところがあるが、序盤、フラナリ一家の長子ロバート・ダヴィが脱獄をするあたりはなかなかに快調だし、子供たちのキャラクターもそれぞれに秀逸で(デブでくいしんぼで騒々しくて手にするものはなんでも壊す上にやっていることはエリック・カートマンとほぼ同じ、というチャンクが特によろしいと思う)、テンションをかけずに眺める分にはちょうどいい仕上がり、ということになるのかもしれない。



Tetsuya Sato

2013年5月11日土曜日

ルーニー・テューンズ:バック・イン・アクション

ルーニー・テューンズ:バック・イン・アクション
Looney Tunes: Back in Action
2003年 アメリカ 93分
監督:ジョー・ダンテ

観客に支持されていないという理由でダフィ・ダックは撮影所を解雇され、暴れるダフィ・ダックを取り押さえるのに失敗してスタントマン志望の警備員DJもまた解雇され、DJがダフィ・ダックとともに家に戻ると父親からの緊急の通信が入り、スパイ映画の大スターであるDJの父親は実は本物のスパイであったことがあきらかになり、DJとダフィ・ダックは父親を危機から救うためにラスベガスを目指し、一方、相方のダフィ・ダックを失って調子の出ないバッグス・バニーはダフィ・ダックの復帰を求め、ワーナーの副社長ケイトとともにダフィ・ダックを追ってラスベガスを訪れ、いずれにしてもそこには全人類をお猿にして安い賃金で働かせ、人間に戻してから粗悪な商品を買わせようとたくらむアクメ社の陰謀が待ち構え、ルーニー・テューンズの悪役キャラクターもアクメ社の陰謀に加担していて、ラスベガスからパリ、さらにアフリカと舞台を変えながらガシャーン、ドカーンと騒ぎを起こす。 
『ハムナプトラ』でブレンダン・フレイザーのスタンドインをやったというDJがブレンダン・フレイザー、その父親がティモシー・ダルトン、アクメ社の会長がスティーヴ・マーティン、タスマニアデビルに食われるアクメ社の重役がロン・パールマン。ライブアクションによるカートゥーンだと思えば、やるべきことを全部やって、たぶんそれで立派に仕上がっているし、とにかくこの徹底した無内容さは嫌いにはなれない。というか、そこはさすがにジョー・ダンテであろう。ルーニー・テューンズ総出演で、アメリカ人を1947年以来たばかっていたというエリア52(51ではなく)ではユニバーサル系のモンスターに加えてBBCまでが動員されていたような気がする。 


Tetsuya Sato

2013年5月10日金曜日

ジャスティス(2002)

ジャスティス
Hart's War
2002年 アメリカ 125分
監督:グレゴリー・ホブリット

第二次大戦末期。アメリカ軍の黒人航空兵リンカーン・スコット少尉は撃墜されてドイツ軍の捕虜となり、アウグスブルク郊外の収容所へ送られる。だが将校であるにもかかわらず下士官用の兵舎をあてがわれ、兵舎では人種差別主義の軍曹の露骨な不服従にあい、しかもその軍曹が殺されたことで犯人とみなされることになる。捕虜収容所の中で米軍の軍法会議が開かれるが、それはすでに判決が定まった茶番の裁判であり、証人は平然と嘘をつき、議長は人種偏見を隠そうともしない。だがスコット少尉は勇気を忘れずに黒人である誇りを熱く語るのであった。
つまり本当にそういう話で、その上に脱走の準備もするし実行もするし、破壊工作までしてしまうのである。どれかに絞り込むべきであった。話はまとまらない、人物造形はまとまらない、結局なにをしたかったのかよく分からないまま、やっと終わったという感じである。ちなみにスコット少尉の弁護士がコリン・ファレルで指揮官がブルース・ウィリス。コリン・ファレルは頑張っていたけれど人物設定が浅薄なので熱演が割にあわないし、キャラクターのない役を演じるブルース・ウィリスというのは見ていて本当に痛々しい。ドイツ軍側の指揮官がイェール大学出身でコリン・ファレルの先輩という設定になっていて、米軍の軍法会議便覧でもなんでも用意するぞと持ちかけてきたあたりで面白くなるかなと期待したけれど、大きくはずされたのであった。そのまま法廷コメディにしていればキャスティングも状況設定もすごく生きたと思うので残念でならない。
ちなみに捕虜収容所内の軍法会議物というと『銃殺!ナチスの長い五日間』というイタリア・ユーゴスラビア合作の怪作があって、これが意外な拾い物であったと記憶している。


Tetsuya Sato

2013年5月9日木曜日

ジャスティス(1979)

ジャスティス
...And Justice for All.
1979年 アメリカ 119分
監督:ノーマン・ジュイソン

ボルティモアの刑事弁護士アーサー・カークランドは無実の依頼人を刑務所から救い出すために確実な証拠を提出していたが、冷血な判事フレミングが裁量を拒んで証拠を認めないことに怒り、フレミングに殴りかかって法廷侮辱罪でぶち込まれ、間もなく解放されてさまざまな依頼人のためにあわただしく法廷に立ち、あれやこれやで法の執行と正義の所在について釈然としない思いを抱いていると、判事のフレミングが強姦罪で逮捕され、法曹界の誰もがその有罪を疑わないという状況でフレミングは敵対するアーサー・カークランドに弁護を依頼し、アーサー・カークランドは事実上強制された形で弁護を引き受けるが、アーサー・カークランドもまたフレミングの有罪を疑っていない。
両手に時計をはめた弁護士アーサー・カークランドがアル・パチーノ、権力をふるう悪い判事がジョン・フォーサイス、その隣で異常な行動をしているもうひとりの判事がジャック・ウォーデンで、このひとは執務室を銃で埋め、法廷にもピストルを隠して現われる。原題にある「万人の正義」がそもそも正義として成立するはずもなく、ただ勝者と敗者にわけるだけであるという主張をいかにもノーマン・ジュイソンらしいストレートな演出でたたみかけ、その結果はかなりコミカルで見ごたえのあるものになっている。アル・パチーノは熱演。主人公の祖父役でリー・ストラスバーグが登場する。 



Tetsuya Sato

2013年5月8日水曜日

パワープレイ

パワープレイ
Power Play
1978年 カナダ/イギリス 104分
監督:マーティン・バーク

中央ヨーロッパに設定されたとおぼしき架空の国で政権の腐敗を嘆く一部の軍人が軍大学の教授の掛け声で謀議を始め、仲間を集めてクーデターを計画し、秘密警察は怪しい気配を感じとり、時が熟したところで軍の一部が行動を開始して秘密警察の拠点が襲撃を受け、セオリー通りに放送局、電話局が占領され、宮殿も占領されて大統領が逮捕される。

軍事史が専門のアメリカの歴史学者エドワード・ルトワックの『クーデター入門』を原作に、ドキュメンタリー出身のマーティン・バークが脚本、監督を担当し、クーデターの計画立案から決行までを描くことを主眼にした正真正銘の「クーデター」映画で、緊張感のある演出とシャープな映像で一気に最後まで駆け抜ける。傑作なのである。クーデターの中心となる大佐がデイヴィッド・ヘミングス、戦車部隊の指揮官がピーター・オトゥール、秘密警察の長官がドナルド・プレザンスとキャスティングも非常にいい具合にまとまっていて、しかも無名時代のマイケル・アイアンサイドもちょっと顔を出している。

Stingray『パワープレイ』特別編
Tetsuya Sato

2013年5月7日火曜日

エアポート'75

エアポート'75
Airport 1975
1974年 アメリカ 107分
監督:ジャック・スマイト

小型機のパイロットが飛行中に心臓発作を起こし、コントロールを失った小型機は乗客を乗せて飛行中のジャンボジェットに接触する。接触した場所がコクピットであったためにジャンボは飛行クルーを失って操縦不能の状態になり、やむなくチーフ・スチュアーデスが地上の指示にしたがって操縦桿を握り締める。これがカレン・ブラックで、くわっと目を見開いているのでちょっと怖い、というのが公開当時の評判であった。怖いとは言ってもそれで着陸ができるわけではないので、このスチュアーデスの婚約者がヘリコプターに乗り込んでジャンボジェットの破損したコクピットに接近し、副操縦士を吸い出した穴から乗り込んで操縦を引き継ぐ。こちらがチャールトン・ヘストンで、いつもと同じ演技をしているだけなので、これは別に怖くない。
与えられている状況がかなり単純なので、それほど発展しないのである。そのかわりにグロリア・スワンソンがグロリア・スワンソンの役で乗っていたり、リンダ・ブレアが腎臓病患者の役で乗っていたりと、乗客にバリエーションをつけて時間を稼ごうと試みている。ジャンボジェットのモックアップはどこかリアリティを欠いているし、低空飛行をする場面では同じフィルムを繰り返して使っているような気がしてならない。『大空港』の続編のような位置づけにはなっているが、『大空港』に比べると構想自体に軽さが否めないし、すでに公開当時からわたしはこのジャック・スマイトという監督を信用していなかったので、この出来の悪さには格別の疑問を感じなかった。MH-53がおそらく映画初登場で(空軍仕様のHH-3)、この雄姿と重々しい飛びっぷりは記憶に残る。




Tetsuya Sato

2013年5月6日月曜日

テール しっぽのある美女

テール しっぽのある美女
Thale
2012年 ノルウェイ 75分
監督:アレクサンデル・ノダース

ノルウェイの森の奥にひそむ湖のほとりにたたずむ一軒家で初老の男性が細切れの死体で発見され、死体処理のために派遣されたレオとエルヴィスのふたりは死体の破片を探しているうちに家の地下室にゆきあたり、そこで見つけたドアを開けて中に入ると研究室のような場所が見つかり、おそるおそるに入っていくと液体を満たしたバスタブのなかから全裸の女性が現われる。
異常な状況で発見されたわけだからすぐに警察を呼ぶとか救急車を呼ぶとかしそうなものを、死体処理業者のこの二人組は同僚に応援を頼むだけで、なかなか来ない応援を待ちながら床に腰を下ろして食事を始め、そうしているとなにやら怪しい気配が接近し、地下室で見つけたテープを再生してみるとなにやら要領を得ない手がかりのようなことを言っていて、冷蔵庫には切り落とされた牛のしっぽのようなものがあり、発見された全裸の娘が頭に描く過去の情景が断片的に挿入され、最後の15分ほどになって滅菌服を着た武装集団が出現してこれまた要領を得ないことをしゃべり始め、つまり娘は森の妖精フルドラだと言いたいわけだけど、できることなら言明を避けたいという不可解な方針が採用されているらしい。
映像はそれなりに幻想的だが、同じノルウェイ映画でもアホ全開の『トロール・ハンター』に比べると思い切りが悪いし、75分というかなり短めの尺にもかかわらず尺を引き延ばすためとしか思えないハイスピードショットがやたらと使われている、という点ですでにだめ。 


Tetsuya Sato

2013年5月5日日曜日

モスキートマン

モスキートマン
Sucker
2013年 アメリカ 81分
監督:マイケル・マナッセリ

原子力関係の研究所に勤めるジム・クロウリーは昇進の機会を奪われた上に解雇され、解雇されたということで社員専用の駐車場にとめておいた車をレッカー移動されて取り戻せなくなり、しかたなしに歩いて帰る途中で妻の浮気の現場を目撃し、ついでに雨も降り始め、絶望の底に突き落とされて走る車の前に身を投げ出したところ親切なドライバーに救われて、いいところへ行こうと誘われてバーに連れ込まれてそこで一杯二杯とウィスキーを飲まされ、とうとう酔いつぶれると親切なドライバーはジム・クロウリーの自分の研究所へ連れ帰って縛り上げ、自分が開発した血清を注射して実験室に放り込み、その血清というのが蚊が媒介する新種の病原体に対抗するものであったので、実験室に解き放たれた蚊の大群がジム・クロウリーに襲いかかるとジム・クロウリーは見る間に絶命し、実験の失敗を悟った科学者はジム・クロウリーの死体を路地裏に捨て、そこで再び蚊に接触してよみがえったジム・クロウリーはすでに人間の姿を捨てた怪物と成り果てていて、それでも心はそのままであったので、まず研究所で自分に好意を寄せてくれた女性イブリンが暴漢に襲われているところへ現われて暴漢から血を抜き取り、家に帰って浮気をした妻から血を抜き取り、研究所を訪れて車を取り上げた警備員から血を抜き取り、そういうことをしているうちに警察もどうやら人知を超越した怪物が暴れているらしい、ということに気がついて、ジム・クロウリーを当の姿に変えた科学者を顧問に招き、イブリンも加えてジム・クロウリーを追いかける。
 こじんまりとしたプロットもステレオタイプの登場人物も1950年代B級SFそのまんま、という雰囲気で、残酷描写などは控えめにして、いまどき珍しいリアプロジェクションも使って往年のスタイルにしたがいながら楽しい映画を作ろうと一生懸命頑張っていて、そこがなんとも好ましいし、それでも馴れ合い映画には終わらせないで、しっかりと演出が入っているから時間をきっちりと使ってだれ場がない。いまさら、というところはどうしても否定できないものの、やはりこういうのを見るとこちらは素朴にうれしさを感じずにはいられない。研究所の所長の役がなぜかロイド・カウフマンで、なぜかロイド・カウフマン、というところはわからなくもないけれど、トロマよりもよほどに上手な映画なのでロイド・カウフマンである必要は全然なかったと思う。 



Tetsuya Sato