2011年12月31日土曜日

憎鬼

デイヴィッド・ムーディ『憎鬼』(風間賢二訳、武田ランダムハウスジャパン)


イギリスの地方都市で駐車違反罰金処理事務所に勤めているダニエル・マッコインは自分の現状に不満を抱くいたって無害な小市民で、職場における不遇に悩み、子育ての重圧に悩み、妻との関係で悩み、義父との関係での悩み、ふところの寂しさにも悩んでまるで面白くない日々を送っていたが、その視界の隅では唐突に暴力が起こり、それまでまともであった人間が近くにいるまともな人間をいきなり殺すのを目撃し、あるいはテレビのニュースで同じことが繰り返されていることを知り、日を追ううちに異様な暴力が自分と家族を包囲していることに気がついて、そのことで脅え、そのことで悩み、何も言わない政府に対して不信を抱き、いよいよ暴力が間近に迫ると家族とともに自分の家にたてこもる。いわゆる「ゾンビもの」の類型として紹介されているが、ここに登場するのはゾンビではなくて不意に他者を攻撃する市民であり、いつどこで誰に襲われるかわからないという状況なので、人々は激しく脅え、他人から距離を取ることになり、一人称、現在進行形のテキストは語り手の緊張と恐怖をよく伝えている。思わしくない家庭環境から妻との感情のすれ違い、内面の不安から周囲の状況へと視線が絶えず揺れ動き、その視線の先の微細な描写が日常から非日常までをたくみにとらえて面白い。訳文がやや言葉を選んでいない嫌いがあるものの、これは拾い物。


Tetsuya Sato

2011年12月30日金曜日

ウォーキング・デッド

ロバート・カークマン『ウォーキング・デッド』(風間賢二訳、飛鳥新社) 


ジョージ・A・ロメロ的な、いわゆる世界観を踏襲したグラフィック・ノベル。
ケンタッキーの警官リックは逃走中の犯人に撃たれて病院へ運ばれ、昏睡状態から目覚めて医師も看護師もいないことを不審に思い、病院内を歩いてゾンビの群れと遭遇し、どうにか帰宅すると家も無人になっていて家族の行方もわからないので途方に暮れていると、隣家を占拠した親子からアトランタに関する話を聞き、妻と息子はそこへ逃れたのではないかと考えてアトランタを目指すが、安全なはずのアトランタはゾンビであふれ、あやういところを若者に救われて郊外のキャンプへ導かれ、リックはそこで妻と息子と再会を果たすが、間もなくキャンプにもゾンビが現われるので、リックをリーダーにキャンプのメンバーはアトランタを離れて安全な場所を求めて旅を始める。
絵は迫力があり、慎重にデザインされたコマ割りと場面のつなぎ方は面白い。翻訳版には3章までが収録され、アメリカ本国でも現時点ではまだ完結していない。極限状態に置かれた人間の変容と人間の対立に主要な関心が向けられているとのことで、いわゆる人間ドラマに主軸が置かれてゾンビはもっぱら背景にしりぞき、キャラクターはいずれも特徴的で、内面の告白を躊躇しない。つまりロメロの作品にある上映時間という制約をまったく受けていないので、登場人物はやや過剰になり、ダイアログもまたやや過剰気味になっている。この世界に耽溺したいという意図によってそうなっているようなので、まさしく意図したとおりの作品になっているということになるが、わたしの好みからすると長すぎるし、全貌が見えないところで評価を下すのは難しい。



Tetsuya Sato

2011年12月29日木曜日

World War Z

マックス・ブルックス『World War Z』(浜野アキオ訳、文藝春秋)


人間をゾンビ化する疫病が蔓延し、人口の大半がゾンビと化した状況で人間とゾンビの戦争が始まり、その戦争から十年後に世界各地の人々から証言を集めたという、言わば架空のインタビュー集で、スタッズ・ターケルの『よい戦争』に感化を受けて書かれたということだが、構成などにたしかに影響が見える。証言をするのは一般市民、戦争に参加した兵士から政策決定に関与した人々、さらには戦争の期間中ISSに残って偵察衛星の燃料補給に従事していた宇宙飛行士まで多岐にわたり、その多声性は格別で、同時に感心したのは証言者のそれぞれが明確にビジョンをたがえていることで、フィクションとしてのこの作り込みは半端ではない。書き手が現代史を含む歴史的なパースのなかで状況を想定しているのはあきらかであり、その知的な態度はきわめて好ましいと言える。日本に関する記述も登場するが、ここだけ奇妙に異色を放っているのは、ゾンビを相手に座頭市がしたかった、というそれ以上の理由ではないような気がする。




Tetsuya Sato

2011年12月28日水曜日

ぼくのゾンビ・ライフ

S・G・ブラウン『ぼくのゾンビ・ライフ』(小林真理訳、太田出版)


34歳で妻と娘のいる「ぼく」は交通事故で死んだあと、ゾンビとなってよみがえり、両親の家のワインセラーに幽閉されることになるが、たまに外出してカウンセリングを受けたり、ゾンビの集会に出たりしているうちに、次第にゾンビとしての自覚に目覚め、目的意識を抱き、ゾンビと恋をしたりゾンビに友情を抱いたりしながら、ゾンビの権利のために戦うようになり、やがてその活動が全米のマスコミの注目を集めていく。
この小説におけるゾンビは宇宙から降り注いだ放射線の影響でも謎のウィルスのせいでも軍の化学兵器のせいでもなく、遺伝的な要因から一定の割合で出現し、社会的にはかなり昔からマイノリティとして扱われていたことになっていて、語り手は婦人参政権や60年代の公民権運動、ゲイムーブメントも同格の問題として眺めるので、ゾンビの権利もまたその延長線上に浮上してくることになる。ゾンビという言わば生き方をゾンビの立場から詳細に描き、その周辺に現代アメリカの言論およびメディアの挙動を散りばめながら、最終的にはゾンビとしての言わば生の実感をドラマチックに立ちあげていく語り口は面白い。一人称のテキストはモダンなアメリカ小説の典型に近く、無用のレトリックや日常的な雑感でやや言葉を飾りすぎているようなところがあるが、全体としての強度は高く、読み応えのある作品に仕上がっている。作者が言うようにチャック・パラニュークの感化で書かれたとすれば、チャック・パラニュークよりもうまいと思う。




Tetsuya Sato

2011年12月27日火曜日

エドワード・ドミトリク『ケイン号の叛乱』(1954)

ケイン号の叛乱(1954)
The Caine Mutiny
監督:エドワード・ドミトリク


第二次大戦末期、プリンストン出の青年ウィリス・キースは海軍に志願して三か月の士官養成コースを受講したあと少尉となって老朽の掃海艦ケイン号に配属となるが、艦長のゆるやかな規律の下で比較的ゆるやかに勤務する乗員の様子を目にして反発し、そこへ新たな艦長フィリップ・クィーグが着任して規律の強化を主張すると、これこそが海軍であると好感を抱く。ところが間もなくクィーグ艦長はつまらない小言に夢中になって操艦を誤り、そのせいで装備を失うと虚偽の報告をし、上陸作戦に投入されるとあきらかに憶病なふるまいをし、冷蔵庫にあったはずのイチゴがなくなっていることに気がつくと全艦を叩き起して捜索にかかり、何かがおかしいと考えた副長以下士官たちはクィーグ艦長の排除を画策するが、そうしているあいだにケイン号は台風の真ん中に突っ込んで激しくもみしだかれ、転覆を恐れた副長は進路変更を認めないクィーグ艦長を指揮能力喪失者とみなし、事実上の反乱を起こす。構図としては長年にわたる戦争のせいで神経症をわずらう艦長と状況に不慣れな予備役士官や粗製乱造された若い士官が互いに接点を見つけられないまま関係を破綻させるという形で、艦長がハンフリー・ボガート、やや愚直な副長がヴァン・ジョンソン、艦長の異常を言い立てる作家志望の通信長がフレッド・マクマレイ、軍法会議の検察側がE・G・マーシャル、弁護士がホセ・ファーラーである。きわめて丹念に作られた作品で、艦艇などの細部の描写もすばらしいが、状況に応じて揺れ動くような心理描写に見ごたえがあり、それを支える俳優たちの演技がまたすばらしい。
ケイン号の叛乱 [DVD]

Tetsuya Sato

2011年12月26日月曜日

ヘンリー・コスター『ハーヴェイ』(1950)

ハーヴェイ(1950)
Harvey
監督:ヘンリー・コスター


未亡人のヴィータ・ルイズ・シモンズは娘のマートル・マエとともに弟エルウッド・P・ダウドの家で暮らしていたが、それというのも弟エルウッド・Pが母親の遺産を独り占めしていたからであった。ヴィータの現在の野心は娘マートル・マエにふさわしい嫁入り先を見つけることにあったが、弟エルウッド・Pには身長6フィート2インチ半の巨大な白ウサギが常にへばりついているという問題があり、なお悪いことにこの白ウサギ、ハーヴェイは誰にでも見えるわけではなく、にもかかわらずエルウッド・Pがハーヴェイを誰にでも紹介するために事態をさらに悪化させている。娘のために仕込んだ午後の茶会をエルウッド・Pとハーヴェイに台無しにされたヴィータは決断を下し、間もなく四十二歳になるこの弟を精神病院に送り込むべく手続きを進めていくが、応対に出たケリー看護婦はサンダーソン医師に見とれて要領を得ず、ヴィータの説明もまた要領を得ず、一方、サンダーソン医師自身にもどうやら女性の発言に慎重に耳を傾けないという欠陥があり、そういうことでエルウッド・Pは解放され、代わりにヴィータが恐ろしい看護士ウィルソンに担ぎ上げられ隔離室へ放り込まれる。幸いなことに誤解は解けてヴィータは解放されるが、肝心のエルウッド・Pは姿を消したハーヴェイを追って姿を消し、事態を重視した病院長のチャムリー博士は看護士ウィルソンとともにエルウッド・Pを追い、自宅に戻ったヴィータは病院を訴えるべく弁護士を呼び、その自宅には恐ろしい看護士ウィルソンが現われてマートル・マエと恋に落ち、戻らないチャムリー博士を探して町へ出たサンダーソン医師とケリー看護婦はバーでエルウッド・Pを発見する。エルウッド・Pの説明によればチャムリー博士はハーヴェイとともにバーを変えていたが、そのチャムリー博士はなにかに追われる様子で病院へ戻り、残りの面々も次から次へと病院へ駆けつけ、心の叫びに静かに寄り添っていくような不思議な陰影を背負った結末へと向かっていく。
ブロードウェイの舞台からの翻案。ダイアログはよくこなれており、キャラクターの配置も目配りが利いていて、気取ってお茶会に現われる中産階級からバーの片隅のくすんだ老人まで魅力的に描かれる。観客が実際にハーヴェイを目にすることはついにないが、それでもジェームズ・スチュアートの視線の先に次第に現われてくるところはなかなかにすごい。そしてジェームズ・スチュアートの浮世離れした義人のような表情が実に印象深かった。こういう雰囲気に弱いのである。「バーでは重要でない話をする人なんか一人もいません」という台詞がいい。
ハーヴェイ [DVD]

Tetsuya Sato

2011年12月25日日曜日

ジョージ・キューカー『フィラデルフィア物語』(1940)

フィラデルフィア物語(1940)
The Philadelphia Story
監督:ジョージ・キューカー


フィラデルフィアの上流階級の娘トレイシー・サマンサ・ロードはある日、夫のC・K・デクスター・ヘイヴンを家から追い出す。それから二年後、実直な男ジョージ・キトリッジとの再婚を控えたトレイシー・サマンサ・ロードの前に前夫C・K・デクスター・ヘイヴンが姿を現わし、一組の男女マコーレー・コナーとエリザベス・インブリーを紹介する。二人は南米にいるトレイシー・サマンサ・ロードのの兄の親友という触れ込みであったが、その正体はすっぱ抜き専門の三流誌「スパイ」の記者と写真家であり、上流階級の結婚の裏側を暴くという秘密の使命を帯びていた。そしてその秘密の使命はC・K・デクスター・ヘイヴンの口からすぐに漏れてしまうので、ロード家の人々は記者の前でアホウな上流階級のふりをし始める。
こなれた脚本とスピーディな演出が心地よいコメディである。冒頭、キャサリン・ヘップバーン扮するトレイシーがケイリー・グラント扮するデクスター(C・Kはなんの略だ?)を追い出す場面でまず驚かされる。台詞がひとつもないのである。そして話はそのまま二年後に吹っ飛び、トレイシーを女神のように崇める婚約者キトリッジと本業は作家なのにと腐りまくる記者マコーレーが登場し、トレイシーの家族や親戚なども現われて全員で景気よくしゃべりまくる。前夫ケイリー・グラントはふてぶてしく前妻トレイシーの欠陥を指摘し、作家マコーレーは階級差の問題を暴き立て、トレイシーの妹ダイナは暗躍し、ストレスを感じたトレーシーは結婚式の前夜祭でシャンパンを飲みまくり、結婚式の当日にはひどい二日酔いを抱えている。キャサリン・ヘップバーンの好調ぶりがなんといっても見ていて楽しい。ケイリー・グラントの魅力はわたしにはいまひとつ不明だが、記者マコーレーに扮したジェイムズ・スチュアートは実にいい感じで、そのジェイムズ・スチュアートが酔いつぶれたキャサリン・ヘップバーンを抱えて「オーバー・ザ・レインボー」を歌うという名場面も登場する。こまっしゃくれた妹ダイナに扮したヴァージニア・ウェイドラーがまた楽しかった。
フィラデルフィア物語 [DVD] FRT-073

Tetsuya Sato

2011年12月24日土曜日

W.S.ヴァンダイク『桑港』(1936)

桑港(サンフランシスコ)(1936)
San Francisco
監督:W.S.ヴァンダイク
1906年のサンフランシスコを舞台にキャバレーのオーナーとオペラハウスのオーナーがひとりの歌姫に恋をして奪いあう。キャバレーのオーナーがクラーク・ゲイブル、その幼なじみの神父がスペンサー・トレイシー、歌姫がジャネット・マクドナルド。恋があり歌があり踊りがありオペラもあり、クラーク・ゲイブルはセミヌードを披露し、経験による老人の教えがあり神父による信仰の戒めがあり、大地震のスペクタクルもあり、最後にはやくざ者の回心もあるという見せ場の連続に徹底した娯楽映画である。特にクライマックスの大地震(記録によるとマグニチュード7.6)の迫力はいま見ても半端なものではなく、ビルは倒壊し、壊れた窓はピアノを吐きだし、地割れはひとを飲み込み、火災が町をなめ尽くす。特殊効果もがんばっているが、手前の描写のほうもきちっとしていて、がれきの山と化した町をさまよう人々の呆然とした様子、助けを求める人々の様子などがなかなかリアルで、そこへ余震が襲いかかり、時間とともに軍隊が出動し、町の外には避難民のキャンプもちゃんと出現する。災害映画としては第一級であろう。ヒロイン、ジャネット・マクドナルドに人生を語る元気なおばあさんのジェシー・ラルフがなんだかものすごくいい感じ。
桑港 [DVD] FRT-077

Tetsuya Sato

2011年12月23日金曜日

ラオール・ウォルシュ『白熱』(1949)

白熱(1949)
White Heat
監督:ラオール・ウォルシュ


コディ・ジャレットとその一味はカリフォルニア州境で列車を襲い、郵便車にあった財務省の公金30万ドルを奪い取る。非常線が敷かれ、コディとその一味は一週間のあいだ隠れ家にひそみ、嵐をついて非常線を突破するが、一人の仲間を見捨てたことから一味の名前が割れてしまう。列車強盗事件では人死にが出ているので捕まれば死刑はまぬかれない。財務省の捜査官がコディを追い詰め、包囲網が狭まるのを知ったコディは先手を打ち、犯してもいない別の強盗事件で警察に自首してアリバイを作り、そのままその罪で服役する。そこで財務省は30万ドルの行方を探るために潜入捜査官ファロンをコディの房に送り込み、ファロンはコディの信頼を得て以降の行動を共にする。
冒頭の列車強盗のシーンから、ラオール・ウォルシュの演出はきびきびとしていて心地よい。そしてその軽快さはジェームズ・キャグニーのめりはりのある演技とよく融合し、作品にダイナミックなリズムを与えている。遺伝的な形質としての狂気の描き方は現代的な基準ではおそらく単純に過ぎるが、キャグニーの演技の乗りのよさとマーガレット・ウィチャリー(お袋)の卓越した存在感があるせいで疑問はほとんど感じさせない。この親子の関係では名場面がいっぱいで、刑務所の面会室の場面も忘れ難いが、刑務所の食堂の場面では実に見事な演出と演技が披露される。力のこもった作品である。
白熱 特別版 [DVD]

Tetsuya Sato

2011年12月22日木曜日

ラオール・ウォルシュ『彼奴は顔役だ!』(1939)

彼奴は顔役だ!(1939)
The Roaring Twenties
監督:ラオール・ウォルシュ


1918年4月の西部戦線で三人のアメリカ兵が砲弾が開けた穴のなかで出会い、戦後、禁酒法下のアメリカに復員して二十年代の狂騒を駆け抜けていく。原題どおり、咆哮する二十年代を背景にして、再就職先が見つからないという理由で善人で下戸のままギャングになってしまった男エディ・バートレットを中心に、友情あり、愛あり、抗争あり、陰謀あり、裏切りあり、大恐慌あり、とにかくやるべきことは全部やる、という勢いで、やや冷笑的なナレーションが主要な状況を要領よく説明し、映像は雄弁で、テンポが速く、ダイアログはシャープでよく切れる。ジェームズ・キャグニーがとにかくいいし、そこへ加わるハンフリー・ボガートの悪さがまたよろしい。西部戦線の場面で弁護士の卵のジェフリー・リンがライフルを構えて銃眼をにらみ、「あのドイツ兵、まだ十五歳くらいじゃないのかな」と言って構えたライフルを元に戻すと、ハンフリー・ボガートがすかさず射殺して、「もう十六にはなれねえ」と言ってにやっと笑う。そのくらい悪いのである。育ちの悪い女パナマ・スミスに扮したグラディス・ジョージがまたいい感じで、ジェームズ・キャグニー扮するエディ・バートレットに最後まで付き添ってかっこよく台詞を決めていた。
彼奴は顔役だ! 特別版 [DVD]

Tetsuya Sato

2011年12月21日水曜日

ヴィクター・フレミング『我は海の子』(1937)

我は海の子(1937)
Captains Courageous
監督:ヴィクター・フレミング


大富豪のひとり息子で十歳になるハーヴェイ・チェインは母親のいない環境で父親に甘やかされて育った結果、傲慢な上にいささかたちの悪い子供になり、父親の権威を傘に同級生に恫喝を加えたり、教師には賄賂を贈ったり、そのことで叱られても悪びれもせず、処罰を受けると嘘を言って父親に泣きつく、といったことをおこなったため、ついに停学処分となって父親とともに豪華客船でヨーロッパへ旅立つ。しかし船内における悪行の報いにあって大西洋に落下し、たまたま通りかかった漁船に拾い上げられる。ハーヴェイはここでも父親が大富豪であることを訴えてただちに自分を父親の元へ送り届けるように要求するが、船はタラやオヒョウを求めてグランドバンクスへ向かう途中であり、したがってあと三ヶ月は陸に戻らないと告げられる。船長によって強制的に雑役係に雇い入れられたハーヴェイは必至の抵抗を試みるものの、やがて乗り組みの漁師マニュエルと心を通わせるようになっていく。
原作はラドヤード・キプリングらしい。ハーヴェイを演じた子役フレディ・バーソロミューは傲慢でへこたれないところから心に傷を負って泣き叫ぶところまで、自然な感じで演じていた。スペンサー・トレイシー扮するマニュエルのおおらかではあるが筋の通った人物像も忘れがたい。漁船"We're Here"号の少々頑固な船長がライオネル・バリモアが実にいい感じで、その息子がミッキー・ルーニー、ハーヴェイの父親チェイン氏がメルヴィン・ダグラス。丁寧に作られたいい映画である。演出はよどみがなく、しかも温かみがあって、見ていて気持ちがよいし、スクーナー型帆船"We're Here"号が感動的に美しい。走りっぷりもダイナミックで、最後のほうでは漁船同士のチキンゲームとでも言うべき珍しい場面も登場する。延縄漁法の様子なども面白かった。 
我は海の子 特別版 [DVD]

Tetsuya Sato

2011年12月20日火曜日

ジョージ・ミラー『ハッピーフィート2』(2011)

ハッピーフィート2 踊るペンギンレスキュー隊
Happy Feet Two
2011年 オーストラリア 100分
監督:ジョージ・ミラー

皇帝ペンギンの一党が例によって歌って踊っていると察するに地球温暖化の影響か、巨大な氷山が突然動き、歌って踊っていた皇帝ペンギンの一党を脱出不能な盆地に閉じ込めてしまうので、営巣地の外にたまたま出ていたマンブルとその息子のエリックなどが救出のために手を尽くす。プロットはないも同然と言ってもよいほどこじんまりとしているが、キャラクターはきわめて豊かで、細部が作り込まれ、絵は例によって雄弁であり、そして途中で顔を出す人間は例によって醜悪である。実際、何をどうすればこうなるのかと驚くほどに醜悪であり、これほど醜悪な生き物は北極から南極まで探してもほかにはないであろうと思えるほどに醜悪であるが、幸いなことに一作目のように見ているこちらのトラウマになるほど数が出てこない。一方、大量に登場する子ペンギンのふわふわとした和毛がどこまでも愛らしく、思わずふわふわしたくなるほどであり、そして子ペンギンのエリックが歌うプッチーニは泣ける。ペンギンたちが氷の上で悪戦苦闘している一方で、オキアミが二匹で群れから離れて食物連鎖の最底辺から頂点を目指して進化の旅に出かけるが、このオキアミの声がブラッド・ピットとマット・デイモンなのであった。大きなものから小さなものまで、よく目の届いた作品であり、言うまでもなく傑作である。 


Tetsuya Sato

2011年12月19日月曜日

ジョージ・ミラー『ハッピーフィート』(2006)

ハッピーフィート
Happy Feet
2006年 オーストラリア・アメリカ 108分
監督:ジョージ・ミラー

皇帝ペンギンの世界では心の歌が歌えないと一人前のペンギンとみなされないという決まりになっていたが、メンフィスとノーマ・ジーンのあいだに生まれたマンブルは生まれたときからステップを踏む習性があり、しかもまったく歌が歌えない。この点でマンブルはチャレンジされたペンギンとなり、仲間から離れたところをヒョウアザラシに追われてアデリーペンギンの営巣地にたどり着き、そこでラモンほかマンボな連中に受け入れられる。そしてマンブルは皇帝ペンギンの営巣地に戻ってダンスを伝えるものの、保守的な勢力によって追放されてしまうので、名誉を挽回するために最近魚が取れなくなった原因を明かそうと考え、禁断の地を目指して進んでいく。
ほとんどデフォルメされていないペンギンが歌って踊る姿は圧巻である。ペンギンの愛らしさはリアリティがもたらす愛らしさであり、同時に背景となる南極の環境もまたリアリティを備え、海は冷たい色に染まり、冬は暗く、ブリザードは壮絶で、捕食行動はしばしば残酷に見える。ただ歌って踊って楽しいフルCGアニメではない。後半へと進むにしたがって次第に現実の過酷さが顔を出し、その過酷さの背後にはわれわれ人類の影がちらつき、やがてその姿を見せるとそれはカモメが予告したように醜悪である。人間に結び付けられる荒廃と残忍、醜悪さと疎外感はかなりショッキングで、あまりの恐ろしさにわたしは泣いた。このあたりはエコロジカルなメッセージへと還元されるが、どちらかと言えば人間嫌いが先にあるような気がしないでもない。CGで表現されたペンギンの羽毛、氷や海の冷たさ、遠近感のある空気などは見ごたえがある。ジョージ・ミラーは半端な仕事はしていない。 
ハッピー フィート [DVD]

Tetsuya Sato

2011年12月18日日曜日

ミッション:インポッシブル/ゴースト・プロトコル

ミッション:インポッシブル/ゴースト・プロトコル
Mission: Impossible - Ghost Protocol
2011年 アメリカ 132分
監督:ブラッド・バード


ロシアの核兵器の発射コードがプラハで盗まれたころ、イーサン・ハントは密命を帯びてクレムリンに潜入し、潜入が露見して脱出したところでクレムリンが爆破され、ロシア側はこれをイーサン・ハントとその一味のしわざであると考え、アメリカ側のスパイ組織は事件を受けて閉鎖され、孤立無援となったイーサン・ハントとそのチームはドバイに飛んで発射コードの受け渡し場所を押さえようと試みるが、事件の黒幕であり、核戦争を自然の摂理であると主張して核戦争を推進する狂気の物理学者ヘンドリクスはイーサン・ハントの前から逃れ、ヘンドリクスが核戦争を開始しようとたくらんでいることを悟ったイーサン・ハントはヘンドリクスを追ってムンバイへ飛び、ヘンドリクスがロシアの軍事衛星にアクセスする前の衛星へのアクセスコードを手に入れようと試みるが、ヘンドリクスは衛星を経由して潜水艦に指令を送り、ミサイルがアメリカに向けて発射される。 ブラッド・バードによる初の実写映画であり、きわめて古典的かつ明快にスパイ映画をしていて、チームの分担が強調され、ギミックが強調され、チームのメンバーがそれぞれに見せ場をになうという点では、劇場版のこのシリーズの中ではオリジナルのテレビシリーズにおそらくもっとも雰囲気が近い。演出はきびきびとしているが、登場人物にステレオタイプとも言えそうな背景が設定されているところでやや拡散した気配がある。とはいえ、登場人物が明確に個人として位置づけられ、個人として合目的化されるところはブラッド・バードの作品の特徴であり、そこに対する言及は結果としては自然な形で回収される仕組みになっている。というわけで非常に満足できる仕上がりで、トム・クルーズは精悍に演技をこなし、ジェレミー・レナーの身のこなしが小気味よい。サイモン・ペッグも実にいい感じだし、ポーラ・パットンの突撃ぶりも悪くない。 


Tetsuya Sato

2011年12月17日土曜日

レミーのおいしいレストラン

レミーのおいしいレストラン(2007)
Ratatouille
監督・脚本:ブラッド・バード
天から料理の才能を与えられたネズミのレミーはすぐれた味覚と臭覚を持ち、前足を清潔に保つために直立歩行を選択している。そして間もなくパリのレストランにもぐり込み、無能な見習い料理人を操作して自分の才能を発揮する。ネズミが帽子のなかに隠れて、小さな前足で料理人の髪を掴み、一生懸命操作する様子はまるっきり巨大メカもののテイストであり、やはり『アイアン・ジャイアント』、『Mr.インクレディブル』とつなげてきたブラッド・バードの作品なのである。ややもすれば見過ごしがちなものをいとおしみ、いとおしむ気持ちから新しいなにかを生み出そうとする精神を真摯に扱っており、よく考慮された脚本が好ましい。舞台になっているパリは現代のようでもあり60年代のようでもあり、ちょっと古めかしい車が心地よくデフォルメされて走り回り、町並みの情景は美しく、映像は自信に満ちて心地よい。ネズミのレミーはほぼ完全にいわゆるネズミの外見をしていて、それが厨房を駆け巡って料理をする様子がなんとも愛らしく、きわめてよく訓練されたネズミの一族(しかも同じ個体は二つといない、ように見える)の恐ろしいまでの要領のよさがまた楽しい。 
レミーのおいしいレストラン [DVD]

Tetsuya Sato

2011年12月16日金曜日

Mr.インクレディブル

Mr.インクレディブル(2004)
The Incredibles
監督・脚本:ブラッド・バード
かつてヒーローの黄金時代が存在したが、民衆がヒーローを罵り始めたので、政府はヒーローの保護プログラムを作成し、ヒーローたちは正体を隠して一般市民に紛れ込み、それから15年が経過する。Mr.インクレディブルはイラスティガールと結婚して三児をもうけ、Mr.インクレディブルは保険会社に勤めて悲しみとともに日を送り、イラスティガールは化粧っ気をすっかり落として主婦業に励む。そうしているとMr.インクレディブルのところへ謎の組織からの連絡があり、ヒーロー業復活ということで毎日は再び活力によって満たされるものの、実はこれが悪の帝王シンドロームの陰謀で、Mr.インクレディブルは危機に陥り、パパをトラブルから救うためにママと子供たちが立ち上がる。
プロットラインは フィリップ・モラの『キャプテン・ザ・ヒーロー』 によく似ている( シャマランの『アンブレイカブル』と比べることもできるだろう)。 監督は『アイアン・ジャイアント』のブラッド・バード。『アイアン・ジャイアント』が50年代のSF映画に対する憧憬に捧げられていたとすれば、こちらは60年代のスパイ映画趣味が全開という感じで、ピクサー作品として見た場合、あきらかにジョン・ラセターとはテイストが異なっているが、方向性はきわめて明瞭で迷いがない。つまり、悪役シンドロームが繰り出すSFメカとか、秘密基地などがあんまり素晴らしいので、涙なしには見られないのである。演出はスピード感があり、コストパフォーマンスに優れているので2時間を長く感じさせない。パパは情けないし、ママは怖い。CGによる人間の造形、動作の表現はさすがにピクサーという感じで、きわめてよく考慮されている。手間のかかった立派な作品である。
Mr.インクレディブル [DVD]

Tetsuya Sato

2011年12月15日木曜日

アイアン・ジャイアント

アイアン・ジャイアント(1999)
The Iron Giant
監督・脚本:ブラッド・バード
宇宙から飛来した怪ロボットと少年との交流を描くアニメーション映画である。キャラクターのデザインについては好みがわかれるところであろうが、絵はとにかく美しい。特に冒頭のスプートニクから嵐へと至る描写は圧巻である。またアイアン・ジャイアントと軍隊の戦闘シーンはどこかで見たような場面をずらりと並べたようなところがあって、これはただもう嬉しかった。しかし物語の舞台を50年代に設定したのは、なにも懐かしいロウ・テク軍隊を登場させるためだけではないだろう。背後にマッカーシズムの爪痕を残し、未来にはキューバ危機とベトナム戦争が控えていて、しかも多くのアメリカ人が今にも空から何かが落ちてくるのではないかと気にしていた時代である。空から降ってくる一切の物は悪しき物であった。それを良き物として描くことによって、この映画は伝統的なアメリカ的ヒロイズムを現代的な趣旨に置き換える。そこに現われるのは不気味なタイツの下に隠された無比の筋肉ではなく、鋼鉄の硬さを持った無私の正義と非暴力である。おそらくは今だからこそ望まれる理想主義であり、この姿勢だけでもこの映画は評価に値する。単に絵が美しいだけではない。映画が語ろうとしているものも美しいのだ。
アイアン・ジャイアント 特別版 [DVD]

Tetsuya Sato

2011年12月14日水曜日

ジョン・フォード『リバティ・バランスを射った男』(1962)

リバティ・バランスを射った男(1962)
The Man Who Shot Liberty Valance
監督:ジョン・フォード

ランス・ストッダード(ジェイムズ・スチュアート)は東部で教育を終えて弁護士となり、野心に燃えて西部を目指す。ところが乗り込んだ駅馬車がリバティ・バランス(リー・マーヴィン)とその一味に襲撃されるので、ランス・ストッダードはリバティ・バランスに対して法の裁きを約束する。もちろんリバティ・バランスは無法者であったので法律家ランス・ソトッダードを鞭で何度も打擲し、さらに法律書を破り捨ててその場から去る。負傷したランス・ストッダードはシンボーンの町で牧場を営むトム・ドニファン(ジョン・ウェイン)に救われ、シンボーンの町に運ばれてトム・ドニファンの恋人ハリー(ヴェラ・マイルズ)の介抱を受ける。回復したランス・ストッダードは町の新聞社の一角を借り受けて法律事務所を開業し、さらに教育を受けていない人々を集めて読み書きを教え、さらに政治教育をほどこしていく。この頃、西部の準州に属するシンボーンの町では州昇格のための代議員選出の動きがあり、同じ準州でも大牧場主たちはこの動きを快く思っていない。実はリバティ・バランスこそが大牧場主たちによって派遣された民主運動圧迫の道具であった。町で代議員選挙が始まるとリバティ・バランスとその一味が現われて妨害を加え、リバティ・バランスは代議員に選出されたランス・ストッダードに決闘を申し込む。まともに銃を扱えないランス・ストッダードにトム・ドニファンは逃亡を勧めるが、なりゆきからランス・ストッダードは銃を握り、リバティ・バランスの前に進んでいく。
幸福な物語ではない。トム・ドニファンは町に出現した新たな状況を前に自分を犠牲にして結局人生を投げ出してしまうし、ランス・ストッダードは理想に向かって突き進むが、後ろめたさを抱えている。そして結婚は必ずしも祝福されていない。おまけに悪役リバティ・バランスですらが、大牧場主の雇われ者であり、自由な無法者ではないのである。ジョン・フォードの演出はテンポが速く、冗舌を排し、ほどよくユーモラスで、見ていて実に心地よい。脚本は法の正義と西部の法を小気味よく対決させ、政治力学とジャーナリズムを味付けにして手際がよく、一言で言い表される「西部」の世界の弱者、移民集団の多面性を巧みに描き出している。 
リバティ・バランスを射った男 [DVD]

2011年12月13日火曜日

ジョン・フォード『捜索者』(1956)

捜索者(1956)
The Searchers
監督:ジョン・フォード


1868年のテキサス。南軍で戦ったイーサン・エドワーズは終戦から三年を経て帰郷し、弟一家に迎えられる。間もなくイーサンはテキサスレンジャーとともに牛泥棒を追って荒野に出るが、これはコマンチの戦闘部族が仕組んだ罠であった。コマンチはエドワーズの家を襲って弟夫婦とその息子を殺し、二人の娘を連れ去ってしまう。そこでイーサンはさらわれた姪を連れ戻すために荒野に進み、逃げ続けるコマンチを五年かけて追っていく。
インディアンに家族を奪われた男の復讐劇という形式になっているが、ジョン・フォードの視点は公平で、主人公イーサンは自己に拘泥して得体の知れない憎悪を抱き、そのために明らかに抑制を失っており、一方、騎兵隊はインディアンの虐殺をおこない、コマンチの側にも復讐の理由を与えている。絶望的なまでにかたくななイーサンをジョン・ウェインが好演しており、対する理性的な役どころはジェフリー・ハンターがインディアンの血が八分の一混じっているという設定のマーティンを演じてうまくバランスをとっている。とはいえ、このマーティン・ポウレイが理性的でいられるのも奪われた娘の奪回という範囲であって、五年間もほったらかしておいた恋人(ヴェラ・マイルズ)がとうとうしびれを切らしてほかの男と結婚しようとすると、もう矢も盾もたまらなくなって理性を失い、相手の男に飛びかかっていくのである。自分を賭けた殴り合いを花嫁衣装で陶然と眺めるヴェラ・マイルズの表情がよい。演出はテンポが速く、どの場面も要領よく短く手堅く固められ、ほどよくユーモアが配置されている。傑作である。 
捜索者 [DVD]


Tetsuya Sato

2011年12月12日月曜日

ジョン・フォード『ミスタア・ロバーツ』(1955)

ミスタア・ロバーツ(1955)
Mister Roberts
監督:ジョン・フォード、マーヴィン・ルロイ


太平洋戦争末期。アメリカ海軍の小さな輸送艦「リラクタント号」は南太平洋の島嶼をまわって練り歯磨きやトイレットペーパーを配っていたが、その貨物担当士官ミスター・ロバーツは前線勤務を望んでいた。ところが艦長はおのれの野心から有能なこの士官の転属を阻み、さらに専横を隠すこともしないで乗員の権利を奪うので、艦長とミスター・ロバーツのあいだには対立が絶えない、というなんだか バウンティ号 みたいな話だけど、いちおうコメディなのである。
ミスター・ロバーツがヘンリー・フォンダで、冒頭、沖を進む機動部隊を餓えたように見守る表情がこの好戦的なキャラクターを実に巧みに説明している。対するモートン艦長はジェームズ・キャグニーで、こちらは客船のスチュアードからのたたき上げで、輸送任務を顕彰された際に受け取った提督のヤシの木を甲板に安置して、これを何よりも大切にしている。その艦長が着任後一年半も存在に気づかずにいる洗濯係士官がジャック・レモン、軍医がウィリアム・パウエルである。話はもちろんミスター・ロバーツとモートン艦長の戦いを中心に展開し、途中、乗員やジャック・レモンが笑いをはさむ。薬用アルコールにコーラとヨードとヘアトニックを混ぜて、それでスコッチを捏造するあたりなどはなかなかにおかしいが、そうした笑いのなかではヘンリー・フォンダの生真面目な顔は不自然なまでに浮いてくるし、ジェームズ・キャグニーの一本調子な暴君ぶりは対立を陰気なものにしていって、様々な歯車が最後まで噛みあわない。一般にはきわめて評価の高い作品だが、わたしには少々退屈だったし、とにかくジェームズ・キャグニーの使い方がよろしくないように見えるのである。ところで改めて見直してみたところ、「リラクタント号」の艦橋には常に誰もいないということに気がついて、これで船は大丈夫なのかと心配になった。 
ミスタア・ロバーツ 特別版 [DVD]


Tetsuya Sato

2011年12月11日日曜日

ジョン・フォード『栄光何するものぞ』(1952)

栄光何するものぞ(1952)
What Price Glory?
監督:ジョン・フォード
1918年のフランス。フラッグ大尉が指揮する合衆国海兵隊L中隊に新任の軍曹が到着する。このクワート軍曹とフラッグ大尉は世界各地を転々としながら宿敵関係を続けていて、あまりにも宿敵なのでお互いのあいだに言葉がいらないくらいになっていて、そのクワート軍曹はフラッグ大尉の留守中にフラッグ大尉が借りた部屋にもぐり込み、フラッグ大尉が自分の女だと宣言している居酒屋の娘に接近し、事実に気づいた居酒屋の主人は娘を傷物にされたという理由でフラッグ大尉を脅迫し、フラッグ大尉は軍曹をただ笑い物にするだけのために娘との結婚を強要し、そういうどたばたをしているうちに出動命令が下ってL中隊は戦場へおもむき、そこで砲撃にさらされ、ひとが倒れるのを見ているうちに、もう本当に戦争がいやになり、女性のそばにいたくなり、大尉も軍曹も結婚するつもりになってくるので村へ戻ってからの話が面倒になる。
軍隊コメディである。どたばたとしている前半はかなり笑えるが、精神的に深刻になってくると、深刻になるのがフラッグ大尉のジェームズ・キャグニーなので冗談抜きに深刻で、つまり映画的な意味での言葉数が少々不足していても、ああこのひとは本当に戦場に戻りたくないのだなあ、と感じられるくらいに痛々しい風情があって、それでどうなるかと言うと、ジェームズ・キャグニーはすごい役者だと感心させられるのである。舞台劇からの翻案らしいが、構成は意外なくらいに愚直で、戦争の狂気と悲惨を直球勝負で扱っている。まだ初々しいロバート・ワグナーが新兵役で顔を出し、村の女学生と初々しく恋をしていた。
栄光何するものぞ [DVD] FRT-040

Tetsuya Sato

2011年12月10日土曜日

バウンティ号の反乱 1935,1962,1984

18世紀末、英国海軍軍艦バウンティ号はタヒチ島に産するパンの木を西インド諸島へ移植するという実験的な任務を帯びて南太平洋へ赴くが、タヒチから出港した後、航海士フレッチャー・クリスチャンを中心とする反乱が起こり、艦長ウィリアム・ブライはボートで洋上に追放され、バウンティ号を奪ったクリスチャンはタヒチを目指す。ブライ艦長は定員超過のボートによる大胆不敵な冒険航海を経て生還を果たし、報告を受けた英国海軍は反乱討伐のためにフリゲート艦パンドラ号を派遣する。だがバウンティ号及びクリスチャン航海士を捕捉することはできなかった。バウンティ号の反乱者たちは絶海の孤島ピトケアンに逃れたとされている。
以上は映画のストーリーではなくて、おおむねのところの史実である。ちなみにバウンティ号は「戦艦」ではなくて砲4門を搭載した等級外の小型艦で、ウィリアム・ブライは正規艦長(Post Captain)ではなくて艦長名簿に載っていない海尉艦長(Commanding Lieutenant)であり、陰険な初老の男ではなくて半額休職給から抜け出してきたばかりの33歳の青年である。




戦艦バウンティ号の反乱(1935)
Mutiny on the Bounty
監督:フランク・ロイド
自由を渇望する反乱の首謀者フレッチャー・クリスチャンがクラーク・ゲイブル、陰険な初老の男ブライ艦長がチャールズ・ロートン。このブライ艦長は初めから悪役として作られているし、対するクリスチャン航海士の方は驚いたことに最初から反乱を企んでいるように見える。時間を節約するためかもしれないが、準士官に過ぎない航海士が艦長に対してまるで敬意を払っていない、それどころか対等者のように振舞っているというのはやはり妙に見えるし、解釈の仕方によっては開巻からわずか30分で二度反乱を起こしていると言えなくもなくて、いや、製作当時のアメリカ海軍だって、あんな無礼は許されなかったであろう。対立関係が極端に単純化されたせいで、この映画のバウンティ号はそもそもの最初から軍艦に見えなくなってしまっている。ブライ艦長の根拠のない暴虐はほとんどナンセンスの粋に踏み込んでいるため、反乱に至るまでの前半はまるでコメディである。対するクリスチャンはまったく抑圧を欠いたままブライの行動に反応しているだけで、つまるところこの映画における「反乱」とは、漫才のコンビが途中でコンビを解消しているという以上の意味はない。掘り下げの浅い話を思いつきの演出でつなげただけの締りの乏しい映画であった。クラーク・ゲイブルの半裸姿を見せるための企画であろう。
戦艦バウンティン号の叛乱 [DVD]




戦艦バウンティ(1962)
Mutiny on the Bounty
監督:ルイス・マイルストーン、キャロル・リード
ロンドンに焦がれる反乱の首謀者フレッチャー・クリスチャンがマーロン・ブランド、偏屈な老人のブライ艦長がトレバー・ハワード。この映画のクリスチャンは航海士と言いながら下士官ではなくて先任士官ということになっていて、だから海尉艦長のブライとは任官順位の違いがあるだけで階級的には同格ということになる。その上、貴族のご婦人を連れて馬車を仕立てて乗り込んでくる伊達者という設定で、つまりブライよりも金持ちでブライよりも縁故に恵まれていて、だから不器用で無骨者然としたブライに対して最初から舐めた口をきいているのである。はっきり言って部下に迎えたいタイプではない。そういうクリスチャンなのでまるで最初から反乱を企んでいるように見えても、実はただ艦長を軽んじていただけという説明が可能になる。逆に前半をそうとでも説明しておかないと映画が後半に入ってからの行動が説明できない。つまり水夫のひとり(リチャード・ハリス)が反乱の指揮を取らせようとしてクリスチャンを煽り始めると、クリスチャンの方ではなぜかいきなり悩み深くなって、遂に反乱に突入するまで悶々と苦悩するのである。そういう慎重さを備えた人間には見えなかったので、こちらは性格の激変に驚くことになる。しかし、最初から反乱を企んでいたのはクリスチャンではなくて実はリチャード・ハリスの水夫だったということになると、前半でのクリスチャン航海士の役割はまったくなくなってしまって、結局マーロン・ブランドはイギリスでもタヒチでもご婦人方に流し目をくれていただけ、ということになってしまうのかもしれない。イースター島の石像みたいに頬の長い男がちらちらちらちらとうるさく流し目をするので、いちど気になるとものすごく気になるのである。それにしてもこの3時間15分は長い。




バウンティ/愛と反乱の航海(1984)
the Bounty
監督:ロジャー・ドナルドソン
反乱の首謀者フレッチャー・クリスチャンがメル・ギブソン、ブライ艦長がアンソニー・ホプキンス。どちらについてもこれまでで一番若い配役である(事件当時クリスチャンは23歳)。この二人がすでに航海を共にした経験をもつという事実も採用されていて、そのせいで航海長のフライヤーが冷遇されていたというエピソードも織り込まれている。登場人物は常識的に等身大に描かれているし、タヒチへの航海もいたって普通に描写されていて全体的にリアルな内容だと思うのだが、「バウンティ」物としてはなぜかいちばん評判が悪い。察するに悪役としてのブライがまったく明示されていないというあたりに、そしてクリスチャンもまた善玉ではなくて衝動的なエゴイストのように描かれているというあたりに問題があるのかもしれない。とはいえ悪役ブライがいなければクリスチャンは反乱を起こせないという決まりも無残なように思えてならない。ひどくくたびれてたどり着いた場所が南海の楽園で、しかも子供まで出来てしまったから帰りたくない、というのは反乱を起こすのに十分な理由になるような気がするのだけれど、これはわたしがさぼりたい人間だからかもしれない。
この作品の場合、それよりも気になるのはブライの別方面における人物造形であろう。この映画ではブライを戯画化された暴君として描くのではなく、清教徒的な自己規定の持ち主で、まっとうな家庭人であり、野心を携えた軍人であり、名誉欲も備えていて、名誉の実現のためには部下にも自分と同様の禁欲を強いる、という、普通の職業軍人として描いている。いや、そう描くからこそ、なぜ失敗したのかという関心を抱くことができるのである。そしてどうやらその理由を説明するために、ブライ艦長がクリスチャン航海士を見つめる視線に同性愛的な色彩を加えているのである。少なくともわたしにはそう見えたのである。そこへもってきてフライヤーを演ずるダニエル・デイ・リュイスが怪しい雰囲気で目配せをしたりするものだから、ますますそういう解釈なのかという気がしてくる。実際、そう説明するとすっきりする部分もあるのだが、嫉妬に口を開いたブライ艦長といった描写の仕方がどうも唐突で戸惑うところが多いようだ。3本目に見る「バウンティ」物としては悪くないかもしれないけれど、いきなりこれを見たら首をひねることになるかもしれない。なお、軍法会議の場面ではローレンス・オリビエとエドワード・フォックスが、バウンティ号の粗暴な水夫の役でリーアム・ニーソンが顔を出している。
バウンティ~愛と反乱の航海 [VHS]





Tetsuya Sato

2011年12月9日金曜日

ジョン・フォード『静かなる男』(1952)

静かなる男(1952)
The Quiet Man
監督:ジョン・フォード


少し昔のアイルランド。汽車はキャッスルタウンの町にいつもと同じように三時間遅れで到着し、汽車から降り立った余所者の男はイニスフリーへの道を訊ねる。ショーン・ソーントンと名乗るこの男はイニスフリーの出身で、すでに幼い頃アメリカに渡っていたが、諸般の事情で帰郷を決意し、イニスフリーの村を訪れて住むべき家を発見し、続いて妻になるべき女性を発見する。ところがこの女性は気性の激しい赤毛であり、その兄は因業で知られた男であり、しかも村ではことあるごとに陰謀がおこなわれ、カトリックと聖公会がいかがわしく共存し、パブにはI.R.A.まで出没するのでいろいろと滑稽で愉快なことが起こるという話である。
うんざりするほど緑豊かなアイルランドの風景が美しく、また素朴な田舎の村の人々の、素朴でなければ現われないようなストレートな腹黒さが面白い。皆がそれなりに腹に一物を収め、結局まとわりつくのは嫁の持参金の話、ということになるので、実は見た目ほど明るい話ではないのである。ただジョン・フォードの演出は品位と活力があるので影が差した話にほどよく光を注ぎ、適当なところで野を越え川を越えのとんでもない殴り合いに持ち込んで大団円で終わらせてくれる。いかにもアイルランド然とした村人たちのキャラクターが見ていて楽しい映画である。業腹な兄ダナハーに扮したヴィクター・マクラグレンが魅力的。これに比べるとジョン・ウェインは精彩を欠く。かなり積極的な恋愛場面になったりすると、やっぱり苦手なのかな、と思ったりする。そして相手役のモーリン・オハラはやっぱり美しいのである。 
静かなる男 [DVD] FRT-190


Tetsuya Sato

2011年12月8日木曜日

ジョン・フォード『リオ・グランデの砦』(1950)

リオ・グランデの砦(1950)
Rio Grande
監督:ジョン・フォード


ジョン・フォードの「騎兵隊」三部作の三作目。
合衆国騎兵隊を率いるヨーク中佐はスターク砦を拠点にアパッチの征討を続けている。中佐には十五年も会っていない十代の息子がいたが、その息子が士官学校で落第したという話を聞くか聞かないかのうちに当人が補充の二等兵としてスターク砦に現われる。そして中佐には十五年も会っていない妻もいて、その妻もまた息子を取り戻すために砦に現われ、どうやらこの一家には十五年前に何かがあって、そのせいで家庭が崩壊しているようなのだけど、アパッチの部族連合が果敢に攻撃を加えてくるので、それを撃退しているうちになんとか収まるところに収まってしまう。
冒頭の「ローマ風」の立ち乗りといい、騎兵やアパッチの突撃といい、騎馬の場面はとにかく大迫力で、とにかくそれだけでも見る価値はある。その合間にベン・ジョンソン扮するお尋ね者の騎兵を騎兵隊側でなんとなくかばったりとか、ヴィクター・マクラグレン扮する曹長がちょっとコミックな演技をしたりとか、そういうところも面白い。ただ挿入歌がむやみと多く、主軸となる筈の家族の再生劇に関しては説明を歌詞にまかせてはしょったようなところがあり、そこがちょっと釈然としない。 
リオ・グランデの砦 [DVD]


Tetsuya Sato

2011年12月7日水曜日

ジョン・フォード『黄色いリボン』(1949)

黄色いリボン(1949)
She Wore a Yellow Ribbon
監督:ジョン・フォード

ジョン・フォードの「騎兵隊」三部作の二作目。
カスター将軍の第七騎兵隊がシャイアンとの戦いで全滅し、インディアン各部族の急進派若手リーダーが部族間統合を進めて大反抗を企てていたころ、合衆国騎兵隊の老齢の大尉ネイサン・ブリットルズは退役を数日後に控え、中隊を率いて最後のパトロールに出発する。中隊には不穏な気配を避けて西部を離れる少佐夫人とその姪が随伴し、中隊は夫人たちを駅馬車の中継基地に預けてアラパホ族の掃討をおこなう計画でいたが、途中、合流する予定の巡察部隊が襲撃を受け、さらに駅馬車の中継基地も襲撃によって破壊され、中隊は夫人たちを連れたままスターク砦へと帰還、その翌日、ブリットルズは退役の日を迎えて合衆国陸軍を後にする。
きわめてシンプルなプロットにカラフルな登場人物が配置され、実に豊かなドラマが展開する。そこには若い将校たちの恋のさや当てがあり、同僚を案ずる友情があり、かつての南軍の栄光があり、ヴィクター・マクラグレン扮する軍曹の幕間狂言があり、インディアンの族長との友情があり、ダイナミックな突撃があり、その足元では愛らしいアイリッシュセッターの果敢な疾走があり、語り口は驚くほど雄弁で見る者の目を最後まで放さない。そしてジョン・ウェインが老け役を演じたブリットルズ大尉がとにかく渋い。 
黄色いリボン [DVD]


Tetsuya Sato

2011年12月6日火曜日

ジョン・フォード『アパッチ砦』(1948)

アパッチ砦(1948)
Fort Apache
監督:ジョン・フォード


ジョン・フォードの「騎兵隊」三部作の一作目。
合衆国陸軍のサーズデイ中佐はヨーロッパでの任務を解かれてアリゾナ準州にあるアパッチ砦に着任する。とはいえ電信の故障で着任の辞令が砦に届いていなかったために駅馬車で最寄りの駅に到着すれば出迎えはなく、砦に到着すれば将校たちはダンスパーティを開いている。砦に駐屯する連隊の指揮官に任命されたことをすでに左遷であると考えていた中佐にはこれが面白い筈もなく、加えてしゃちほこばったところがあって、現地の習慣を堕落と捉え、連隊が監視下に置くアパッチを最初から野蛮人の集団と決めつけている。そしてそのアパッチは政府監督官の悪辣さに怒って居留地を離れ、メキシコを目指して南下を始め、連隊のヨーク大尉はそれを交渉によって食い止めるが、大尉がアパッチと交わした約束をサーズデイ中佐は守ろうとしない。ということでアパッチの実力を過小評価した中佐は数倍の敵に連隊の全兵力を振り向けて、その結果として伝説になる。
頭の固いサーズデイ中佐がヘンリー・フォンダ、その下で賢明にふるまおうと試みるヨーク大尉がジョン・ウェイン、中佐の娘がシャーリー・テンプルである。アパッチ砦の駐屯部隊の将校たちはほとんどが降格の経験者で、下士官はなぜかアイルランド人まみれで、ヴィクター・マクラグレン扮する軍曹とその一味は例によって果てしなく酒を飲む。下士官を中心にした軍隊コメディぶりは文句なしにおかしいが、この映画の骨の太さは愚劣な指揮官に率いられた軍隊が壊滅する有様を淡々と最後まで描ききったところであろう。歴史の語れない部分を語ろうとするこの取り組みは知的であり、その冷静な成果は称賛に値する。ヘンリー・フォンダの演技が印象的であった。 
アパッチ砦 [DVD] FRT-082


Tetsuya Sato

2011年12月5日月曜日

ジョン・フォード『荒野の決闘』(1946)

荒野の決闘(1946)
My Darling Clementine
監督:ジョン・フォード


カリフォルニアを目指してキャトル・ドライブをしていたアープ家の四兄弟は途中、アリゾナのトゥームストーンで牛を奪われ、末弟を殺される。そこでアープ兄弟は保安官となってトゥームストーンにとどまり、クラントン一家の父親と四兄弟に牛泥棒と殺人の嫌疑を向けるが、そうしているあいだにドク・ホリデイを追って東部からクレメンタイン・カーターと名乗る婦人が現われ、その清楚な姿と才色兼備な様子にワイアット・アープは一目ぼれする。
ゆったりとした、おおむね静かな映画である。酒場、床屋、ホテル、馬車を連ねて日曜礼拝に進む人々、青空の下でのカントリーダンス、などの情景の奥行きのある映像がすばらしい。風景は平常の地平へと広がっていくのである。そして同じ広がりがクライマックスの決闘の場面では異常なまでの緊張感を生み出している。時間と空間がきちんと演出されているのだ。映画は保安官ワイアット・アープの揺れ動く心を淡々と描き、婦人の前でのその不器用ぶりと時折見せる唐突な思いきりがなんとも切なくてよろしい。ヘンリー・フォンダの演技はどこか飄々としていて人間味があり、対するクラントン一家の牢獄のような重苦しさと対照的である(なにしろこちらの家の兄弟は鞭を握った父親にすっかり自由を奪われていて、自分で酒を注文することもできないような有様である)。 
荒野の決闘 <特別編> [DVD]


Tetsuya Sato

2011年12月3日土曜日

タンタンの冒険 ユニコーン号の秘密

タンタンの冒険 ユニコーン号の秘密
The Adventures of Tintin
監督:スティーヴン・スピルバーグ
タンタンが手に入れた帆船ユニコーン号の模型には謎が隠されていて、その謎を追う謎の男サッカリンがタンタンの前に現われ、タンタンはいきなりさらわれて貨物船に閉じ込められ、サッカリンに貨物船を奪われた船長のハドックとともに海へ逃れ、サッカリンの水上機を奪ってサッカリンの目的地へ先回りするが、サッカリンはすでに謎を手にする算段をととのえ、目論見どおりに謎を手にしたサッカリンをタンタンは追いかけ、取り逃がすものの、ふたたび先回りをしてサッカリンを捕えることに成功し、ユニコーン号に隠された謎を明かす。
エルジュの『タンタン』を言わば原作の雰囲気のまま、3Dの映像に確実に定着させているところがまずすごいが、原作のどちらかと言えば静的なコマとコマの間から壮絶なアクションを引っ張り出して、それをめまぐるしいまでの勢いでスクリーンにはじけさせているところがまたすごい。そしてアクションの一つひとつがきわめてスピルバーグ的であり、実写の文脈では困難であったことを『タンタン』およびそのアニメーションというフィルターをかけることで、言わば実写的文脈を振り落とし、おおむねにおいて簡略化された状況を背景に思うがままにアクションに専念しているという気配がうかがえて、つまりここに至って初めて、スピルバーグがスクリーンで本来したかったことを目撃しているのだと実感する。あまりのめまぐるしさに少々疲れたことは事実だが、この監督の仕事を語る上ではきわめて重要な作品である。 

Tetsuya Sato

オリバー・ツイスト 1948 - 2005

オリヴァ・ツイスト(1948)
監督:デビッド・リーン
オリバー・ツイストに扮したジョン・ハワード・デイヴィス少年のいかにも薄幸そうな風情がなんというのか、薄幸そうなのである。それがまた救貧院育ちとは思えないようなていねいな話し方をするので薄幸ぶりがいやまして、ますます薄幸そうに見えるのである。アレック・ギネスは大胆な付け鼻を付けてフェイギン役で登場し、ロバート・ニュートン扮するサイクスは実に凶悪に犯行を働く。デビッド・リーンの演出は滑らかで多彩な登場人物を手際よく描き分けながら多弁を弄さずに話を進め、サイクスのナンシー殺害の場面、そのサイクスが群衆に追い詰められるクライマックスでは大胆な演出力を発揮している。




オリバー!(1968)
監督:キャロル・リード
ライオネル・バートによるミュージカルの映画化。フェイギン役のロン・ムーディ、ドジャー役のジャック・ワイルドが芸達者なところを披露し、ビル・サイクス役のオリバー・リードも存在感を示しているが、オリバー・ツイストに扮するマーク・レスターはその辺の石ころも同然である。事実上の主役はフェイギンで、ミュージカル・ナンバーもいいところはやはりフェイギンに集中している。キャロル・リードの演出はていねいだが、舞台を映画に載せたという以上のものではなく、映像的には格別の精彩はない。
オリバー! [DVD]





オリバー・ツイスト(2005)
監督:ロマン・ポランスキー
もともと非常にバランスの悪い原作からエピソードを刈り込み、登場人物を刈り込まなければならないので、『オリバー・ツイスト』の映画化では脚本の出来不出来がものを言う。残念ながらこのポランスキー版は必ずしも脚本に恵まれていない。サイクスが狙いを付けた家がなぜかブラウンロー氏の家に変えられているが、そうなるとモンクスをストーリーから排除した理由がわからなくなるし、ドジャーになんでもやらせてしまうのはいつものことだとしても、今回はその処理のまずさがあってドジャーとナンシーの関係が不明瞭になり、チャーリー・ベイツ対サイクスのエピソードまでドジャーに割り振ってしまった結果、ますますドジャーのキャラクターが不鮮明になっている。サイクス、ナンシーの書き込みにも甘さが見える。演技陣にも疑問がある。ベン・キングズレーはフェイギンを熱演しているが、アレック・ギネスのコピーのように感じられた。いっそアラン・リックマンあたりがやっていれば、もっと面白くなったのではあるまいか。バーニー・クラークのオリバーは少しばかりふてぶてしくて、言うほど無垢には見えてこない。むしろ、どこかに二心を感じさせた(あの眼鏡はなに?)。出演者は総じて魅力に乏しい(ブルズ・アイに扮したターボはよかったが)。あえて文芸路線に踏み込み、原作から細部を取り込もうとした勇気は認めなければならないが、この素材はやはり芸達者をほどよく配して演芸会にすべきではなかったか。ロンドンの街頭の雑踏からリトル・サフラン・ヒルへといたる道筋では 『戦場のピアニスト』のゲットーを彷彿とさせるパノラマ的な描写がおこなわれ、そこに繰り広げられる景観は楽しいものの、演出自体は必ずしも成功していない。オリバーを手前に置いたために、背景に対してカメラが引きすぎたせいであろう。非常に美しい映画ではあるが、デザイン上の失策が目立つ。ついでながら、後段でバンブル夫妻が登場しないのは、約束違反ではないだろうか。 デヴィッド・リーン版には及ばない。
オリバー・ツイスト [DVD]




Tetsuya Sato

2011年12月2日金曜日

ジョン・フォード『わが谷は緑なりき』(1941)

わが谷は緑なりき(1941)
How Green Was My Valley
監督:ジョン・フォード


十九世紀後半のウェールズの炭坑。そこを通り過ぎた様々な情景を語り手が回想する。父は立派なキリスト教徒で誇り高く人生を生き、母は家の心臓であった。語り手は年の離れた五人の兄と姉を持ち、父も兄も炭坑で働き、姉は家で母を助け、新任の牧師に愛を抱く。炭坑が賃下げを断行するとストライキが起こり、父はストライキに反対し、牧師は組合に支持を与え、やがて兄たちは炭坑を離れ、姉もまた家を離れ、語り手は一族で初めて学校へ通い、学業を終えると父と兄に倣って炭坑へもぐる。家族は離別し、愛は育みを拒み、助祭は信仰をゆがめ、人々は卑劣へと走り、どうやらすべては悪いほうへと向かっていくが、実際にそうなる前に回想は終わる。
語り手は回想のなかで少年として現われ、ロディ・マクドウォール扮するこの少年のいかにも薄幸そうな顔立ちは冒頭からすでに悲劇を感じさせる。そしてモーリン・オハラは若々しくて美しいし、父親役のドナルド・クリスプはいい味を出しているし、牧師のウォルター・ピジョンも悪くない。主人公一家の家を背景とする生活感あふれる描写は実に緻密で、セミロングを多用したショットは俳優たちのために心地よい演技空間を出現させている。とはいえ少年の視野に吸着した回想という形式を選択することで、明らかに意図的な単純化がおこなわれており、ときにはそれが不自然に見える。たとえば炭坑の少年たちはいったいどこから出現したのか。組合は結局どうなったのか。また生活感溢れる描写は楽しいものの、十九世紀の炭坑労働者としては、一家の生活水準が妙に高いのが気になった。こざっぱりとした服装をし、部屋のカーテンにレースを使い、夕食にはパンとスープのほかにロストービーフを塊で食べ、ケーキを焼いている家が貧しいとは思えないのである。ただしこれはリアリティに関する選択の結果なので、作品の瑕疵であるとは考えていない。 
わが谷は緑なりき [DVD] 

Tetsuya Sato

2011年12月1日木曜日

ジョン・フォード『駅馬車』(1939)

駅馬車(1939)
Stagecoach
監督:ジョン・フォード


1885年のアメリカ。アリゾナのトントから途中二つの宿駅ドライ・フォークとアパッチ・ウェルズを経由してニューメキシコのローズバーグまで駅馬車が走る。道中ではアパッチが不穏な動きを示しており、何が起こるかはわからない。乗客は六人。ヴァージニアから来て騎兵隊にいる夫の大尉を訪ねようとしている臨月の女、その女の護衛を買って出る元南部連合将校の賭博師、酒の行商人、トントの町から追放を言い渡された飲んだくれの医師、同じく追放を言い渡された売春婦、そして町の銀行の頭取である。御者は仕事があることを喜んでいるが、結婚相手のメキシコ女が大家族で食わせるのが大変だとぼやいている。御者席の横にはトントの町の保安官が座る。保安官は馬車の護衛役として乗り込んでいるが、実は別の用件を携えている。実はこのとき元牧童で殺人の罪で服役していたリンゴ・キッドが脱獄し、宿敵プラマー兄弟と対決するためにローズバーグに向かっていたが、保安官は対決がおこなわれる前にリンゴ・キッドを捕えるつもりであった。とはいえ、それは単に脱獄囚として捕えるのではなく、友人の息子であるリンゴ・キッドを無謀な行為から救うためで、保安官の考えとしてはリンゴ・キッド一人に対してプラマー兄弟三人という決闘は無謀であると思えてならなかった。そしてそのリンゴ・キッドはトントの郊外で馬を失って立ち往生し、馬車の七人目の乗客となる。護衛の騎兵隊はドライ・フォークで引き返し、ドライ・フォークにもアパッチ・ウェルズにも頼みの騎兵隊は存在しない。それどころかいよいよ動静は不穏になり、リンゴ・キッドは彼方の丘にのろしを認め、無防備のまま出発した駅馬車にやがて騎馬のアパッチ族が襲いかかる。
演出はテンポが速く、余計なところで足をとめようとはしないので、見ていてすこぶる心地がよい。登場人物は社会の上中下とまんべんなく配置され、それぞれに個性的で奥行きがあり、ダイアログは軽快でほどよくユーモアがにじませてある。強いて言えばリンゴ・キッドというキャラクターがやや唐突だが、明確なヒロイズムを与えるためだと割りきれば瑕疵というほどの瑕疵ではないだろう。駅馬車襲撃の場面はきわめてハイテンションで盛り上がる。
駅馬車 [DVD]


Tetsuya Sato

2011年11月30日水曜日

ロマノフ王朝の最期

ロマノフ王朝の最期(1981)
Agoniya
監督:エレム・クリモフ


厳密にはロマノフ王朝の最期ではなく、ラスプーチン暗殺を主軸にした帝政末期の国家的苦悶を荘重に描いている。卓越した色彩デザイン、そして記録映画や写真をコラージュした映像は古典的かつ芸術的であり、とりわけ慎重に配置されたモンタージュはエイゼンシュテインを思い出させる。集合写真を多用する手法は先に見た『炎628』でも使われていたが、この映画でもきわめて効果的である。国会の記念写真に始まり戦傷者と看護婦、貴族、労働者、死体、群集と連なる何枚もの集合写真は歴史の背後に埋もれている無数の人間の存在を静かに観客に伝えている。
ただし難しさが残る。映画は16年から10月革命までの短い文脈を選んで革命を結末としているが、現代的な視点で眺めた場合、革命はやはり始まりなのである。帝政及び第一次世界大戦という悲惨の延長線上に革命とそれ以降の時代が存在しているわけであり、あの時点での苦悶は恐ろしいことにそれから半世紀以上にもわたって継承されているという事実である。政治的な上部構造が置き換わっただけなのだ。もちろん1981年当時の、いや、いつの時点であろうとモスフィルムにそうしたタイムスパンを採用する余地がないことは明らかなので、私はまるで無意味なことを言っているのかもしれない。歴史の重量感を備えたこの映画に与えられた歴史的な制約が、見ていてなんとなく苦しいのである。
ロマノフ王朝の最期【デジタル完全復元版】 [DVD]

Tetsuya Sato

2011年11月29日火曜日

セインツロウ ザ・サード

セインツロウ ザ・サード
Saints Row: The Third/THQ/PS3

スティルウォーターを拠点とするストリートギャング、サード・ストリート・セインツは前作『セインツロウ2』の結末を受けてセインツ・アルター・グループを形成してブランド化へ走り、キャラクター・マーチャンダイジングなどを展開していたが、それはそれとしてやはりギャング行為もするということで銀行を襲撃したところ、それが国際シンジケートの銀行で、派手な銃撃戦の末に捕えられ、シンジケートの配下となって上納金を収めるように要求され、もちろん拒絶してシンジケートが支配するスティールポートへ乗り込み、シンジケートを壊滅させる、というプロットを背景にした箱庭型のアクション・ゲームで、基本的には町の中を自由に歩きまわり、ミッションやサブミッションをこなし、敵のギャングと抗争し、支配地域を広げていく。その範囲では前作とおおむね同じだが、今回は途中から敵が事実上の軍隊になり、空母や戦闘機が投入されてくるので、こちらも戦闘機を撃墜し、空母を撃沈することになる。そしてシステムがそれを保証しているので、戦闘機を撃墜し、空母を撃沈する合間に路上強盗や押し込みをすることもできる。
ゲームの導入部はすでに『スターウォーズ』のパロディであり、序盤のアクションは『シューテムアップ』からの引用になり、途中のミッションでは電脳空間に放り込まれて『トロン』をやり、そこで提供されるアバターはなぜか便器であり、ファンタジー系RPGのいささか嫌みなパロディもあり、ゾンビが大群になって現われ、マスクをかぶってプロレスをやり、ピンク色の巨大なディルドを振りまわして敵を殴り、衛星兵器で敵を爆撃し、ついでにバート・レイノルズと対面する。単にてんこ盛りというよりも、何かひどく混沌としている世界になっているのである。にもかかわらず、ゲームとしてのバランスはよく、豊富な選択肢もあって、プレイアビリティはかなり高い。リアリズムやモラルを気にしたいひとは『GTA』をすればいい、という思い切りのよい差別化がおこなわれているような気がする。スティールポートの町が単調で魅力に乏しい、店舗のバリエーションが少なくなり、店で売っている衣類もセットが増えて、前作に比べると組み合わせが単調になった、などの難点もあるが、全体からするときわめて上質なゲームと言うべきであろう。


Tetsuya Sato

2011年11月28日月曜日

わたしなりの発掘良品『遥かなる戦場』(1968)

遥かなる戦場(1968)
The Charge of the Light Brigade
監督:トニー・リチャードソン


軽騎兵旅団を指揮するカーディガン卿は知らぬ者のいないアホウで、インド帰りで自信過剰のノーラン大尉が噛みついてくると、とにかくそれが気に入らないのでノーラン大尉を謹慎させたり逮捕させたりしていたが、それが新聞ダネにされてスキャンダルを呼び、ノーラン大尉の直訴によってラグラン卿が調停に乗り出してどうにか事を収めた頃、クリミア戦争が始まるのでラグラン卿を総司令官としてイギリス軍がクリミアにわたり、多数の病人を出しながらロシア軍と交戦、やがてイギリス軍とセバストポリ湾のあいだをロシア軍が遮断するので、ラグラン卿はロシア軍の砲列の移動を阻止するために騎兵隊に進撃を要請するが、その命令を伝えたのがノーラン大尉で、命令を受けたルーカン卿とその配下にあるカーディガン卿とは互いをアホウと罵る関係にあり、そのことは現場でも変わることがなかったのでどちらがどちらともなく叫びたて、なんだかよくわからないままにラグラン卿の命令はロシア軍砲兵陣地への突撃命令と曲解され、カーディガン卿の指揮で軽騎兵旅団が突撃する。カーディガン卿がトレバー・ハワード、限界が近いラグラン卿がジョン・ギールグッド、ノーラン大尉がデヴィッド・ヘミングス。超大作である。『進め龍騎兵』(1936)と同じ題材を扱っているが(原題も同じだが、まずテニソンの詩があるので、これはそういうものであろう)、あちらがエロール・フリンならば、こちらはなにしろ監督がトニー・リチャードソンなので、きわめて批評性の強い作りになっていて、歴史的な状況は凝ったアニメーションで説明され、支配階級はおおむねにおいてアホウとして扱われる。話がクリミアに移るのは中盤からで、それまでは軽騎兵の訓練風景、厩舎、厩舎の背後の女たちの仕事部屋などが詳細に描かれ、戦争が始まると馬匹輸送船の内部、黒海の嵐による馬の損耗、カラミタ湾上陸、行軍、伝染病による兵士の損耗、野営地の設営と珍しい描写が山ほども登場する。戦闘シーンもよくデザインされており、クライマックスの突撃はかなりすごい。演出上の創意がややまとめ切れていないところに瑕疵が見えるものの、見ごたえのある映画になっている。 
遥かなる戦場 [DVD]

Tetsuya Sato

2011年11月27日日曜日

日曜日には鼠を殺せ

日曜日には鼠を殺せ(1964)
Behold A Pale Horse
監督:フレッド・ジンネマン


スペイン内乱の終結とともに共和国側の闘士たちはフランス側に亡命し、指導者であったマヌエル・アルティゲスもまた武器を捨てて国境を越える。それから二十年。アルティゲスはたびたび越境してスペインで銀行強盗を繰り返し、サン・マルティンの町の警察署長ヴィノラスはアルティゲスを捕えるために自分のキャリアを賭けて罠を仕掛ける。病身で余命いくばくもないアルティゲスの母親を病院に収容し、病院の周囲を狙撃兵で取り囲み、密告者をフランス側に送ってアルティゲスをおびき寄せるという計画であったが、当のアルティゲスは母親の病状を聞いてもいっこうに腰を上げようとしない、という話である。
二十年経ってもまだ人民の英雄をやっているアルティゲスがグレゴリー・ペックで、くわえタバコに無精ヒゲを生やしてすっかりふてくされている様子がなかなかによろしい。対する警察署長がアンソニー・クインで、こちらは真面目に仕事をする一方で情婦を抱え、なぜか妻のことを妙に恐れていたりする。話の大半は国境のあちら側のフランスで進行し、状況を読みきれないアルティゲスが苛々しながら煩悶し、善意のみで警告しにやってきたオマー・シャリフの神父を殴ったりする。やっていることは山賊の頭目と同じでも、いちおうマルキストなのである。ほとんど停滞したままのプロットがフレッド・ジンネマンらしいシャープな映像で描き出され、ときおり現われる大胆な視点の動きには思わずはっとさせられるが、とにかく猛烈に地味で渋い。
日曜日には鼠を殺せ [DVD]

Tetsuya Sato

2011年11月26日土曜日

炎628

炎628(1985)
Idi i smotri
監督:エレム・クリモフ


ソ連軍の反攻が始まる直前の1943年、ドイツ軍占領下の白ロシアではパルチザンが村から牛を徴発し、村を失った村人たちは隣の村から牛を徴発し、最後にドイツ軍が霧の中から出現してすべてを焼き払う。緑と黒、そして霧の白を基調にした色彩設計が効果的に使われていて、全編が陰鬱で今にも影の中へ消えてしまいそうだ。影が子細を埋め尽くすと輪郭だけが後に残り、輪郭に囲まれた闇はとてつもなく不気味に見える。そこへ炎が点々と散らされていくが、その情景はすでにこの世のものではない。作り手がいかなる意図を抱いていたのだとしても、視覚的な素晴らしさのせいでリアリズムとファンタジーの境界を見定めるのが難しいのだ。そしてその結果、ここに描かれている惨劇はすでに特定の事件としての意味を失っていて思弁的である。もし何かの迷いが見えたとするならば、それは直截な解決へと常に人を傾ける人間の本性に根差した迷いであろう。
炎628 [DVD]

Tetsuya Sato

2011年11月25日金曜日

わたしなりの発掘良品『大反撃』(1969)

大反撃(1969)
Castle Keep
監督:シドニー・ポラック


1944年の冬。バルジの戦いの直後のベルギーの森。少人数のアメリカ軍部隊がドイツ軍の攻撃を避けて奥深い森を進み、マントを翻して馬を駆る女を彼方に認め、その後を追うと古い城塞に行き当たる。そこはマルドレー伯爵の城で、森の中で見かけた女は伯爵の妻テレーズであった。アメリカ軍のファルコナー少佐(黒い眼帯をしたバート・ランカスター)は伯爵の城を防御のための拠点にする。すると副官の大尉はそもそも美術教師であったために城の美術に夢中になり、兵士の一人は城にあったドイツ製の車に夢中になり、パン屋の伍長は近くの町へ出かけていって、そこで見つけたパン屋の後家といい仲になる。そして少佐は伯爵の妻を寝取るが、夫としての義務を放棄している伯爵は少佐の行為を歓迎する。やがてドイツ軍が近づき、少佐は援軍を求めて白馬にまたがり、近くの町でアメリカ軍の敗残部隊を見つけ出す。だが彼らは狂った説教師(ブルース・ダーン)に指揮されており、ドイツ軍の攻撃の前には力がなく、やがて現われたドイツ軍戦車は教会に踏み入って鐘楼を破壊する。そして少佐は部下とともに城にたてこもり、ドイツ軍は真っ赤な消防車まで動員して城を攻める。ミッシェル・ルグランの腑抜けた音楽、通俗的な頽廃趣味とインテリぶった無常観が全編に漂う変わった戦争映画である。雰囲気を重視したせいか、結果としてはプロットをまとめきれていない。そこから先は趣味の問題ということになるのだろうが、悪趣味を買いたいという気持ちが勝ってしまって、実を言うとわたしは好きなほうなのである。
大反撃 [DVD]

Tetsuya Sato