2012年6月30日土曜日

北極圏対独海戦1944

北極圏対独海戦1944
Torpedonostsy
1983年 ソ連 96分
監督:アレクサンドル・ハイフェル


第二次大戦中の、白海沿岸のどこか、なのだろうか。ソ連空軍のパイロットたちが爆撃機で魚雷を抱いて飛び立って、ドイツ海軍の艦船を攻撃している。帰ってくる者もいるし、帰ってこない者もいる。あるパイロットは負傷して戻ってくると恋人が別のパイロットと結婚している。ある機銃手は言い寄った女性にふられるが、その女性はやがて結核にかかって基地の町から立ち去っていく。小人ばかりの慰問団が現われて歌を歌い、夫を失った女は母と子とともに町を離れ、ドイツ軍の侵攻で家族と別れ別れになったパイロットは孤児院に保護されていた息子と出会い、様子が違うのを見て違和感を覚える、といったような場面が点景を積み重ねたような具合に淡々とつづられている。戦闘場面は再編集された記録映画とミニチュアの特撮シーンで構成されていて、これもまたひどく淡々としている。渋めだが、雰囲気は悪くない。パイロットが飛行靴の上に履くオーバーシューズ、手洗い所の給水器(コックを押し上げると水が出る)、トナカイのソリ、闇市、座礁した貨物船から引き上げられる貨物(マーガリン)といった描写が珍しくて興味深い。ソ連軍の爆撃機はおそらくイリューシンIL-4、ほかにベリエフMBR2飛行艇が登場する。






Tetsuya Sato

2012年6月29日金曜日

対独爆撃部隊ナイトウィッチ

対独爆撃部隊ナイトウィッチ
V nebe 'Nochnye vedmy'
1981年 ソ連 76分
監督:エフゲニア・ジグレンコ


上から下まで、政治将校や整備士も含めて女性兵士だけで構成された爆撃部隊の兵士ガーリャは負傷して入院中の身であったが、勝手に退院して本隊に戻り、指揮官の叱責を受けながらも軍務に戻る。そして夜間爆撃を繰り返しながらウクライナの土地を西へ進み、撃墜されて同僚を失い、自分は森を歩いて生還を果たし、また爆撃を繰り返し、やがてドイツに達していつものように出撃するが、ガーリャの飛行機はいつまでたっても戻らない、というきわめてシンプルな内容に女性兵士たちの日常、ガーリャの恋、部隊に住み着いている少年のガーリャへの思いなどが淡々と、どちらかと言うと映画的な文法が脱落した形でつづられている。つまりへたくそに作られた映画ではあるが、断片的な映像がいちいちロシア的な情感に満たされているため、結果的にはへたうまのようなことになり、おかげで全体が救われている。
兵士が乗り込むのは複葉のポリカルポフ軽爆撃機で、これが飛来すると地上のドイツ軍は「夜の魔女が来た、夜の魔女が来た」と叫びながらあたふたと逃げ惑うのである。いちおう航空戦装備は備えているが、格闘戦能力などはまったくないので、メッサーシュミットが現れるとばたばたと撃墜されてしまう。夜空を炎上しながら飛ぶポリカルポフはなかなかに印象的であった。 




Tetsuya Sato

2012年6月28日木曜日

極限水域

極限水域
Pervyy posle Boga
2005年  ロシア 95分
監督:ヴァジリ・チィギンスキー


1944年。レニングラード包囲を生き延びたひとりの娘がフィンランドに置かれたソ連海軍の潜水艦基地にたどり着き、そこの食堂に職を得て、潜水艦の若き艦長で英雄のアレクサンドル・マリニンに恋心を抱く。ところがマリニンは町に住むスウェーデン人の娘と交際を始め、マリニンの過去を知るスメルシュの少佐は妙に手間のかかる工作を進め、マリニンはスウェーデン娘に過去を語り、スメルシュの少佐の罠にはまって逮捕される。マリニンは護送されることになるが、そこへドイツ軍輸送艦隊接近の知らせがあり、マリニンは仮釈放されて再び潜水艦の指揮を取る。
語り手の娘は手の届かない恋と最初から決め付けて勝手にロシア的悲嘆に浸り、主人公マリニン艦長はいまひとつキャラクターに魅力がなく、スメルシュの少佐も迫力に乏しい(まさか最後になって心を入れ替えるとは)。『シュトラフバット』でバハンのグリモフをやったユーリ・ステファノフが潜水艦の甲板長の役で顔を出していて、結局このひとがいちばん見栄えがしたような気がする。潜水艦の登場場面はそれほど多くはないが、細部はそれらしい感じであった。戦闘シーンはやや迫力に欠けるものの、射程距離が届かずに自沈する魚雷という珍しい場面が登場する(ついでに言えばスメルシュの自作自演劇の舞台裏、という場面も珍しい)。 






Tetsuya Sato

2012年6月27日水曜日

奇襲戦線 ナチス弾道ミサイルを破壊せよ!

奇襲戦線 ナチス弾道ミサイルを破壊せよ!
Ballada o bombere
2011年 ロシア/ウクライナ 181分(ビデオ)
監督:ヴィタリー・ヴォロビヨフ


たぶん1943年ごろ、ソ連空軍の大尉で爆撃機(おそらくTu-1)のパイロットであるアンドレイ・グリフツォフは基地への帰還中にメッサーシュミットの奇襲を受けて僚機を失い、僚機が味方の陣地に突っ込んで爆発炎上すると、さっそく保安部隊の将校が現われて、これは裏切り行為では、と疑うので、グリフツォフは同僚をかばって保安部隊に目をつけられ、それはそれとしてグリフツォフは新たな任務を与えられてパルチザンに物資を運ぶことになるが、その物資というのが二年間も音信不通だったグリフツォフの恋人カテリーナで、それというのもドイツ軍の新兵器V2の破壊任務にあたるパルチザンが無線機と通信士を必要としていたからであったが、思わぬ邂逅を果たした二人はひしと抱き合い、それから夜空に飛び立って目的地へと進んでいくと途中でドイツ軍の対空砲火に出会って撃墜され、どうにか生き延びたグリフツォフとカテリーナはパルチザンと合流するためにドイツ軍占領下のウクライナとおぼしきあたりをさまようことになり、途中、親切な農婦に助けられ、警察に追われ、警察に囲まれるとグリフツォフは自分をおとりにカテリーナを逃がし、捕えられたグリフツォフは捕虜収容所へ送られて、そこで炎上する機から先に脱出した航法士と再会し、その航法士は生き残るために裏切り者となってSSの大佐のスパイとなり、ドイツ軍の協力で捕虜収容所から脱走すると脱走者を装ってパルチザンに接近し、その事実を知ったグリフツォフはパルチザンに危機を告げるために自らも捕虜収容所から逃げ出してパルチザンの作戦に協力するために派遣された空挺部隊に合流し、航法士はスパイの正体を暴かれるが演技によってパルチザンをだましてパルチザンの仲間にまんまと加わり、ドイツ語に堪能なカテリーナはSSの本部に潜入を果たして新兵器の輸送計画を探り出し、新兵器を運ぶ列車がいよいよ橋にさしかかるとこちらからはソ連軍空挺部隊、あちらからはパルチザンが攻撃を加えて新兵器の破壊に成功するが、グリフツォフは負傷し、グリフツォフは死んだと航法士から聞かされてカテリーナは嘆き悲しみ、グリフツォフは生きているという知らせを聞いてカテリーナは喜び、空挺部隊とともに祖国に戻ったグリフツォフはドイツ軍のパンフレットにグリフツォフの写真があったという理由で保安部隊によって逮捕され、軍法会議で死刑を宣告され、グリフツォフの子を宿したカテリーナはグリフツォフに対して下された宣告を聞いて失神する。 
とにかく盛りだくさんの3時間で、ピオネールは歌うし、ドイツ軍は村人を納屋に集めて火をかけるし、収容所の赤軍捕虜は悲惨だし、富農の生き残りはもちろんソ連を憎んでドイツ軍に協力していたりするのである。決して予算はかかっていないが、映像はやる気満々で、ところどころで状況が飛んでいたり、キャラクターが未消化だったり、あきらかに時系列がおかしかったり、脚本があほだったりするものの、もっぱら体力に救われて立派な映画に仕上がっている。とにかくネタを盛り込めるだけ盛り込み、通俗を恥とも思わないで一本勝負をかけているところは偉いと思うし、衝撃のラストはあまりのことに危うく引っくり返るところだった。
あと、ヒロインのカテリーナを演じたエカテリーナ・アスタコーワという女優がかわいらしくて、それがだぼだぼの戦闘服を着たり、シャツ一枚になったり、百姓娘の格好をしたり、洗濯女になったり、ドイツ軍軍属の制服を着たり、ソ連軍将校の制服を着たり、といろいろと着替えてみせてくれて、それがまたいちいちかわいらしいところも買いであろう。 

奇襲戦線 ナチス弾道ミサイルを破壊せよ!(2枚組/完全版) [DVD]
Tetsuya Sato

2012年6月26日火曜日

マイケル・ギルモア『心臓を貫かれて』

マイケル・ギルモア『心臓を貫かれて』 翻訳:村上春樹(文春文庫)


1976年に殺人罪で処刑されたゲイリー・ギルモアとその家族の年代記で、著者は一家の四人兄弟の末弟である。絶望が敵意をはぐくみ、暴力を産み落としたのだと言えばたいそう短くてわかりやすいが、その過程を生涯かかって経験するのはたまらない。その結果、次男は二人殺して殺人犯になり、三男は恨みを買って殺されたらしい。あまりにも見事な崩壊ぶりは、人間はどうしてこうなるのかという素朴な疑問でこちらの頭を満たしてくれた。とにかくむごたらしいばかりに業が深い。あんまり業が深いのでこの一家が家を買って住み着くと端から幽霊屋敷になってしまうほどなのである。一読する価値は十分にあったと思うけど、読み通すのはかなり辛かった。出来が悪いからではなく(出来は非常によいと思う)痛々しくて辛かったのである。村上春樹訳というのも辛かった。これも出来が悪いからではなくて、村上春樹の文章には不穏な気配が常に漂っているからである(で、よくよく生理的に合わないようで、実を言うと、わたしはこの人の長編を読み通せたことが一度もない)。




Tetsuya Sato

2012年6月25日月曜日

デイヴィッド・ハルバースタム『ベスト&ブライテスト』

デイヴィッド・ハルバースタム『ベスト&ブライテスト』 翻訳:浅野 輔(二玄社)


アメリカのベトナム政策に関する政治的なルポルタージュ。
やや特異なタイトルは「東部エスタブリッシュメントを中心としたワシントンのエリートがなぜあの泥沼にはまり込んだのか?」というような意味で、アイロニーが込められているらしい。実際、記述の相当量は政治エリートのプロファイルで占められていて、これがなかなかに面白かった。政策決定そのものの(うんざりするような)プロセスも、無用の駆け引きによる政治的混乱の見本市のような状態に描かれていて、読み応えのある内容となっている。とりわけケネディ政権期のベトナムへの対応に関する部分で、その精神的な背景をマッカーシズムの傷跡で説明するくだりは、これまで意識したことがなかっただけに興味深かった。
ベトナム戦争を論ずる上では重要な著作だと思えるが、難点があるとすればハルバースタム本人がベトナム戦争を至近距離で見ていることであろう。本書の成立時期(1972年)からすれば無理もないということもできようが、そのために60年代リベラルに固有の楽観的な視野から逃れることができずにいる。一般的な政治意識としては現在もなお有効であり、理想を語る上では望ましい姿勢であるものの、その支柱が相変わらずウィルソン主義にあるとするならば、それをもって国際関係を論ずるのは危険過ぎると言わざるを得ない。つまりアメリカが反共主義に拘泥して根本にある民族主義を黙殺したと後から言うのは簡単だが、民族主義を尊重するあまり、そこに介在する政治的イデオロギーを度外視する姿勢には問題があろう。どちらを選択した場合でも、必ず後から面倒が起こるという点をハルバースタムは指摘し忘れている。素朴な判断に基づく民族の自決がベトナム戦争以降の世界でいかなる災厄をもたらしたかは、我々の記憶に新しいところである。民族問題は無視できない要素ではあるが、それを近代国民国家と同一のフレームに収めてはならない。もし安定を求めるならば、これが21世紀における国際政治の中心的な課題となる筈である。




Tetsuya Sato

2012年6月24日日曜日

アタック・ザ・ブロック

アタック・ザ・ブロック
Attack the Block 
2011年 イギリス/フランス 88分
監督:ジョー・コーニッシュ


南ロンドンのあまり治安のよろしくない一帯にある団地で十代の男の子五人組がナイフをちらつかせて強盗のようなことをしていると空からなにやら落下してきて間近にある車を粉砕し、そこから牙を並べた化け物が現われるので早速叩き殺してテレビの自然番組に詳しいマリファナの売人のところへその死体を運んでいくと、これは地球の生物ではないからエイリアンではないかという話になり、そのエイリアンよりもさらに大きくてさらに凶暴な真っ黒い化け物の群れが団地に現われて暴れ出すので、この団地(ブロック)を守るのは俺たちだ、ということで子供たちがナイフ、鉈、花火などを武器にエイリアンとの戦いを始める。 
マリファナの売人で団地の部屋に強引に作られた温室の番をしているのがニック・フロスト。戦う子供たちにブロックのボス(自称)、9歳半のチビ二人組(自称、問題児と乱暴者)、少々言葉の汚い看護師などがからみ、限定された空間と短いタイムスパンをヒップホップのリズムを加えた気の利いた素描で埋めながら、コミカルな描写もほどよく交え、団地社会の重たい現実にもきちんと言及し、それにもかかわらず、やっていることは意外なくらいに正攻法のモンスター映画、という器用に作られた映画である。ただキャラクターが確実に構築されていて、文体が非常にしっかりとしているので、いろいろと盛り込んでいる割には小手先の仕事に感じられない。だから背景がリアリティを保つのであろう。モンスターは非常にシンプルな造形ではあるものの、斬新でインパクトを備えているし、凶暴さも半端ではない。よくできた映画だと思う。 


Tetsuya Sato

2012年6月23日土曜日

ガラクタ通りのステイン

ガラクタ通りのステイン
2003年 日本 全13話各5分+エピローグ32分 TV
監督・脚本:増田隆治

フルCGのアニメーション。どこかの都市の路地の奥にガラクタを漁っている男ステイン、胸に「恨」の一文字を記したセーターを着ている巨大なネコのパルバン、首から指輪をぶら下げたトカゲ、パイロンを殻にしているヤドカリなどが生息していて、毎回ステインがガラクタからなにかを見つけ出して、そのなにかに誘発されてなにやら恐ろしい事態が発生する。台詞もなく、説明もない。作家性は明瞭で、無言で行動するキャラクターはよく練り込まれ、ときおり不意に立ち現れる冷酷で淡々とした笑いが心地よい。少々獰猛ですることに身も蓋もない、しかもまるでかわいげのないパルバンが好き。

BANDAI CHANNEL:ガラクタ通りのステイン 第1話



Tetsuya Sato

2012年6月22日金曜日

300<スリーハンドレッド>

300 <スリーハンドレッド>
300
2007年  アメリカ 117分
監督:ザック・スナイダー

いわゆるペルシア戦争のうち、テルモピュライの戦いを題材にレオニダス率いるスパルタ勢300の全滅ぶりを描く。
フランク・ミラーの原作は1962年の『スパルタ総攻撃』に触発されていると聞いているが、全体に一種の奇形化がほどこされており、ことさらに肉体の存在が強調される。つまりスパルタの重装歩兵はかぶととマントと脛当てを除けば裸体も同然の姿となり、ダヴィッドが描くところの「テルモピュライにおけるレオニダス」との相違はおそらく下穿きの有無にとどめられる。クセルクセスにいたっては事実上のドラッグ・クィーンとして登場し、その幕屋の内部はほとんどフリークショーである。なぜかエピアルテスまでがほとんど怪物同然の姿で現われるが、これに対置されるものが膨れ上がった腹筋を誇るスパルタ勢ということになってくると、創意を越えてデリカシーを疑いたくなってくる。
話はテルモピュライを中心に進むが、プロットは集中力を欠き、なにを考えているのか、監督官たちまで怪物にした上、スパルタ側に親ペルシア勢力などを織り込んでいる。レオニダスの妻がその親ペルシア勢力を相手に孤軍奮闘するような場面を加えているが、これはヒロインを設定するためだけの言い訳であり、バランスを考えれば完全に無用な部分である。残念ながらザック・スナイダーの演出にはそうしたバランスの悪さを押し切るほどの勢いはなく、特に後半、気になった。総じてスパルタ本国の描写は嘘ばっかりを通り越して意味不明だが、テルモピュライについてはスパルタ勢のほかにポキス勢、テスピアイ勢などがいちおう配置され、戦いもきちっと三日にわけておこなっており、初日にメディア軍、二日目に不死隊、最終日には総力戦と切り替えているし、戦いに先立ってペルシア海軍の難破シーンなども描き込んでいる。ギリシア側が早々と密集陣形を捨ててしまう展開には首をかしげたが、察するに地味になるからであろう。
個別に見れば戦闘シーンとその殺陣はとにかく満足できる水準にあり、絵はいささか動作を欠くものの、おおむねにおいて美しい。降って湧いたような異様な造形物として仕上げることにもう少し集中していれば、見ごたえのある映画になったかもしれない。 





Tetsuya Sato

2012年6月21日木曜日

スパルタ総攻撃

スパルタ総攻撃
The 300 Spartans
1962年 アメリカ 114分
監督:ルドルフ・マテ


紀元前480年のいわゆるテルモピュライの戦いに材を取り、冒頭、まずクセルクセスの軍勢がヘレスポントスを渡り、続いてコリントスではギリシア諸国の会議があり、スパルタが出兵を決定し、いきなりテルモピュライになだれ込んでいる。
主要な登場人物はギリシア側がレオニダス、テミストクレス、ペルシア側がクセルクセス、デマラトス、アルテミシア、ヒュダルネス、マルドニオス。レオニダスは取り敢えずスパルタ人に見えたし、クセルクセスもまた取り敢えずはアジアの専制君主のように見えた。テミストクレスはアテナイの老いた政治家としてのみ描かれ、アルテミシアはなぜかクセルクセスの情婦に位置づけられている。トラキスのひとエピアルテスも登場して、間道の所在をペルシア軍に報告する。
戦略的な状況は伝えられているところとは大きく異なるものの、当時のギリシアの政治状況、スパルタの特殊性などに言及し、それなりに背景は組み上げている。そのプロセスを見せる前半は決して悪くはないものの、後半、テルモピュライに話が移るとかなりだれてくる。ギリシアでロケを敢行した模様だが、劇中に現われるテルモピュライは海沿いではなくどこかの湖畔で、周囲の地形はかなりなだらかで広がりがあり、狭隘には見えなかった。スパルタ軍は最後までまともな密集体形を作ることがなく、得意の後退戦術もおこなわず、戦闘シーンは総じて迫力がない。お約束でスパルタ兵のロマンスのようなものも織り込まれているが、これも格別の機能を果たしておらず、失策が目立つ。クセルクセスの幕屋のなかでおこなわれる変なベリーダンスもいただけない。






Tetsuya Sato

2012年6月20日水曜日

塚本青史『マラトン』

塚本青史『小説ペルシア戦争 I マラトン』(幻冬舎)


日本のプロ作家の作品でペルシア戦争物というのは、わたしの知るかぎりでは過去に例がない。まったく未開拓の領域であり、そうした世界を一般読者を対象に説明する作業にはおのずから困難がともなう。そしてその観点からすれば、『マラトン』にはそれなりの努力は感じられるのではないだろうか。ただ、あの長大なタイム・スパンに必然性があったとは思えないし、こちらとしてはタイトルが『マラトン』である以上、マラトンの戦いを主軸に置いてほしかったところではある。それが最後の10ページばかりというのは少々寂しい。また、わたしは時代考証に重きを置く人間ではないものの、いくつかの重大な逸脱は問題にしたい。
『マラトン』では将軍(ストラテゴス)があたかもミルティアデス一人であるかのように描かれていたが、実際にはほかに9人いた。一応はその合議によって対ペルシア戦略が決定されていた筈である。したがってマラトンで戦端を開くまでの政治的サスペンスが存在した筈なのだが、これは見事に省略されていた。それからストラテゴスやアルコンがあたかも地位であるかのように描かれているが、どちらかと言えば役目に属するものであって、無条件に与えられる権威ではない。ミルティアデスがペルシアで軍役についていたという話は初耳である。これは創作であろうか。ケルソネソスの僭主だったという話の方が、以降のイオニア反乱に話が結びやすかったのではないかと思えてならない。どこかの神社じゃあるまいし、デルポイの神託が大吉、大凶というのはいただけない。仮に趣味の問題だとしても、会話で「みども」「おぬし」はやめてほしい。アリステイデスやテミストクレスの人物プロファイルには疑問が残る。ピタゴラスの学徒がアテナイをうろうろしていたが、うろうろしていた理由がラウレイオン銀山につなげる伏線だけだったとするならば、物語のコスト・パフォーマンスが悪すぎる。
『小説ペルシア戦争 I』とあるからには以降、テルモピュライ、サラミス、プラタイアと続く構想があったのであろうと勝手に推測しているが、いまのところ出ているのは2001年の本書『マラトン』のみである。




Tetsuya Sato

2012年6月19日火曜日

マイウェイ 12,000キロの真実

マイウェイ 12,000キロの真実
MY WAY
2011年 韓国 145分
監督:カン・ジェギュ


1928年、両親に連れられて祖父のいる京城を訪れた長谷川辰雄はそこで祖父の使用人の息子キム・ジュンシクと出会い、どちらもかけっこが得意、ということでどちらもやがてマラソンの選手になって互いをライバル視するようになるが、長谷川辰雄の祖父がテロで死んでキム・ジュンシクの父親に嫌疑がかかり、長谷川辰雄は朝鮮人に憎悪を抱き、キム・ジュンシクの一家は家を追われ、東京五輪の開幕に先立って日本陸連が朝鮮人選手を締め出すとキム・ジュンシクはいよいよ選手生命を絶たれるが、そこへベルリン五輪の英雄ソン・ギジョンが現われてキム・ジュンシクを励まし、ソン・ギジョンの力によってキム・ジュンシクに選考会への道が開かれ、その選考会でキム・ジュンシクは長谷川辰雄を抑えて勝利を得るにもかかわらず、日本陸連はキム・ジュンシクを失格とし、それを知った朝鮮人観衆は暴動を起こし、キム・ジュンシクも観衆も逮捕されて日本軍に徴兵されて満洲へ送られ、1938年、いわゆるノモンハン事件が勃発するとソ連軍を前に敗退し、そこへいまや帝国陸軍の大佐となった長谷川辰雄が現われて撤退を命じた前任者を解任するとジューコフの軍団に自殺攻撃をしかけるのだと目を血走らせて宣言するので、特攻隊員に選ばれたキム・ジュンシクは仲間とともに脱営するが、その目の前にソ連軍が現われるのでキム・ジュンシクはきびすを返して奇襲を知らせるために走り出し、丘を越えてわらわらと現われるソ連軍戦車部隊に長谷川辰雄の特攻部隊が激突し、敗走を始める日本軍将兵に向かって長谷川辰雄は銃を乱射し、それを見かねたキム・ジュンシクは長谷川辰雄を殴り倒し、そこへ砲弾が炸裂して二人はどうやら意識を失い、そのまま捕虜となってソ連国内某所の収容所へ送られると友人でもあり戦友でもあった朝鮮人が転向してすでに班長となり、マローズが吹き荒れるなかでの森林伐採作業で捕虜は次々と命を落とし、非情な収容所当局は凍傷にかかった捕虜を端から処分し、帝国軍人としての矜持にこだわる長谷川辰雄はそこでもキム・ジュンシクと対立を続け、捕虜たちは朝鮮人班長に対して暴動を起こし、長谷川辰雄もキム・ジュンシクも捕えられて銃殺されることになるが、そこへドイツ軍侵攻の知らせがもたらされ、捕虜たちはいきなりソ連軍に編入されてトラックでソ連国内某所へ運ばれ、ドイツ軍陣地に向かって突撃を命じられ、ドイツ軍の銃撃を浴び、怖気づいて後退しようとするとソ連軍保安部隊の機銃でハチの巣にされ、その有様を見ながら長谷川辰雄は自分のノモンハンにおける行状を思い出し、気がつくと戦場には長谷川辰雄とキム・ジュンシクが残されていて、二人はドイツ兵の死体から服を奪うとドイツ側を目指してどことも知れない山を越え、越えたところでドイツ軍の捕虜となり、それから3年後、二人はドイツ軍の兵士となってノルマンディーで陣地の構築にあたっていると、部隊はパ・ド・カレーへの移動を命じられ、連合軍の侵攻の前面に出ることを知った長谷川辰雄はキム・ジュンシクを誘って脱走を試みるが、陣地から抜け出そうとした二人の頭上にB-17の大編隊が襲いかかり、海からは艦砲射撃が加えられ、いわゆるノルマンディー上陸作戦が始まるので二人は戦場を走り始める。
実話に基づいている、という話だけれど、そうだとしてもノルマンディーのあたりは相当に自由な改変が加えられているのだと思うし、ノルマンディー上陸作戦が瞬時に終わっているような描写からもあきらかなように(それを言えばノモンハンもかなり変)、作り手は歴史的な状況に必ずしもリアリズムを要求していない。それよりも歴史的な背景を利用しながら一個のロマンを構築することに集中していて、その成果として、いささかファンタジックではあるが、見事に凝縮された時間を生み出している。
自信に満ちた映像は問答無用の迫力を備えているのである。オダギリジョーの後半における心の晴れ方は、いささか釈然としないものを感じるとしても、やはりすがすがしいのである。チャン・ドンゴンも熱演をしているので、キャラクターが必ずしも整理されていなくても、さほど気にはならないのである。ある種の力技ではあるが、やはり勢いが肝心であろう。山本太郎がいかにもな日本兵を演じていい味を出していた。 






Tetsuya Sato

2012年6月18日月曜日

ゾンビ大陸 アフリカン

ゾンビ大陸 アフリカン
The Dead
2010年 イギリス 105分
監督:ハワード・J・フォード、ジョン・フォード

死者が歩き始めたアフリカから避難民を乗せた輸送機が離陸するが、途中で燃料不足で墜落し、生き残ったアメリカ人ブライアン・マーフィー中尉は無人となった村にたどり着いて、そこで見つけた車を修理すると脱出路を求めて道を進み、死者に襲われたところを現地の兵士ダニエル・デンベレに救われ、息子を探しているというデンベレとともに基地を目指す。
ほぼ全編にわたりゾンビの群れ、死体の山。
きわめてシンプルなプロットに控えめなダイアログ、美しい撮影と自信に満ちた演出で、いわゆる正統派のゾンビ描写をふんだんに盛り込みながら、アフリカの大地に見事なまでに死臭を漂わせ、この世ならぬ無常観と緊張感で見事に包み込んでいる。インディーズ系のホラーとしては『ステイク・ランド』と並ぶ傑作であろう。デンベレ軍曹を演じたプリンス・デヴィッド・オシーア(どこのプリンスなんだろう)の抑制された演技は見ごたえがある。 





Tetsuya Sato

2012年6月17日日曜日

アイアンクラッド

アイアンクラッド
Ironclad
2011年 イギリス/アメリカ/ドイツ 120分
監督:ジョナサン・イングリッシュ

13世紀初頭のイングランド、マグナカルタに署名を強いられたジョン王はマグナカルタへの署名を強要した貴族たちに復讐するためにローマ法王を味方につけてデンマークから傭兵多数を呼び寄せ、海岸沿いに城を襲って城主の首を吊るすので、その現場を目撃したテンプル騎士団のトーマス・マーシャルはカンタベリーの大司教にジョン王の蛮行を告げ、オルバニー卿と少数の手勢とともにロチェスターの城を占拠してロンドンを目指すジョン王の進路をふさぎ、謀反を知ったジョン王は傭兵軍団を率いてロチェスターの城を囲んで攻城戦にとりかかる。
監督は凡作『ミノタウロス』のジョナサン・イングリッシュ。ところどころでカットまわしが雑になるが、予想に反してまじめな仕事ぶりで、珍しい素材をいちおうきちんとまとめている。ジョン王がポール・ジアマッティ、オルバニー卿がブライアン・コックス。ポール・ジアマッティのいかにもなジョン王ぶりはなかなかのもので、少々意外にも感じたが、このキャスティングは成功していると思う。オルバニー卿配下のアーチャーにマッケンジー・クルックが入っていて、その精悍なアーチャーぶりが実にかっこいい。ロチェスターの城を囲むジョン王の軍勢はまずトラビュシェットを引っ張り出して城壁を叩き、城壁に梯子をかけて乗り込もうとして失敗すると、次は攻城塔を持ち出してくる、攻城塔も失敗すると気配を殺してゴキブリのように這いより、最後には坑道を掘ってそこから火責めをしかけてくる、という具合で攻城戦の場面は手が込んでいるし、大量の血糊を使った殺陣も迫力がある。というわけで、唐突なロマンスが少々邪魔ではあるものの、満足のできる仕上がりであった。


Tetsuya Sato

2012年6月16日土曜日

ロブ・ロイ

ロブ・ロイ
Rob Roy
1995年 アメリカ/イギリス 139分
監督:マイケル・ケイトン・ジョーンズ


18世紀初頭のスコットランド、殺風景なハイランドに住むロブ・ロイは空腹を抱えた村人の境遇に心を痛め、暖かい冬を送らせるために牛の商売をしようと考えて自分の土地を抵当にモントローズ侯爵から千ポンドを借り受けるが、モントローズ侯爵の家臣キラーンは侯爵の食客アーチボルド・カニンガムとともに悪事をたくらみ、ロブ・ロイが借り受けた金を運ぶロブ・ロイの部下を殺害して金を奪い、金が届かないことを不審に思ったロブ・ロイはモントローズ侯爵に事情を申し出るが、モントローズ侯爵は政敵アーガイル公爵を中傷することを再度の借金の条件とするので、誇り高いロブ・ロイがこれを拒絶するとモントローズ侯爵はロブ・ロイの収監を命令し、ロブ・ロイは逃走して山にこもり、モントローズ侯爵の兵士を預かったアーチボルド・カニンガムがロブ・ロイ不在の自宅を襲うとロブ・ロイの妻メアリーを凌辱して家に火を放ち、ロブ・ロイはキラーンとアーチボルド・カニンガムの悪事を知って法の裁きに訴えようと試みるが、やがてアーチボルド・カニンガムによって捕えられ、夫の苦境を知ったメアリーはアーガイル公爵に直訴して庇護を求め、モントローズ侯爵の前から逃れたロブ・ロイはアーガイル公爵の助けを得てアーチボルド・カニンガムと決闘する。
全体として見た場合に格別の冴えはない映画だが、非常にていねいに作られていて、美術、衣装などもよくできている。リーアム・ニーソンは主人公ロブ・ロイを好演し、実にみごとなかつらをつけたジョン・ハートもモントローズ侯爵にいかにもな風情を与え、ティム・ロス扮する極悪非道なアーチボルド・カニンガムはきわめて強い印象を残す。 






Tetsuya Sato

2012年6月15日金曜日

北野勇作『どうぶつ図鑑』

『どうぶつ図鑑』(1)-(6) / 北野勇作(ハヤカワ文庫,2003/4-6)


北野勇作氏の作品を読むと自分がひどく退屈で感性に乏しい人間のように思えてくる。なにしろテキストの緩急が自在なら、題材も自由自在だし、残酷になることができる一方、独特のポエジーを乗せることもできるし、両者をほどよく結合することもできる。残酷な状況にポエジーを乗っけて、何度も世界を滅ぼしていて、その上、それだけでは済まなくて、登場人物が実においしそうにごはんを食べるのである。何か飾ったような、特別な描写があるわけではない。ただ、おいしそうに食べるのである。ソースをぶっかけたって書くだけで、なんであんなにおいしそう見えるのか。これは努力しても真似られないので、だから、うらやましいと思うのである。


『どうぶつ図鑑』は全部で六巻の構成になっていて、一冊一冊はとても薄い。たぶん、平均100ページくらいしかないだろう。だが、そこだけで判断してずるをしていると思ってはいけない。各巻には北野氏の短編数話が西島大介氏のひじょうにかわいらしい挿し絵とともに収録されていて、さらに付録として特製折り紙がついている。各巻の表紙を飾っているのはその折り紙の完成品(一巻から順に「かめ」「とんぼ」「かえる」「ねこ」「ざりがに」「いもり」)で、表紙の見返しのところにはそれぞれの折り紙を手にしている北野氏の写真(自分で折ったのだろうか?)とそれぞれの動物についての北野氏の短いエッセーが掲載されていて、つまり、実に凝った造りの本になっていて、並べて飾っても楽しいお得な短編集なのである。


各巻の内容はそれぞれで独立したものではなくて、巻末には月ごとの『生き物カレンダー』が連載されているし、書き下ろしのカメもの『カメリ』シリーズが隔巻で連載されてもいる。そこへ表紙に折り紙付きで題された動物モチーフが折り重なって、トンボとかカエルの話が加わっていく。各巻の内容に少しだけ触れておくと;


その1 かめ:二足歩行型の模造亀を主人公にした『カメリ』が楽しい。人類がいなくなってしまった地球を舞台に、模造亀とか石頭のマスターとか赤毛のヌートリア人間のアンとか、ヒトデから生まれた作業員のヒトデナシとかが健気に生きているというシリーズである。人間はいなくなっているけれどテレビの中では生きていて、テレビを見ているカメリたちは人間の世界に詳しいし、ちょっと朦朧とした憧れのような気持ちを抱いている。登場するのはテクノロジーによる被造物であり、被造物たちには被造物としての自覚があり、だから人間とは異なる生存目的を備えていて、したがって人間と同じ論理を共有していないけれど、それでも生活感だけは模倣をしているというあたりが実に自然で、これはもう素朴にすごいと思う。『生き物カレンダー』は1月から4月分。


その2 とんぼ:巻頭の『新しいキカイ』もいいかげん気味が悪いが、この巻の代表はやはり 『トンボの眼鏡』であろう。システムの障害原因が視覚翻訳された結果、異様な世界が出現する。日常性に埋没した奇怪なテクノロジーを描かせたら、北野勇作氏の右に出る者はいないのである。


その3 かえる:「異形コレクション」の掲載作品が中心。『楽屋で語られた四つの話』の「その三」に注目。人称と時制を小刻みに混在させるという野心的な試みがおこなわれている。『カメリ』第二話「カメリ、行列のできるケーキ屋に並ぶ」にはちょっと感動。『生き物カレンダー』は5月から8月分。


その4 ねこ:『どうぶつ図鑑』のなかではたぶん最長の『手のひらの東京タワー』が収録されている。東京を何度となく破壊した例の怪獣をモチーフにした、なんとも切ない物語である。未来と死とを虚構の中で対置した『シズカの海』も味わいがある。


その5 ざりがに:全体に漂ういかがわしさとわびしさが不可解なリアリティを発揮する『押し入れのヒト』がまずすごい。同じ職場の「西野さん」が「暴走」する光景がなんともすごいし、その「西野さん」に背後を取られる恐怖感もなかなかにすごい。そして『ヒトデナシの海』の淡々とした不気味さもすごいのである。つまり、すごい、すごいと言って読んでいるだけなのである。『生き物カレンダー』は9月から12月分。


その6 いもり:『曖昧な旅』とそれに続く『イモリの歯車』はいずれも旅をモチーフにしている。旅先の風景を記憶の底からかすめ取って、さっとそこに素描したような対象との距離感がなんとも心地よいのである。全体を通しての最終話は『カメリ』第三話「カメリ、ハワイ旅行を当てる」。いや、ヌートリンアンのアンの凶暴なこと。


というわけで、世界は圧倒的に理不尽で、我々はそこに取り込まれてすっかり行き場を失っていて、その理不尽さをどうすることもできずにいるわけだけど、そのままそうしておくわけにもいかないので一種の諦観とともに理不尽なこの世界をもう一度眺めてみると、少なくとも自分がそこにいるということはどうにかこうにか見えてくるので、結果としては世界に対して一種の愛情のようなものが芽生えてくることもある、つまり、そういうことを北野氏は書いているのだ、とわたしは勝手に考えているような次第である。




Tetsuya Sato


2012年6月14日木曜日

ホッタラケの島 遥と魔法の鏡

ホッタラケの島 遥と魔法の鏡
2009年 日本 114分
監督:佐藤信介

まず冒頭、物をほったらかしにしているとキツネに持っていかれてしまうという伝説が「まんが日本昔話」風に紹介され、それを娘に語り聞かせている母親が亡くなったあと、娘は母から与えられた手鏡をいつの間にかほったらかしにするようになり、それからときが流れて娘はすでに高校生になっているが、父子家庭はきしみがちで家は散らかり放題になり、しかも手鏡は完全に消滅した状態で、娘はそのことをふと思い出し、それから父親と電話越しに機嫌の悪い会話を交わし、娘は家を出て電車に乗り、するとそれまでCGであった背景が手書きに変わり、これは何があったのかといぶかしんでいると娘は伝説にあった神社を訪れて伝説にあったようにお稲荷さんにたまごをそなえ、手鏡が戻るように祈りをささげ、そうしているうちに境内で奇妙な現象に気がつき、怪しい影を追っているうちにあちらの世界に転げ落ち、あちらの世界ではこちらの世界でほったらかしになっていた物を集めてキツネが言わば魔法的な文明を築き上げていて、そこで自分がなくした鏡をもとめて捜し歩くと問題の鏡はあちらの世界で権力の頂点をきわめているとおぼしき男爵の持ち物となっていたことが判明し、ただし鏡は男爵の手にはなく、なにやら恐ろしい地下世界の住人に持ち去られていることも判明し、そこで娘はキツネを一匹子分にしたがえて鏡を取り戻すために地下へもぐり、鏡を持ち帰ったところでそれをすぐに男爵に奪われ、男爵の機械帝国的な陰謀があきらかにされ、娘は男爵にさらわれるので、キツネが娘を取り戻すために奮闘する。
話がほったらけの島に移ってからもときどき背景が手書きになり、あとへ進むほどその回数が増えてくるので、何か造形的な意図があってそうなっている、というよりも、これはもしかしたら予算かスケジュールの関係ではなかったか、と疑っている。そういう奇妙なところがあるものの、さらに演出のテンポの悪さという本質的な問題を抱えてはいるものの、ストーリー、キャラクター造形、美術、アニメーションなどには相当な頑張りが見え、特にほったらけの島はふつうに楽しくできているし、フルアニメーションではないまでも、キャラクターの動作はよく考慮され、全体としての好感度はきわめて高い。ただ、クライマックスあたりでヒツジのぬいぐるみが悪党に挑戦し、ぼくのはるかをかえせ、といったことを叫んで飛びかかっていく場面があるが、うちのぬいぐるみの見解では、ふつうのぬいぐるみは仮に機会があったとしても、このようなことは決してしない。ふつうのぬいぐるみは悪党の隣に立って悪党の悪事を見物し、これはこれはまたけっこうなおてなみで、といったことを言いながら背中を刺す機会をゆっくりと待つのだという。 




Tetsuya Sato

2012年6月13日水曜日

かいじゅうたちのいるところ

かいじゅうたちのいるところ(2009)
Where the Wild Things Are
監督:スパイク・ジョーンズ


オオカミのきぐるみを着て大暴れをしたマックスはママに叱られて晩ご飯抜きになり、家から飛び出してボートに乗り込み、大海原を越えてとある島にたどり着くと、そこでは怪獣たちが暮らしていて、マックスは怪獣たちの王様になる。
もともとそれが楽しみで見にいった、というところが大きいのだけど、期待にたがわずジム・ヘンソン工房が製作した怪獣はとてつもなく魅力的で、しかも信じがたいようなアクションまでこなしてくれて、これはもはやスーツでもアニマトロニクスでもなくて限りなく本物に近いものではないか、とまで感じさせてくれるすばらしい仕上がりになっている。
ところが、これは期待に反して、ということになるのだが、この映画のなかの怪獣たちはどれもまったくWild Thingではないのである。それを言えば筆頭であるはずのマックスもまたWild Thingではないのである。かわりにマックスのママはマックスの前に、そして観客の前にも姿を見せて離婚していること、生活に疲れていること、ボーイフレンドとの関係を進めたいと願っていること、などをあきらかにし、さらにマックスの姉までが現われてマックスに疎外感を与え、マックスはたしかにきぐるみのオオカミを着て暴れているけれど、それはマックスがWild Thingだからではなく、なにかしら適切な支援を必要としているからなのである。この段階で、実はかなり引いていた。
そういうマックスだから、すでに幻想を内包していない。怪獣の島に向かって出発するのは自分の部屋に出現した密林の向こうの海からではなくて、家の外にある、おそらくは現実の海からであり、その結果、怪獣たちの島もまた幻想から遮断されて現実と接続されるので、果てもなく怪獣ダンスをするかわりに『レボリューショナリー・ロード』を始めることになるのである。決して出来の悪い映画ではないし、これがスパイク・ジョーンズのまったくのオリジナルであったとしたら、たしかに悪くない映画だと言うことになるのかもしれない。しかしこの、精神道場に三日ばかり通ったニューヨーカーの半端な現実認識のようなしろものが、あの絵本の映画化だということになると、ちょっと違うのではないか、とつい言いたくなるのである。 






Tetsuya Sato