2014年5月31日土曜日

ウルフ・オブ・ウォールストリート

ウルフ・オブ・ウォールストリート
The Wolf of Wall Street
2013年 アメリカ 179分
監督:マーティン・スコセッシ

22歳でウォールストリートに職を得たジョーダン・ベルフォートは上司マーク・ハンナの実際的な指導を得て株式ブローカーの資格を取るが、同時にブラックマンデーが起こって勤めていた会社がつぶれてしまうので、ロングアイランドでひっそりと営業しながらペニー株を扱う非合法すれすれの会社に就職して、そこでたちまちのうちに頭角を現わし、マリファナの売人を中核とする仲間とともに会社を興して強引で悪辣な手段で金を稼ぎ、たちまちのうちに証券取引委員会、FBIの注目を浴び、露骨なインサイダー取引や露骨なマネーロンダリングでいよいよ危なくなってくると司法取引に応じて引退を決め、自分に忠誠を誓った社員の前で引退の演説をしているうちに引退は誤りであったと考えを変えて司法の総攻撃にさらされる。
きわめて高いカリスマと異様な営業能力を備えたジョーダン・ベルフォートがレオナルド・ディカプリオ、その相棒がジョナ・ヒル、すぐに退場するマーク・ハンナがマシュー・マコノヒー、ジョーダン・ベルフォートの弁護士がジョン・ファヴロー。
冒頭、新人のディカプリオに奥義を伝授するマシュー・マコノヒーの存在感は見ているだけで楽しいが、ディカプリオ自身も微妙に形態模写的な演技から飛び出してものすごい芝居を披露している。『アビエイター』もそうだったけど、スコセッシが妄執から引き出された一種の狂乱をディカプリオに託すとディカプリオは非常にいい仕事をするような気がする。
ジョーダン・ベルフォートの会社というのは会社というよりも金とセックスとドラッグを信仰するカルトのようなもので、これは演出だと思うけれどオフィスは異様な人口密度を誇り、調べてみると創作ではないようだけど、恐ろしいどんちゃん騒ぎを連日のようにおこなっていて、地上のなによりもどんちゃん騒ぎを嫌うわたしは相当な恐怖を感じていたが、学生に毛の生えたような連中がこのような環境にいたのだとすれば、それはまあ、楽しいに違いない。スコセッシの演出はかなりざっくりとしているが、ユーモアをまぶしながらこの異様な世界と異様な精神状態をかっちりと描き込んで3時間の上映時間を飽きさせない。


Tetsuya Sato

2014年5月30日金曜日

町/失神者


 その夜、わたしは場末の飲み屋のいちばん奥の席に腰を下ろして、グラスに注がれた地元の酒を見つめていた。飲めば頭痛と吐き気を引き起こす毒のような液体を見つめて、それが喉を焼き焦がしながら胃袋にしたたり落ちていく様子を想像した。想像すると、とめどもなく自虐的な気分になっていった。

 グラスに鼻を近づけて臭いも嗅いだ。腐ったイナゴの死骸から漂うような強い刺激臭が鼻孔を貫き、すかさず胃液が込み上げてきて気分はいっそう悪くなった。得も言われぬほど悪い気分だった。飲めばもっと悪い気分になるだろう。グラスを見つめながら、わたしは思った。ただ悪い気分になるだけではない。精神と肉体とがそろって滅ぼされるのだ、とわたしは思った。破滅的な頭痛によって肉体は死の痙攣に苛まれ、逆巻く吐き気によって精神は穢れた大地に投げ捨てられる。残されるのは死よりも陰鬱な悔恨と胃壁にからみつく虚無だけだ。まさしく精神と肉体とはグラスの中身を飲み干すというはなはだ単純な行為によって、いともやすやすと滅ぼされるのだ。そう思うと、わたしの内側で豊かに芽吹いた自虐の心は、ますます勢いづいて太く強く根を張るのだった。
 わたしは乾ききった強い探求心に支えられて、自分の魂に巣くった黒い願望を見つめていた。それは真っ赤な溶岩を吹き上げるほの暗い深淵にほかならなかった。そして深淵の多くがそうであるように、その深淵もまた見つめる者を見つめ返した。ふと思いついて、グラスを目の高さに持ち上げた。グラスのなかの液体が揺れた。深淵はわたしを見つめていた。その凝視は、獲物を発見した肉食動物の凝視だった。グラスのなかで液体の表面がゆったりと波打ち、縁を越えた数滴が指先を濡らした。それは深淵であり、そして同時に鏡でもあった。そこにはわたしの心が映し出され、わたしは自分の心と向き合うために自分を励まし、そうすることで自分を鍛えた。そして間もなくそうすることに、つまり自分を鍛えることに耐えられなくなり、自分を見つめることにも退屈して、汚れて油のしみたテーブルにグラスを置いて顔を上げた。同じテーブルには年齢も性別も異なる六人がいて、すでに何度となくグラスの中身を飲み干して、それぞれの精神と肉体とを滅ぼしていた。
 わたしの隣に座っていたのは不快な臭いのする初老の男だった。古びたラシャのコートをだらしなくまとい、白髪頭をひどく短く刈り込んで、青白くたるんだ顔の中央で大きな鼻を赤くしながら、静かに嗚咽の声を洩らしていたが、嗚咽の合間に聞こえた途切れ途切れの告白によると、男には年老いた一人の妻と行き遅れた二人の娘がいた。
「ああ、もうおしまいだ」と男が嘆いた。「俺がこうして端から飲んじまうせいで、あいつらにはパンを買う金も残らない。家にはもうジャガイモの皮だって残っていないというのに、俺は全部飲んじまった。おしまいだ、もうおしまいだ。こうなるのはわかっていたのに、今度という今度こそおしまいだ」
 その隣に座っていたのは黒い髪をした三十代の男だった。下がり物の黒いコートの襟に白いフケを撒き散らし、薄く尖った鼻をして、充血した大きな目玉を落ち着きなく動かしながら、嘆き続ける初老の男の背中を叩いた。
「おい、心配するなって」と男が言った。「家に女が三人もいるんだろう。だったらそいつらにせいぜいやりくりさせればいい。女ってのはやりくりをするもんだ。やりくりできなきゃ女なものか。女がしっかりやりくりしたら、男はそこから取りたいだけを取ればいいんだ。男ってのは、そういうもんだ」
 その隣に座っていたのはひさし付きの学帽をかぶった学生だった。鉄縁の眼鏡の奥で若い怒りに目を燃え立たせ、穴が開いてぼろ切れも同然となったコートの胸やポケットを、寒さをやわらげるためだろうか、違法なチラシやパンフレットで膨らませていた。
「野蛮で、醜悪な発想だ」と学生が叫んだ。「団結こそが必要なときに恥を知らない無頼漢どもは個人主義へと走り込んで、そうすることがあたかも既得権であるかのように弱者からの搾取を試みる。しかし新時代の女はやりくりなどしない。男とともに自由と平等を謳歌して、手を取り合って生きるのだ」
 学生の向かい側に座っていたのは安っぽい化粧をした三十過ぎの女だった。乱雑にまとめた金色の髪を肩へ垂らし、妙に分厚いショールの下にけばけばしい安物のドレスをまとって胸を必要以上に露出していた。
「あたしならごめんだね」と女が言った。「やりくりするのも男と一緒に自由と平等を謳歌するのも、どっちもごめんだ。ばかばかしくてやってらんないよ。新時代の女なんて、いったいなにが楽しいんだい。野原に繰り出してみんなで体操でも始めるのかい。ここで飲んだくれてるほうがよっぽどましさ」
 女の隣に座っていたのは腕に小さな赤ん坊を抱いた母親だった。髪を乱し、みすぼらしいショールを肩にかけ、やつれているせいで四十よりも前には見えなかった。母親は胸の前を大きくはだけて赤ん坊に乳をやっていた。そしてほかにもう一人、テーブルの下に隠れて姿の見えない子供がいて、母親はその見えない子供を口汚く罵っていた。
「ほんとに馬鹿な子だね」と母親が叫んだ。「そんなところで小便なんかするんじゃないよ。あたしの靴にかかるだろ。やるならもっとそっちでやりな。そっちのおじさんにかけてやりな。なんだい、終わっちまったのかい。だったらちゃんと始末しな。よく振るんだよ。服を汚したらただじゃおかないよ」
 その隣の席に、つまりわたしの斜め向かいに座っていたのは口元が弱々しい四十代の男だった。身なりはそれなりに整えていたが、黒いコートの袖も、その袖の下に見える上着の袖も、上着の袖の下に見えるシャツの袖も、どれもがそろってすり切れていた。額にはすり減った忍耐があり、目は悲しみに浸って消え入りそうな有様で、垂れた頬が怒りに震えていた。事務員だろう、とわたしは思った。
「けしからんじゃないか」と震える声で事務員が叫んだ。「よくも靴を汚してくれたな。靴下までが小便まみれだ。こんなことが許されるものか。わたしは抗議する。断固として抗議する。わたしは怒っている。こんなことは、もう我慢できない。限界だ、忍耐の限界だ。もう、今度という今度こそ限界だ」
 これと同じようなテーブルが店のなかに十五もあって、どれもがほぼ満席の状態で他人同士の男や女が慎みを忘れて肩をくっつけ、時刻は夜半をまわっていたが、百人以上の人間が異臭と騒音を振りまきながら地元の酒に溺れていた。空気はひとの吐息で暗くよどみ、天井から吊り下げられたいくつものランプが黄ばんだ光をゆらゆらと放ち、その下にひしめく酔っ払いの顔の一つひとつに気の滅入るような影を投げかけた。影はすべての顔にまとわりついて、決して離れようとしなかった。そして男も女も相手かまわずに罵声を張り上げ、ときには怒りにまかせて拳を振り上げ、あるいは腹を抱えて笑いながら隣の肩にしなだれかかり、思い出すと給仕を呼んで注文を叫んだ。彼方に見える勘定台では店の主人がなにかを叫び、厨房では料理女が野太い声でなにかを叫び、給仕たちは疲労と不満で顔を赤くしながら料理と酒を載せた盆を運び続けた。
 さて、忍耐の限界を訴える事務員の隣、つまりわたしの真正面の席に実はもう一人の人物がいた。褐色をした野良着のような服をゆったりとまとい、ぼさぼさに伸ばした髪を四方に乱し、腕を枕にこれ以上はないというくらいに突っ伏していて、だから顔も年齢もわからなかった。わたしが自分の席に腰を下ろしたときにはもう突っ伏していたし、わたしがグラスをにらんで破滅の予感を感じているあいだも突っ伏していた。顔を上げようすることも、ぴくりと動くこともしなかったが、同じテーブルの人々は心配するような気配を見せず、それどころか男がそこにまったく存在しないかのようにふるまっていた。一瞬、死んでいるのではないかと疑った。だが髪になかば隠れた手には血の気がかよい、ゆったりとした服の下では、かすかではあるが、からだが規則正しく動いていた。男は間違いなく生きていた。だが死んでいるのも同然だった。これこそが滅ぼされた人間だ、とわたしは思った。
 ところが隣で事務員が嘆きの声を上げ、もう限界だと叫びながらテーブルを拳で叩き始めると、それまで突っ伏していた男がわずかに身じろぎをして、それから呻くような声を洩らした。異変が起こったのはその直後だ。店内の騒々しさからすれば男の呻きが誰かの耳に届いた筈もなかったが、それにもかかわらずそこに居合わせた百人からの酔っ払いが等しく男の声を耳に聞き、息を呑んで口を閉ざし、グラスを掴んだ手を宙にとめ、ある者は振り返り、ある者は立ち上がり、不安と恐怖におののきながら凍った視線を男に注いだ。静寂のなかで、誰かがどこかで戻していた。
 太鼓腹を抱えた店の主人が客の肩を押し分けながら、急ぎ足で現われた。顔をゆがめて鼻を鳴らし、変わらずに突っ伏したままの男を見下ろし、不意にわたしをにらんで太った指を突きつけると、怒りを隠しもしないでこのように言った。
「あんた、なにかやったのか」
 わたしは即座に首を振った。すると店の主人は今度は事務員に顔を向け、同じ指を突きつけてこのように言った。
「じゃあ、あんただな。あんたがなにかやったんだな」
 事務員は答えるかわりに、もう限界だ、断固として抗議すると叫んで拳をテーブルに打ちつけた。すると野良着の男がまた呻いた。その声を聞いた酔っ払いどもは一斉に恐怖をまぶした息を吐き出し、一人が震える声でこのように言った。
「目覚めるのか」
 それを合図に残りの者も口を開き、様々なことをわめき始めた。
「ああ、なんてこった」「起こしちまった、起こしちまった」「滅びるぞ、ついに世界が滅びるんだ」「この古い世界は滅びるが、そのあとに新世界がやって来るんだ」「くだらない、まったくくだらない」「いったい世界はどう滅びるんだ」「自由と平等を謳歌するんだ」「彗星が落ちてくるって俺は聞いた」「大地がでんぐり返るって俺は聞いたぞ」「滅びるのは世界じゃなくて、この町だ」「神の怒りだ」「焼かれるんだ」「ソドムとゴモラのように天の火で焼かれるんだ」「俺が聞いた話と少し違うぞ」「どっちにしたってあたしたちは滅びるのさ」「アヴェ・マリアを三回唱えなさい」「逃げよう」「逃げられるものか」「俺は逃げるぜ」「滅びるのか、ほんとに滅びるのか」「あいつが目覚めたら滅びるのさ」「そういうことに決まってるんだ」「ちくしょうめが、なんでまた今日なんだ」「馬鹿ガキが、また小便したね」「あいつはいったい誰なんだ」「あいつが誰かなんて、誰も知らねえ」「あいつはいつからあそこにいたんだ」「いつからだ」「俺は知らねえ」「先週の今日もそこにいたぞ」「一年前にもそこにいたな」「十年前にもそこにいたさ」「二十年前にもそこにいたぞ」「いったいいつからそこにいるんだ」「いつって、この店ができる前からそこにいたさ」「店ができる前にはテーブルなんかなかったろうが」「あたりまえだ」「それじゃあどうやって突っ伏してたんだ」「それでも突っ伏してたんだよ」「何者なんだ」「どこから来たんだ」「なんで世界を滅ぼすんだ」「おめえらが罰当たりだからに決まってらあ」「なにを」「くそ」「言いやがったな」「酔っ払いめ」
 酔っ払いどもは酔いの醒めた青白い顔で声を限りに騒ぎ立て、数人が土足でテーブルを乗り越えてきて、なんとかしろ、と店の主人に詰め寄った。突っ伏していた男は再び身じろぎ、また呻くような声を上げた。主人は歯噛みをしながら男を見下ろし、ちくしょうめ、と一声叫ぶと汚れたエプロンの下から黒い棍棒を取り出して、それで力いっぱい男の頭を殴りつけた。かなり強烈な一撃が男を暗黒の世界に叩き戻した。ざまあみやがれ、と主人が言った。
 酔っ払いどもはすっかり安心すると店の主人のために乾杯し、さらにいくつものグラスを干して精神と肉体とを滅ぼしていった。野良着の男は突っ伏したままで、その隣では事務員がもう限界だとつぶやきながら、拳をテーブルに打ちつけていた。わたしはグラスを置いて店から抜け出し、自分の部屋に戻って冷えた毛布の下にもぐり込んだ。

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2014年5月29日木曜日

町/革命家


 あるとき、町に革命家がやって来た。
 革命家は街道を埃まみれの姿になって徒歩で現われ、頬に少なくとも三日分のひげをたくわえていた。丸めた毛布を脇に抱えて、ひさし付きの潰れた帽子を斜めにかぶり、肘や膝に継ぎのあたった古ぼけた服を着ていたが、みすぼらしい身なりを恥じる様子は微塵もなくて、その態度はむしろ誇らしげだった。端正な顔立ちの若者で、眼差しは自信によって満たされていた。決然とした面持ちで颯爽と歩き、からだには力がみなぎっていた。革命家は町の入口で足をとめ、城壁に寄りかかってタバコを巻いた。少しばかり上目遣いで、どこか物のわかったような気配で路上の様子をひとしきり眺め、短くなったタバコを投げ捨てると石畳を踏んで市場のほうへ進んでいった。
 雑踏のなかで革命家は目立った。革命家のように勢いよく、あきらかに先を急いで歩く者は町には一人もいなかった。いかにも貧しげな、革命家と同じような服装の者はたくさんいたが、そうした人々は人生を両手に抱え、重みに耐えてうなだれていた。さもなければ二日酔いに耐えかねて、しつこく痛む頭を抱えていた。うなだれて、あるいは頭を抱えて進む人々のあいだを、革命家は輝く希望の光のように一直線に駆け抜けていった。
 革命家の姿は若い娘たちの目を惹きつけた。娘たちが目を向けると、若い革命家は笑みで応じた。革命家が笑みを浮かべて快活な声で挨拶を送ると、娘たちは顔を赤らめた。娘たちが見つけたのは、町にはいない種類の若者だった。陽気で、冒険好きなハンサムで、危険に立ち向かう勇気を備え、そして臆することを知らなかった。娘たちは祈るように手をあわせ、互いに肩をこすりつけ、そうしているうちにいきなり大胆になった一人の娘が真っ赤なリンゴを掴んでいって、捧げるようにして革命家に渡した。揚げパンを手渡す娘もいた。娘たちは一人二人と前に出て、いつの間にか革命家を囲んでいた。どこから来たのか、と一人が訊ね、どこへ行くのか、と一人が訊ね、町にとどまるつもりなのか、と一人の娘が訊ねれば、宿屋の娘がおずおずと自分の家を指差した。しばらく滞在する、と革命家は答えた。娘たちは歓声を上げ、再び肩をこすりつけた。
 革命家は娘たちに見送られて市場を横切り、下町を目指して進んでいった。そのあとを黒服に身を包んだ一人の男が物陰を伝い、足音を忍ばせてつけていった。男は警察の密偵だった。町の娘たちにちやほやされているのを見た瞬間から、この余所者を怪しいとにらんでいた。長年にわたって不穏分子を監視してきた密偵としての直感が、ここでは迷わずに物を言った。反社会的な分子は反社会的な分子であるという理由で、密偵の気に障るようなことを必ずどこかでしでかすのだった。余所者は革命家に違いなかった。結論を下すのに羨望や嫉妬はまったく邪魔にならなかった。
 革命家が場末のホテルに部屋を取るのを見届けてから、密偵は警察を訪れて一部始終を報告した。警部補は報告を聞いて興奮した。とうとうこんな町にまで、と警部補は叫んだ。しかしこれは、とあとを続けた。やつらに警察の力を思い知らせる絶好の機会だ。
 警部補は緊急事態の発生を署長に知らせた。署長は知らせを聞いて眉をひそめた。
「その報告は」と署長は訊ねた。「たしかなのですか」
「たしかです」と警部補は答えた。「革命家なのです」
「なるほど」と署長が言った。「では、その人物が革命家であるとして、その革命家はこの町でなにをするつもりなのでしょうか。革命でも始めるつもりなのでしょうか」
「革命とは」と警部補は答えた。「当然ながら、準備なしに、いきなり始められるものではありません。やつらはいかにも革命家ですが、我々にとっては幸いなことに革命の準備はまだ整っていないのです。つまり、その男は革命を始めるために来たのではなく、革命の準備をしにやって来たと考えるべきではないでしょうか」
「なるほど」と署長が言った。「では、その人物が革命の準備をするためにこの町にやって来たのだとして、革命の準備とは、いったい、どのようなことをするのですか」
「革命の準備とは」と警部補は答えた。「当然ながら、労働者の洗脳と組織化を意味しています。洗脳され、組織化された労働者は中央組織の意のままに動く地方組織を構成し、そして革命のときには武装蜂起して我々に攻撃を加えてくるのです。その男はおそらく、そうした地方組織を作るためにこの町にやって来たのです」
「なるほど」と署長が言った。「それが事実なら、事態はきわめて重大です」
「いかにも」と警部補が言った。「重大であると言わねばならないでしょう」
「そして、問題のその人物が革命家だというのは、たしかなことなのですね」
「いかなる革命家も、警察の鋭い監視の目から逃れることはできないのです」
 署長は対策を警部補に一任した。警部補はこの日のためにひそかに選んでおいた密偵を放ち、革命家の行動を監視させた。さらに革命家が外出した隙を狙って、数人の部下を引き連れてホテルの部屋へ踏み込んだ。まず古びた軍用毛布が見つかった。ほかに洗面用具とわずかな着替えが見つかった。だが党員証はどこにもなかった。書き物をした痕跡も、檄文の束も、秘密の指令を隠した聖書も見つけることはできなかった。警部補は部下とともに徹底的に部屋を調べた。壁を叩き、抽出しを抜き、寝台のマットレスを裏返して埃を浴び、新しい縫い目を探して潰れた枕に目を近づけた。怪しい物はなにもなかった。そうなると、どうにも毛布が怪しかった。縫い込まれた物の感触を探して、隅から隅まで指を這わせた。すると指先が真っ黒になった。この汚れは洗ってもなかなか落ちなかった。当然だ、と警部補が言った。重要な物は肌身離さず持ち歩いているに違いない。逮捕しますか、と警官が訊ねた。それはできない、と警部補が答えた。いまはまだ監視するのだ。
 警部補が放った密偵は革命家の行動を怠りなく監視していた。朝、革命家はレンガ工場を訪れて見習工に採用された。日中、革命家はほかの工員と肩を並べて誰よりも熱心に泥をこね、夜、革命家はほかの工員と肩を並べて場末の居酒屋へ入っていった。飲めば頭痛と吐き気を引き起こす地元の酒をしきりと酌み交わしている様子から、工員たちはこの新参の見習工をすでに仲間と見なしていた。
 これは浸透だ、と密偵たちは囁いた。浸透工作が進んでいるのだ。
 翌朝、詳細な報告書が警察に届けられた。
「予想したとおりです」と警部補は言った。
「なにか始まりましたか」と署長が訊ねた。
「革命家はレンガ工場に潜入し、驚くべき速さで工員の洗脳を進めています。この調子だと、間もなく組織化が始まることでしょう。組織化された労働者は組織の力を信じて行動を求め、小手調べのためにストライキを打ってくるかもしれません。弾圧を加えればやつらはそれを契機に結束を固め、下手に出ればさらにつけ入る隙を狙ってきます。これは非情な戦いになるでしょう。気をつけなければなりません。やつらの気配を読み取って、先手を打たなければならないのです。もしここで後手にまわると、取り返しのつかないことが起こります。革命への階梯となるあの恐るべき存在が、労働組合が、真昼の光を食い荒らす夜の怪物のように、この町に出現することになるのです」
「少しばかり、おおげさではありませんか」
「いいえ、少しもおおげさではありません」
 警部補は過去の事例に基づいて予測を立て、革命家は二か月でレンガ工場の工員の洗脳を終え、続く二か月でレンガ工場の組織化を完了させるものと見積もっていた。早ければ六か月後には最初のストライキが決行され、労働者組織はその時点で一定の武装を整えていることになるだろう。
 ところが警部補の予想に反して、革命家がレンガ工場にいたのは三日間だけだった。そのあと、革命家は釘工場の見習いとなり、そこでも三日間だけ働いた。続いてタドン工場の見習いになり、そこでも三日間だけ働いた。密偵たちがもたらした報告によると、日曜日には市場で働く娘たちと遊んでいた。失敗したということか。それにしては自信に満ちた態度を続けていた。それともわずか九日間で三つの工場の洗脳と組織化を終えたということか。警部補は密偵を三つの工場の工員に接近させて、洗脳と組織化の進行状況を調べさせた。密偵が持ち帰った報告は、どちらとも判断しかねるものだった。どの工場のどの工員も最初から不平と不満でいっぱいで、飲ませれば平然と国家を攻撃の対象にした。警官を犬と呼び捨て、もし革命が始まったらと意気込むのは、革命家がやって来る前からの習性だった。
 やはり失敗したのだ。警部補がそう結論を下したとき、密偵から新たな報告が届けられた。革命家が娘たちに見送られて、町を離れようとしているという。警部補は知らせを聞いて立ち上がった。執務室をあとにして急ぎ足で廊下を進み、次第に足を速めながら警察の建物から飛び出すと、そのまま道を走り始めた。そして息が切れてもなお走り続けて町を横切り、手を振る娘たちの脇を素通りして、街道の入口で若い革命家に追いついた。
「きみ、そこのきみ」
 警部補が呼ぶ声を聞いて、革命家は足をとめて振り返った。口元には快活な笑みが浮かび、眼差しは自信によって満たされていた。警部補は革命家の前に立って呼吸を整え、それから口を開いてこう訊ねた。
「行ってしまうのかね、あきらめたのかね」
「ぼくがなにをあきらめたと言うのですか」
「きみは革命家だね」
「ぼくは革命家です」
「なぜ町から出ていくのか、わたしはそれをきみに訊きたい。これはわたしの想像だが、きみの使命はこの町の労働者を組織することにあったはずだ」
「そうです。なぜわかったのか、わかりませんが」
「だが組織に失敗したのだね、あきらめたのだね」
「失敗などしていません。あきらめてもいません」
「それなら、なぜ町を離れようとしているのかね」
「それは、労働者を見つけられなかったからです」
「しかし、しかし、きみはレンガ工場で労働者とともに働いたはずだ。釘工場でも、タドン工場でも、労働者とともに働いたはずだ。働いただけではない。一緒に居酒屋へ出かけていって、酒を酌み交わしたはずだ。それなのに、なぜ、労働者を見つけることができなかった、などと言うのかね」
「それは、この町の発展段階に理由があります。観察した限りでは、どの工場経営者も近代的な生産手段を所有していませんでした。はっきり言って、現場はまるで中世のような状態です。そして工員たちは、どちらかと言えば古めかしい職人に近くて、革命的な労働者としての政治意識を備えていません。数も不足していました。つまりですね、言い換えれば、この町の資本主義が十分に成熟していなかったせいで、ぼくは労働者を見つけることができなかったのです」
「だから出ていくのかね」
「だから出ていくのです」
「では、では」と警部補は叫んだ。「わたしはいったい、どうすればいいのだ」
「待っていてください。いずれときが熟すれば、ぼくはこの町に帰ってきます」
 臆することを知らない革命家は自信に満ちた口調でそう言って、警部補に右手を力強く差し出した。警部補はその手を見つめてしばらくのあいだ迷っていたが、やがて革命家に背を向けると町を目指して歩き始めた。振り返ることは一度もなかった。そしてうなだれた様子で警察へ戻り、一部始終を署長の前で報告した。警部補の話を聞きながら、署長はわずかに眉をひそめた。警部補が話を終えると、署長は恥じ入るように顔を背けた。
「わたしのことを嫌っていますね」と警部補が訊ねた。
「まさか。そんなことはありません」と署長が答えた。

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2014年5月28日水曜日

町/密使


 あるとき、町に密使がやって来た。
 密使の到着は首都から届けられた秘密の手紙によって事前に町に知らされていた。それは政府が送った密使ではなかった。国内のありとあらゆる場所にひそみ、国家転覆の大陰謀をたくらむ秘密結社が送り出した密使だった。首都からの手紙は警告し、かつ行動を要求していた。言うまでもなく、この密使は危険な存在だった。密書を運んでいるものと推定された。密書の内容は不明だったが、秘密結社の性格からして国家転覆の大陰謀に関わる指令である可能性を無視することはできなかった。したがって警察は密使の行動を監視し、密使と接触するすべての者の名前を控え、常に目を開いて反政府勢力の動向をにらみ、必要ならば取り得る手段を取らねばならなかった。失敗は国家の危機を意味していた。手紙を読んで警察署長は恐怖に震え上がった。新任の警部補は興奮した。とうとうこんな町にまで、と警部補は叫んだ。しかしこれは、と後を続けた。この町の不穏分子を一網打尽にする絶好の機会です。警察署長は対策を警部補に一任した。警部補はこの日のためにひそかに選んでおいた密偵を放ち、町のすべての入り口を監視させた。
 やがて西の方角から一人の若い男が現われた。鍔広の黒い帽子を目深にかぶり、丈の長い黒衣を細身にまとい、黒い旅行鞄をぶら下げていた。帽子の下には油断なく光る青い目があった。引き結ばれた唇はうっすらとした無精ひげに囲まれていた。途切れのない滑らかな動きで馬車から降りて、その場にたたずんであたりの気配をうかがった。見知らぬ町に着いたばかりの旅人に見える、あのどこか物怖じしたような様子はまったくなかった。はばかることなく背筋を伸ばして、物陰から見守る密偵たちの視線に気づいて唇の端に笑みを浮かべた。挑戦的な態度だった。あきらかに、国家の権威と法の支配を軽蔑する態度だった。つまり国家転覆の大陰謀に加担している者ならば、取らずにはいられない態度だった。密使だ、あれが密使だ、と密偵たちはささやきを交わした。一人が仲間から離れて報告のために走り始めた。残りの者は一列に並んで壁に貼り付き、道をはさんで密使のあとをつけていった。
 密使は場末のホテルに部屋を取った。日没の後、荷物を残して外に現われ、石畳の道を踏んでいかがわしい一角へ入っていった。密偵たちが一列になってそのあとを追った。警部補は数人の部下を引き連れてホテルの部屋へ踏み込んだ。鞄を調べて着替えと洗面用具一式と小型の聖書を発見した。聖書のページは『詩編』ばかりを選んでところどころが折ってあった。キーワードだ、と警部補が言った。密書の暗号を解くキーワードがこのページのどこかに隠されている。聖書を持ち帰りますか、と警官が訊ねた。それはできない、と警部補が答えた。ページの番号を控えろ、図書館へ行って同じ版の聖書を探し出せ。警官の一人がメモを握って走り出した。警部補と残りの警官たちは徹底的に部屋を調べた。壁を叩き、抽出しを抜き、寝台のマットレスを裏返して埃を浴び、新しい縫い目を探して潰れた枕に目を近づけた。怪しい物はなにもなかった。当然だ、と警部補が言った。密書は肌身離さず持ち歩いているに違いない。逮捕しますか、と警官が訊ねた。それはできない、と警部補が答えた。いまはまだ監視するのだ。
 同じ頃、密使は飲み屋の隅に席を取って、飲めば頭痛と吐き気を引き起こす地元の酒を注文していた。密偵たちは密使の隣のテーブルに席を取って、そろって地元の酒を注文した。密使が視線でひとなですると、密偵たちは顔を背けた。間もなく一人の男が現われて密使の隣に腰を下ろした。それは腕っぷしの強さで知られた石工だった。石工は給仕を呼んで地元の酒を注文した。しばらくするとまた一人の男が現われて密使の向かいに腰を下ろした。それは力自慢で知られたレンガ工場の職工だった。職工は給仕を呼んで地元の酒を注文した。それからわずかな間を置いて三人目の男が現われ、職工の隣に腰を下ろした。それは粗暴な上に妬み深いことで知られた炭焼きだった。炭焼きは給仕を呼んで地元の酒を注文した。密偵たちは石工と職工と炭焼きの名を控え、秘密結社が備えた恐るべき暴力性に気づいて慄然とした。得体の知れない石工の群れと不満を抱えたレンガ工場の職工たちと妬むことでは誰にも負けない森の炭焼きどもの連合の前では、町の警察は完全に無力だった。石工と職工と炭焼きは運ばれてきたグラスを一息に干した。密使はゆっくりとグラスを持ち上げ、中身をわずかに口に含んで顔をしかめた。
 密偵たちはなにかが始まるのを待っていた。石工と職工と炭焼きは給仕を呼んで二杯目を注文し、石工と職工は運ばれてきた二杯目をすぐに飲み干し、炭焼きは妬ましそうにちびちびと舐めた。突然、密使がグラスを置いて立ち上がった。テーブルのあいだを縫って出口を目指して歩き始めた。密偵たちもあわてて立ち上がってあとを追った。密偵たちの進路には盆を抱えた給仕の群れが立ち塞がった。密偵たちが口々にどけと叫んだ。その猛々しい叫びを聞いて密使は店の出口で振り返り、唇の端に挑戦的な笑みを浮かべた。向き直って進もうとしたところで一人の男と肩をぶつけた。それは夜ごとに飲み屋を訪れては反政府扇動を繰り返している自由契約の鉛管工だった。密使が店から出ていった。鉛管工は店に入ってなかを見回し、ぶつけた肩を手で払った。密偵たちは鉛管工の名前を控え、互いを押しのけながら出口に向かって突進した。外へ飛び出して左右を見回し、細く延びた道の先で街灯の光をくぐる密使の姿を見つけ出した。
 密偵たちは一列になって壁を伝い、密使のあとをつけていった。密使は食堂へ入っていった。密偵たちは暗がりに隠れてそれぞれの有り金を確かめ、代表を一人だけ選んで食堂に送った。密使はカツレツを食べていた。パンを食べ、グラスで二杯のワインを飲み、黙々と食事を終えて店を出た。密使はそのままホテルに戻った。密偵たちはホテルの玄関と裏口を見張り、路上に立って頭上の窓を見守った。ホテルへの訪問者は一人もなかった。部屋の窓は夜半過ぎには暗くなった。
 警部補は密偵たちの報告を聞いて眉をひそめた。食前酒を求めて飲み屋を訪れ、食堂で簡単な食事を済ませてホテルへ戻り、ただ寝た、ということでは午後の遅い時間に到着した旅行者がすることとなにも変わりがない。本当にそれだけのことなのか、それともすでにどこかで密書の受け渡しが完了しているということなのか。自由契約の鉛管工が怪しかった。石工と炭焼きとレンガ工場の職工にも疑いの目を向けておく必要があった。もちろん食堂のことを忘れてはならない。密偵が店に入ったときには、密使はカツレツを食べ始めていた。つまり注文してから料理が出るまでのあいだは監視を受けていなかった、ということだ。そのあいだになにがあったのか。食堂の主人は現体制の支持者なのか。それとも反対者か。事態は急を要していた。警部補は密偵たちに指示を与えて石工と炭焼きとレンガ工場の職工と自由契約の鉛管工を二十四時間の監視下に置いた。そして自分は数人の警官を引き連れて場末の食堂を訪れた。
 遅い時間のことで、食堂はすでに戸を閉ざしていた。いくら声をかけても返事がないので、警部補は戸を蹴破ってなかへ入った。テーブルの上で住み込みの給仕が毛布を抱いて身を起こした。まず目をしばたたき、それから驚いて板張りの床に飛び降りると裸足で店の奥へ駆け込んだ。警官たちがあとを追った。闇に包まれた厨房に警官たちの靴音が響き、給仕の悲鳴がそこに重なり、転げ落ちた調理器具が耳に障る音を立てた。どこかで食堂の主人が罵声を放った。警官たちはどこだと叫び、明かりをつけろと警部補が叫んだ。闇のなかで炎がまたたき、食堂の主人が明かりを点したランプをかかげた。丸々と太ったからだに白いネルの寝巻きをまとい、残る手に鋭い包丁を握っていた。逮捕しろ、と警部補が叫んだ。警官たちが飛びかかった。
 警部補は夜明けまでかけて食堂の主人を尋問した。食堂の主人はなにも知らなかった。押収した帳簿からはいくつもの謎めいた記号が見つかったが、いずれも取引先の略号であると食堂の主人は説明した。逮捕するだけの理由はなかった。食堂の主人は昼前に釈放された。一方、密使は同じ日の朝、軽食を出す喫茶店でパンとカフェオレの朝食を取り、川沿いの道をゆっくりと散歩し、新しい住宅街へと通じる橋の真ん中に立って川を眺め、旧市街へ戻って教会に入ると告解室で告解をした。告解室から出てきた神父は額に汗を浮かべていた。密使はその後、前夜とは違う食堂で昼食にシチューを食べてワインを飲み、書店に入って絵はがきを買い、朝とは違う喫茶店で絵はがきにペンを走らせて、郵便局から絵はがきを送った。ただちに押収された絵はがきには差出人の署名はなく、代わりに「あなたの忠実なる友と」だけあり、宛先には首都にある有名な出版社の有名な編集人の名が記されていた。疑いなくなんらかの陰謀が進行していた。はがきにはわざとらしい時候の挨拶と退屈な地方生活に関する退屈な蘊蓄がつづられていたが、もちろんすべては見せかけであって、本来の意味を解く鍵は聖書の『詩編』に隠されている筈だった。一人の警官が任に選ばれ、泣きながら聖書の詩句とはがきの文面とを見比べた。夕刻、密使は監獄の前に立ってそびえる石の塔を見上げていた。密使が立ち去ったあと、密偵たちが一帯をくまなく調べたが、怪しい物はなに一つとして見つからなかった。密使は昼食を取った食堂を再び訪れて夕食にステーキを食べてワインを飲み、いかがわしい一角へ入って路上の女たちに話しかけ、なにもせずにホテルへ戻って夜半前に明かりを消した。
 警部補は神父を二十四時間の監視下に置き、二軒の喫茶店と一軒の食堂を捜索した。革新的な思想で知られた書店の主人には警察までの同行を求め、鑑札を持つ女たちを片端から引っ張った。警部補と配下の警官たちは不眠不休で調査し、尋問を繰り返したが、いかなる成果も得ることはできなかった。
 次の日の朝、密使は前日の朝とは異なる喫茶店でパンとカフェオレの朝食を取り、川沿いの道をゆっくりと散歩した後、橋を渡って新しい住宅街を訪れた。立ち並ぶ瀟洒な家のあいだを歩き、とある植え込みの前では足をとめて花を眺め、とあるポプラの木のまわりを三度まわった。密偵たちは木とその周囲をくまなく調べたが、怪しい物を見つけることはできなかった。密使は昼前に橋を渡って旧市街へ戻り、前日とは異なる食堂で昼食にシチューを食べてワインを飲んだ。食後にはトルコ式のコーヒーを注文し、それを飲み終えるとまた橋を訪れ、橋の真ん中で足をとめて眼下を流れる川を見つめた。
 休みなしに監視を続けて、密偵たちは疲労の限界に達していた。寝不足で目を霞ませた密偵たちは、それでも密使が懐から白い封筒を取り出したのに気がついた。橋の上には密使のほかに人影はなかった。橋のたもとの旧市街側では先ほどから二人の男がうろついていた。喧嘩っ早いことで知られた釘工と、町の住民がそろって虚無主義者だと見なしている学生だった。密偵たちは興奮した。ついに受け渡しが始まるのだ。一人が仲間から離れて報告のために走り始めた。残りの者は川沿いの道に一列に並んですべての動きに目を光らせた。知らせを受けた警部補が息を切らして現われて監視の列に加わった。まだです、と密偵の一人がささやいて、橋の上の密使を指差した。
 密使は白い封筒を手に持ったまま、変わらずに川の流れを見つめていた。橋のたもとでは釘工がすでに立ち去り、学生は密偵たちの様子を盗み見ていた。密使は動かなかった。学生がやがて背を向けて立ち去った。おかしい、と密偵の一人がつぶやいた。そのとき、密使が封筒を前に投げ出した。封筒は紙が落ちるような速さではなく、なかに鉄板を仕込まれた密書が落ちるような速さで水面に達し、小さなしぶきを残して川に消えた。密偵たちが吐息を漏らした。警部補は監視の列から離れて橋へ走り、密使に近づきながら川を指差し、怒りに震える声でこのように言った。
「いったい、なんということを」
「いけませんか」
 密使はそれだけを言ってホテルへ戻り、午後の馬車で町を離れた。

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2014年5月27日火曜日

町/天使


 あるとき、町に天使がやって来た。
 天使は純白の衣をまとって裾を垂らし、一対の大きな白い翼を背負っていた。黄金色の髪を長く伸ばして、顎に黄金色のひげをたくわえていた。天使だ、と人々は言った。時刻はまだ正午をわずかにまわったばかりだったが、その昼日中に天使はひとの前に姿を現わし、市場の端にたたずんで、暗い眼差しを灰色の地面に向かって投げかけていた。地上に降りてくるところを見た者はなかった。天使の唇はかたく閉ざされ、大きな翼はたたまれていた。ある者は天使の姿を目にすると、その場にひざまずいて祈りを捧げた。ある者はこの世ならぬ存在に恐れを抱いてその場から逃れ、またある者は理性の光に導かれるまま、目の前の光景に眉をひそめた。数人が警官を呼びに警察へ走り、数人が神父を呼びに教会へ走った。そして多くの者がおそるおそるに足を進めて天使を囲み、背伸びをしたりしゃがんだり、あるいは首をひねったりしてさまざまな角度から目を凝らした。
 天使はすばらしい美貌の持ち主だった。その美貌に打たれて、町の人々は息を呑んだ。天使の衣はしなやかで、美しい光沢を備えていた。そのしなやかさと光沢に打たれて、町の人々は息を呑んだ。天使の白い翼は不快なほどに生き物じみていて、まがまがしさを漂わせた。町の人々はまがまがしさを恐れて身をしりぞけた。少なからぬ者が、もしかしたらこれは本物ではないかと疑っていた。
 本物だろうか、と一人が疑問を口にした。
 そんなばかな、と別の一人が首を振った。
 しかしこれは、と首をかしげる者がいた。
 囁きを交わす群衆のなかから一人の上品な老婆が前に進んで、畏敬に震えるかぼそい声で、あなたは天使ですか、と問いかけた。声に反応して天使が動いた。ゆっくりと顔を上げて老婆を見据えた。群衆は天使を見つめ、天使の声を聴き取ろうと耳を澄ませて待ち構えた。だが天使は変わらずに口を閉ざしていた。
 老婆は十字を切って、小声で祈りを捧げてからしりぞいた。代わって鳥打ち帽をかぶった初老の男が前に進んだ。男は天使に向かっていきなり指を突きつけ、鋭い声で、ぺてん師、と叫んだ。天使は顔を動かして男を見据えた。そのすばらしく整った顔からは、いかなる感情の動きも見て取ることはできなかった。鳥打ち帽の男は群衆を振り返った。
 男は天使を指差し、人々に向かって話し始めた。男の言葉によれば、そこにいるのは天使ではなくて天使の仮装をした誰かであり、その誰かとはつまりぺてん師であって、そのぺてん師は天使の仮装をすることによって人心を惑わそうとたくらんでいた。この男は似たような種類のぺてん師を何度か見たことがあったようだ。そうしたぺてん師によって男は一度ならず心を乱され、少なくとも一度は財産を奪われ、そのような結果を招いたことで、どうやら自分自身にひどく腹を立てていた。男の怒りは激しかった。
 このいまいましいぺてん師め。男は天使に向き直ってそう叫んだ。いいかげんに、その作り物の翼をはずして正体を見せろ。そう言いながら天使に詰め寄り、翼を剥ぎ取ろうと手を伸ばした。男の手が伸びるのと同時に天使が動いた。信じられないほどの速さで一歩しりぞき、左右の翼を大きく広げた。ウマでも包み込めそうな巨大な翼がはじけるように開いて白く輝き、なぎ払われた空気が音を立てて突風となった。
 人々は風に煽られ、恐怖を感じて腰を抜かした。一人が悲鳴を上げて這うようにして逃げていった。鳥打ち帽の男は帽子を飛ばされて地面に突っ伏し、頭を抱えて小刻みにからだを震わせていた。血の気を失った群衆を天使は暗い面持ちで見下ろした。
 これは本物だ、と数人が叫んだ。本物の天使だとすれば、それは天から下された御使いであった。敬虔さを誇る者からひざまずいた。ひざまずいて祈りをつぶやき、おののきながら御使いの言葉を待ち受けた。だが天使は群衆を見下ろしたまま、変わらずに口を閉ざしていた。多くの者が苛立ちを感じた。お言葉を、と言って一人の女が手をあわせた。なにか言ってくれ、と懇願する者もいた。御使いは言葉を地上に運ばなければならなかった。もし手ぶらで来たのだとすれば、それは地上に対する裏切りだった。ひとが集まる市場のような場所の真ん中では、たとえ神であっても信仰を試してはならなかった。祈りをつぶやく声はやがて疑念をまぶした囁きに変わり、人々は互いに顔を見合わせ、ときにはあからさまに肩をすくめた。
 警官がやって来て、人心を惑わせたのは誰か、と訊ねた。人々は再び顔を見合わせ、それから数人が鳥打ち帽の男を指差した。警官は鳥打ち帽の男を引っ立てていった。
 次に神父がやって来て、御使いはどこか、と人々に訊ねた。訊ねられた一人が天使に向かって顎をしゃくった。神父は天使に歩み寄り、十字を切って一礼した。恐れる様子は微塵もなかった。神父は天使に問いかけていった。あなたは何者なのか、父と母は誰なのか、どこからやってきて、いかなる用向きを携えているのか。神父は同じ質問をラテン語で繰り返した。さらにギリシャ語でも繰り返した。どの問いかけに対しても、天使は口をかたく閉ざしていた。神父はわずかに眉をしかめ、最後にアラム語の単語をいくつか投げかけた。すると天使は厳かな、鐘の残響を思わせるような声でなにかを言った。
 ざわめきが起こった。人々は天使の声をついに聞いた。そして一斉に、天使はなんと言ったのか、と神父に訊ねた。わからない、と神父は首を振った。天使が口にしたのはヘブライ語だった。
 靴屋を呼ぼう、と群衆のなかの一人が大声で言った。あいつならわかる。
 下町のはずれの古びた一角からユダヤ人の靴屋が呼び寄せられた。頭に小さな帽子をのせ、古びた黒い前掛けをかけ、真昼の市場をまぶしそうに見回していた。その年老いた小柄な靴屋が半地下の穴蔵のような仕事場から、昼日中に外へ出ることは少なかった。神父が群衆を分けて進み、先頭に立って靴屋を迎えた。神父は靴屋の耳に何事かをつぶやき、靴屋はいぶかしげにうなずいた。
 町の人々が見守る前で、靴屋が天使に近づいていった。靴屋は天使の前で足をとめ、深々と頭を下げて皺だらけの手を両ひざに這わせた。靴屋は頭を下げたまま、しばらくじっとしていた。それからようやく顔を上げて、天使に向かって静かな調子で語りかけた。靴屋の問いかけに、厳かな声で天使が答えた。多くの者の期待に反して、交わされた言葉は多くはなかった。いくらかの者の予想に反して、靴屋がひそかに啓示を受けた様子もなかった。間もなく靴屋は天使に背を向け、天使は再び口を閉ざした。
 町の人々は靴屋を取り巻き、天使はなにを答えたのか、いったいなにがわかったのか、と声高に訊ねた。数人は興奮して拳を振り上げ、振り上げたまま詰め寄ったので小柄な靴屋を脅えさせた。神父は靴屋の手を引いて、群衆のなかから引っ張り出した。そして靴屋に訊ねて、このように言った。
「なにか、わかったのですか」
「はい、すべてわかりました」
「では、あの方は天使なのですか」
「違います。天使ではありません」
 靴屋の説明によると、市場に現われた天使は右の翼に傷を負って飛ぶ力を失っていた。これが人間ならば、傷はいつかは癒される。しかし天使は最初から天使として作られ、完成された存在であり、したがって自らを癒す力を備えていない。地上にとどめられて天との絆を失った者を、もはや天使と呼ぶことはできなかった。
「では」と神父が声をひそめた。「わたしたちはどうすればよいのですか」
「なぜ」と靴屋が眉をひそめた。「なにかできる、などと考えるのですか」
 靴屋を問いかけを聞いて神父は考え、考えた末にうなずいた。たしかに、できることはなにもなかった。天使はすでに地上の運命に託されていた。かつて天上にあった輝かしい光は、いまや地上にあって汚辱と塵にまみれることになるだろう。
 靴屋は自分の店に戻り、神父は自分の教会に戻った。残された人々はまた天使の前に集まって、恐れることなく指先を向け、肩をすくめ、少々冒涜的な冗談に笑った。子供たちは犬をけしかけ、急進的な若者たちは唾を吐きかけ、情けを知らない女たちがはさみを握って現われて、天使の衣を裾から四角く切り取っていった。夜になると酔っ払いがからんだ。それでも天使はその場所にたたずんだまま、暗い眼差しを地面に向かって投げかけていた。数日が経ち、天使が立っていた場所は一人の農夫に貸し出された。農夫は野菜を満載した荷車を牽いてやって来て、天使の鼻先に許可証を突きつけ、天使が場所を譲ろうとしないと見ると、梶棒を振るって追い払った。
 天使は居場所を失い、町のあちらこちらをさまよい歩いた。哀れに思った人々が天使に食べ物や飲み物を差し出したが、天使は食べることも飲むことも知らなかった。眠ることも疲れることも知らなかったので、天使は夜もさまよい歩いて異形の影を壁や石畳に投げかけた。さまよううちに純白だった衣は汚れ、黄金色の髪は乱れ、翼は汚物をかぶって黒ずんでいった。悪臭が漂い、蝿がたかり、巨大な翼はたたまれた状態であっても路上の通行の障害となった。
 町役場に苦情が殺到した。対策のために町の重鎮が招集され、慎重な議論の末に結論が下され、ただちに逮捕状が作成された。武装した警官が現われて、天使を監獄へ引っ立てていった。心のある者はその様子を見て困惑し、心の貧しい者は喜びを感じた。
 天使に割り当てられた地下の監房は入り口がひどく小さかった。看守たちは天使をそこへ押し込むために、翼を少しばかりへし折らなければならなかった。重たい鉄の扉が閉ざされた。厳重に鍵がかけられ、天使は闇のなかへ置き去りにされた。そして思い出すことがないように関係書類は焼却され、監房の入り口はレンガとしっくいでふさがれた。だが監房の鍵はまだ監獄の看守が握っている。

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2014年5月26日月曜日

町/詩人

 あるとき、町に詩人がやって来た。
 詩人はつややかな黒髪を肩まで伸ばし、まっすぐに垂れかかる前髪で青白い顔の半分を隠していた。襟の高い黒のフロックコートに長身を包み、長い脚を伸ばして悠然と歩き、ときおり思い出したかのように立ち止まると、顔にかかった前髪を驚くほど優雅な手つきでかき上げた。詩人は若くてエレガントで、古代ギリシアの彫刻を思わせる美貌をしていた。その姿に女たちはたちまちのうちに陶然となり、男たちはまず羨望の眼差しを向け、続いて嫉妬し、気がついたときにはもう憎んでいた。
 詩人は町で最高級のホテルに部屋を取った。女たちはホテルを取り巻こうとしていかつい大男の守衛に追われ、勇気を示した数人は守衛の守りを突破してホテルへ入り、フロントに置かれたベルを何度も叩いてフロント係を呼び出した。そして甘い声を重ねてすてきな詩人の名を訊ねたが、返ってきたのは誰も聞いたことのない名前だった。一瞬、女たちは顔を見あわせた。フロント係は唇に冷たく乾いた笑みを浮かべた。
「つまり、無名の詩人というわけですな」
 すると女たちは憤然としてフロント係に詰め寄った。馬鹿だの阿呆だのと散々に罵り、あんたには詩がまったくわかっていない、詩人というものがわかっていない、そもそも芸術が全然わかっていないと叫んで指を突きつけ、捨てぜりふを残して飛び出していった。
「ふん、わかったような顔しちゃってさ」
 女たちは路上に立って詩人の名前を胸に抱き、詩人の泊まる部屋を見上げてうっとりとした。一人が感極まって、芸術よ、あれこそが芸術だわ、と叫ぶと、残りの女たちも芸術よ、あれこそが芸術だわ、と喜びに満ちた叫びを上げた。
 間もなく詩人が姿を現わした。フロックコートが黒から灰色に変わっていたが、そのせいで神々しさがいや増していた。女たちは息を呑んだ。詩人が歩き始めると、女たちがそのあとを追った。
 詩人は町のなかをさまよい歩いた。旧市街の石畳を踏んで左右に並ぶ古びた建物を交互に眺め、川のほとりに沿って歩いて頭上を舞う鳥の群れを目で追いかけ、あるいは橋の上でつかのま足をとめてせせらぎに映える日の光に顔をうつむけた。コートのポケットに手を突っ込んで、遠くを見つめることもあった。歩きながら雲を見上げ、立ち止まって自分自身の影を見つめた。あるところでは打ち捨てられた彫像に手を伸ばし、あるところでは建物のひび割れた壁に触れ、またあるところでは街路樹の節だらけの幹に手を添えた。詩人はしっかりとした大きな手の持ち主だった。その手で垂れかかる髪をかき上げ、そうかと思うと頭を抱え、長い髪をかきむしり、顔を覆い、ときにはこぶしに結んで宙に振り上げ、それを勢いよく振り下ろした。苦悩だわ、と女たちの一人が言った。そうよ、と残りの女たちが声をそろえた。あれこそが芸術的な苦悩だわ。
 そこへ一人の少女が花束を抱えて現われた。女たちの前を足早に横切り、詩人に駆け寄ると少女らしいはにかみを添えておじぎをして、手にした花束を差し出した。詩人はじっと花束を見つめた。しばらくのあいだそうしていたが、そのうちにそのままそうしてもいられないということに気がついたのか、受け取ろうとして身をかがめた。ところがその途端に詩人の顔が苦悩で歪んだ。言うまでもなく、外界との思わぬ接触でせっかくの詩想が乱されたのだった。詩人の心は絶望に揺れた。世界に対する信頼を失い、垂れかかる前髪の下に手を差し入れて、額を押さえて目を閉じた。詩人がよろめくのを見て少女は恐怖のとりことなり、助けを求めて声を上げた。するとそれまで遠巻きにしていた女たちが一斉に飛び出し、少女をつかまえてその場から引きずり出すと馬鹿だ阿呆だと散々に罵り、あんたには詩がまったくわかっていない、詩人というものがわかっていない、そもそも芸術が全然わかっていないと叫んで指を突きつけた。少女も負けずに叫び返した。
「なによ、あたしがなにをしたっていうの」
 女たちの一人が手を振り上げた。
「なんだい、教えてほしいって言うのかい」
 少女は花束を地面に叩きつけた。
「なにさ、わかったような顔しちゃってさ」
 少女は捨てぜりふを残して走り去り、女たちはその後ろ姿に罵声を浴びせた。それから一斉に向き直ってたたずむ詩人を遠くに見つめた。詩人はもうよろめいてはいなかった。椿事によって新たな詩想を得たのか、あるいは失った詩想を取り戻したのか、いまは雄々しく胸を張り、空を見上げ、力強く握ったこぶしを胸の前に掲げている。女たちが安堵の吐息をそっと洩らすと、詩人は再び歩き始めた。悠然とした歩調で散策を続け、日没の直後にホテルに戻った。
 ホテルでは町の文学愛好者たちが詩人の帰りを待ちかねていた。詩人が姿を現わすと全員が立ち上がって盛大な拍手で迎え、町に一つしかない文学サークルの代表が、これは町の有力者で商工会議所の会頭でもあったが、挨拶を述べて握手を求めた。詩人は額に手をあてたまま、代表が差し出した手を見つめていた。詩人がいっこうに動こうとしないので、文学サークルの会員たちは疑念を抱いた。つまり代表の手になにか油断のならない物体が付着しているのではないかと疑った。会員の一人が気を利かせたつもりで代表にハンカチを差し出したが、代表はそれを無視して差し出した手をさらに差し出した。詩人は額にあてがった手をゆっくりと下ろした。よろめいてはいない。どうやら詩想は保たれていた。詩人はサークルの代表と握手を交わし、それを見て会員たちが歓声を上げ、再び盛大な拍手が起こった。
 握手の次は晩餐だった。詩人は夕食に招待された。家族的な雰囲気の気楽な店です、と文学サークルの会長は言った。その家族的な雰囲気の気楽な店は旧市街の飲み屋が集まる一角にあり、キャベツの酢漬けの臭いが染みついた店内ではベンチに腰を下ろした二百人もの人間が同時に注文を叫んでいた。文学愛好者たちは奥の個室にとおされた。キャベツの酢漬けとベーコンを一緒に煮込んだ料理が大皿に盛られてテーブルに並び、飲めば頭痛と吐き気を誘う地元の酒がグラスに注がれて配られた。詩人は額に手をあてていた。会長が乾杯の音頭を取り、会員たちはグラスを干して吐き気をこらえ、詩人はにおいを嗅いで顔をしかめてグラスの中身を床に捨てた。
「さて、それでは」と文学サークルの会長が声を張り上げた。「本日の来賓に作品の朗読をお願いしましょう。さあ、あなたの番です。立ち上がって」
 会長が手を差し出してうながすと、詩人は額に手をあてたまま首を振った。
「どうしました。遠慮は無用です。なにしろこのような土地で、誰もが文化の香りに飢えているのです。もちろん新作である必要はありません。なにか一つ選んで朗読していただければ、ここにいるわたしたちは、それはもうこれ以上はないというくらいに感謝することになるでしょう」
 会長が差し出した手をさらに差し出してうながすと、詩人は額に手をあてたまま、小鳥がさえずるような柔らかな声でこのように言った。
「残念ながら、作品がありません」
「ああっ」と会長が叫んだ。「これはまた、なんというおくゆかしい方だ。恥ずかしがっておられるのですか。そのような心配は無用ですよ。みながあなたの朗読を待っているのです。ぜひともお願いします。さあ、あなたの番です。立ち上がって」
「残念ながら」と詩人は言った。「それは不可能です」
「ああっ」と会長が叫んだ。「つまり主義として朗読はなさらないわけですな。それならば話はわかります。では、差し支えなければわたしがあなたに代わってあなたの作品を朗読することにいたしましょう。どうです。それなら問題ないでしょう」
「残念ながら」と詩人は言った。「それも不可能です」
「ああっ」と会長が叫んだ。「わたしでは不適任だとお考えですね。なにしろ初対面ですからね。そうお考えになるのも無理もありません。しかし、そのような心配は無用です。わたしは初見でもたいていの詩を読みこなす能力を備えているのです」
「残念ながら」と詩人は言った。「作品がないのです」
 会長が差し出した手を引っ込めた。
「作品がないとは、どういうことです。詩集をお持ちではないのですか」
「わたしの詩集はどこにもありません」
「それはつまり、まだ本にはなっていないということですね」
「そうではありません。まだ作品がないのです」
「しかし、そんなことは信じられん。あなたは詩人でしょう」
「しかし、作品はまだないのです」
「しかし、それでは詩人とは認められない」
「しかし、わたしは詩人なのです」
「いけませんな」と会長が言った。「そんな人物を我々が詩人と認めるなどとお考えか。田舎者だと思って馬鹿にするのはやめてもらおう。これでも多少の教養と見識がある。つまりあんたは身分を偽って詩人と名乗り、我々をだましてただ酒とただ飯にありついた、というわけだ。いや、それだけではない。女たちをたぶらかして風紀を著しく紊乱した。なんということだ。あんたは詩人などではまったくない。とんでもない詐欺師の悪党だ。これ以上、一瞬たりとも同席はできない。さあ、ここから出ていってもらおうか」
 会長が詩人に指を突きつけた。詩人は椅子を引いて立ち上がった。そして居並ぶ文学愛好者たちを見回して、小鳥がさえずるような柔らかな声でこのように言った。
「しかし、わたしは詩人なのです。詩想はここにあるのです」
 詩人は前髪の下に手を差し入れ、額を押さえて目を閉じた。文学愛好者たちは一斉に立ち上がって詩人に罵声を浴びせかけた。会長もまた立ち上がり、詩人に指を突きつけてこのように言った。
「それで詩人なら誰でも詩人だ。さあ、ここから消え失せろ」
 翌朝、詩人は町から立ち去った。その後ろ姿を女たちが見送った。
 それから間もなく、首都から届けられた新聞が新たな天才詩人の誕生を知らせた。その名前は、町では知らない者がなかった。町の文学サークルでは緊急会合を開いて無教養と不見識を理由に会長の解任と除名を決定し、女たちはそれ見たことかとせせら笑い、ホテルのフロント係は詩人の署名が入った宿帳を将来の価値に備えて盗み出して、たちまち見つかって窃盗罪で逮捕された。

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2014年5月25日日曜日

町/吸血鬼


 あるとき、町に吸血鬼がやって来た。
 北風が吹きすさぶ嵐の晩に、黒い馬車の御者台で黒い外套に身を包み、手綱を握り、鞭を振るい、四頭の黒い馬を叱咤して街道から町へ乗り込んできた。群れなす雲が沸き起こるようにして満月を覆い、雷鳴が轟き、一閃する稲妻が地上をこの世ならぬ青白い光で照らすなか、吸血鬼を乗せた四頭立ての黒馬車は石を積んだ門を駆け抜け、馬どもが敷石を踏む蹄鉄の音もすさまじく、眠る者の眠りを乱して旧市街の石畳の道を突き進んだ。

 間もなく前方に荒廃した館が現われた。久しく閉ざされていた門扉はこの夜のために開け放たれ、馬車は道を走る勢いを保ってそこへ飛び込み、かつては壮麗であった玄関の前でぴたりととまった。吸血鬼は滑るようにして御者台から地上に下り立った。稲光が空にまたたいて黒馬車の影を地面に投げたが、その傍らにあるべき夜の怪物の影はない。冷たい雨が降り始めた。吸血鬼は馬車の背後にまわって観音開きの扉を開き、そこから黒檀で作られた巨大な棺を引きずり出した。そしてその棺をいかにも軽々と肩に担ぎ、玄関へ向かって進んでいった。超常の力が味方していた。玄関の重たい扉がひとりでに開いた。吸血鬼は館の入り口で足をとめて、振り返って黒い馬車に一瞥を与えた。それを合図に馬は轅から解き放たれて厩を目指し、馬車は牽く馬もなしに転がりだして勝手に車庫に収まった。吸血鬼は雨に煙る旧市街の町並みにも一瞥を与え、それから向き直って館のなかへ入っていった。重たい扉が再び動いて入り口を閉ざした。
 館は吸血鬼の住み処となった。その打ち捨てられた館を吸血鬼に売ったのは町の不動産屋だった。売却までには手紙による長いやり取りがあり、途中、従業員二名の思わぬ失踪という悲劇もあったが、この取引によって不動産屋は少なからぬ利益を獲得した。まったくよい商売だった、と不動産屋は言った。いくらかの悲劇はあったが損失はなかった、と付け加えた。館は事実上の立ち腐れで、土地を含めても二束三文の物件だった。ふつうの人間ならば買わないところだ、と不動産屋は言った。それを買うのが外国人の間抜けなところだ、と付け加えた。買い主の正体にはまったく気づいていなかった。正体に気づいて高く売りつけたのであれば、人類の正義のようなものがどこかに感じられたかもしれないが、不動産屋はただ生まれつきの鈍感さにしたがって二束三文の物件を見知らぬ相手に売りつけたのであった。契約は郵便を介しておこなわれ、代金の支払いは外国の為替でおこなわれ、権利書や鍵の受け渡しも郵便を介しておこなわれたので、不動産屋はこの客に会ったことが一度もなかった。仮に疑いを抱く能力があったとしても、疑いを抱く機会がなかった。不動産屋の認識としては買い主は外国人で伯爵で、そして少々風変わりな金持ちであり、町の人々もまたぼろもうけに喜ぶ不動産屋の口を通じて、夜の怪物の襲来ではなく外国からやってきた少々間抜けで、そして裕福な貴族の到着を知った。
 しかも独身だと思う、と不動産屋は付け加えた。この無責任な一言によって、結婚適齢期に達した二人以上の娘を持つ親たちは瞬時に落ち着きを失った。これは娘のうちのどちらかを手堅く片づける絶好の機会だと考え、一家の誰かが伯爵夫人になるのも悪いことではないと考えた。そしてやる気のない娘たちに檄を飛ばし、仕立屋を呼んで新しいドレスを注文した。吸血鬼が襲来したその週のうちに七つの夜会が計画され、夫人たちは日程を調整するために午後の茶会を繰り返した。仕立屋はいきなり忙しくなり、大量の服地を首都に注文し、あわててかき集められたお針子たちは天井が低くて空気がよどんだ部屋に押し込められて、手を動かしながらしきりと口も動かした。
「その伯爵様を見たひとはいるの」
「見たひとはいないって噂だけど」
「誰も見ていないのにこの騒ぎさ」
「いったいどんなひとなんだろう」
「そりゃ外国人だから、変な奴さ」
「そうだよ、変な奴に決まってる」
「それなら、あたしはごめんだわ」
「そう言ってやりな、伯爵様にさ」
 とりわけ熱心だったのは吸血鬼の隣に住む一家だった。間もなく五十を迎える夫は良材を産する山をいくつか保有し、野心家というわけではなかったが、製材業を堅実に営んでそれなりの財産をたくわえていた。四十を迎えるまでにまだいくらかの間がある夫人は驚くほどの野心家で、首都へ脱出して芸術家のパトロンになることを夢見ていた。夫婦には十八歳と十六歳の娘があり、どちらも母親の気性を継いで野心を抱き、自分たちの若々しい魅力に確信を抱き、選ばれるのは自分たちのうちのどちらかであり、選ばれなかった一方は必ずどこかにいる筈の伯爵の兄弟と結婚するのだと決めつけていた。一家は、正確には夫人と二人の娘は額を寄せて夜会の出し物のために頭を絞り、上の娘は伯爵の耳を魅了すべくピアノの練習に時間を費やし、下の娘は伯爵の目を魅了すべくアトリエにこもって絵を描き、娘たちが自分の才能を誇るための素材を準備する一方で、母親は招待客のリストを作り、招待状を発送した。
 異変はその週の終わりに始まった。
 製材業者の下の娘が病に倒れ、驚いた両親は医師を呼んだ。医師は娘の肌の異様な白さに驚き、昏睡状態に陥るほどの激しい衰弱にも驚き、というのは日ごろの驚くほどの血色のよさをよく知っていたからであったが、貧血症という診断を下してしばらくのあいだの静養を勧めた。それを聞いた母親は夜会の日までになんとかしてくれと医師にすがり、それを見た父親はただちに妻の身勝手をなじり、妻は振り返って夫の無理解をなじり、こうして自分が苦労しているのは夫が田舎者の小心な小金持ちで縁故に恵まれていないからだと叫び出すと、夫は夫でそういう自分はいったいどこの何様なのかと妻に叫んだ。病人の前で両親が罵り合いを始めると上の娘が割って入って母親をなだめ、自分が昼夜を分かたずに妹を看病して夜会までに回復させると約束し、医師は処方箋を残して退散した。そして姉は約束どおりに妹に付き添い、妹の寝台の脇に椅子を運び、妹に食事を与え、水を与え、髪をとかし、言葉をかけて希望を与えた。深夜、姉は重たい睡魔に襲われて眠りに落ちた。朝になって目覚めたが、妹の様子に変化はなかった。再び医師が招かれ、診察を終えた医師はただ首を振った。姉は休むことなく看病を続けた。夕刻、姉は椅子のなかでわずかにまどろみ、日没の直後にはっと目覚めてもぬけの殻となった寝台にうろたえ、自在に飛び跳ねる妹の姿を窓辺に見つけた。
 同じ頃、一人の紳士が医師の家の戸を叩いた。応対に出た医師に向かって紳士は自分の名前を告げ、医師は高名な教授の思わぬ来訪を知って驚愕し、早速なかへ招き入れて茶を勧めた。すると教授は茶の誘いを断り、自分には火急の用件があると言い、重度の貧血症に陥った若い女性を探しているが、どこかに心当たりはないかと医師に訊ねた。医師はあると答えて製材業者の娘の症状を伝え、教授はまさしくそれだと力強くうなずいて速やかに手を打つ必要があると訴えた。そこで医師は教授を案内して製材業者の家を訪れ、応対に出た一家のあるじに向かってこれは高名な教授であると紹介した。製材業者は高名な教授の思わぬ来訪を知って驚愕し、早速なかへ招き入れて茶を勧めた。教授は茶の誘いを断り、自分には火急の用件があると言い、貧血症の患者の所在を訊ねた。これを聞いた製材業者は娘なら寝室にいると答えたが、その折も折、製材業者の下の娘が姉に付き添われて訪問者たちの前に現われた。肌は蒼白のままで目の下には隈をたくわえ、見た目にも明らかに健康を損なっていたが、それでも気分はすっかりよいと言う。しかし教授は娘が自分の喉を絹のチョーカーで隠しているのに気がついて、懐から大ぶりな銀の十字架を取り出すとそれを娘に突きつけた。娘は恐怖の叫びを放ち、腕を上げて顔をかばった。そこへ母親が飛び込んできて、そんな形相で十字架を突きつけられたら生娘でなくても悲鳴を上げると言って教授に詰め寄り、教授は脅える娘に駆け寄ってチョーカーを剥ぎ、首筋に並んだ二つの噛み跡を指差して、この娘はすでに伯爵の花嫁になっているのだと説明した。姉はその場で失神した。
 教授は伯爵と呼ばれる怪物の正体を明かし、医師と製材業者を驚かした。それから教授は医師の手を借りて暴れる娘を寝室に運び、寝台にロープで縛りつけた。そして寝台のまわりに聖水をまき、寝室の窓にニンニクを飾った。最後に娘の胸に十字架を置くと、娘は嫌悪にもだえて教授に罵声を浴びせかけた。今夜が勝負だ、と教授は言った。夜のとばりがすでに町を覆っていた。教授は決然とした面持ちで窓を見据え、医師は手帳を開いてペンを走らせ、将来の需要に備えて起こった出来事を細大漏らさずに書きとめていった。製材業者が夜食を取りに階下へ下りると待ち構えていた夫人が立ち上がり、こうなったのも夫が田舎者の小心な小金持ちで縁故に恵まれていないからだと叫び始めた。そこで夫もまた妻に向かってそういう自分はいったいどこの何様なのかと叫んだが、そうしているうちに広間の時計が十二時を打った。寝室の窓の外に怪しい影が現われ、それはすぐさまひとの姿に形を整え、ニンニクに気づいて怒りを叫び、身を翻して夜の闇のなかへと飛び去っていった。医師は畏敬を込めて教授を見つめた。まだ安心はできない、と教授は静かに首を振った。娘を救うためには怪物を滅ぼさなければならなかった。
 製材業者は朝になるのを待ってひとを走らせ、製材所の従業員から特に屈強で知られた若者を呼び寄せた。女たちを家に残し、男たちは隣の館に乗り込んでいった。教授がかばんを持って先頭に立ち、医師と製材業者があとに続き、製材所の若者がしんがりを守った。館の内部は外と同様に荒廃していた。間もなく教授が地下へ下りる階段を見つけ、その先に広がる地下室の奥で黒檀の棺を見つけ出した。教授が重たい蓋を開くと、なかでは怪物が眠っていた。教授がかばんから木の杭と木槌を取り出した。製材業者がそれでなにをするのかと訊ねると、これで怪物の心臓を貫くのだと教授が答えた。するとどこからか製材業者の妻が現われ、そんなことは許さないと叫んで教授と棺のあいだに立った。教授は目をしばたたいた。娘を傷物にされたのだから、と夫人は言った。その償いをさせなければならない、そう続けて鋭い目つきで夫をにらんだ。製材業者は一瞬躊躇し、それでもすぐに意を決して若者に小さくうなずいた。若者は懐から棍棒を取り出し、それで力いっぱい教授の頭を殴りつけた。教授は昏倒して転がった。ざまあみやがれ、と若者が言った。医師は震える声で抗議したが、分け前を約束されて口を閉ざした。若者は大釘と金槌を使って棺の蓋を棺に打ちつけ、製材業者とその妻は棺からかすかに漏れるひどく狼狽した声を相手に交渉を始めた。交渉は翌日の昼まで続き、果敢に抵抗はしたものの、吸血鬼は最終的にすべての財産を譲渡することを承諾した。館の地下室に公証人が呼ばれ、書式を整えた書類が作られ、製材業者は棺に小さな穴を開けて、そこから書類とペンを送り込んだ。戻されてきた書類のサインを確かめるために教授が起こされ、確認を終えた教授はまた殴り倒され、ざまあみやがれ、と若者が言い、そうしてすべてのことが滞りなく完了すると製材業者は再び製材所にひとを走らせ、新たに呼び寄せられた七人は先の若者と力をあわせて棺を館の外へ運び出した。棺が午後の陽射しにさらされた。男たちは棺を地面に置いて釘抜きを取り出し、打ち込まれた大釘を次々に引き抜いていった。棺のなかで夜の怪物が激しく抗議した。やがて最後の釘が引き抜かれ、吸血鬼はすさまじい声で嘆きを叫び、男たちの手が蓋を開けた。怪物は昼の光を浴びて灰となった。かくして悪は滅ぼされた、と製材業者の妻が言った。

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2014年5月24日土曜日

町/魚


 あるとき、町に魚がやって来た。
 鯉によく似た魚だった。ただし体長は四メートルを超えていて、空気中でも呼吸ができて、陸上を不思議な方法で移動した。この魚は人間を好んだ。
 最初に食われたのは帽子屋の女房だった。日没の後、帽子屋が店を閉めて裏手にある自宅へ戻ってみると、台所のほうから女房の声が聞こえてきた。いつもの小言だろうと思って帽子屋は曖昧な返事を返したが、そのうちに奇妙なことに気がついた。小言にしては途切れがちだし、声もひどく苦しそうだ。なにかがあったのかもしれない。いやな予感を感じたが、それでも習性に促されて帽子屋はまず手に持っていた伝票を所定の抽出しにしまい込み、それから小さな居間を横切って台所へ通じる扉を開いた。恐ろしく大きな魚の姿が目に飛び込んできた。それは青黒い鱗を光らせて台所の床一杯に横たわり、見ている前で太ったからだをくねらせた。帽子屋は驚いて二歩退いた。驚きながらも、女房がまた得体の知れないことをしでかしたのだと考えた。帽子屋は女房の名を呼び、激しい口調で女房を叱った。すると魚が身をくねらせて扇のような形の鰭を揺らし、と同時にどこからか、女房の消え入りそうな声が聞こえた。帽子屋は一瞬躊躇した後、勇を奮って台所へ踏み込んだ。急いで見回したが、女房の姿はどこにもない。だが帽子屋はすぐに見つけ出した。魚の鼻先に髪を乱した女房の頭とぐったりと伸びた腕が見えた。仰向けになった状態で首から下は魚の口のなかにもぐり込んでいた。帽子屋は女房の名を呼び、再び激しい口調で女房を叱った。馬鹿なことをやめてすぐに出てこい、と叫んだが、女房は頬を涙で濡らして助けを求めた。魚がおくびを洩らすような具合に口を開けて、また閉じた。女房の頭がずるりと動いてなかへ消えた。残された白い手が震えている。帽子屋は悲鳴を上げて前へ飛び出し、魚の濡れた鼻先に滑り込むと口から突き出た手を握った。渾身の力で引っ張ったが、万力で締めつけられたかのように手はぴくりとも動かない。魚がゆっくりと口を動かした。すさまじい力が帽子屋を引き寄せ、帽子屋が恐怖に負けて手を放すと、女房の手は魚の口に吸い込まれた。帽子屋は息を呑んだ。頭を抱え、顔を覆い、震える足で壁まで退き、そこで腰を落として魚を見つめた。女房を呑み込んだ口は固く閉ざされ、うつろな目玉はじっとどこかを見据えていた。魚が尾びれを左右に大きく振り動かした。巨体が動き、魚は床を這って帽子屋に向かって突進した。帽子屋が悲鳴を上げて身を縮めると、巨大な魚はそのすぐ脇へ鼻を突っ込み、台所の壁を通り抜けて消えていった。
 知らせを受けた警察署長は新任の警部補に捜査を命じた。首都から着任して間もないこの警部補は探偵としてはすこぶる有能であったが、怪現象の存在を容易に信じるような人物ではなかった。

 謎を解く鍵は帳簿に隠されている筈です、と警部補は言った。警部補は帽子屋を訪れて帳簿を調べ、そこにいくつもの謎の記号を発見すると帽子屋を捕えて尋問した。それは仕入れ先です、と帽子屋は答えた。絹やラシャやリボンやボール紙の仕入れ先を意味する記号です、と説明したが、警部補を納得させることはできなかった。本当の意味を教えてください、と警部補は言った。いずれは話すことになるのです、お互いの時間を無駄にするのはやめませんか。警官たちは警部補の命令で家捜しを進め、所定の抽出しから怪しい伝票の束を発見した。そこにも謎めいた記号が山ほども記されていた。お得意様です、と帽子屋は説明した。それだけではないでしょう、と警部補は言った。どこかに秘密の意味が隠されているのではありませんか。
 警察が帽子屋の家で捜査を進めるあいだに二人目が食われた。肉屋の息子だった。解体作業場で牛を分けているところを背後から襲われ、母親が見ている前ですすり込まれた。息子は解体用の鋸を握っていたが、突っ伏した状態でじっとりとした口にくわえ込まれたので反撃を加える機会はなかった。半狂乱になった母親は悲鳴を上げて亭主を呼び、亭主は泣きわめく女房の頬を何度も叩いてどうにか事実の輪郭を掴み、すぐさま走って警察に知らせた。警察署長は事件の解明のために警部補を送った。警部補はただちに帳簿の調査に取りかかり、無数の記号を発見した。それはリブとかフィレとかロースとかって意味なんで、と肉屋の亭主は説明したが、警部補を納得させることはできなかった。本当の意味を教えてください、と警部補は言った。いずれは話すことになるのです、お互いの時間を無駄にするのはやめませんか。
 警察が帽子屋と肉屋で捜査を進め、警部補が二つの家のあいだを慌ただしく行き来するあいだに三人目が食われた。今度は中学校の教師だった。自宅で妻と食事をしているところを背後から襲われ、前菜と一緒にすすり込まれた。知らせを受けた警察署長は事件の解明のために警部補を送った。警部補は教師の妻に帳簿の提出を要求し、帳簿はないと言われて代わりに教師の個人的な棚を開き、そこに隠されていた手紙の束を見つけて調べ始めた。教師は首都にいる何者かと頻繁に通信していた。並大抵の量ではなかった。なにかがおこなわれていたのに違いなかった。相手は何者ですか、と警部補は訊ねた。夫の学生時代の友人です、と妻が言った。手紙には時候の挨拶と近況の報告、様々な分野に関する蘊蓄が記されていた。ただの手紙です、と妻はいった。そうでしょうね、と警部補はうなずいた。警部補は手紙に隠された秘密のキーワードを探していた。手紙が暗号で書かれていることは間違いなかった。馬鹿げた時候の挨拶や俗物じみた蘊蓄の背後に恐るべき事件の謎を解く鍵が隠されている筈だった。解読のためにはキーワードを必要とした。キーワードはなんですか、と警部補は訊ねた。意味がわかりません、と教師の妻は首を振った。暗号を解くキーワードです、と警部補は言った。わかりません、と教師の妻は首を振った。
 警部補が疑いを深めているあいだに四人目が食われた。場末の飲み屋で片隅で、一人で飲んだくれていた男がすすり込まれた。給仕に向かってもっと酒を持ってこいと叫んだところへ、魚が壁から現われて男を頭から丸呑みにした。居合わせた百人もの人間がその光景を目撃した。知らせを受けた警察署長は警部補を送った。警部補は飲み屋を訪れて帳簿を調べ、そうしているうちに、ふとあることに思い至って警察に戻った。
「わたしのことを嫌っていますね」と警部補が訊ねた。
「いや、そんなことはありません」と署長が答えた。
 署長と警部補が見つめあっているあいだに魚は市場に出現した。騒ぎが起こり、逃げ遅れた老人が哀れな悲鳴とともにすすり込まれた。
「もはや座視していることは許されません」と署長が言った。
「座視していたことなど一度もないのです」と警部補が言った。
 警察が行動を開始した。警官たちに銃と弾薬が支給され、川で漁を営む漁師たちが呼び寄せられた。銃を持った警官たちが道を見張り、網とヤスを構えた漁師たちが要所要所に立って壁をにらんだ。町の者たちは恐怖に震えて家にこもり、家族のある者は家族を集めて手を取りあい、家族のない者は友を呼び、友のない者は自分自身の手を握り、冷たい汗に浸りながら耳をそばだて、あらゆる気配に身を固くした。多くの者が魚の大きさを耳にして、あるいは目にして狭い場所なら安全であると考えた。ある者は便所に隠れて戸を閉ざした。ある者は階段の下の物置に隠れ、ある者は戸棚の奥に身をひそめた。あるところでは一つの棚に五人が隠れ、あるところでは一つの物置に七人が隠れた。人々は日常から追い払われ、忍耐が試され、恋が生れ、恋が破れ、ときには姦通がおこなわれた。ある家では万事において合理的なことで知られた男が自分を安楽椅子に縛りつけた。そうしておけば、いかに巨大な魚でも一息に呑み込むことは不可能であるし、危機が去るまで安楽に過ごすことができると考えた。そして家族にもそうするようにと命じたが、妻と子供は耳をふさいで浴室に隠れた。魚は壁を抜けてこの男の前に姿を現わし、足のほうから噛み裂いて、時間をかけてゆっくりとすすった。男の悲鳴は窓を震わせ、じっと息をひそめる町を駆け抜けた。警官たちの足音が石畳の道にこだました。
 扉を開けろ、と扉を叩いて警部補が叫んだ。だが家のなかからは返答がなく、合理主義者のすさまじい悲鳴だけが聞こえてきた。扉を破れ、と警部補が叫んだ。警官たちが玄関に向かって突進し、分厚い扉に体当たりを加えた。扉はびくともしなかった。鍵を撃て、と警部補が叫んだ。一人の警官が拳銃を抜いて扉に近づき、鍵穴を狙って発砲した。銃弾はがっちりとした錠を差し穴に残して鍵の仕組みだけを破壊した。扉は押しても引いても動かないばかりか、鍵を使って開けることもできなくなった。窓だ、窓を破れ、と警部補が叫んだ。警官たちが窓に群がった。ところが窓はどれも頑丈な鋳鉄製の鎧戸で覆われ、高いところにあって近づく者の接近を阻み、銃弾を端から撥ね飛ばした。これはとても頑丈な家です、と一人の警官が言った。家を囲め、と警部補が叫んだ。待っていれば出てくる筈だ、出てきたところを取り押さえるのだ。警官たちは銃を構えて建物を囲み、網とヤスを持った漁師たちが包囲の輪に加わった。
 悲鳴が途絶えた。来るぞ、と誰かが叫び、警部補がさっと手を上げて声を制した。男たちは固唾を呑んで前にそびえる壁をにらんだ。なにかが動く音が聞こえた。壁の向こうで重たいなにかが突進を始めた。そしてそれが現われた。壁の一点が水面が揺らぐようにしてにじみ、黒ずんだその染みを破って魚の鼻先が現われた。口が現われ、目が現われ、次第に広がる染みのなかから魚の頭があらわになり、前鰭が現われ、背鰭が現われ、魚が穴から抜け出ようと大きくもがいたその瞬間、警部補の声が撃てと叫んだ。警官たちが一斉に発砲した。漁師はヤスを繰り出した。発射された弾丸は魚の巨体をえぐって青黒い鱗の破片を散らし、ヤスは鰭を破り、目玉の一方を粉砕した。魚は力を失って頭を垂れた。間もなく息絶えて最後の犠牲者の肉片を吐いた。
 恐怖は去った。知らせはすぐに町を走り、多くの見物人が壁の前に詰めかけた。壁に埋まったままの魚の半身を取り出すための作業が始まり、警官たちがつるはしを握った。そこへ建物の大家が現われた。壁に穴を開けたら覚悟しろ、と真っ赤な顔でわめくので、警官たちはつるはしを捨てて鋸を取り寄せ、まず外に出ている頭の部分を切り落とし、それから家のなかへまわって尾の部分を切り落とした。魚の姿は消えてなくなり、壁には壁であって壁でなく、魚であって魚ではない不気味な赤黒い染みが残された。染みはいくらもしないで腐臭を放ち、腐臭は壁を伝って建物を覆い、蝿を引き寄せて蛆を養い、そしてそこに住む者はいなくなった。

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2014年5月23日金曜日

町/女優


 あるとき、町に女優がやってきた。
 夏の陽射しに焼かれた街道を豪華な四頭立ての四輪馬車を仕立ててやってきて、レースの手袋に包まれた手を優雅に振って、口を開けて馬車を見上げる田舎者の善男善女に挨拶を送った。女優は繻子を張った豪華な座席におさまっていた。豪華に飾り立てた帽子をかぶり、黄色が目に鮮やかな夏物のドレスを身にまとい、美しく整った口元に涼しげな笑みを浮かべていた。女優が車上から愛想をふりまく一方で、御者台ではお仕着せを着た御者が陰気な顔つきで手綱を握り、その隣ではお仕着せを着た従僕が陰気な目つきで進路をにらみ、沿道に立ち並ぶ人々がただ驚いて見守るなかを、豪華な馬車は街道の埃を蹴立てて町の門をくぐっていった。
 女優の名前を知らない者は一人もなかった。一週間遅れで首都から届く新聞にはその名前がどこかに一度は登場した。多くの場合は社交欄で、文化欄であることは滅多になかった。文化欄に登場すれば、まず間違いなく酷評されていた。社交欄であるとすれば、慶事や顕彰に関する記事ではなくて、醜聞を伝える記事であった。
 女優が到着したその日に届けられた新聞にも、女優の名前が記されていた。一週間遅れのその記事によれば、羽振りのよさで聞こえたある資産家が親の代からたくわえた資産を女優のために使い尽くして、拳銃で自分の頭を撃ち抜いていた。即死だった。資産家は女優のために豪華に飾り立てた別荘を田舎に造り、女優のために別荘の内部を豪華に飾り立てた家具で満たし、女優自身を高価な衣装で豪華に飾った。当の女優は豪華な別荘を一度だけ訪ね、悪趣味ね、と感想を漏らして愛らしい鼻にしわを寄せ、一晩泊まって首都に戻った。女優は首都にある豪華な屋敷で暮らしていた。広大な庭に囲まれ、贅を尽くしたその屋敷は羽振りのよさで聞こえた別の資産家から贈られたもので、その資産家も女優のために財産をすっかり使い果たして、しばらく前に拳銃で自分の頭を撃ち抜いていた。あたりどころが悪かったので、死ぬまでに三日三晩苦しまなければならなかった。
 女優は男たちを惹きつけ、男たちに貢がせた。女優が歩いた後には男たちが死体となって転がった。あるいは紳士としての名誉を失い、立つべき地位を失った。五人の資産家が自分で自分の頭を撃ち抜き、三人が債務者監獄に収用され、一人は債務を逃れてこの地上から足跡を断った。一人が消えると別の一人がすぐに現われ、別の一人がつぶされるとまた別の一人が現われた。つぶされた男の家族は路頭に迷った。加えて若者たちは女優に心を狂わせて恋人を裏切り、少年たちは女優のスカートにすがって勉学を忘れた。妻たちは女優を恨み、母親たちは女優を憎み、娘たちは暗い心で復讐を誓った。女たちは女優を蔑み、声をそろえてこう罵った。売女。そして男たちはそれでも女優に夢中になり、花の蜜に惹かれる虫のように夜ごとに花束を抱えて楽屋にかよった。
 女優は裸体を売り物にしていた。
 デビューとなった舞台では豊満なヴィーナスを演じてハリボテの巨大な貝のなかから現われた。からだをぴたりと包む肌色の肉じゅばんを身につけていたが、予想だにしない光景に観客はすっかり度肝を抜かれた。
 二番目の舞台でも女優はヴィーナスを演じて、細いロープに吊られて空から地上へと舞い降りた。肌が透ける薄物だけをまとった姿で、しかも肉じゅばんをつけていなかったので、観客はそろって度肝を抜かれた。
 三番目の舞台でも女優はヴィーナスを演じて、今度はハリボテの雲に乗って現われた。このときはドレスのようなものをまとっていたが、腰の上まである大胆なスリットに気がついて観客は残らず度肝を抜かれた。
 批評家たちは女優の肉体ではなくて女優の演技に注目し、新聞や雑誌の文化欄でこれ以上はないというほどこきおろした。そうすることが正義だと言う者もいた。女優は劇評を読んで怒りを叫び、悲しみに泣いた。
 続く舞台で女優はマクベス夫人の役を選んだ。初日の入りはよかったが、二日目からは悪くなった。三日目には興行主が苦情を言ったが、女優は演技派を目指すのだと宣言して聞く耳をまったく持たなかった。だが批評家たちは女優の向上心をあざ笑い、これ以上はないというほどの酷評を与えた。女優は批評家たちをこきおろし、四日目に演出家が演出を変えた。五日目からはマクベス夫人が肌色の肉じゅばんだけで夜中にうろつくようになった。六日目には評判が伝わり、七日目には観客が戻った。
 女優の名前を知らない者はなかったが、女優が町に現われた理由を知る者はなかった。女優を乗せた豪華な馬車は古い石畳の道を突き進み、市場をかすめ、教会の前の広場を抜け、旧市街のはずれを走る川沿いの道を北上した。馬車は孤児院の前でとまった。灰色をした陰気な石造りの建物で、街路に面した窓はなかった。女優は馬車から降り立って、孤児院の玄関の呼び鈴を鳴らした。
 女優が孤児院にいた時間は三十分に満たない。孤児院から出てきた女優は再び馬車に乗り込んだ。馬車は来たばかりの道を駆け戻り、もうもうと砂埃を蹴立てて街道を彼方へと走り去った。路上に立つ多くの者がその光景を目撃した。
 孤児院に莫大な額の寄付があったことを、町の人々は一週間遅れの新聞で知った。記事が伝えるところによれば、女優は大きな心境の変化を迎えていた。いままでは芸術に身を捧げていたが、いまでは慈善事業に重大な関心を抱き、貧しい人々に救いの手を差し伸べることが自分に与えられた使命であると感じていた。そしてその記念すべき第一歩として女優は首都から遠く離れた辺鄙な町を訪問し、貧しげな町の片隅にたたずむ貧しげな孤児院にささやかな善をほどこしたのだった。記事は社交欄に載っていたが、なぜか醜聞として扱われていた。記事の最後にはこう書かれていた。なにも知らない田舎者が、女優を女神のように崇めている様子が目に浮かぶ。
 これは町の一大事だった。座視することは許されなかった。商工会議所の会頭と銀行の頭取は申し合わせて町長を自宅に訪問した。
「これは侮辱だ」と商工会議所の会頭が叫んだ。
「まったくです」と頭取がうなずいた。
「どうか冷静に」と町長が言った。
「これが冷静でいられるものか」と商工会議所の会頭が叫んだ。「我々を田舎者呼ばわりにしているのだ。この町を、取るに足りない田舎町であるかのように言っているのだ」
「田舎町なのは事実ですよ」と町長が言った。
「断固として抗議すべきだ」と商工会議所の会頭が言った。「この町には文化がある。文学サークルだって存在する。首都に支店を置いている立派な商店が、この町には五軒も存在する。そういう立派な事実を新聞に知らせて、断固として抗議すべきだ」
「すぐにも抗議すべきです」と銀行の頭取がうなずいた。「わたしの銀行の融資残高のうち、半分は首都への投資にあてられているのです。ところが新聞はそんなことすら把握していない。それなら事実を知らせて反省の機会を与えなければなりません」
「お怒りはごもっともです」と町長が言った。「ただ、それよりも」
「それよりも、とはどういうことだ」と商工会議所の会頭が叫んだ。
「本当に、その女優は町へやって来たのですか」
「そういう噂です」と銀行の頭取がうなずいた。
「そんなことは、どうでもいいのだ」と商工会議所の会頭が叫んだ。「評判の悪い女優が町へ来たかどうか、などは問題ではない。問題は、この町の評判なのだ」
「いや、これは重大な問題です」と町長が言った。「噂が事実ならば、女優は二十日ほど前に町に現われたことになります。そして新聞の記事が事実ならば、女優は孤児院に多額の寄付金を置いていった、ということになります」
「そうなりますね」と銀行の頭取がうなずいた。
「それがどうした」と商工会議所の会頭が叫んだ。
「わたしの記憶では、お二人は孤児院の理事をなさっているはずです。そしてこのわたしは理事長の任にあります。それなのに、なぜわたしたちは、いまにいたるまで、孤児院に寄付があったことを知らなかったのですか」
「ああ、たしかに奇妙です」と銀行の頭取がうなずいた。
「なるほど。これは奇妙だ」と商工会議所の会頭もうなずいた。
「わたしたちは、院長に会わなければなりません」
 町長は商工会議所の会頭と銀行の頭取をともなって、町の北のはずれにある孤児院を訪れた。呼び鈴を鳴らして現われたのは、脅えたような顔の老女だった。老女は町の名士からなる一行を見てすくみ上がり、院長への取り次ぎを頼まれてまたすくみ上がった。院長先生は、と震える声で老女は言った。ご不在です。どこへ行ったのですか、と町長が訊ねた。存じません、と老女は答えた。いつ帰ってくるのですか、と町長が訊ねた。存じません、と老女は答えた。知らないのです、と震える声で繰り返して目に涙をにじませた。
「今日、院長に会っていますか」
「今日はまだ会っておりません」
「では、昨日は会ったのですか」
「いえ、昨日も会っていません」
「では、一昨日はどうでしたか」
「一昨日も会っていないのです」
「いったい、いつから会っていないのだ」と商工会議所の会頭が叫んだ。
「それが」と震える声で老女が答えた。「二週間ほど前から」
 老女の目から涙があふれた。いったい自分はどうすればいいのか、いったい孤児院はどうなるのか、院長はどこへいってしまったのか、そうしたことをうわ言のようにつぶやきながら町長の胸にすがるので、町長は老女の背中を軽く叩き、案ずることはないと言って慰めた。
「さては逃げたな」と商工会議所の会頭が言った。
「寄付金と一緒に」と銀行の頭取がうなずいた。
「院長の自宅へ行ってみましょう」と町長が言った。
 町長は商工会議所の会頭と銀行の頭取をともなって、旧市街のはずれにある院長のささやかな自宅を訪れた。そこでは院長夫人が幼い二人の息子とともに、不安を抱いて待ち受けていた。
「ご主人はどちらに」と町長が訊ねた。
「わからないのです」と震える声で夫人が答えた。
「最後に見たのは、いつですか」
「二週間前です。しばらく悩んでいたようでしたが、いきなり旅支度をしてどこかへ出かけて、それから戻ってまいりません。必ず迎えをよこすと申しておりましたが、まだ連絡がないのです。いったいなにがあったのですか。主人はなにか悪いことをしたのですか。わたしは、わたしたちは、この子供たちはどうなるのですか」
 夫人の目から涙があふれた。子供たちも泣き始めた。町長は夫人の手を取り、案ずることはないと言って慰めた。それから町長は商工会議所の会頭と銀行の頭取をともなって警察を訪れ、署長に横領事件の発生を知らせた。
「そうすると、発端は例の女優ですか」と署長が訊ねた。
「そう言えば、そうかもしれませんね」と町長が言った。
「いつかはこんなことが起こるだろうと思っていました」
 署長はなぜか興奮していた。
 翌日、事件の詳細を伝える記事が町の新聞の一面を飾った。その記事が伝えるところによれば、院長は不法行為によって町を汚名から救っていた。町の住民は院長のおかげで女優を女神のように崇める災難をまぬかれた。町の住民はすでにすべてを知っており、なにも知らない田舎者はもはやここには存在しない。

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2014年5月22日木曜日

町/死者


 その夜、わたしは遅い夕食に招かれて、新しい住宅街にある友人の家を訪問した。そして美貌の夫人が自ら腕を振るったという赤カブのスープとヒツジ肉の串焼きを誉め、飽くことを知らずにパンを食べてワインを飲み、食後には暖炉の前で葉巻とマディラ酒を楽しんだ。とりわけ最後の二点に関して言えば、わたしとしては信じられないようなぜいたくだった。葉巻を短くなるまでゆっくりと吸い、マディラ酒の三杯目のおかわりをしたところで、友人の美貌の妻が居間のドアの陰にたたずんで、ひどく恨めしそうな目つきで夫をにらんでいるのに気がついた。その様子をわたしが黙って横目でうかがっていると、しばらく経って、先に休むわ、と夫人が言った。友人は驚いたような表情を顔に浮かべて壁の時計に目を走らせ、それからグラスを置いて立ち上がると、妻に走り寄って手を取った。そして頬に接吻し、手を取ったままわたしのほうを振り向くと、すまないが妻は先に休ませてもらう、と言って笑みを浮かべた。わたしはグラスを置いて立ち上がり、頭を下げて、すばらしい夕食の礼を言った。一瞬、夫人は傷ついたような顔をした。自分の手を夫の手からそっと抜き取り、足音も立てずに隣室の暗がりの奥へと消えていった。友人は、どこか名残惜しそうな様子で自分で自分の手を取りながら、さて、どうしようか、とわたしに訊ねた。夫人のことではなくて、わたしたちのことを言っているのだと察しはついた。わたしはチョッキのポケットから懐中時計を引っ張り出して、その文字盤に目をやってから壁の時計と見比べた。午前一時をまわっていた。いつものように、わたしの時計は遅れていた。そろそろ失礼しよう、とわたしは言った。友人はドアの陰に顔を半分隠して短くうなずき、楽しい晩だった、と小声で言った。
 もしかしたら、訪問は失敗だったのかもしれない。もしかしたら、夫人はわたしを嫌ったかもしれない。わたしが退屈させたのだろうか。それとも長居をしすぎたのだろうか。しかし客に速やかに帰ってほしいと思うなら、二杯目のコーヒーの後に葉巻やマディラ酒を出すべきではない。それではまるで長居をしてくれと頼んでいるようなものだ。いや、葉巻とマディラ酒を勧めたのは夫人ではなくてその夫だが、もし夫がそうする前に夫人がすかさず三杯目のコーヒーを勧めていれば、常識のある人間ならそこで丁寧に断って帰る筈だ。三杯目のマディラ酒を断るためには欲望と戦わなければならないが、三杯目のコーヒーを断るためには常識にしたがうだけで事足りる。だから訪問先で三杯目のコーヒーを断らない人間は常識に背いているわけであり、したがって非常識の謗りを免れない。わたしは平然とひとを退屈させる人間だが、一応の常識は心得ているつもりだし、そしてこれは請け合ってもかまわないが、好んで長居をする種類の人間ではない。つまり退屈させたのだとすれば、それはわたしの落ち度に違いないが、そうでないなら、それはわたしの落ち度ではない。
 外では満月が輝いていた。空はよく晴れていて、いくらかの風があり、気温はかなり低かった。わたしは大急ぎでマフラーを首に巻き付け、コートのポケットに手を突っ込み、自分の部屋を目指して歩き始めた。路上には一つの人影もなく、街灯の黄ばんだ光がところどころで灰色の石畳を照らしていた。左右に並ぶこざっぱりとした家々はどれも窓をしっかりと閉ざし、戸口の前の植え込みでは潅木の黒い影が寝そべっていた。あたりは静寂に包まれて、ただわたしの靴音だけが冷たく響いて路面を渡った。
 自分の足音に気を取られ、残響に夢中で耳を傾けているうちに、どこかで道を間違えたらしい。新しい住宅街に連なる家はそこに住む住人同様、個性に乏しく、どの家もこの家も区別がなく、一つの街路は別の街路とよく似ていて、その没個性ぶりに埋没したそこの住人でもない限り、道を見分けるのは昼間でも難しい。いや、住人にしてからが、しょっちゅう道に迷っているくらいで、夜になればなおさらだし、もちろん酔っていればなお難しくなる。新しい住宅街から旧市街へ戻る道は二つあり、わたしは石畳で舗装された南側の新しい道を選んだつもりだったが、気がついたときにはむき出しの地面に無数のあばたをこしらえた北側の古い道に入り込んでいた。あばたのほかに、少なくとも百年分のわだちが刻まれ、大小の石が無秩序に転がり、街灯がまったくなかったので月の明かりがあっても足元が危ない。どうやら足元の危うさにすっかり気を取られていて、そのせいで石畳に響く足音が聞こえなくなっていたことに気づかなかった。これはわたしとしては珍しいことではまったくない。見渡せば左右にあったこざっぱりとした家々はどこかへ消えて、気味の悪いあばら屋が並んでいる。どこからともなく悪臭が漂い、あばら屋の窓に人影が揺らぎ、腐った板塀の隙間では疑いに満ちた目がまたたき、いったいなにを喋っているのか怪しい囁きが夜のしじまを駆け抜ける。いささか不気味ではあったが、しかし、そこに住んでいたのは正体の知れない無頼の民でもいかがわしい浮浪の民でもなく、れっきとした町の住民であり、廃屋も同然のあばら屋の家賃を家主に払い、食料品店にツケを溜め、旧市街で半端仕事をこなしてわずかばかりの小銭を稼ぎ、稼いだ金は端から飲み屋に運ぶ程度の能しかない、つまり頭が弱くて貧しいけれど善良な人間ばかりだった。試したことはなかったが、叩けば簡単に死ぬと聞いた。
 引き返すには遅かったので、旧市街までそのまま突っ切ることにした。晴れていたのが幸いだった。北の道は雨が降ると泥沼と化して、誤って深みにはまり込めば、まず自力では脱出できなかった。わたしは両手を前に突き出して危険に備え、危うい足元に注意しながら進んでいった。靴は乾いた泥を踏み、足音は地面ににじみ込んだ。悪臭の流れをくぐるあいだに酔っ払いとすれ違った。ほとんど前後不覚の状態で、見ている前で路傍に崩れるようにして横たわり、大の字になって大きないびきをかき始めた。同じようにして寝ている二人の男と、荒い息をして眠る一人の若い女をほかに見かけた。わたしは好奇心から、女の脚を爪先でつついた。女は音を立てて息を呑み、うろたえながら目を開いてあたりを見回し、わたしを見つけてすさまじい目つきでにらみつけるとショールをまといながら起き上がり、走り出してすばやく板塀の陰に逃げ込んだ。わたしはその様子を眺めながら、声を立てて笑っていた。
 しばらくすると前方に旧市街の黒ずんだ輪郭が見えてきた。旧市街へと渡る古びた石造りの橋を、左右合わせて八つの街灯が黄ばんだ光で照らしていた。橋も街灯も淡い靄に包まれている。突然、足は再び石畳を踏み、靴の踵はまた音を響かせた。わたしは橋を渡り始めた。渡るうちに、流れる川の水の冷たさが石を伝って這い上がった。その冷たさに思わず震えて、先を急いで靄を揺らした。
 ふと見ると、わたしの前をいびつな黒い影が歩いていた。最初はリウマチに苦しんでいる老人かと思ったが、よく見ると、それは老人ではなかった。川から昇る冷気を分けて、ひどい腐臭が漂ってきた。それはひとの形をしていたが、ひとがするように歩いてはいなかった。曲がった背中の先でねじれた首を重そうに垂らし、なにかを求めるかのように前に向かって手を差し出し、一歩一歩、ゆっくりと足を引きずりながら旧市街を目指して進んでいた。わたしは好奇心に駆られてその影に近づき、横目で顔を盗み見た。腐っていた。目玉が一つ、視神経を引きずって頬を伝い、頬の皮膚は裂けて短冊状になり、膨れ上がった鉛色の腐肉が緑色の汁をしたたらせていた。耳はただの穴となり、鼻は黒く干からびた花弁の束となり、下顎は皮膚も肉も失って茶色くなった歯を並べていた。
 死者だった。死者がわたしの隣を歩いていた。噂は前に聞いていたが、実際に見るのは初めてだった。それは恐ろしいほどに醜悪で、しかも自然に反していた。それは畏れを知らない地獄からの使者だった。死者が歩く理由を解き明かした者はいない。アフリカからやって来た呪術師の仕業だと言う者がいたが、その説明を信じた者は一人もない。外宇宙で発生した謎の放射線の影響だと言う者がいたが、その説明を信じた者も一人もない。すべての死者が起き上がって歩き始めたわけではなかった。旧市街と新しい住宅街を結ぶ北側の道で、食料品店にツケを残して死んだ者が死後に起き上がって歩き始めた。そして昼のあいだは腐った板塀の陰に隠れ、夜になると橋を渡って飲み屋などが集まるいかがわしい一帯にもぐり込んだ。そこでひとに襲いかかり、新鮮な肉を食らうのだという。警察による死者への対策はいつも後手にまわり、飲み屋の客はそれを司法組織の重大な怠慢だと考えていたが、食料品店の経営者たちは歩く死者も警察の怠慢も、すべてが自分たちへの当てつけだと考えていた。
 死者が橋を渡りきった。わたしは好奇心に負けて死者のあとをつけていった。飲み屋などが集まるいかがわしい一帯を目指して、大儀そうに足を引きずりながら進んでいく。路上にはまだいくらかの往来があった。そのほとんどは酔っ払いで、死者に気づくと誰もが悲鳴を上げて逃げていった。踏みとどまって戦おうとする者が一人もないのが、実を言えば少々意外だった。酔った勢いを借りて、誰かがなにかを始めるのではないかと期待していた。残念ながら、期待していたような場面には一度も出会えなかった。
 死者は暗い裏通りへ入っていった。とある汚らしい飲み屋の入り口の脇で、一人の若者がからだを折り曲げて苦しんでいた。胃の中身も胃液も吐き尽くして、それでもまだ吐こうと魚のように口を動かし、そうしながら目の前の路面を決死の形相で見つめていた。死者はこの若者に向かって、ゆっくりと背後から近づいていった。若者はまったく気づかなかった。仲間から見捨てられたのだろう。まわりにはほかに誰もいなかった。若者がようやく新しい吐き気の波をつかまえて、背中と喉を震わせながら半透明の液体を戻していると、そこへ死者が襲いかかった。わたしはその様子を眺めながら、これが死に方だとするならば、これ以上に悪い死に方はないのではないかと考えた。
 そんなものを最後まで見るつもりはなかったので、わたしはまっすぐ部屋へ帰った。部屋はすっかり冷えきっていた。すぐに寝巻きに着替えて床に入り、床のなかで寝酒をあおり、間もなく毛布の温もりに包まれて安らかな眠りに落ちていった。

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2014年5月21日水曜日

町/ヒト


 あるとき、町にヒトがやって来た。
 どこから来たのかは、誰も知らない。すべてのヒトがそうであるように、そのヒトもまた疑い深そうな目をしていた。そして坊主刈りの頭にいくつものこぶをこしらえ、痩せたからだに継ぎの当たったぼろ服をまとい、古タイヤから作ったとおぼしき奇妙な靴に足を押し込み、肌は陽に灼け、表情は暗く、汚れて黒ずんだ額には深く刻まれたしわがあった。
 ヒトは町役場の前の石段に腰を下ろし、膝に肘を預けてじっと地面を見下ろしていた。道を行く者はヒトに気づき、ある者は汚らわしいものでも見たかのように顔を背け、またある者はヒトがいると叫んで指差した。二人連れで現われてヒトの前で足をとめ、仲間の脇腹を肘で小突いて意味あり気に笑う者もいた。
 役場が開く時間になるとヒトは大儀そうに腰を上げて、ゆっくりと階段を登っていった。一歩ごとに奇妙な靴が滑稽とも聞こえる音を立てた。扉をわずかに押し開けて、なかをそっと覗き込んだ。部屋の真ん中を横切る重そうなカウンターの向こう側に、一人のひどく小柄な男がズボンのポケットに手を突っ込んで所在なげにたたずんでいた。まばらな髪を頭蓋の上に平たくなでつけ、丸い縁の眼鏡をかけ、丸みを帯びた小さな鼻の下に小さな口ひげを生やしていた。ヒトは肩で扉を押して、役場のなかへ入っていった。すり減った板張りの床を靴が踏み、またしても奇妙な音を立てた。その音を聞いて小柄な男が小鳥かなにかのように首を動かし、強い近視の目でヒトを見つめた。
「なにか用かね?」
 そう訊ねてから眉をしかめ、指先で慎重に眼鏡を押し上げ、相手がヒトだということを知って目を丸くして、自分の失態に舌打ちをした。ヒトに質問する者はいない。そのあいだにヒトはカウンターまで進み、そこで足をとめるとこのように言った。
「清掃員の仕事に空きがあると聞いたのですが」
「いや、ない」と小柄な男が首を振った。調べようともしなかった。
「そうですか」
 ヒトは小さく肩をすくめて、出口に向かって歩き始めた。すると小柄な男は手を二度叩き、ヒトが音を聞いて振り返ると、奥に向かって顎をしゃくった。
 町役場の中庭には禁書が山積みにされていた。図書館を作れるほどの大量の本が整理も整頓もされないまま、雨ざらしになって水を吸い、崩れた紙の山となっていた。古典の立派な全集も、自由を訴える薄っぺらなパンフレットも区別がない。
「この本を」と小柄な男が指差した。「残らず警察署の中庭へ運べ」
「これは、清掃員の仕事ですか?」
「いや、違う」
 小柄な男は首を振り、建物のなかへ戻っていった。ヒトは仕事に取りかかった。手近にあった本の山から抱えられるだけを前に抱え、隣の警察署まで運んでいった。警察署では若い警官が現われて、ヒトだという理由だけでヒトを警棒で殴ったが、本を運ぶ邪魔をしようとはしなかった。ヒトは黙々と本を運んだ。午後になってから役場の小柄な男が顔を出し、仕事が遅いとひげを震わせて罵った。ヒトは本を運び続けた。一度の休憩も取らなかった。最後のひと抱えを運び終えたときには、すっかり日が暮れていた。役場では一日の勤務時間がとっくの昔に終わっていて、扉にはしっかり鍵がかかり、なかは暗く、呼んでも応える者は一人もない。帰宅したのか、小柄な男の姿もなかった。
 ヒトは小さく肩をすくめて、町役場から出ていった。雨が降ってきた。ヒトは屋根を求めて町をさまよい、教会を見つけて近づいていった。なぜか堂守の小屋には屋根がなかった。聖堂の扉が開いていた。なかへ入って信徒席に腰を下ろし、寒さに震えて上着の前をたぐり寄せ、自分を抱いて背中を丸めた。眠りかけて首を落とし、足音を聞いて顔を上げた。目の前に神父が立っていた。
「祭壇の脇に雑巾とバケツがある。それで床を磨きなさい」
 それだけ言うと足早に立ち去った。ヒトは立ち上がり、仕事に取りかかった。聖堂の床を隅々まで磨くのに夜明けまでかかった。仕事を終えてバケツと雑巾を片づけると、堂守が現われてヒトを追い出し、聖堂の扉に鍵をかけた。
 ヒトは教会の前に腰を下ろして、膝を抱えてまどろんだ。そうしていると背中が曲がった老婆が現われ、小さなパンのかたまりを投げてよこした。ヒトはパンを二つに分けて、半分をゆっくりと口に入れ、半分は上着のポケットに押し込んだ。そして再びまどろんだが、ふと目を開けると七人の学生に囲まれていた。
 学生たちはヒトの学歴を問い質した。ヒトは高い教育を受けていた。法学と文学の学位を持ち、自然科学にも造詣があった。そこで学生たちは下宿の一室にヒトを閉じ込め、学校へ提出するための論文をヒトに書かせた。ヒトは一昼夜で文学史に関する七本の微妙に異なる論文を書き、続く一昼夜で法哲学に関する七本の微妙に異なる論文を書いた。学生たちはヒトに酒を飲ませ、自分たちもまたしたたかに飲み、酔って吐き気を覚えるとヒトを散々に殴りつけて下宿の外に放り出した。
 道端に転がっていたヒトを下宿の女中が買い物帰りに拾い上げた。ヒトは女中に命じられるまま台所に立って洗い物を片づけ、夕食のためのスープを作り、女中の目を盗んで一本のニンジンをちょろまかし、下宿人の部屋をまわって寝台のシーツを交換した。汚れたシーツの束を近くの洗濯屋へ届けたところへ、洗濯屋の太った下働きが何事かをわめきながら襲いかかった。わめいていたことに意味はなかった。洗濯屋の下働きはヒトを洗濯場に叩き込み、九日のあいだ、自分の代わりに仕事をさせた。十日目の朝に洗濯屋の主人が事実に気づき、下働きをクビにした。下働きは不当解雇を理由に役場に訴え、役場からやってきた小柄な男はヒトを洗濯場から引きずり出して警察署の中庭へ連れていった。
 警察署の中庭には禁書が山積みにされていた。図書館を作れるほどの大量の本が整理も整頓もされないまま、雨ざらしになって水を吸い、崩れた紙の山となっていた。古典の立派な全集も、自由を訴える薄っぺらなパンフレットも区別がない。
「この本を」と小柄な男が指差した。「残らず町役場の中庭へ運べ」
 ヒトは仕事に取りかかった。手近にあった本の山から抱えられるだけを前に抱え、隣の町役場まで運んでいった。町役場では初老の守衛が現われて、ヒトだという理由だけでヒトを警棒で殴ったが、本を運ぶ邪魔をしようとはしなかった。ヒトは黙々と本を運んだ。午後になってから役場の小柄な男が顔を出し、仕事が遅いとひげを震わせて罵った。ヒトは本を運び続けた。一度の休憩も取らなかった。最後のひと抱えを運び終えたときには、すっかり日が暮れていた。役場では一日の勤務時間がとっくの昔に終わっていて、扉にはしっかり鍵がかかり、なかは暗く、呼んでも応える者は一人もない。帰宅したのか、小柄な男の姿もなかった。
 ヒトは小さく肩をすくめて、町役場から出ていった。雨が降ってきた。ヒトは屋根を求めて町をさまよい、とある居酒屋の前をとおりかかった。酔漢たちの歌声が聞こえた。立ち去ろうとしたところで自由派の議員に呼び止められた。議員は革新的な条例の準備を進めていたが、法的な論証が不十分だと考えていた。ヒトは議員が取り出した条例案に目をとおし、雷鳴が聞こえるなかでいくつかの有益な助言をおこなった。その上で自らの窮状を訴えると、自由派の議員はヒトの肩をやさしく叩いてこのように言った。
「大丈夫だ。未来は必ず訪れる」
 議員は雨のなかを走り去り、残されたヒトは町を横切り、町の外れに近い大きな厩に難を逃れた。厩の持ち主はウシも飼っていた。早朝、ヒトは叩き起こされて乳搾りの手伝いに駆り出され、ウシの持ち主の目を盗んで搾ったばかりの牛乳を飲んだ。午後はウマに秣を運び、厩の藁を交換した。厩から出た汚れた藁は荷車に積んで近くのレンガ工場まで運んでいった。藁を下ろして帰ろうとすると、いきなりスコップを押し付けられて粘土の採掘場へ放り込まれた。十日のあいだ、ヒトは雨に叩かれながら泥だらけになって粘土を掘り、十一日目に力尽きて昏倒した。ヒトは病院に担ぎ込まれ、鼻からカテーテルを押し込まれ、無理矢理胃に栄養を送り込まれた。七日ほどでヒトは起き上がった。
 それからヒトは皿洗いの代わりになって皿を洗い、清掃人の代わりにドブをさらい、学生の代わりに宿題を済ませ、大工の下働きとなって罵られながら材木を運び、窓拭きの代わりに窓を拭き、墓掘りの代わりに墓を掘り、ロバの代わりに荷車を牽いた。監獄の囚人たちは獄舎の窓から大声でヒトを呼び、ヒトを走らせて買い物に使った。
 一度は山に連れ去られて炭焼きの代わりに炭を焼き、樵の代わりに木を伐り倒し、すぐに連れ戻されて役場と警察のあいだに積み上げられた本を焼いた。教師に代わって試験の採点をしたこともあった。少年たちに代わって新聞を配ったこともあった。午前には植字工の代わりに活版を組み、午後には再びスコップを握って粘土を掘った。夜になると酔っ払いどもはヒトをつかまえ、ただ楽しみのためにヒトを殴った。
 ヒトは町の手となり足となり、叩いてこぶをこしらえるべき頭となった。ヒトがいれば誰もが自分の仕事をヒトに押しつけ、気まぐれに罵声を張り上げて拳を振るった。町でただ一紙の新聞は社説でヒトの使役を肯定的に論評し、保守派も自由派も取り混ぜて多くの者がその見解に賛意を示し、ヒトは必要不可欠であると考えた。だが別の見解も存在した。ヒトは奉仕と忍従によって町の者に怠惰と傲慢に耽る機会を与え、果てしない放縦と堕落に導いた。ということは、町に災厄をもたらしているのではあるまいか。この意見を聞いた人々は、腕を組んでうなり始めた。
 最後の日にヒトは一人でスコップを握り、町の大通りにできた大きなくぼみを直していた。町に雇われた工夫たちは道端に腰を下ろしてタバコを分け合い、ヒトの働きぶりを眺めていた。そこへ役場の小柄な男が現われて、手を叩き合わせてヒトを呼んだ。ヒトはスコップを置いて小柄な男の前に立った。小柄な男は眼鏡の位置を慎重に直し、丸い鼻の下の小さな口ひげを軽くこすり、懐から一枚の薄っぺらな紙を取り出すと、目の前にかざして読み上げた。追放命令だった。
 ヒトは小さく肩をすくめ、そして町から出ていった。
 どこへ行ったのかは誰も知らない。

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2014年5月20日火曜日

町/オソ


 あるとき、町にオソがやって来た。
 すべてのオソがそうであるように、そのオソもまた黒光りするひさしのついた茶色の帽子を目深にかぶり、茶色の詰め襟の制服を着て、褐色の乗馬ズボンを穿いていた。そして脛を包む黒い乗馬ブーツの踵には頑丈な鉄の板が打ちつけてあった。オソが歩くと道が鳴った。踏みにじられた敷石が凄まじい声で悲鳴を上げた。子供たちは音を聞いて寝床のなかで耳をふさぎ、あるいは好奇心に駆られて窓辺に駆け寄り、カーテンの隙間からそっと外の様子をうかがった。オソの青白い横顔が夜の道を進んでいく。その腰のあたりでは革製の大型ホルスターが月の光を浴びて輝いている。仕事をするとき、オソはホルスターの蓋を開いて軍用拳銃を引っ張り出す。撃鉄を起こして銃口を一直線に相手に向ける。慣れた動作で躊躇はない。オソは夜明けの前に到着し、夜明けを待って早速仕事に取りかかった。
 最初に引っ張られたのは市場の夜警だった。「なぜだ」と町の人々は首をかしげた。夜警は独り身の陰気な男だったが、真面目な仕事ぶりで知られていた。悪事を働くような人物には見えなかった。独り身で陰気だったが、実は肉屋の女房といい仲なのだという噂もあった。「だから肉屋が密告したのだ」と誰かが言った。肉屋が激しく首を振った。肉屋の女房も亭主の隣で首を振った。
「あたしがさ、あんな男によろめくわけがないだろう」
「そりゃ、あたりめえだ。俺って男がいるんだからよ」
 肉屋が女房の尻をつねった。女房は悲鳴を上げて亭主を叩いた。
 そのうちに別の噂が聞こえてきた。夜警の部屋に黒い大きな箱があって、そこに危険なビラが隠してあったという。「危険なビラって、どんなビラだ?」と町の人々は声をひそめた。「そりゃあ、もちろん」誰かがそう言ってから口をつぐんだ。言うまでもなく反政府活動のビラだった。それが大量にあったという。町の者全員がそれぞれ十枚ずつ受け取ってもまだ余るほどのビラがあったという。「なんでまたそんなに?」と町の人々は眉をひそめた。誰にも理由がわからなかった。わからない理由を考えていると、十回も陰謀に巻き込まれたような気がしてきた。町の人々は震え上がった。
「それにしたって」と誰かが言った。「どうして市場に夜警がいたんだ」
「どういうことだ」と誰かが訊ねた。
「夜には市場は空っぽになる。そんな所でいったい、なにを見張るんだ」
 言われてみれば、と町の人々がうなずいた。思い出せる限りの昔から市場には夜警がいた筈だが、代々の夜警はいったいなにを見張っていたのか? 誰にも理由がわからなかった。わからない理由を考えていると根深い陰謀に巻き込まれたような気がしてきて、町の人々は震え上がった。
 間もなく町役場の扉が開いて夜警が姿を現わした。特別な様子はなにもなかった。いつものように真面目そうで、いつものように陰気だった。その背後にはオソが立ち、背中に銃を突きつけていた。オソにうながされて夜警が進んだ。夜警は後ろ手に縛られていた。その姿を物陰から見て、女たちは息を吞んだ。二人は四つ角の中央でとまった。夜警がひざまずいて頭を垂れた。
「振り返らないでください」
 オソはそう言ってから拳銃を構え、夜警の後頭部に狙いをつけた。撃鉄を起こして引き金を引いた。パン、と弾けるような音がして、それと同時に夜警の額から血と骨片が飛び散った。
 二番目に引っ張られたのは印刷屋だった。「なぜだ」と首をかしげる者は一人もなかった。ビラを印刷した者がいるとすれば、印刷屋以外になかったからだ。加えて夜警と一緒にいるところを、それまでに多くの者が目撃していた。「やっぱりな」と町の人々はうなずいた。印刷屋も夜警と同様、独り身で陰気な男だったが、自分の教養を鼻にかける傾向があったので女たちは同情しようとしなかった。
 間もなく町役場の扉が開いて印刷屋が姿を現わした。すっかりうなだれていて、頬には涙を流した跡があった。印刷屋の背後にはオソが立ち、背中に銃を突きつけていた。オソにうながされて印刷屋が進んだ。二人は四つ角の中央でとまり、まず印刷屋がひざまずいて頭を垂れた。
「振り返らないでください」
 オソはそう言ってから拳銃を構え、印刷屋の後頭部に狙いをつけた。撃鉄を起こして引き金を引いた。パン、と弾けるような音がして、それと同時に印刷屋の額から血と骨片が飛び散った。
 続いて二人の男が引っ張られた。それからさらに三人の男と二人の女が引っ張られた。いずれもまともな市民であり、疑わしい点はなに一つとしてなかったが、そのうちに誰かがある可能性に気がついた。捕えられた七人のうち、五人の男はいずれも印刷屋に金を貸していた筈だ。そして二人の女はどちらも印刷屋を手ひどく振ったことがなかったか。言われてみれば、と町の人々がうなずいた。そうだとすれば間違いはなかった。七人を売ったのは印刷屋だ。尋問を受けて名前を書けと言われたのだ。だからうるさい債権者の名を書いて、それだけでは足りないと言われると自分を笑い物にした女たちの名前を書いたのだ。自分は先に撃ち殺されて、後に迷惑を残していったというわけだ。
 間もなく町役場の扉が開いて捕えられた五人の男と二人の女が現われた。全員が後ろ手に縛られていた。七人はオソにうながされて四つ角に進み、そこで横一列に並んでひざまずいた。オソが左端の男の背後に立った。
「振り返らないでください」
 オソはそう言って拳銃を構え、男の後頭部を狙って引き金を引いた。パン、と弾けるような音がして、それと同時に男の額から血と骨片が飛び散った。
 撃たれた男が地面に転がるのを待ってから、オソは二人目の男の背後に立った。
「振り返らないでください」
 オソはそう言って拳銃を構え、男の後頭部を狙って引き金を引いた。パン、と弾けるような音がして、それと同時に男の額から血と骨片が飛び散った。
 撃たれた男が地面に転がるのを待ってから、オソは三人目の男の背後に立った。
「振り返らないでください」
 オソはそう言って拳銃を構え、男の後頭部を狙って引き金を引いた。パン、と弾けるような音がして、それと同時に男の額から血と骨片が飛び散った。
 撃たれた男が地面に転がるのを待ってから、オソは四人目の男の背後に立った。
「振り返らないでください」
 オソはそう言って拳銃を構え、男の後頭部を狙って引き金を引いた。パン、と弾けるような音がして、それと同時に男の額から血と骨片が飛び散った。
 撃たれた男が地面に転がるのを待ってから、オソは五人目の男の背後に立った。
「振り返らないでください」
 オソはそう言って拳銃を構え、男の後頭部を狙って引き金を引いた。パン、と弾けるような音がして、それと同時に男の額から血と骨片が飛び散った。
 撃たれた男が地面に転がるのを待ってから、オソは一人目の女の背後に立った。
「振り返らないでください」
 オソはそう言って拳銃を構え、女の後頭部を狙って引き金を引いた。パン、と弾けるような音がして、それと同時に女の額から血と骨片が飛び散った。
 撃たれた女が地面に転がるのを待ってから、オソは二人目の女の背後に立った。
 鉄の踵が敷石を踏んだ。女が目を閉じて頭を垂れると、オソは拳銃の回転式弾倉を横に振り出して薬室に残った薬莢を捨てた。六個の薬莢が地面にあたって跳ね上がり、乾いた音をあたりに散らした。オソは腰につけた弾薬盒から弾丸を一発ずつ取り出して、手早く弾倉に詰めていった。六個の薬室をすべて埋めると弾倉を戻して位置をあわせた。
「振り返らないでください」
 オソはそう言ってから拳銃を構え、女の後頭部に狙いをつけた。女が頭を上げて前を見据えた。目を涙で濡らし、口から恐怖の叫びを解き放った。オソは素早く撃鉄を起こして引き金を引いた。パン、と弾けるような音がして、それと同時に女の頬から血と骨片が飛び散った。
 続いて九人の男が引っ張られた。それからさらに七人の男と九人の女が引っ張られた。印刷屋の名簿にまだ続きがあったのか、あるいは撃ち殺された七人が新しい名簿を残していったのか。「新しい名簿だろう」と誰かが言った。捕えられた二十五人には印刷屋が知らない筈の名前が含まれていた。あの七人が名前を書いていったのだ。そうだとすれば、どうなるのか? そうだとすれば、この名簿の後にも別の名簿が出現するということだ。二十五人もの人間が、自分の後に続いてほしい人間の名前をできるだけたくさん書いて死んでいくのだ。次は三桁の大台に乗るだろう。その次はきっと四桁だ。この町の人間に誰も節操などは期待しない。三日もすれば町は無人になるに違いなかった。
 「まさか」と首を振る者がいた。たった一人のオソがそれだけの弾丸を持ち歩ける筈がなかった。千人ということはないだろう。せいぜい六百人がいいところだ。「その六百人は気の毒だが、自分には生き残れるという確信がある。なにしろ自分はこれまで、ひとから怨まれるようなことは、一度もしたことがないのだから」
 間もなく町役場の扉が開いて、捕えられた二十五人のうちの最初の六人が引き出された。六人は四つ角で順番に撃ち殺され、死体は墓掘りに引き渡された。続いて二組目の六人が引き出された。この六人も四つ角で順番に撃ち殺され、死体は墓掘りに引き渡された。そして三組目の六人が引き出され、順番に撃ち殺されて死体は墓掘りに引き渡された。四組目も撃ち殺されて死体は墓掘りに引き渡された。そうして二十五人のうちの二十四人が撃ち殺され、最後の一人が引き出されて、四つ角の真ん中でひざまずいた。それは町の鍛冶屋だった。
「振り返らないでください」
 オソはそう言って拳銃を構え、鍛冶屋の後頭部に狙いをつけた。すると鍛冶屋は振り返って、静かな眼差しでオソを見上げた。しばらくのあいだ、オソは鍛冶屋を見下ろしていた。それから拳銃をホルスターに収めて、鉄の踵で道を踏んで足早に町から出ていった。鍛冶屋は町の英雄になった。町の人々が鍛冶屋を囲み、多くの者が勇気をたたえ、一人は振り返ったときのオソの様子を質問した。
「そうさな」と鍛冶屋は言った。「ちょっと、脅えたような顔をしたよ」

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2014年5月19日月曜日

町/修道士


 あるとき、町に四人の贖罪修道士がやって来た。
 贖罪修道士は他人の罪を自分の肩に引き受けて、代わりに贖いの道を歩いてくれる。この修道士たちはこもるべき修道院を持たずに町から町へと渡り歩き、罪人たちの告解に静かに耳を傾け、ものも言わずに罪人たちの罪をかぶった。
 罪を選ぶことも相手を選ぶこともしなかったので、贖罪修道士たちはもろもろの罪の気高き担い手としてどこの町でも歓迎されて尊敬を受けた。自分にはいかなる小さな罪も残すまいと、告解にのぞむ罪人たちの口はいつも自然と軽くなり、一方、修道士たちの口は常に堅い。罪人たちはこの告解を荷下ろしと呼び、贖罪修道士たちは罪を引き受けた証拠として小さな預かり証を手渡した。贖罪修道士たちは一つの町に長居をしない。荷下ろしを終えた人々は預けた罪と同じだけの数の預かり証を手に握り、旅立つ修道士たちの後ろ姿を見送った。罪は贖罪修道士たちの前にあり、贖罪修道士たちの後に罪はない。
 贖罪修道士の接近に最初に気がついたのは町一番の罪作りだった。無節操と無責任を揺るぎなき信条とするこの若者は、このとき妻を寝取られた七人の夫と娘を傷物にされた五人の父親、そしていずれも凶悪無比で知られた三人の恐るべき金貸しと、それから一人の名前も正体も知れない謎の男に追われていて、すっかり追い詰められて、実を言えば明日の命も知れないような有様だったが、町から延びるうねうねとした道のむこうに贖罪修道士たちの姿をはっきりと認め、喜びに手を打ち鳴らし足を鳴らした。
「しめたぞ、あそこをやって来るのは贖罪修道士だ、つまり、罪の気高き担い手だ。なんて俺はついてるんだ。さあ、荷下ろしだ、荷下ろしをしちまえばこっちのもんだ。そうすれば、あの間抜けな寝取られ亭主どもも、ロマンをまるで解さない親父どもも、子分を引き連れたあの因業な金貸しどもも、それから名前も正体も知れないあの謎の男も、みんなまとめてざまあみろっていうわけだ」
 若者は罪作りな男にふさわしく不敵な笑みを浮かべてそう言って、すぐにも荷下ろしを済ませてしまおうと修道士たちを迎えに埃っぽい道を駆け出したが、近づくうちに奇妙なことに気づいて足をとめ、前をにらんで眉をひそめた。
「しかし、あの修道士たちはちょっと変だぞ」
 若者は唇を舐めてそうつぶやいた。前からは四人の贖罪修道士が一列になって近づいてくる。いずれも同じ灰色の修道服を身にまとい、一本の荒縄を腰紐の代わりに腰に結び、灰色の頭巾を目深にかぶってすっきりと鼻筋のとおった灰色の顔をわずかに見せ、そろって口元を冷たく引き締め、足にはロバの皮から作った黒いサンダルを履いていた。姿はいかにも贖罪修道士に違いなかったが、大きさがどうにも変わっていた。近づいてくる修道士たちはどれもとてつもなく大きかった。大人の腰まである筈の里程標が、修道士たちと並ぶとただの小石のように見えた。路傍に並ぶイチョウの木が潅木の茂みのように見えた。身の丈は普通の大人の背丈の四倍を軽く超え、そして高いだけではないという証拠に、重たく足音を響かせていた。地響きが規則正しく道を揺らした。若者は唾を飲み込み、また唇を舐めてこのように言った。
「少し変だが、でも、とにかく贖罪修道士だ」
 仮に一片でも常識があれば修道士たちの大きさを見て脅威を感じ、あるいは地響きを腹に感じて恐怖を味わい、すみやかに不審を抱いて来たばかりの道を退いたはずだが、もともと無節操を信条とするこの若者には節度の問題をあまり重要視しない、それどころかしばしば度外視するという好ましからぬ傾向があった。だから節度を超えて巨大な修道士たちの姿を見てもどこがどうおかしいのかが具体的に指摘できず、つまり眼前の状況に関する理解を欠いたままの状態で、とりあえず姿形が同じであれば肝心の機能を果たすのにまったく支障はあるまいと結論を下した。だとすれば自分の運命にしたがって、さっさと荷下ろしを済ませるだけだ。
 若者は先頭を進む修道士の前に飛び出し、すばやくひざまずいて十字を切ると頭を垂れた。すると修道士たちが一斉に足をとめた。若者はそびえ立つ修道士の巨体を見上げ、もう一度胸の前で十字を切り、それから再び頭を垂れるといかにも慣れた様子で告解を始めた。まず、いずれも貞淑で名高かった七人の人妻との情事を語ってそのそれぞれについて罪を認め、次に令嬢たちの操を奪った偽りの愛の顛末を語ってそのそれぞれについて罪を認め、返済不能となった複数の債務についてはなにも隠さずにさらりと流して罪を認め、名前も正体も知れない謎の男の一件についてもわからないなりに説明を加え、この際だからという節操のなさで進んで自分の罪を認めた。
 修道士たちは若者の告解を最後まで静かに聞いていたが、やがて若者が話を終えて、荷下ろしの証を求めて手を差し出すと、先頭の一人が冷たく結んだ唇の端にさらに冷たい笑みを浮かべた。そして一瞬の動作で足を振り上げ、若者をサンダルの底で踏み潰した。あまりのすばやさに悲鳴を上げる暇もなかった。サンダルをそっと動かすと、潰れた若者の死体が現われた。血まみれで、もはや原形をとどめていない。修道士たちは口元を引き締めて修道服の裾をたくし上げ、若者の死体をまたいで越えた。先頭を進む一人は汚れたサンダルの底を地面でこすり、続く二人は厳かに頭を垂れて背中を丸め、残る一人は頭巾の奥でおくびを洩らした。修道士たちは町を目指して歩き始めた。
 間もなく町で二番目の罪作りが贖罪修道士の接近に気づき、町で三番目の罪作りも贖罪修道士の接近を知った。二人の名だたる罪作りは罪作りの常として自分の肩にのしかかる罪の重さに喘いでいたが、近づく贖罪修道士の姿を認めると、これもまた罪作りの常としてもともと乏しい抑制を完全に失って荷下ろしのためにうかうかと近づき、例によって節度に関する認識不足から危険を認識できなかったことは言うまでもないが、サンダルの底に踏み潰されてそろって路上の染みとなった。そしてこのときには修道士の一行は町に十分なだけ接近しており、二人の罪作りが踏み潰される光景は多くの者が目撃した。
 大騒ぎが始まった。ある者は悲鳴を上げてその場から逃げ出し、またある者は神の名を叫びながら修道士の進路に身を投げ出し、続いて路上の染みとなった。ある者は終末の日の到来を叫び、ある者は神を呪って背後から飛来した石に打たれ、またある者は石を掴んで前に飛び出し、巨大な修道士たちを撃退しようと試みた。力いっぱい投げた石はどうにか先頭の修道士に届いたが、修道服の豊かなひだに阻まれて不甲斐なく打撃力を失った。石を投げた者たちは地響きを上げて近づく修道士たちの前で逃げ惑い、ある者は踏み潰され、ある者はつまみ上げられて地上に投げ捨てられ、またある者は灰色の頭巾の奥の灰色の顎によって噛み砕かれた。修道士の口から血がしたたる。それを見て、信仰の篤さで知られた一人の老女が走り出た。
「なぜ」と老女は叫んだ。「なぜ、あなたがたが」
 修道士の一人が大地を蹴って跳躍し、修道服の裾をなびかせて宙を飛び、そろえた足で敬虔な老女を踏み潰した。自虐的なことで悪名高い終末論者の一団が、その光景を指差して「見よ」と叫んだ。少なからぬ者が気配に呑まれてひざまずき、うっかりひざまずいたことに舌打ちして少なからぬ者が立ち上がった。終末論者の一団に向かって少なからぬ数の石が飛び、終末論者たちはわずかな者を残して逃げ去った。踏みとどまった終末論者たちがコブの痛みに耐えながら、再び指差して「見よ」と叫んだ。その指の先では贖罪修道士たちが石を積んだ町の門を突き崩し、遂に街路へ踏み込んできた。町の人々はクモの子を散らすようにして逃げ出した。逃げ遅れた者は踏み潰され、あるいはつまみ上げられ、近くの壁に叩きつけられた。教会の鐘が打ち鳴らされた。勇敢な数人の警察官が銃を手にして修道士たちに立ち向かったが、銃弾もまた修道服の豊かなひだに阻まれて攻撃力を失った。警官たちは追い詰められて逃げ場を失い、ゆっくりとひねり殺された。
 巨大な修道士たちは石畳を蹴散らし、電柱を引き抜き、窓を破って金品を奪い、酒場を襲って浴びるように酒を飲み、燃やせる物には火を放ち、殺戮と破壊の限りを尽くした。町の人々は教会へ逃げ込み、必死の思いで祈りを捧げ、そして祈りのなかで自分たちの犯してきた過ちを悟った。自分の罪を他人の肩に嬉々として投げかけていたとは、いったいなんたる罰当たりか。他人の罪を自分の肩に背負ってこそ、真の信仰の現われではないか。贖罪の道とは一人ひとりで進むべき道であり、代理を送るべき道ではない。贖罪修道士とは、つまり無用の存在である。贖罪修道士とは、信仰に暗い影を投げかける、言わば悪魔の盟友である。もし彼らが再びこの町にやって来たら、きっとその時には見るべき目を見ることになるであろう。
「皆さん」と神父は叫んだ。「もっと祈ってください」
 町の人々は祈りを捧げた。罪作りな者も、罪とはほとんど無縁な者も、そろってひざまずいて祈りを捧げた。外では巨大な贖罪修道士たちが教会の扉を破ろうと体当たりを繰り返していた。恐ろしい音が規則正しく聖堂を揺らし、扉が、かんぬきが、不気味に軋んだ。神父は喉を嗄らして祈りを叫び、頭上では鐘がなおも鳴り響く。大いなる苦難の時が流れ、町の人々は祈りを通じて失われた愛と信仰を取り戻し、心は友愛と信頼で満たされ、犯された多くの罪は許しと出会い、溜まりきった負債は汚れた床に投げ捨てられた。やがて聖堂を揺らす音がやみ、続いて鐘も鳴りやんだ。そして祭壇の脇の聖具室の扉が開き、そこから堂守が怒ったような顔で現われて神父を小声で呼び寄せた。神父は堂守の言葉に耳を傾け、それから会衆に向かってこのように言った。
「皆さん、神に感謝を捧げましょう。悪魔は倒されました」
 人々は意外な光景を見て驚いた。教会の前の小さな円形広場では三人の贖罪修道士が灰色の顔を白くして折り重なるように横たわり、苦しそうに息をしていた。残る一人は堂守の小屋の屋根を剥いでなかに向かって身をかがめ、肩を震わせながら胃の中身を吐き戻していた。胃液と安酒の臭いがあたり一面に漂って、多くの者の吐き気を誘った。
 町の人々はすぐに巨大な修道士たちを縛り上げ、バケツで何杯もの水を顔に浴びせた。修道士たちは意識を取り戻して頭痛を訴え、また町の人々に対してはそれまでにほどこした功徳を理由に慈悲と寛容を訴えたが、耳を貸そうとする者は一人もなかった。翌日の昼過ぎには駐屯地の軍隊が巨大な鉄製の檻を引いて町に現われ、修道士たちを運び去った。町の人々は復興作業に取りかかった。
 事件の真相は間もなく首都からもたらされた。町を襲った四人の贖罪修道士は実は修道士などではまったくなくて、全員が素行に問題のある学生であった。日頃から無節操を信条とし、何事につけ節度を欠いているので満足なことはなに一つできず、それが修道士に化けようなどとたくらめば、まず巨大化は免れない。今回の事件は重大であり、検察は最高刑を求めている。この事件を教訓とし、第二、第三の巨大修道士を生み出さないためだ。判決は求刑どおりに下されることになるであろう。
 そしてそのとおりとなり、四人の学生は永久流刑を言い渡されて再び町に現われた。というのは判決で、町が流刑地に指定されていたからだ。学生たちには田舎暮らしはこたえたらしい。住民はあらかたが因業で、気を晴らすような愉快な場所は一つもなく、地元の酒は飲めば吐き気と頭痛を引き起こす。学生たちは今では改悛の情をしきりと示し、毎日のように首都へ減刑嘆願書を送っている。

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2014年5月18日日曜日

町/罰

 子供たちが死に絶えたあと、母親たちが飛ぶようになった。男たちは妻を追って外へ飛び出し、降りてくるようにと呼びかけたが、女たちは聞き入れようとしなかった。
 なぜそんなことが起こったのか、誰にも説明できなかった。悲しみが原因だろうと言う者がいた。子供を失って人生を見失ったのだと言う者もいた。
 大地を離れた女たちは説明を拒んだ。
 夏の初めのことだった。青い空に白い光がちりばめられ、気忙しく跳ねる光の粒子が母であった女たちの姿を浮き彫りにした。両腕を広げて滑るように飛ぶ女たちがいた。危険なほどの速度で降下してきて、地表をかすめるようにして飛び去っていく女たちがいた。あるいはからだをくるくると回しながら、ゆっくりと上がったり下がったりしている女たちもいた。町の上空に女たちの影が踊り、いくつもの影が群れをつくって町の大通りを駆け抜けていく。男たちは空を見上げ、そこで女たちの険しい視線に遭遇した。女たちは陰にこもった目つきで地上を睨み、右へ左へと絶えず首を動かして夫の姿を探していた。そして自分の夫を見つけると、近寄っていって短い罵声を浴びせかけた。
「とんま」
「こしぬけ」
「やくたたず」
 首尾よく罵声を浴びせたらすかさず風を切って空の高みへ舞い上がり、笑いの声を放ちながら夫の上空を旋回した。そこから唾を吐きかけることもあった。
 だが時には逃げ遅れて夫の反撃を受けた。俊敏な男ならば報復できた。鉄拳をふるって古女房の顔に痣を刻んだ。すると女は助けを求めて叫びを放った。涙で頬を濡らしながら不逞の亭主の名を叫び、その名がいかに呪われるべきかを世界に向かって叫び続けた。間もなく女たちが男の頭上に殺到し、肩を並べて影を重ね、呪いの呟きを混ぜ込んだ唾液の雨を飽くことを知らずに浴びせかけた。男たちは屋根を求めて逃げ惑った。
 もちろん男たちも、ただ手をこまねいてはいなかった。最初はひどく狼狽したものの、なんとかしようと様々な努力を繰り返した。妻が飛び立つ様子を見て、それだけで絶縁を決意した者もいくらかはいたが、多くは関係の修復を望んで屋根に上がり、罵声を浴びせられるのを覚悟して自分の妻の姿を探し求めた。そして求める姿を目にとめると、それぞれに声をかけて説得をしようと試みた。
「降りてきなさい」
「とんま」
「愛しているから」
「こしぬけ」
「言うことを聞け」
「やくたたず」
 ある者は言葉を情熱ではずませて心に訴え、ある者は整然と言葉を並べて理性に訴え、またある者は言葉に怒りをまぶして無条件の恭順を求めた。だが女たちはそのことごとくに罵声を返し、あくまでも説明を拒んで町の上空にとどまり続けた。妻であった女たちは、夫であった男たちにいかなる手がかりも与えようとしなかった。男たちは思い通りにならないことへの苛立ちを味わい、いくらかの者はあきらめるための努力を始めた。
 夏が過ぎて、秋が来ても女たちは男たちを罵っていた。昼も夜も空から地上に目を這わせて、通りを歩く夫の姿を探していた。いつ眠っているのか、いつ食べているのか、知っている者は一人もなかった。眠りもしないし食べもしないのだと考える者がいた。あそこにいるのは、もはや人間ではないと考える者が現われた。妻たちがそうなったことは、罪深い夫たちに与えられた罰なのだと考える者が現われた。そこで夫たちは口々に尋ねた、その罪はなにで、その罰はどこの法に基づいて誰が下しているのかと。
 秋が終わる頃には多くの者が妻をあきらめ、地上に残った多くの女のなかから新たな妻を娶ろうとした。ところが裁判所は夫の側からの一方的な離婚告知に法的な有効性を認めようとしなかった。業を煮やした男たちは金を出し合って狩人を雇った。金で雇われた狩人は使い込まれたライフル銃を空へ向け、母であり妻であった女たちを一人また一人と撃っていった。それが冬の初めのことだった。妻であり母であった女たちを殺した罪によって、罰を与えられた者は一人もない。


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2014年5月17日土曜日

町/罪


 その日、わたしは傘をなくした。生ぬるい雨粒をはらんだ突風が傘をわたしの手から奪い取った。正確に言えば、それはわたしの傘ではなくて友人から借りた傘だったが、わたしにはその傘しかなかったので、だからわたしは傘をなくした。そして同じ瞬間に同じ路上で、わたしのほかにも多くの者が傘をなくした。ひとの手から逃れた傘が宙を転がる群れとなり、暗い空に向かって飛んでいった。いくつもの口が驚きを叫び、いくつもの口が舌を打ち、降りしきる雨にさらされて、いくつもの影が頭を抱えて走り始めた。だが空を見上げて、そこに踏みとどまる者もいた。
 黒衣に身を包んだ老人が肩を怒らせ、風に向かって足を踏ん張り、灰色の顔で黒い空を見上げていた。老人の頬を風が叩いた。老人の額を雨が打った。あとは荒れ狂う北海のしぶきがあれば完璧だ、とわたしは思った。家にあった最後の傘をなくしたのか、友人から借りた傘をなくしたのか、それとも亡き妻の形見の傘でもなくしたのか、老人は目に怒りをにじませて空をにらみ、それからやおら腕を上げると拳を突き出し、空に向かって中指を立てた。するといきなり雨がやんだ。吹きすさぶ風がおさまった。たった一本の指による侮辱の動作に大自然の猛威がひるみ、老人の顔が勝利の光に輝いた。しかし、その輝きは長くは続かない。頭上では復讐をたくらむ空が雲を集め、渦巻く黒雲のあいだから一条の竜巻を老人に向かって振り下ろした。竜巻はしなう鞭のように空を泳ぎ、またたく間に地上に達して老人のからだをからめ捕った。
 老人のからだが浮かび上がった。風に運ばれながら、老人はなぜか蔑むような眼差しでわたしを見下ろし、今度はわたしに向かって拳を突き出し、中指を立てた。思わぬところで侮辱を受けて、わたしは怒りよりも驚きを感じた。いつものように少し遅れて怒りがわいて、このような侮辱を決して看過すべきではないと考えたが、相手が空中にいるのでは、どうすることもできなかった。ただ記憶に刻んで、老人の姿が空の一点に消えるのを不愉快な思いとともに見送った。
 風が勢いを取り戻し、再び雨が降り始めた。救いを求めてあたりを見ると、飲み屋の看板が目に入った。わたしは雨を避けてそこへ走り、古びた一枚板で作られた、ひどく重たい戸を押し開けた。ところが戸の向こうにはいわゆる飲み屋の風景のかわりに、暗がりをしたがえて地底へと伸びる長い長い階段があった。目を凝らすと、闇の底でかすかに光がまたたいた。耳を凝らすと、地獄の悪鬼の罵声にも地獄の亡者の絶叫にも似た、つまり飲み屋の喧騒と思える音が聞こえてきた。わたしは壁を手で探りながら、慎重に階段を下りていった。
 地底の店の入口では鍛冶屋が忙しく働いていた。赤熱した鉄棒を鉄床に置き、火の粉を散らしながら蹄鉄の形に整えていた。鍛冶屋の背後にはいわゆる飲み屋の風景が広がり、天井から吊るされたおびただしい数のランプが酔っ払いの狂騒を照らしていた。つまり飲めば確実に頭痛と吐き気を引き起こす地元の酒を、男や女が、年寄りや若者が、ベンチに肩を並べて互いに吐息を浴びせかけ、てんでに勝手なことをわめきながら次から次へと飲み干していた。給仕は注文を取るのが忙しいのか、こちらにはまったく目を向けない。なんとか給仕の視線を捕えようとしていると、革の前掛けをした巨漢がどこからか現われ、鍛冶屋に向かって罵声を浴びせた。
「おう、何度言ったらわかるんだ、このばかやろうめ。わからないやつぁ何度言ってもわからねえってのは本当だな。馬の糞しかねえようなところで、蹄鉄こしらえてどうしようってんだ。そんなもなぁ、おまえのかかあの尻にくれてやれ。手枷が足りねえ、足枷も足りねえ。いったい焼きごてはどうしたんだ。あっちを見やがれ、無銭飲食の常習どもがとっくの昔に待ち惚けだ。やつらに風邪をひかせる気か」
 男が指差す方角では、数人の客が壁につながれ、白い背中を並べていた。
「それから、さらし台の輪っかはどこへいった。たっぷりと焼きの入った丸い輪っかがなけりゃあ、床汚しの意気地なしどもが逃げちまう。入れたところからどう戻したって飲み代は返らねえってことを、とっくりとやつらに教えてやるんだ」
 そう言って指差す方角では、さらし台でさらされた客が胃の内容物を戻していた。
「それから肉屋の鈎だ。一文無しなんかは客じゃあねえ、それをなんのつもりか知らねえが、そんなやつらを店にぞろぞろ連れ込んで、ただ酒をふるまうふてえ野郎に縄なんかはもったいねえ、ぎざぎざの鈎で逆さに吊してせいぜい痛い目にあわせてやらあ、しっかり手ぇ抜くんだぞ」
 そう言って男が指差す先では、慈善家で知られた町の名士が二人の給仕によって逆さに吊るされていた。
「まだあるぞ、あれを忘れたなんて言わせねえ、砲丸はどうした。砲丸がなけりゃあ酒樽人夫が走っちまう。人夫が走ったりしてみろ、酒は泡でいっぱいになって呑めたもんじゃあなくなるぞ。そうなったらわかってるか、その泡をおまえの顔に塗りたくってそのカッコウの巣みてえな髭を綺麗さっぱり剃ってやらあ。わかってんなら覚悟しやがれ」
 不穏な音を聞いて振り返ると、裸も同然の男たちが酒樽を肩に担いで運んでいた。男たちは一様に苦悶の色を顔に浮かべ、鎖の先の砲丸を引きずっていた。悲惨な列のかたわらでは怒り肩の給仕が鞭をふるい、舌なめずりをしながら悪口の限りを尽くしていた。
 向き直ると、前掛けの男と目があった。男は鋭い目つきでわたしをにらみ、荒々しく歯茎を剥き出しにした。
「おう、なにを企んでやがる」
 静かな席に案内してほしい、とわたしは頼んだ。男はうなずき、手招きをすると先に立って歩き始めた。わたしは男のあとについていった。拷問台からしたたる血のしずくをくぐり、袖にからみつく酔っ払いどもの腕を振り払い、不快な臭気を放つ床の上の液体を飛び越え、どら声を張り上げる頑丈な人垣を突き破り、果てもなく殴り合う若者たちの脛を蹴り、これでもかと転がる前後不覚の骸の群れをまたぎ越し、しなだれかかる皺だらけの女どもを突き飛ばして飛び散る白粉に鼻を歪め、なおも前進を続けると、狂乱の群衆から遥か離れて因果の無情に暗く沈む一角にやっとのことでたどり着いた。
 そこには八人の先客がいて、静かにテーブルを囲んでいた。八人のうちの七人が一方の側に集まっていたので、わたしはもう一方の側の端を選んで腰を下ろした。やって来た給仕に地元の酒を注文し、それから同席者の様子を盗み見た。わたしと同じ側にいる一人は憔悴し切った様子を除けばとにかく並みの風体をしていたが、反対側の七人はいかなる理由からか全身を黒い布で覆っていた。隣の男も、向かい側の正体不明の七人も、押し黙ったまま正面をにらみ、咳の一つもしようとしない。それぞれの前にはグラスが一つずつ置かれていたが、中身に口をつけた痕跡があるのは隣の男のグラスだけだった。わたしの前にも、給仕が酒の入ったグラスを置いていった。わたしはテーブルに肘をのせ、目の前に置かれたグラスのなかの液体を見つめた。ひとしきり見つめて顔を上げると、隣の男が口を開いた。
「わたしはかれこれ半日もここに座り込んで、この手詰まりな状況を打開しようと試みている。だがそれも孤立無援ではいかんともしがたいものがあり、なすべきことを思いつけぬまま時は過ぎ、変わらずに退路は塞がれている。そこであなたを親切な方と見込んでお願いしたい、いまはこのように落ちぶれた身なりをしているが、もとは高貴な生まれであったこのわたしを、どうにかここから助け出してほしいのだ」
 わたしになにが可能かは、とわたしは言った。あなたが置かれている状況によって異なります。
「そのとおりだ。ではわたしがいかなる状況に置かれているのか、それを明らかにすることにしよう。向こう側に並んで座る七つの影、あの連中は冷酷非情な決意を固めて、このわたしを捕えに来ているのだ。するとあなたはこう考えることだろう、それならばなぜさっさと逃げ出そうとしないのか、あの鈍そうな連中の手から逃れるのは、それほど難しいことではないのでは。いかにも逃げた、罠から逃れる鳥のようにわたしは逃げた。土地から土地へ、海を渡り、山を越え、世界中を逃げ続けた。しかしこの連中はどれをとっても蛇のように執念深く、どれをとってもましらのようにすばしこく、とうとう世界の果てのこの町の場末の酒場の片隅にまで追い詰められ、もはや逃れ出ることは不可能になってしまったのだ」
「そのとおりだ」
 七つの影の一つが言った。
「おまえにはもはや逃げ場所はない。隠れる場所も残されていない。清算の時がやってきたのだ。我ら七人が力をあわせれば、おまえがこの地上のどこにいようと必ず白日の下に引き出されることになる。そのことはとうに証明済みだ。すなわち、青は空高く舞って大地を見下ろし、物陰に逃げ込むおまえの怯えた影を見つけ出す」
 すると七人のなかから右の端の一人が立ち上がり、黒い布を取り去ってその正体を明らかにした。輪郭は裸体の人間に似ていたがが、ひとのように見えるのはそこまでで、しかるべき凹凸はすべて均され、あらゆる部分が青く塗り潰されていた。隣の男は青い影に指を突きつけ、こう叫んだ。
「空の旅はどうだった、随分と汚れているぞ」
 男の叫びは黙殺され、影の一つが先を続けた。
「緑は木々に繁る青葉に紛れ、恐れに振り向いたおまえの両眼を凝視する」
 すると次の者が黒衣を脱ぎ捨て、鮮やかな緑の怪物となって立ち上がった。それを見て男がまた叫んだ。
「失望したぞ、小さな毛虫に怯えるようではな」
「茶は歩道に敷き詰められた古い煉瓦に溶け込んで、おまえの足音に耳を澄ませる」
 すると茶色のものが立ち上がり、男はそれに指を突きつけてこのように言った。
「そのたいそうな耳はどこにある。わたしには見えない」
「黄は夜も消されることのない黄ばんだ明かりの背後に潜み、寝返りの数を数えておまえから安らかな眠りを奪う」
「教えてもらおうか。数はいくつまで数えられる」
「群青は風にせせらぐ波の下で息を殺し、絶望の淵に身を投げる決意を固めたおまえの心に水を注ぐ」
 すると群青の色をした化け物が現われ、男はそれを指差して嘲ら笑った。
「嘘もほどほどにな。浮いていたぞ。今度からは石を抱いて潜るがいい」
「そして赤こそは激情の印、ただひたすらにおまえをどこまでも追い詰める」
 すると真っ赤なものが立ち上がり、これは説明のとおりに興奮気味で、せわしくからだを揺すっていた。この赤い怪物にも男は指を突きつけた。
「牛に気をつけろ」
「しかしそれぞれがいかなる技能を授けられようとも、ことを成し遂げるためには知性の導きが欠かせない。知性に輝くこの色を見よ」
 異論があるかもしれないが、知性の色は紫だった。黒衣をまとった七人はこのようにして七つの色となって立ち上がり、紫色の化け物は言葉を続けてこのように言った。
「清算の時がやってきた、つけを支払うのだ」
 この連中はいったいどこからやってきたのか、いったいいかなる理由からあなたをつけ狙うのか。わたしは声をひそめて男に訊ねた。男はわたしの質問に答えてこのように言った。
「魂を持たないこの怪物どもは、もとをたどれば、たった一枚のシーツだった。そしてそのシーツは、かつてわたしが暮らした静かな部屋の片隅で、古びた寝台のマットレスを覆っていた。白いシーツではない。白地に七つの楕円をあしらった大胆な柄で、七つの楕円はそれぞれが青と緑と茶と黄と群青、そして赤と紫に染められていた。飼い犬に手を噛まれたとはこのことだ。シーツの分際で主人に逆らい、それでも足りずに虐げようと企むとはな」
 紫の怪物が反論した。
「月日のめぐりにも変わることがなく、晴れの日にも雨の日にも、そして凍てつく雪の日にも、一日の始まりから終わりまで、無限の惰眠を飽くことなく貪り、決して起き上がろうとはしなかった、あの堕落の極みに一言意見をしてみたまでのことではないか」
「シーツの分際で何を言う。まずは身分をわきまえろ。木綿の切れ端風情に意見をされる筋合いはない。わたしは眠りたいだけ眠るのだ。あの大胆な柄のシーツで惰眠を貪れる人間がいるとしたら、それは全世界でもわたしだけだ。おまえたちはわたしに感謝すべきではあっても、余計な意見をすべきではなかった。だから怒ったわたしがおまえたちを処分することにしたとしても、それはわたしの落ち度ではない。シーツの運命は人間が決める。シーツの分際で人間の運命を決めようとするな」
「またそれだ」と木綿の怪物が肩をすくめた。「シーツの分際で、シーツの分際で、と、そればかりを繰り返して貴重な忠告に耳を貸そうとしなかった。その上に、我々を窓から川に捨てようとした。眠りすぎの鈍った頭で心をかたくなにするばかりで、シーツに忠告されるという歴史上例のない奇跡の価値を一度も認めようとしなかった。おまえが犯した罪は重たい。その罪を償わせるために、我々は二度目の奇跡を経験した。七つの色がシーツから放たれ、七人の追っ手となっておまえをこの地の果てに追い詰めたのだ」
「シーツの分際で」と男が叫んだ。「もう、これ以上は我慢ならん。いま、この場で決着をつけ、おまえたちをもとの糸屑に戻してやる」
 そう言いながら腕を振り上げ、拳から中指を突き立てた。これが命取りだった。革の前掛けをした巨漢がどこからともなく現われて、シーツに追われる哀れな男の首を掴んだ。
「どんなちんけな店にもそれなりの格ってもんがあるんでさ。あんたには申し訳ねえが、うちはちったあ上品ってことで売ってるんで。お客はそれで来てくれるって寸法でね。なんでだかわかりますかい。この店じゃあ、はばかりもなく中指おっ立ててふんぞり返るやくざな野郎は、どいつもこいつも分相応な最期を遂げるってことになってるからでさ。あんたにゃあばかげたことかもしれないが、水商売には色々と苦労がつきもんでね」
 哀れな男は縛り上げられ、彼方に見える品位の証、厨房の湯気にかすむ血まみれの拷問台へと連れ去られた。木綿の怪物どもは高らかに勝利を宣言し、飲めば確実に頭痛と吐き気を引き起こす地元の酒で乾杯した。歌も歌った。そこは静かな場所ではなくなったので、わたしは手つかずのグラスをそのままにして店を出た。
 長い長い階段を登って外へ出ると、雨はすでに上がっていた。湿った歩道に立ったわたしの前に黒衣をまとった老人が現われ、わたしに向かって拳を突き出し、中指を立てた。わたしにもわたしなりの秩序がある。一度目は宙に浮かんでいたので見逃したが、二度目となると見逃すわけにはいかなかった。わたしは正確に一歩半だけ歩み寄り、老人をわたしの身長の分だけ殴り飛ばした。

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2014年5月16日金曜日

クラウド・オブ・ザ・デッド



 闇の中で目を覚まして、自分が死んでいることに気がついた。いつもなら目覚めたときにまず感じるまぶたの重さがどこにもなかった。目がどこかにあるという感じもしなかった。見えないし、聞こえない。においもない。空気も重力も感じない。肉体も、その延長にある感覚も、どうやら完全に消え失せていた。なぜだかわからないが思考だけが残っていた。重大な疾患でこのような状態に陥っているのではないかとも疑ったが、わたしは直感にしたがって自分は死んでいるのだと考えた。恐怖はなかった。不安もなかった。恐怖も不安も、その根源はおそらく肉体にあった。

 死んでいることがわかったので、今度は死んだ理由について考えた。すぐさま記憶をたどろうとして、なにも思い出せないことに気がついた。自分の名前すら思い出すことができなかった。男か女か、老いていたのか、若かったのか、どんな姿をして、どこでどんなことをしていたのか。家族はあったのか、それともなかったのか。善良な人間だったのか、それとも言語道断な悪人だったのか。肉体が消え失せた、ということは、同時に記憶野から切り離されたということだ。わたしの死んだ肉体の中で、わたしの海馬が記憶をすっかりたくわえていても、わたしはそこにアクセスする手段を失っていた。しかし、どういうことだろうか。そうだとすれば同じ理由でわたしは言語野からも切り離されているはずだ。いったいわたしはどうやって、ここで言葉を並べているのか。これは言語なのか。言語だとすれば何語なのか。わたしはわかって考えているつもりになっていたが、わたしはほんとうにわかって考えているのか。情報が足りなかった。というより、なにもなかった。入力を断ち切られた状態で、わたしは未来永劫にわたってここで自問自答を繰り返さなければならないのか。そう思っても、恐怖はなかったし不安もなかった。しかし、それはかなり退屈な作業になるだろうという予感がした。

 時間の感覚も消えていたので、しばらくすると、という表現はたぶん正確なものではないだろう。わたしが闇の中で自問自答を続けていると、不意になつかしい感覚がよみがえった。ほんの一瞬だったが、どこからか軽く押されたような圧力を感じた。小さな光が遠慮しながらまたたいたような感じだった。そしてかすかに、自分の記憶がよみがえった。わたしは病気にかかって死んだようだ。ひどい頭痛とひどい熱に責められていた。わたしは自分のベッドで死んだ。汗にまみれたパジャマを着ていた。また一瞬、今度は少し大きな光がまたたいた。わたしは直感にしたがって、これは生体電流のたぐいだろうと考えた。わたしは闇に閉じ込められて思考だけを抱えていたが、どうやら肉体はまだ近くにあって、つながりを保っているらしい。だとすると、わたしは自分の脳の中にいるということなのか。それともこれは霊魂になった状態で、死んだ肉体となにかで結ばれているということなのか。脳の中にいる、とわたしは思った。霊魂という考えにはなんとなく抵抗を感じた。

 わたしは自分が病気になった理由を思い出した。奇妙な病気が流行っていた。致死率はほぼ百パーセントで、患者は死亡すると自分の足で歩き始めた。健康な人間を見つけると噛みついて、そうすることで感染を広げた。わたしは腕を噛まれて、それからすぐに熱を出した。事実としてわたしが死んでいるなら、死んだわたしの肉体はたぶんどこかを歩いている。わたしはおそらくその中にいて、闇に閉じ込められて見ることも聞くこともできずにいる。いま、この瞬間、わたしはどこでなにをしているのか。もしかしたら、死人らしく横たわっているのかもしれない。それとも白と青の縞が入った汚れたパジャマの前をはだけて、町のどこかを歩いているのか。そうだとしたら、わたしは世間体を気にすべきなのか。恐怖も不安も肉体を起源としていたが、世間体についての意識はおそらく違うところから現われていた。

 またしても光がまたたいて、何度か軽くわたしを押した。生前の記憶がまたよみがえった。死亡した患者は歩きまわって感染を広げるだけではなかった。生きている人間に襲いかかって、食べていた。最初にその話を聞いたときにはそれ以上のナンセンスはないと思ったが、証拠の動画だというものを誰かに見せられた。たしか、勤め先の同僚だった。彼はわたしにある種の感情を抱いていたが、わたしは彼の感情にこたえようとしなかった。わたしは女だったのか。それとも男だったのか。どうもそこのところが判然としない。同じ動画がテレビのニュースで引用されていたのも覚えている。歩くのだから食べても不思議はない、とどこかの誰かが主張していた。しかしわたしとしては、歩く程度ならばともかくとしても、食べるのはどうにもナンセンスに思えてならなかった。食べていったいどうなるのか。それを言えば、歩いていったいどうなるのか、ということになるが、食べることに比べれば歩くことのほうがまだしも説明がつくような気がしてならなかった。

 決して断言はできないのですが。
 すぐ近くから声が聞こえた。
 死者は生きている人間を食べることで生体電流を奪っているのではないか、とわたしたちは考えています。
 わたしたち、とは。
 わたしたちとは、わたしたちです。あなたのまわりにいるのがわたしたちです。
 わたしはここに一人でいるのだと思っていました。
 あなたがわたしたちに近づいてきました。わたしたちはあなたの声を聞いて、あなたに話しかけたのです。
 なにしろ暗くて見ることができません。ここには何人いるのでしょうか。
 わかりません。わたしたちとあなたで三人いるような気がしているのですが、もしかしたら三人より多いのかもしれません。暗くて見ることができないし、声が、これを声と言っていいのかどうかわかりませんが、区別できないのです。
 波長の違いのようなものが、微妙にあるような気もするのですが。
 そうかもしれません。ただ個体の識別が非常に難しいのは事実です。
 わたしが近づいた、ということでしたが。
 現実世界の物理的な距離がなにかしら影響しているのではないかと考えています。
 つまり、わたしの死んだ肉体が、お二人の肉体といま同じ場所にいるということですね。
 そうです。そしてたぶん同じことをしています。
 口には出したくないことを。
 取り返しのつかないことを。
 いたって外聞の悪いことを。
 四人以上いるような気がします。
 だとすると、わたしたちはやはり元の肉体の中にいて、たとえばテレパシーのようなもので会話をしている、ということになるのでしょうか。
 わたしはそう思っています。
 わたしの考えは違います。なにしろわたしたちはすでに死んでいて、肉体のくびきから解放されているのです。わたしたちがいま置かれている状況を肉体の中、外という物理的な条件で制約する必要はありません。いわゆる自然界とはまったく異なるレイヤーにいると考えたほうが自然ではないでしょうか。
 超自然界ということですか。
 だとすれば、わたしたちは超自然状態にあるわけだ。
 わたしはなんとなく、煉獄のような場所だと思っていました。
 煉獄だったら、せめて薄日ぐらい差しているような気がします。
 先ほどのお話にあった、生体電流のことですが。
 誰か、そんな話をしていましたか。
 あまり確信はないのですが、死者は生きている人間を食べることで生体電流を奪っている、という発言があったような気がしてならないのです。
 確信がないのはしかたがありません。
 わたしたちはみな、記憶から見放されているのです。
 もしかしたら、言葉を垂れ流しているだけなのです。
 話した端から忘れているような気がしてなりません。
 だから誰もあなたを責めたりはしません。
 死者はなぜ生体電流を奪うのでしょうか。
 決して断言はできませんが、死者が歩くためではないでしょうか。
 生きている人間から電気を奪って、死者がそれで筋肉を動かすわけですね。
 人間のからだは頭の中はもちろん、内臓から血管から、いたるところに微弱電流が流れています。仮に効率の悪い手法でも、それを使えば死者は歩くことができるのでしょう。
 それはなかなか筋のとおった意見です。
 効率の悪い手法というのは、つまり。
 ええ、つまりあれのことです。
 例の、外聞の悪いやり方です。
 取り返しのつかない行為です。
 人類に対する犯罪と言ってもいいでしょう。
 死体になっているのだとしても、自分がそのような行為に加担していると思うとわたしは恥ずかしくてなりません。
 まったく、同感ですね。
 穴があったら入りたいものです。
 だからこういう暗いところにいるのかもしれません。
 この闇がわたしたちを隠してくれているのです。
 醜悪な行為が目に入らないようにしてくれているのです。
 霊魂が不浄であってはなりません。
 気のせいかもしれませんが、人数が増えていませんか。
 気のせいではありません。人数がかなり増えています。
 外、というのか、自然界で、なにか起こっているのでしょうか。
 たぶん、向こうでも集まっているのでしょう。
 集まって、なにが始まるのだと思いますか。
 わたしにはわかりません。
 わたしにはわかるような気がします。
 前に映画で観たのですが、死者たちは生前の習慣にしたがうことがあるのです。
 でも、歯は磨かないでしょう。
 わたしもゾンビ映画は観ましたが、歯を磨くゾンビは見たことがありません。
 いや、生前の習慣にしたがって、ショッピングモールに集まるのです。
 なぜショッピングモールに集まるのですか。
 それは生前、ショッピングモールを頻繁に訪れていたからです。
 あなたはそうかもしれませんが、わたしは違う。
 わたしも違う。ショッピングモールに足を踏み入れたことは一度もない。
 奇妙だ。なぜ断言できるのですか。
 はっきりした記憶があるのですか。
 わたしは自分の名前がわかりません。
 年齢も性別も、人種もわかりません。
 そのような状態で、あなたはなぜ、ショッピングモールに一度も足を踏み入れたことがないと断言することができるのですか。
 断言したわけではありません。ただ、そうであろうと思っただけです。
 それならいいのです。
 それならわかります。
 それならわたしたちと同じです。
 誰もあなたを責めたりはしません。
 しかし、おかしいとは思いませんか。
 そうです。直近の状況は比較的はっきりと思い出すことができるのに、肝心なことはほとんど思い出すことができないのです。
 たしかにこれは妙なことです。
 決して断言はできませんが、わたしには理由がわかるような気がします。
 仮定の話でもかまいません。
 わたしたちの状況自体が、仮定の話のように思えてならないのですから。
 死者は電流を体内に取り込んで、それで筋肉を動かすという話がありました。
 そうでしたか。
 言われてみれば、聞いたような気もします。
 しかし、なにしろ死者ですから、電流を必要な部位だけに流すという器用なことはできないでしょう。もちろん断言はできませんが。一部の電流は脳にも流れ、脳がわずかに活動して、最小限の記憶をわたしたちに送ってくる、という考えはどうでしょうか。
 それはなかなか筋のとおった意見です。
 しかし、それだけでは肝心なことが思い出せないという問題の説明にはなっていません。
 わたしは自分の名前がわかりません。
 年齢も性別も、人種もわかりません。
 年収を思い出すこともできません。
 決して断言はできませんが、電流は断続的で、しかも弱いので、脳はわたしたちに短期記憶しか送ることができないのです。
 なるほど、だから直近のことなら思い出すことができるのです。
 そして名前も性別も、年齢も人種も思い出すことができないのです。
 年収も住所も、職業も思い出すことができないのです。
 バッファを読んでいただけだったんですね。
 では、死者がもっと、つまり電流をたくさん手に入れたら。
 そうです。そうなったら、どうなるでしょうか。
 たぶん、もっと多くの記憶がよみがえることになるでしょう。
 だったら、ひとの多いところにいかないと。
 それで、なにを始めようと言うのですか。
 いや、わたしたちがなにかを始めるわけではありません。
 そうです、そうです。わかるでしょう。
 わたしたちにはなにもすることができません。
 でも、そういう場合はどこへいくんだ。
 ショッピングモールだ。
 そうだ、ショッピングモールしかない。
 生存者が、たぶんたくさん集まっている。
 恥ずべき行為に、積極的に加担しようというのですか。
 もちろん、そういうわけではありません。
 世間体はやはり気にしなくてはなりません。
 決して断言はできませんが、すでに手遅れだと思います。
 なにが手遅れだというのですか。
 先ほどから、ここは人数が増える一方です。おそらく死者たちは人間の生体電流が大量にある場所を嗅ぎつけて、集団でそこを目指しているのです。
 やっぱりショッピングモールだ。
 そうだ、ショッピングモールしかない。
 生存者がたくさん集まっている。
 ああ、わかりました。
 なにがわかったのですか。
 つまり死者たちは生前の習慣にしたがって行動するのではなくて、人間の生体電流に引き寄せられるのです。
 なんの話ですか。
 さっき、そういう話をしていたような気がするのですが。
 わかりません。
 わたしにもわかりません。
 覚えていることができないのです。
 実は気になっていることがあるのですが。
 気になることはたくさんあると思います。
 なにしろ覚えていることができないのですから。
 確信があるわけではないのですが、ひとによって獲得できる記憶の量やここで保持できる記憶の量に差があるような気がしてならないのです。
 ああ、わたしもそれは感じていました。
 そうですね。わたしも感じていました。
 そうですか。わたしは感じていませんでした。
 これはあくまでも推定ですが、死者が獲得している生体電流は、個体によってばらつきがあるのではないでしょうか。
 それはなかなか筋のとおった意見です。
 しかしそれでは、ここで保持できる記憶の量の差を説明できません。。
 これもまた確信があるわけではないのですが、おそらく記憶野からの上りもあれば、たぶん記憶野への下りもあるのでしょう。
 わたしたちのここでの会話を死者たちの脳が記憶しているということですか。
 そう考えると、いちおう辻褄があうような気がします。
 それはなかなか筋のとおった意見です。
 しかしそれでもまだ、差が発生している理由を説明できません。
 認めたくはありませんが、たぶん死者の強さにあるのです。
 あるいは、集団の中で死者が占める位置かもしれませんね。
 集団の先頭にいれば、より多くの電流が手に入るわけです。
 超自然界にいるつもりでしたが。
 自然界の不公平をまだ引きずっていたわけですね。
 残念なことです。
 まったく、残念なことです。
 ところで、いま見えた光はなんでしょうか。
 わたしにも見えました。
 そう、不思議なことに見えたのです。
 青白い光がぱっと開いて、そのまますっと消えました。
 ほら、あそこでも。
 また、あそこでも。
 ほら、今度は続けていくつもの。
 いくつ光りましたか。
 かなりの数でした。
 なにが起きているのか、わかったような気がします。
 わたしも、わかったような気がします。
 光るたびに声の数が減っているのです。
 断言はできませんが、たぶん攻撃を受けています。
 攻撃を受けて、死者が滅ぼされているのです。
 生存者たちは、たぶん重機関銃まで使っています。
 わかるのですか。
 続けざまに消えた光のリズムが重機関銃の発射サイクルと似ていました。もちろん断言はできませんが。
 また光りました。
 ほら、あそこでも。
 また、あそこでも。
 減りましたね。
 ずいぶん静かになりました。
 光ると、どこへいくのでしょうか。
 それは気になるところです。
 ただ消滅するのでしょうか。
 それとも違う場所に移るのでしょうか。
 違う場所とはどこでしょうか。
 霊魂の不滅を信じていますか。
 わたしにはわかりません。
 わたしにもわかりません。
 確信は持てませんが、違う場所に移るのだとすれば、それはそれほど悪い場所ではないのではないかと思います。
 それは悪い意見ではありません。
 ここもそれほど悪い場所ではありませんでした。
 次もそれほど悪い場所ではないと思います。
 また光りました。
 これはほとんど全滅でしょうね。
 お別れを言ったほうがよさそうです。
 そうしましょう。
 次の場所で再会できることを祈りましょう。
 ここで皆さんに会えてよかった。
 皆さん、いいひとばかりでした。
 さようなら。
 さようなら。
 また会う日まで。
 さようなら。

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2014年5月15日木曜日

冒険者

冒険者
The Adventurers
1970年  アメリカ 171分
監督:ルイス・ギルバート

南米のとある小国で革命が始まり、政府軍は革命の闘士の家を襲って殺戮と強姦を繰り返していた。革命の闘士ゼノスの家でも妻と娘が殺され、革命の将軍ロホの家でも妻が殺され、ゼノスの幼い息子ダックスとロホの幼い娘アンポーラが生き延びる。
革命は成功し、ゼノスは大使としてイタリアに派遣され、ダックスも父親と共にローマに移る。ローマでは男爵で大金持ちの銀行家が支援を約束し、ダックスはブルジョアの師弟を集めた学校に入り、そこで男爵の息子や公爵の息子と友達になり、時が移って成人となり、金持ちの息子とポロをやり、スポーツカーで走り回り、男爵の家で乱痴気騒ぎを繰り広げる。息子が遊んでいる間にゼノスは本国に召還され、今や独裁者となっていたロホ将軍に暗殺されてしまう。現行政府に批判的だと判断されたからであったが、そうとは知らないダックスは父親の葬儀のために本国に戻り、そこで将軍の密命を帯びて反政府勢力と取引をする。反政府勢力はダックスを信じて武装解除に応じるが、もちろんロホ将軍は嘘をついていたので反政府勢力は武装解除に応じた後に虐殺されてしまう。反政府勢力のリーダーも射殺され、その息子はダックスに復讐を誓って闇に消え、ダックスはローマへと戻る途上、乱れた祖国をよくするために資金を獲得しようと心に誓う。だが先立つ小銭もない有様なので友達の紹介でエスコート・サービスの道に入り、金持ちのアメリカ婦人を相手に金を稼ぐ。そうしているうちに世界一金持ちなアメリカ娘スー・アンと恋に落ちて結婚する。ここまでで1時間半。
スー・アンはすでにダックスの子供を身ごもっていたが、突然ブランコから落ちたりするので流産して、さらに二度と子供を産めない身体になってしまう。たしかこのあたりで休憩になり、後半が始まるといきなり5年が経過していて、舞台はニューヨークの上流社会へと移り、ダックスはすでに3度の結婚と3度の離婚を経験し、悪名高いレディキラーになっていた。その噂を聞いたロホ将軍はこの男ならばアメリカから金を絞れると考え、ダックスを本国に呼び寄せてアメリカの海外援助を獲得するように依頼する。
ローマでブルジョアな生活を送り、ニューヨークでは浮名を流して人妻を押し倒していたダックスは、それでも愛国者を自認していたので国のためを思って承諾し、つてを頼って海外援助委員会に接触し、援助の獲得に成功する。委員の妻はローマ時代のお得意であった。アメリカから得た資金は農民のためのトラクターや肥料などの購入に使われる筈であったが、ダックスの知らないところで陰謀が進行し、資金は武器調達に使われていた。ロホ将軍は嘘をついていたのだ。真相を知ったダックスは国へ戻り、反革命勢力と協力して政府軍の武器を奪い、ついでに首都を制圧する。死体の山が築かれ、ロホ将軍はダックスに射殺され、そしてダックスもまた凶弾に倒れ、祖国には新たな独裁者が出現するのであった、というような話でほぼ3時間。
どうしてこんなに長いのかというと、まず余計なシーンがやたらと多い。花とか花火とかファッションショーとか、どうでもいいようなものがたくさんある。それとベッドシーンがやたら多い。なぜかオリビア・デ=ハヴィランドまでがベッドシーンをする。それから恋人同士がデートを始めたりすると「故障ではありません。そのまましばらくご覧ください」モードに入っていって、世にもつまらない男女のじゃれあいが延々と流れたりする。つまりアハハ、アハハと笑いながら走り回って、やったなあコイツぅ、などと小突きあう、あれである。この60年代の悪癖の集大成のようなものを見ているうちに、この頭が空っぽな連中をなんとかして地上から抹殺しなければならないという使命感が湧き起こってくるので、まったく無意味な映画だというわけではない。

冒険者 [VHS]
Tetsuya Sato

2014年5月14日水曜日

冒険者たち

冒険者たち
Les Aventuriers
1967年 フランス 113分
監督:ロベール・アンリコ

パイロットのマヌーは飛行機乗りで、凱旋門をくぐって一攫千金をたくらんでいたが、法に触れて免許を永久に停止される。エンジニアのロランは革命的な車のエンジンを開発しようとたくらんでいたが、当のエンジンが火を吹いて苦心の実験車が火に包まれる。そして芸術家のレティシィアは貯金をはたいて個展を開くが新聞の酷評にさらされる。夢を失いかけたマヌーとロランはコンゴの沖に沈んだ5億フランの財宝に関する話を聞き、レティシィアを誘って3人で現地へ出かけてたいそうはしゃぎながら引き上げ作業に取り掛かるが、もちろん財宝には黒い影がつきまとう。
ロベール・アンリコのタッチにはそれなりの心地よさがあるが、後半はどうも消化が悪い。

Tetsuya Sato

2014年5月13日火曜日

マルセイユの決着

マルセイユの決着
Le deuxieme souffle
2007年 フランス 156分
監督・脚本:アラン・コルノー

大物ギャング、ギュが刑務所を脱獄した頃、マヌーシュのクラブをヴァンチュールの一味が襲い、自宅に戻ったマヌーシュをチンピラが襲うが、そこへギュがやって来てマヌーシュを救い、ギャングのジョー・リッチが事件の背後にいることを知り、早速、ジョー・リッチをなんとかしようとしているとジョー・リッチはパリから逃れ、それを言えばギュ本人も指名手配されている、ということでマルセイユ経由でイタリアに逃れる計画を立て、マヌーシュがマルセイユで逃亡に使う足と書類のお膳立てをしていると、ローカル線を乗り継いでマルセイユに到着したギュにジョー・リッチの兄ヴァンチュールが声をかけ、危険なヤマに誘い入れる。ギュの認識としてはジョー・リッチはとんまだがヴァンチュールはまともであったので、ギュはヴァンチュールの誘いに乗って一味に加わり、金塊強奪に成功するが、間もなく警察の罠にはまって逮捕され、新聞報道ではギュがあたかも仲間を売ったかのように書き立てられ、それを知ったギュは仁義を重んじる昔気質のギャングであったので怒り狂って警察から逃れ、周囲の反対を振り切って汚名をそそぐために手段を選ばない行動に出る。
ジョゼ・ジョヴァンニの小説の再映画化。1966年のジャン=ピエール・メルヴィル版は未見。もしかしたらジョゼ・ジョバンニの原作は面白いのかもしれないという気もしてくるし、ところどころになんとなくジャン=ピエール・メルヴィル風の小さな演出が見え隠れするところが面白いと言えなくもないが、全体から言うと平板で、面白みがない。しかも色彩設計がかなり奇妙なことになっていて、主人公とその周辺の場面では画面がセピア色になり、対立するギャングが出てくると赤が強調される。これも見事に失敗しているが、もしかしたらモノクロで撮りたかったのではあるまいか。主人公ギュはメルヴィル版ではリノ・ヴァンチュラが演じているようだが、こちらはダニエル・オートゥイユで、なにやら目をくわっと開いて熱演をしていることはわかるものの、雰囲気がどうにもおとなしいので、いつまで待ってもそれらしい様子に見えてこない。かなりの予算をかけて1960年代フランスの様子が再現されているが、それよりもメルヴィル版のデジタルリマスターをしたほうがよかったのではあるまいか。 


Tetsuya Sato