『砂漠』と題されたこの作品では、仙台の街を舞台に、たまたま大学で同じクラスになった五人の男女の青春の軌跡が描き出される。一人は大学生活を遊びにかけて女の子に声をかけまくり、一人は現代の世界情勢に憤ってマージャンで平和を作り続け、一人はクールに自分を生き、一人は静かに恋を育み、語り手である「僕」は初めは世界を冷静に俯瞰しながら、やがて仲間に引きずられるようにして視点を地上に下ろしていく。形はあきらかに正攻法の青春群像劇を指向しているが、予想されるような青臭さはついに一度も顔を出さない。代わりに見えてくるのは人間が五人集まったときにふつうに現われるようなとりとめのなさであり、そのせいで話がどこへ転がるのかわからない危なさである(実際、かなり危ないことになるし、語り手一人に限っても、大学在学中の四年間に路上で少なくとも二度格闘し、少なくとも三度は警察に出頭している)。そしてよくよく考えてみると、この主人公五人の共通点というのが実はマージャンをするということだけで、それ以外にはなにもないということに気づかされる。そういう組み合わせなので、いったんマージャンから離れるとそれぞれが勝手にそれぞれの方向へ飛び出していくことになるものの、読者にとっての心地よい驚きは登場人物のこのばらばらとした動きが決して不協和音を奏でることなく、よく吟味された多声性のなかへ収められていくことである。
ときには深刻に、ときにはコミカルに、ときには勇敢に、ただし決してネガティブにはならない主人公五人の学生生活は、苦労の多くて稔りの少ない実社会という「砂漠」と対比され、その砂漠のような場所に向かってやがて若者たちは旅立っていくことになる。どこかファンタジックではあるが、現実を写そうと試みる作者の手つきには偽りがない。
(週刊現代 2006/1/21号)
Tetsuya Sato