2012年7月31日火曜日

北野勇作『空獏』

『空獏』 / 北野勇作(早川書房,2005/08/20)


どうやら夢のなかで、いつの頃からか戦争がおこなわれている。その夢というのはひとりの人間が見ている夢ではなくて、多数の人間の眠りの上に構築された「獏」と呼ばれるシステムで制御された夢で、夢を見ている人間は目覚めの時期を知らないので、延々と続く眠りのなかでどこまでもどこまでも戦争の夢を見続けている。夢のなかでは昔なじみの悪夢のように同じ場面が繰り返され、夢を見ている人間はその場面にどこかで既視感を覚え、これから起こることを予期しながらも夢から逃れることができずに繰り返して死を経験し、そしてそれは夢のなかのことなので、そうしてもたらされた死の光景は死んだ人間の記憶に焼き付けられる。
まるで悪夢のような、悪夢の話なのである。状況は曖昧模糊としていて、視野の縁は欠けていて、掟は手の届かない彼方にあり、説明もなければ釈明もない。登場する「わたし」は日常の光景の地続きの延長としての戦場へ進み、あるいはいきなり戦場に放り出されて日常という夢に逃避する。状況は常に理不尽で、逃げ場がない上に容赦がない。かろうじて記憶にとどめられた慎ましやかな思い出が唯一の救いとなっているものの、その思い出にしてからが出所には確信がないという有様である。
この唐突さと曖昧さ、そして残酷さと滑稽さは無限に循環する悪夢という枠からはみ出し、いつしか現実の戦争と重なりあう。ここで「わたし」が黙々と呑み込み続けるのは、おそらくは現実の戦場に置かれた兵士が味わう無情さであり、退屈であり、見えない掟への諦観であろう。あとがきには「ひたすらかっこわるくてセコくてアホらしい戦争の話にしようと思った」と記されているが、まったくの話、戦争からアホらしい英雄幻想を取り除いたあとに残るのは、「ひたすらかっこわるくてセコくてアホらしい」という、ただそれだけのことなのである。戦争に閉じ込められた個人の心象を媒介に、戦争の本質が実に見事に明かされている。




Tetsuya Sato