2012年5月14日月曜日

抑圧機関としての身体:押井守についての小論

飛行船の編隊飛行がなんとも言えずに美しい1993年の押井守監督作品『機動警察パトレイバー2 the Movie』を見ていたときのことである。
ラスト近く、特車二課の最後の突撃が終わり、東京を混乱に陥れた張本人、柘植行人が逮捕される。この柘植という人物はもともと自衛官で、東南アジア某国でのPKF活動中に自分の部隊が全滅するという状況に遭遇し(ありそうな話だが、上からの命令で敵対勢力への反撃を禁止された)、帰国してからは姿を隠して非合法の活動にかかり(つまり、そのくらい腹を立てたということであろう)、東京を舞台に様々な騒ぎを起こして架空の戦争状態を演出していた。平和の背後には戦争が現実の状態として存在することを偽りの平和に首まで浸かった人々に思い知らせるためであったが、それが失敗に終わって逮捕され、ヘリコプターに乗せられて東京湾を越えていくとき、刑事が前の座席から振り返ってこうたずねる。
「これだけの事件を起こしながら、なぜ自決しなかった?」
劇中では大半のことが、この閉塞感の内側で進行する。その結果として周辺に位置する一般社会は次第に影が薄くなり、それにしたがって倫理規定も後退し、誰が法を執行しているのかもあまり重要ではなくなっていって、最後にはただ自分たちの論理にしたがって自分たちの問題に直面していくだけ、というなんとも悲劇的な状態に陥っていく。こうした閉塞感の起点にあるのは現状への疑問や職業的な信念であり、閉塞感の形成を経て敵として認知されるのは外界にある何かではなくて、たいていは組織の上部構造である。この台詞にちょっと驚いた。警察官の口から出るような台詞ではなかったからである。犯人が自分で自分に判決を下すのを見て喜ぶ警官はいないだろうし、自分で判決を下していないという理由で犯人をなじる警官もいないだろう。察するに、このとき両者のあいだには警官と犯罪者という関係は成立していない。どうやら刑事は法の外側に立って話をしているが、犯人はそのことを気にしていないらしい。いや、それだけではない。犯人を捕まえた特車二課にしてからが、出動に先立って叛乱を起こしていたではないか。事件は解決され、犯人は逮捕されたことになってはいるが、その現場には肩書き以上の意味を持つ法の執行者は一人もいないし、だから我々が知っているような法秩序も存在していない。しかも、そのことを誰も気にしていないのである。  押井守氏の作品には、ときとしてこのような場面が出現する。たとえば『紅い眼鏡』『ケルベロス』から『人狼』へといたる系譜も架空の警察組織を背景としているが、この組織の役割はまず官僚機構の性格として自己保存プログラムを走らせることにあり、次に内部の構成員を抑圧することにあり、いずれにしても、外界に法秩序をもたらすことにはないように見える。そして組織の内部にあって上からの抑圧を受けた登場人物は、もっぱら内部の秩序とのみ関係を保ち、恭順と反発のはざまに立って、自分の周囲に深刻な閉塞感を形成していくことになるのである。
1995年の『GHOST IN THE SHELL/攻殻機動隊』でも主要な抑圧は官僚機構のあいだに渡されたプロトコルが提供し、後半ではそこから発展する形で公安九課と外務省の闘争が開始される(その暴力性は原作の描写を上回る)。そして2001年の『アヴァロン』では電脳空間に展開されたゲーム・システムという形で抑圧機関が出現し、次の段階ではシステム自体が挑戦の対象へと姿を変える(ゲームだから当然である)。
登場人物たちは制度がもたらす重圧に直面し、決死の覚悟によってその状況を打開していく。だが打開に成功しても制度自体が消滅することは決してない。物語の古典的な法則に反して、抑圧からの解放を誰一人として望もうとしないからである。
 気の毒なことに、登場人物は居場所を抑圧装置の真下にしか見つけられないひとばかりで、その存在理由はしばしば抑圧装置によって規定されていて、したがって抑圧からの解放は、どうかすると存在の停止を意味している。同じ存在理由、同じ無為という点で、ここに登場する人々は一個の自我を共有しているようにも見えなくもない。
 結局、抑圧はそのままの姿で継承され、登場人物は閉塞感の内側にそのまま取り残されてしまう。そして取り残された人々は暗がりの中にひっそりとたたずみ、一人で、二人で、ときには三人くらいで集まって、ひそひそとつぶやくことをやめようとしない。それはとりあえず会話としての体裁を備えているが、おそらくは、会話の内容そのものよりも耳に届く響きのほうに重要な意味が与えられている。抑揚の乏しい淡々とした響きが作品に陰鬱な影を投げかけていくのだ。
『イノセンス』にも同じ種類の影を見つけることができる。
この映画の骨格になっているのは士郎正宗氏のマンガ『攻殻機動隊』の六番目のエピソードで、人間の形状をした愛玩用ロボットが人間を襲い、テロの可能性を疑った公安九課が乗り出してきて、おもにバトーとトグサの二人がコンビを組んで捜査活動を進めていく。映画の開巻からまもなく、鑑識を訪れたバトーとトグサは係官から育児行為と人形遊びの類似性に関するいささか奇怪な見解を長々と聞かされることになるが、その語り口は事実上のモノローグであり、意見の交換が予定されていない。会話をしているように見えても、実際には独り言を言っているだけなのである。しかも、その内容は後で出現する表象を予告するためのものであって、ストーリーを進行させるためのものではない。
目に見えない約束にしたがって、コミュニケーションはいつのまにか放棄されている。係官のモノローグが映画を包囲して暗い影を投げかけていくと、バトーも閉ざされた世界の中にたたずんで淡々とした声の流れに身を任せる。
ところが不意にトグサが口を開いて、そろそろ仕事の話がしたいと言い出すのである。トグサはバトーの同僚であり、形としては官僚機構という抑圧装置を共有している。それにもかかわらずトグサはバトーと同じ影の中に立つことを拒み、ひそひそ話を終わらせてストーリーを前に進めようと試みた。ここでは閉塞感は共有されていない。
ほかの場面でも、トグサは同じ台詞を口にする。
後半に入ってバトーとトグサは物証を求めて北端の都市エトロフへ飛ぶ(異様な都市景観は言わずもがなだが、着陸していくティルトローター機のあの姿、そして翼の動きは感涙ものであった)。そしてハッカーがひそむ世にも怪しい屋敷に侵入し、ハッカーによって用意されたいくつもの電子的な脱線に遭遇したとき、再び口を開いて、そろそろ仕事の話がしたいと言うのである。
閉塞感の形成プロセスにリセット・スイッチが挿入されていて、トグサがそれを押しているのだ。世界に影を投げかけるひそひそ話に、トグサは格別の意味を見出していない。では、主人公バトーと行動をともにする、このトグサとは何者だろうか。
まず、肉体的には異分子として位置づけられている。鑑識の場面にはバトーとトグサ、そして係官が登場したが、ここではトグサだけがサイボーグ化されていない。エトロフの場面にはバトーとトグサ、そしてハッカーが登場したが、ここでもトグサだけがサイボーグ化されていない。つまり、生まれてきたままの生身の肉体を備えているのである。
社会的な背景も、トグサはほかの登場人物と大きく異なっている。この世界ではおそらくトグサだけが普通に家庭生活を営んでいて、家には奥さんと小さな娘が待っているのである。原作では結婚記念日に仕事を放り出して家に帰ろうとするけれど、もちろん帰してはもらえない。原作のマンガではトグサは詰めの甘い半人前として扱われていたが、映画版『攻殻機動隊』ではトグサは単なる半人前ではなくて、草薙素子によって一般警察からスカウトされたという設定になっていて、その目的は攻殻機動隊というシステムに変数を与え、隊員の均質化を回避することにあったという説明が加えられている。
つまり、トグサ自身が価値観の共有を妨害するスイッチだったのである。『攻殻機動隊』では脇役であったトグサが『イノセンス』では前景に送られ、与えられた役割を着々とこなして世界の均質性を破壊していく。たとえば「仕事と家庭とどちらを選ぶか?」という単純な選択肢をトグサが内蔵するだけで、「我々の居場所はここにしかない」という悲劇的な閉塞感は悲劇性を失ってしまう。
この過程を経ることによって社会は多様性を獲得し、反対に虚構性を低減させてリアリティを主張するようになる。一方、そもそもから存在する「閉塞する」という目的は社会的な足場を喪失し、安定した自我を求めて内的宇宙へと沈潜していく。そこで関係性を個人の上に再構築して、ゴーストと義体という新たな対立を出現させるのである。影をまとったささやきはゴーストとなり、抑圧的な上部構造は義体という器に変容する。オープニング・タイトルに現われた胚(卵細胞)とそれを包み込む人形の身体(ベルメール風の)の映像はこの対立をすでに暗示している。
さて、トグサは鑑識の係官とハッカーには介入をおこなったが、バトーの台詞には介入しない。いちおうは先輩だと思って、敬意を払っているからであろう。バトーはエトロフ某所に置かれた巨大なモニュメントの足元にたたずんで、淡々とした調子でハッカーの前歴を語り始める。鑑識の係官の台詞と同様にこれは事実上のモノローグであり、意見の交換が予定されていない。だが、それは以前のような影を生み出そうとしない。モノローグそのものはハッカーが用意した電子的脱線のトリガーに変換されてしまう。抑圧はすでに内向し、本物の影は見えない場所でゴーストを覆っているのである。そしてバトーの閉塞感もまた内向し、問題を解決するためには身体に穴を開けなければならなくなる。
主人公バトーは『イノセンス』のほぼ全篇にわたってそうしていた。まず冒頭、暴走したロボットの身体にショットガンで穴を開き(それはスキャナーの矢印によって強調される)、次に電脳ヤクザの一群を重機関銃で穴だらけにし、自分の身体にも弾を撃ち込んで穴を作り(自分の意志ではなかったとはいえ)、最後は襲いかかる人形の群れに向かってただひたすらに撃ちまくる。そうしていると、その傍らには草薙素子が衛星軌道から降りてきてバトーに救いの手を差し伸べるのである。
草薙素子は義体を捨てて、ゴーストだけになって電脳空間の中に生きている。穴は必要としていない。ゴーストと義体との関係を対立によって捉えるならば、草薙素子はその対立から解放されている存在である。もともとヒロインであるという点を割り引いても、その様子はひどく神々しい。ほとんど無敵のように見えなくもない。
ここに草薙素子という一種の超越的自我が示されることで、内的宇宙は対立関係を克服する。トグサが変数であったように、身体もまた変数として機能し始めるからである。身体が多様性を帯びるとき、そこには必然的にゼロが含まれていくことになる。つまり身体性という点から言えば不在の存在である草薙素子は、まさにその不在によって自動的に「穴」を肯定する。そのとき、身体はもはや抑圧機構としては機能しない。自由が宣言されているのだ。映画の結末において、トグサは娘を抱き、トグサの娘は人形を抱き、バトーは犬を抱き上げる。この連鎖の中に相似性はあっても不気味な均質性は存在しない。ここで背景に出現するのは陰鬱な閉塞感ではなくて、淡々としていて、しかも揺るぎない愛情なのである。察するに、世界は前よりも少し明るくなったのであろう。
『ユリイカ2004年4月号 特集=押井守』より

Tetsuya Sato