2011年10月6日木曜日

佐藤亜紀『戦争の法』

『戦争の法』は一九九二年に発表された佐藤亜紀の二作目の長編小説である。本文中ではなぜかN***県と表記されている新潟県がよくわからない政治的謀略によって一九七五年に日本からいきなり独立し、事実上のソ連軍占領下に置かれた状況で少年が山に入ってゲリラとなり、いわゆる戦争を体験する。少年の視点から戦時生活を扱っているという点では『戦争の法』から十五年後に発表された『ミノタウロス』と似ていなくもないが、『ミノタウロス』が早々と完成された人間が人間性自体から切り離されて自覚的に破滅していく話だとすれば、『戦争の法』は語り手の成長がほのかに見えるビルディングスロマンだと言えなくもない。しかし両者における最大の違いは物語の帰結よりも一人称の語り手が立つ時間軸上の位置にあり、大雑把を覚悟でまとめてしまうなら、『ミノタウロス』が語り手の視野にとどめられた現在進行形であるのに対し、『戦争の法』はあくまでも過去形であり、それもただの過去形ではなく、回想録の形式で出来事を扱う。そして回想録であるからには、読者から見て信頼できる語り手が見てきたことを見てきたままに、あるいは感じたことを感じたままに語るのではなく、事実関係をあとからいくらでも整理できる立場の語り手が、記憶の風化や心象の変化による事実誤認をものともしないで語るのである。回想録形式で書かれた小説の典型としてはサッカレーの『バリー・リンドン』をあげることができるだろう。アイルランド人の放蕩児によるこの回想録にはところどころに注があり、ここは嘘、ここは間違い、と作者サッカレーが元気に突っ込みを入れている。『戦争の法』には作者による注こそないものの、本質的にはまずそのような形式の小説であり、加えて回想録が陥りがちな問題点を語り手がわざとらしく見越した上で「これはフィクションである」という断りを入れている点にこの作品の構造的なひねりがある。単なる回想録形式の小説ではなく、回想録形式の小説だと語り手が宣言している回想録形式の小説であり、これはつまり、読者から見て信頼できない語り手が「わたしは嘘をついている」と言っているのと同じことなのである。嘘つきが「嘘をついている」と言っていたら、それは「嘘をついている」と嘘を言っているのか、それとも「嘘をついている」と本当のことを言っているのか、といったあたりの問題は置くとして、この妙な仕掛けのせいでドラマティックな要素は、語り手の言葉を借りるなら「紋切り型」は、疑問をはらんで平面化され、ときには批評的に客体化される。語り手のどことなく冷笑的な口ぶりからすでにしてあきらかなように、ありがちなヒロイズムやメロドラマを期待できるような作品ではない。実を言えば『戦争の法』には近代的なロマンに要求されるほとんどすべてのドラマティックな要素が網羅されているにもかかわらず、そのことごとくが、語り手の内面における事象ですらが、冷淡とも言えるほどの冷静さで、一定の距離感を置いて扱われている。言い方を変えれば、紋切り型の周辺には美化され、単純化される前の状況がそのままの形で投げ出されている。その有様は傍目にうるわしいとは言いがたいが、一方すぐれて人間的であると言わざるを得ない。たいていの場合、煩悩に突き動かされているという点で、人間的であると言わざるを得ない。そもそも語り手にしてからがしばしば愚かな衝動のとりことなり、語り手が一目を置く伍長にしても本人にしか理解できない欲望ですっかり目を曇らせている。語り手の親友千秋にいたっては、ほとんど人間の体をなしていない。教育を受け、理性を備え、賢明な判断を下す能力を持ったはずの人間が、自分の本性に対して忠実であろうとするために、早い話、つまらない見栄を張りたいがために妥協を拒んで雑音を立て、誰にでもわかる正しい人間になろうとしない。『戦争の法』が全編にわたってある種の緊張感に満たされているのは、誰かがどこかで常に面倒を引き起こしているからだと言ってもいいだろう。このほとんど無意味なまでに強固な「おのれ」は時間をかけて煮詰められた関係性から出現する。関係性を煮込む鍋がS***市であり、語り手はこの鍋の性格を説明するために第一章「地方風俗の研究」でかなりの紙数を割いている。語り手が世に言うところの写実主義を拒まなければ、ボヴァリー夫人を一気に百人くらいは掴み出せそうな土地柄に見える。余談になるが、『戦争の法』が発表された当時、どこかの雑誌である評論家が、このような土地は日本にはない、と断言した。仮にそれが事実だとしても作品の評価とはまったく関係がないはずだが、このような土地は日本にはない、ので、この作品はだめだ、という不思議な文脈がそこでは採用されていた。これはこれで単細胞に単純化を求める悪しき紋切り型の最たるものだが、いずれにしてもこの評論家はつまらない見栄を張るために無用の断言をおこなって自分の無知をさらけ出しただけなのである。わたしはS***市のモデルになった町を何度か訪れたことがあり、その土地の気風については、サッカレーの言葉を借りるなら、外から見てよく知っている。もちろん作中における若干の誇張を疑うことは可能だし、一九七〇年代と現代とでは目に見えるものにいくらかの違いがあるはずだが、おおむねにおいて本書に記されているとおりの土地が我が国には間違いなく存在する。そしてそこに置かれた鍋が何かの事情でひっくり返ると、すっかり煮詰められた関係性があらわになって強固な「おのれ」が活動を始める。鍋をひっくり返すのが戦争である。最初に戦争があるわけではないし、戦争によって社会的な関係性が棚上げにされるわけでもない。まず傍目にははっきりと見えない関係性があって、その延長線上にたまたま戦争があり、関係性で結ばれた個人の行動形式が戦争によって変更されるだけなのである。ここで戦争はなし崩しに国際政治の原理から切り離されていつの間にか地方風俗に回収され、煮詰められた関係性を次の段階へ進めるための材料となる。得体の知れない見栄や因縁のせいで攻撃の対象にされるソ連軍こそいい面の皮であろう。そのような戦争のなかで英雄を探し出すのは困難だし、正義を見つけ出すのは不可能に近い。それだけではない。いったんことが片づいたあとでは、事件全体がスキャンダルにまで貶められる。それも全国的なスキャンダルではなく、どこか遠くの、聞いたこともないような土地で起こったスキャンダルである。我々は新聞の社会面でそのたぐいの記事に目をとめて、現場にいたはずの俗物じみた人物をおもしろおかしく想像するが、『戦争の法』ではそうした俗物じみた人物が地元の因縁をまとって山ほども現われ、それぞれに「おのれ」を発揮する。しっかりと地面に足を踏ん張って、限りなく低い視線であたりを見渡しているので、国家や国民などという絵空事は目に入らない。勇ましさにはほど遠いし、格好悪くすらあるのだが、国家への忠義を叫んで散華する山盛りのヒトラーユーゲントよりも、このほうがよほどにましであろう。「戦争の法」という言葉自体は本来、戦争に関する国際法規全般を意味しているが、ここでは関係性にからめ捕られた人間の行動の振幅を表わしている。そしてこのあまり見かけない種類の小説は前置きどおりに紋切り型を網羅しながら律義に回想録の形式をなぞるので、最後には語り手自身の恋についても、いちおうは触れておかなければならないのである。(『戦争の法』(文春文庫)解説より)



Tetsuya Sato