2011年10月6日木曜日

森見登美彦『四畳半神話大系』

 森見登美彦氏のデビュー作『太陽の塔』を読んだときの興奮はなかなかに忘れられるものではない。直球勝負でむやみと愛を叫ぶような小説ばかりが幅を利かすご時世に、綾もあれば嘘もある屈折したモノローグを硬派の文体にのせて巧みにあやつり、実に鮮やかに、そしてあきれるほどのばかばかしさで青春の煩悩を描き出していた。登場人物はいずれもよく育まれ、細部は楽しくて得体の知れない蘊蓄に富み、語り口はどこまでも知的で心地よい。しかも作品を紡ぎだす手つきが若々しくてきびきびとしていて、その様子があまりにも好ましくてすがすがしいので、読んでいるこちらは主人公が頭に描く黒髪の乙女に出会ったような気分にもなった。鬱々として日々を送る悶々とした若者を主人公に据えた小説としては、これは希有のことであろう。
 本書『四畳半神話大系』は『太陽の塔』から一年ほどあとに発表されたもので、森見氏の二作目の長編となる。道具立ては『太陽の塔』とよく似ている。つまり大学生の主人公は傾きかけたアパートの四畳半一間の下宿に暮らし、明るいキャンパスライフから遠ざけられていつしか青春の暗黒面に引きずり込まれ、初々しい黒髪の乙女との美しい恋に焦がれる一方、逃れようのない心持ちで奇怪な友人に囲まれている。ただし『太陽の塔』の主人公が休学中の五回生で事実上のストーカーというかなり煮詰まった状態であるのに対し、こちらは大学三回生といういくらか先のある状態で、それなりに追い詰められてはいるものの、煮詰まったあげくに「ええじゃないか」というあさましいところまではいっていない。逆に、なまじな可能性が残っているだけに、語り手である「私」は鏡をにらんで自らの価値を自問する。先はあっても先の見えない状態なので、もっぱら過去に思いを馳せて失敗を悔やみ、現在の不遇を思って怒りを起こし、自問するのはほどほどにして一切を唾棄すべき親友「小津」のせいにする。
 重厚かつ尊大に語りながらも正直なしっぽを隠しきれない語り手をはじめ、登場人物はいずれも魅力的である。悪友「小津」は無意味な悪の権化となって「私」のまわりをちょこまかと跳ね、理知的な風貌をした黒髪の女性の「明石さん」は遠くから「私」の男心を刺し貫き、「私」の部屋の真上では仙人のような「樋口師匠」が哲学的な能書きを添えて闇鍋を催し、酒豪で美女の「羽貫さん」は酔って男の顔を舐め始める。そうした人々に囲まれながら語り手は京都の町を彷徨し、鴨川の河川敷に並んだ恋人たちに呪いをかけ、妄想から生まれたようなタワシを探し、院生なのに学部のサークルから足を抜かない「城ヶ崎氏」にはひどく手間のかかった仕返しをたくらみ、絶品であるという猫ラーメンをうまそうに食べ、魚肉ハンバーグをまずそうに焼き、ラブドールの「香織さん」の夢見るような瞳を見つめ、スポンジでできたクマのぬいぐるみをもみしだく。傍から見る限りでは疑いようもなく無意味で楽しい毎日であり、「小津」が語り手に問いかけたのと同様に、いったいなにが不満なのかと質したくなるが、「私」は目の前にぶら下げられた現実を拒み、あり得たはずの「薔薇色のキャンパスライフ」を夢想する。
 森見氏はここで特異な構成を採用した。『四畳半神話大系』は全体が四話で成り立っており、第一話の「四畳半恋の邪魔者」で「私」は映画サークル「みそぎ」に入って「小津」と出会い、サークルの和気藹々とした雰囲気に馴染めないまま大学生活の二年間を棒に振る。第二話の「四畳半自虐的代理代理戦争」では「私」は真上の部屋に住む「樋口師匠」の弟子となって「小津」と出会い、何の弟子かもわからないまま振り回されて大学生活の二年間を棒に振る。第三話の「四畳半の甘い生活」では「私」はソフトボールサークル「ほんわか」に入って「小津」と出会い、「小津」の掌の上で踊らされて大学生活の二年間を棒に振る。最終話の「八十日間四畳半一周」では「私」は秘密機関「福猫飯店」に入って「小津」と出会い、謎の組織「図書館警察」の手先となって大学生活の二年間を棒に振る。第一話から最終話にいたるまで、ふつうに期待されるような時系列の連続性は与えられていない。入学から始まる二年間という同じ時間の枠のなかで話が横に並んでいるのである。いずれの場合も大学三回生となった語り手が鏡を見つめ、過去二年間を自虐的に回想しながら「小津」に責任を転嫁している。展開はそれぞれに異なるものの、人物の配置はおおむねにおいて同じであり、「小津」は性懲りもなく跳梁し、「明石さん」はあくまでも理知的で美しく、木屋町の路上には占いをおこなう老婆が現われて好機の到来を予言する。
 なにかしらのカテゴリーにあてはめようとするならば、これは「並行世界もの」ということになるのだろう。微妙に異なる複数の世界が同じ時間線に沿っていくつも並んでいるというSF系のアイデアで、多くの場合、歴史的な改変が重要な要素として盛り込まれている。たとえばこちらの世界の隣にもう一つ違う世界があり、そこではヒトラーが現われなかったので第二次世界大戦を経験していない、という具合で、主人公は何かのはずみでそうした世界へ出かけていって自分の世界との違いを知り、たいそう驚くことになるのである。
『四畳半神話大系』では各話の冒頭で「私」がそれぞれに異なった選択をおこない、その結果として出現した四つの世界が並行して流れ、最終話「八十日間四畳半一周」にいたってついに並行世界の旅が始まり、語り手は異なる世界を訪問して驚嘆すべき体験をする。しかしながら語り手が目撃するのは延々と続く語り手自身の四畳半であり、個々の四畳半はそれぞれの世界に置かれながらも閉鎖された空間として現われるので、外へ出ることはできないし外の様子を見ることもできない。ドアの向こうにも窓の向こうにも、壁の向こう側にも「私」の四畳半がどこまでも続き、世界を見分けるための差異は四畳半の細部に出現するが、それがまたあまりにもささいなので語り手も最初は見過ごしてしまう。ときには大きな差異に気づいて足を止めることがあったとしても、語り手はそれを自らの暗い衝動に照らして考え、いかにも自分がやりそうなことだと判断して受け入れることにする。驚嘆すべき体験ではあっても、四畳半という極私的な枠組みに限定されてしまうと驚嘆すべき差異を見出すことはできないのである。どこかが微妙に異なってはいっても、どれもが忌まわしい現在進行形の現実に見え、その現実にはなぜだか知らないが「小津」がからみ、したがって「薔薇色のキャンパスライフ」とは関係がない。いわゆる「並行世界もの」が特定の歴史的な状況に対する可能性の示唆であるとすれば、ここに登場する四畳半世界は不可能性の示唆であり、人間及び人間の行為の限界に関する明証的な言及である。この恐るべき四畳半連続体の存在は第二話で「樋口師匠」が予告している。
「可能性という言葉を無限定に使ってはいけない。我々という存在を規定するのは、我々がもつ可能性ではなく、我々がもつ不可能性である」
 名言と言うべきであろう。しかし、これはどういうことだろうか。語り手がキャンパスライフに意味を求めて不可能性の連鎖にずぶずぶとはまり込んでいくあいだ、無意味を恐れない「小津」は不可能を可能に変えてほとんどスーパーマン並の活躍をする。語り手が四話かけて関わる四つのサークルをどうやら一話分で同時にこなし、陰謀をたくらみ、語り手が追放されたサークルでは重鎮となり、恋人を作り、鴨川デルタで下級生とお酒を飲んで楽しく語らい、つまり「薔薇色のキャンパスライフ」を満喫して、そうした一切のことの片手間に語り手の前に現われて親友のような顔もして見せる。おまけにこの男は四畳半の下宿ではなく、瀟洒な白いマンションの一室で暮らしているのである。我々はいかにも不可能性によって規定されているが、我々という言葉を無限定に使ってはいけないということになるのであろう。もしかしたら単に不公平と言う場合もあるのかもしれない。
 これは手間のかかった作品である。異なる四つの物語を並行して走らせて、そこへワープロのコピー・ペースト機能を悪用してまったく同じエピソードを挟み込み、ときにはペーストしたあとでほどよく改変を加えて微妙にずらし、共通する仕掛けを各話に散らし、あるところで見せたものを別のところでは角度を変えて出現させ、四話構成を通じてようやく全貌が見渡せるように仕組んでいる。しかも一話ごとに盛り込む情報量はまったく手加減していない。そして登場人物は生き生きと動き、京都の町が魅力的に立ち現われ、語り口は軽妙で、ラーメンはなんだかうまそうに見え、読んでいるこちらはなにしろ刷り込まれやすいので魚肉ハンバーグなるものを一つ食べてみようかと考える。いや、実際に食べたのである。あまりおいしくなかったのである。というわけで、かけた手間は一切無駄になっていない。鴨川等間隔の法則をこの目で確認するために東京からわざわざ出かけていったこのわたしが言うのだから間違いない。いかにスポンジでできているとはいえ、ぬいぐるみのクマを何度となくいじめるのは気に入らないが、実に見事な小説であり、それを仕上げた森見氏のたくましい手腕に対して我々は感服すると言うとき、我々の範囲を限定する必要はないはずである。(『四畳半神話大系』角川文庫 解説より)




Tetsuya Sato