2011年10月15日土曜日

アイン・ランド『水源』(1943)

なんとなくフランク=ロイド・ライトを思わせる孤高の建築家が1920年代から30年代のマンハッタンを舞台に孤高の個人主義を貫いていると、無私を唱道する邪悪な社会改革主義者でコラムニスト、という悪役がいろいろと邪魔をする、といった内容で、上下二段組、1000ページ超という大長編なのである。ソフトカバーとはいえ1キロを越える重量があり、だから寝床に横たわって読んでいると腕がかなりくたびれる。
一種のサクセス・ストーリーとしての外観を備えているので話を追う分にはそれなりに面白いが、それでもやはり長すぎる。作りは全体に素人臭くて締まりが悪く、どちらかと言えば場面のデザインが先にあって、場面から場面へとつながる連続性はそれほど重視されていない。人物造形は全体に平板で、平板さの理由は主として長すぎる演説にある(主人公の最後の法廷弁論などは延々と12ページも続く)。崇高な個人がべらべらと他人を攻撃しすぎるし、邪悪なアカも内容のないことを喋りすぎる。そしてなお悪いことに作者本人が主人公の凡庸糾弾に同調するし、作者は悪いコラムニストを政治的に嫌悪しているので魅力を与えようとしていない。冷静に書かれたものではないのであろう。どうせなら悪いコラムニストが毎回毎回どうしようもなく凡庸な建築家を見つけてきては、主人公に叩きつけて、こいつと戦え、というような作りのほうがもっと面白かったのではあるいまいか。わたしは小説に共感も教訓も思想も求めていないので、アイン・ランドの読者としてはおそらく最低の部類に属することになるのである。


水源―The Fountainhead

Tetsuya Sato