2015年10月7日水曜日

『Terracity - テラシティ』 第九話 宇宙監獄からの脱出(前篇)

第九話
宇宙監獄からの脱出(前篇)
 囚人護送船二号のハッチが開いた。黒い帽子と黒いユニフォームに身を包んだ看守が特大の棍棒を手にして現われ、囚人たちに向かってこのように言った。
「ようこそ、にゅーげいと7へ。しょくんをかんげいする」
 看守は目をしばたたき、それからもう一方の手に持ったカードに目を近づけて、その続きを読み上げた。
「にゅーげいと7けいむしょとうきょくはしょくんにじゅうじゅんなしゅうじんであることをようきゅうする。じゅうじゅんなしゅうじんであるかぎりしょくんがふとうなあつかいをうけることはないだろう。しかししょくんがはんこうてきなたいどをとればけいむしょとうきょくはすみやかにかつだんこたるたいどでしかるべきたいおうをとる。ぼうどうをおこしたものやぼうどうをせんどうしたものはただちにしょばつされる。だつごくをこころみたものはげんじゅうなしょばつのたいしょうとなる。ただしかんようなにゅーげいと7けいむしょとうきょくはしょばつにさきだってしゅうじんからじゅうぶんなじじょうちょうしゅをおこないこれをしょばつのないようをけっていするためのざいりょうとする。じょうじょうしゃくりょうのよちがないとみとめられたばあいにあたえられるばつはしけいである。にゅーげいと7ではてきとうなしょばつとしてしけいのみがみとめられている。したがってじょうじょうしゃくりょうのよちがあるとみとめられたばあいにもあたえられるばつはしけいである。なおじじょうちょうしゅにさいしてはひつようにおうじてごうもんがくわえられることがある。ひつようにおうじてとはつねにといういみである」
 看守は再び目をしばたたき、カードを裏返して先を続けた。
「あくまてきなわらい。わらいながらしゅうじんたちをながめまわす」
 看守はカードをにらんで首をかしげた。カードを何度かひっくり返し、やがて肩をすくめると船の外へ出ていった。外から話し声が聞こえてきた。しばらくしてから別の看守がやはり特大の棍棒を手にして現われて、囚人たちの前でその棍棒を振り、さらに顎をしゃくって外へ出るようにうながした。護送船の乗員が鎖をはずした。囚人たちが立ち上がり、列を作って進み始めた。
 船のハッチをくぐり、ところどころに錆の浮いたドッキングベイを通り抜けると、その先は黒々とした石を積み上げた陰気なトンネルになっていた。壁は苔むし、弧を描く天井からは不浄の水がしたたり落ち、水たまりに波を立ててドブネズミの群れが駆け抜けていった。トンネルの向こうは中庭で、五層の吹き抜けを囲む四つの壁に鉄格子のはまった窓が並んでいた。天井から吊るされた鉄製のシャンデリアから黄ばんだ光が降り注ぎ、どこからか、かすかに悲鳴の声が聞こえてくる。壁にへばりついた厩舎のなかの山積みにされた藁の陰で、痩せこけた馬がうなだれていた。中庭の奥に鉄と鋲とで飾られた木製の大きなドアが見える。そのドアを背にして看守の一団が一列に並んで立っていた。特大の棍棒と掌とを規則正しく叩き合わせる看守がいた。特大の棍棒で自分の頭を叩き続ける看守がいた。ただ虚空に目を向けて下顎を揺すり、歯を剥き出しにしている看守がいた。手元のカードに目を落として口を動かしている看守もいた。天井を見上げて物思いにふける看守もいた。口を開けている看守がいた。口を閉じている看守もいた。
 手錠をかけられた囚人たちがトンネルを抜けて中庭に集まり、脅えた肩を重ねていた。並んだ看守の背後でドアが開いた。地面を堅い踵で踏みつけて足音も高らかに現われたのは黒い看守の制服をまとった長身の男で、その制服の両肩には金色の房飾りが踊っていた。面長の顔の秀でた額の下で落ちくぼんだ目が暗くまたたき、よく整えられたコールマンひげの下のひどく薄い唇は冷たい笑みを浮かべていた。並んだ看守が直立不動の姿勢を取った。男は無言のまま囚人たちに近づいた。黒い手袋に包まれた男の手には黒光りする細長い棒が握られている。男はその黒い棒を振り動かし、おもむろに囚人の一団へ向けると一人を選び、それから棒を自分の足元の地面に向けて小刻みに振った。選ばれた囚人が男の前へ進み出た。頭の禿げあがった小柄な男で、鉄縁の眼鏡をかけていた。男はなおも棒を振り、鉄縁の眼鏡をかけた囚人は前に向かって身をかがめた。男は何度か短く舌打ちをして棒をさらに振り動かし、囚人はその動きに急かされて背中を丸め、間もなく地面に膝を突き、手錠をはめられた手で地面に触れた。四つん這いになった囚人の背中に男がすばやく片足をかけた。ブーツの踵で踏みにじられて、囚人は口を開いて息をもらした。男は背筋を伸ばして顎を引き、上げた膝に両手を添えた。重ね合わされた手のあいだから黒い棒が斜めに飛び出し不安を誘う輝きを放つ。男がついに口を開いた。
「囚人の諸君、ニューゲイト7にようこそ。わたしの名はスミス、ラグジュアリー・レフリジェレーターと書いてスミスと読む。この刑務所の所長だ。諸君は本日この瞬間からこの刑務所の囚人となる。さて、いかにも諸君は囚人であるが、諸君の一人ひとりについて言えば、囚人である前にまず人間であることをわたしはよく知っている。諸君の一人ひとりはいずれも心ある人間であり、いまは囚人という身分に落とされてはいるが、その心は必ずしも悪に染まっているわけではない。心の正しい者も決して少なくはないだろう。諸君は人生の喜びを知り、痛みを知り、そして常識をよく心得、家族を、隣人を愛する善良な市民の一員としてつねに悪から身を遠ざけてきたはずだ。そのような諸君がこのような場所へ来ることになったのは、諸君が恐るべき不運に襲われたからにほかならない。なんたることか、諸君は恐るべき不運によって悪党という汚名を着せられ、未来を奪われ、人生を奪われ、家庭から引き離され、友人を失い、仕事を失い、ときには家族の、あるいは恋人の愛を失い、憎まれ、蔑まれ、そして不安に震え、恐怖に脅え、低能な上に想像力を欠いた警官から不愉快きわまる扱いを受け、心に大きな傷を負い、闇に閉ざされた心の底で、いま最後の希望にしがみついている」すすり泣きの声が聞こえてきた。頬を涙で濡らす囚人がいた。スミス所長は話を続けた。「ここでのわたしの仕事は、諸君の希望、つまらない、みじめなほどに萎縮した、諸君の最後の希望を叩きつぶすことにある。わたしは諸君の一人ひとりが囚人である前に人間であることを知っているが、諸君の一人ひとりには実はまったく関心がない。わたしの目に見えているのは、けちな悪党の集団であり、薄汚い囚人の集団であり、更生の可能性をまったく欠いた人間のくずの集団にほかならない。この刑務所がわたしの管理下にある限り、わたしは全力をあげて諸君の人間性を否定し、黙殺する。諸君はここで残りの人生を生きるのではない。諸君はすでに死んでいるのだ」すすり泣きの声が高くなった。「諸君はここで過酷な扱いを受けることになるだろう。待遇には何も期待しないでもらいたい。ごくまれにではあるが、自分がどこにいるのかまったくわかっていない囚人がいて、個室を要求したり、通信の権利を要求したり、清潔な衣類を要求したり、適切な医療措置を要求したり、栄養士による食事のバランス管理を要求したり、職業訓練の機会を要求したり、たまには風呂に入りたいなどと言ったりする。なかにはわたしの更迭を要求したやつもいるが、ほかの刑務所ならいざ知らず、ここでは方針として、それがどのようにつまらないものであろうと、要求には一切こたえないことになっている。一度でも聞き入れたらそれこそ切りがなくなるし、諸君の依存心が強くなるからだ。諸君は着の身着のままの状態で、一度も掃除をしたことのない不潔な雑居房に放り込まれることになるだろう。そこで残酷な看守や残酷な古参囚人の恐ろしく野蛮な歓迎を受けることになるだろう。そしてわたしは責任をもって約束するが、諸君は満足な食事も与えられず、シラミにたかられ、ネズミにかじられ、最低限の医療措置すら受けることもできないまま、世界を呪い、身の不運を嘆きながら、みじめな思いで死んでいくのだ。はーはっはっはっはっ」
 所長が悪魔的な笑いを放ち、囚人たちを眺めまわした。所長の悪魔的な笑いとともに多くの囚人が希望の最後のかけらを見失い、むなしい視線を宙に這わせた。
「さて」所長が言った。「話は変わるが、諸君はおそらく疑問に思っていることだろう。なぜ、この刑務所がニューゲイト7と呼ばれているのか、ニューゲイト7があるならば、ニューゲイト1やニューゲイト2、ニューゲイト6などがあるのではないか、もしかしたらニューゲイト8もあるのではないか、そう考えて疑問に思っていることだろう。もっともな疑問だとわたしは思う。そしてその疑問に対する答えはこの刑務所の歴史に隠されている。いつものとおりならば、ここでわたしがニューゲイト7の歴史について簡単ながら興味深い講釈を披露して諸君の好奇心を満足させることになるのだが、毎回毎回同じことを繰り返すというのも芸がない。そこで今回は趣向を変えて、ここに控えている看守諸君にわたしの代わりにニューゲイト7の歴史を説明してもらうことにする。では早速始めてもらおう」そう言うと囚人の背中にかけた足を下ろし、大股で歩いて看守の列へと近づいていった。そして黒光りする棒を振って看守のなかから一人を選ぶと、選ばれた看守は顔を蒼くして首を振った。
「なぜ、首を振るのだ?」所長が訊ねた。
「だんな、どうかかんべんしてくだせえ」
「だめだ」所長が冷たい笑みを浮かべた。
「あっしらには、どうにもむりみてえで」
「命令に従わないつもりだな。よかろう」
 所長は黒い棒の先端を看守の肩に押しつけた。看守のからだが雷にでも打たれたかのように硬直した。看守は短い悲鳴を上げ、激しく痙攣しながら仰向けに倒れて動かなくなった。所長は黒い棒を高々と振り上げ、囚人たちに向かって説明した。
「これは非常に便利な道具で、失神棒と呼ばれている。これを使えば凶暴なガニメデの昆虫人間でも手軽に失神させることができるのだ。諸君もごく近いうちに、この失神棒の威力を身をもって経験することになるだろう」
 それから看守の列に向き直って次の看守を選び出した。選ばれた看守は蒼ざめた顔で足を一歩前に踏み出し、どうにか開いた口からかすれた声を絞り出した。
「せ、せいれき一一八八ねん、えいこくおう、へんりぃ、へんりぃ」
「ヘンリー?」所長がわずかに首をかしげた。
「へんりぃ、にせい?」
「そうだ。続けたまえ」
「へんりぃ、にせいのめいれいによって、にゅーげいと1がたんじょうした」
「けっこう、けっこう。その調子だ」
「しかし、にゅーげいと1は、せ、せいれき、せ、せ、せ」
「せ?」
「一六六六ねん、ろんどんのたいかでしょうしつしたため、せいれき、せ、せ」
「せ?」
「一六六六ねん」
「違う」
 所長は黒い棒の先端を看守の肩に押しつけた。看守のからだが雷にでも打たれたかのように硬直した。看守は短い悲鳴を上げ、激しく痙攣しながら仰向けに倒れて動かなくなった。所長は次の看守を選び出した。選ばれた看守は恐怖に目を見開き、震える口から声を絞った。
「せ、せいれき一六六六ねん」
「だから、違うと言っている」
 所長は黒い棒の先端を看守の肩に押しつけた。看守のからだが雷にでも打たれたかのように硬直した。看守は短い悲鳴を上げ、激しく痙攣しながら仰向けに倒れて動かなくなった。所長は次の看守を選び出した。選ばれた看守は恐怖に目を見開いて震える口を開いたが、このまま看守にまかせておくと話が前に進まないので説明を代わる。
 一六六六年、ニューゲイト1がロンドンの大火で焼失したあと、一六七二年にニューゲイト2が建設された。ニューゲイト2は老朽化を理由に一七七〇年までに取り壊され、一七七七年にニューゲイト3が作られたが、このニューゲイト3が一七八〇年のいわゆるゴードンの騒乱で焼失すると一七八二年にニューゲイト4が建設された。それから百年あまりが経過した一九〇二年、ニューゲイト4も老朽化を理由に取り壊され、一九一八年、イースター蜂起の二年後にニューゲイト5がベルファストに誕生し、これは一九三八年まで使われたあと、いわゆるチャーチルの思いやりによって一九四五年にカムチャッカ半島に移築された。移築の作業には延べ二十万人の枢軸国捕虜が投入され、およそ七万人が飢えと寒さで死亡したと伝えられる。悪名高いニューゲイト5は一九八九年に閉鎖されたが、翌年、ニューゲイト5とほぼ同一の設計によるニューゲイト6がチベットに作られ、おもに行政処分の分野で長期にわたって使用された。ニューゲイト7はこのニューゲイト6を補強、改造したもので、外壁を特殊なタイルで覆い尽くし、四機のウラヌスロケットを使って衛星軌道に運び上げたものである。
 所長の新しい趣向は話がロンドンの大火から先へまったく進まないまま、所長の失神棒によって看守が全滅したことで失敗に終わり、看守の全滅を見届けた所長は大股で囚人たちの前に戻ると小柄な囚人の背中にまた足をかけ、背筋を伸ばして顎を引くと上げた膝に両手を添えた。
「残念ながら」所長が言った。「今回はこのような結果に終わったが、看守たちがこの日のために血のにじむような努力をしてきたということを、どうか記憶にとどめてもらいたい。残酷で、無能で、言葉を知らない看守にとって、人前に立って何かを説明することほど、恐ろしいものはない。彼らは勇敢にもその恐怖に立ち向かい、自らの欠点を克服しようと精一杯に戦ったが、あいにくと力を出し切ることができなかった。しかし挑戦はこれで終わりではない」所長がこぶしを握り締めた。「看守たちは胸に新たな勇気を呼び起こし、困難へと再び立ち向かっていくことになるだろう。そしていつの日か、それはごく近い将来であろうとわたしは期待するが、再び諸君の前に現われて見事に任務を果たすことになるだろう。この勇者たちのために、どうか温かい拍手を送ってもらいたい」
 所長が手を叩き合わせると、囚人たちも手錠をかけられた手を持ち上げて拍手を始めた。まるで気乗りのしない拍手の音が、石で囲まれた中庭に響いた。手を叩いているうちに、囚人たちの心にある考えが浮かんだ。看守は全員失神している。立っているのは所長だけだ。あちらは失神棒を持っているが、こちらは数で勝っている。手錠をかけられているというハンディキャップがあるものの、もしかしたら、あるいは、意外と簡単に、なんとかできるのではあるまいか。もしかしたら、あるいは、これが最初で最後のチャンスなのではあるまいか。囚人の一人が力強くうなずいた。囚人たちが目を見交わした。数人の囚人が足を引き、飛び出す準備を整えた。
「さて」所長が手を下ろした。「拍手はこれくらいで十分だろう。諸君が致命的な間違いを犯す前に、一つ教えておくことがある。諸君の前にたった一人でこのように立って何事も起こらないと考えるほど、わたしは間抜けではない。自動照準装置を備えた熱線砲XH9000が天井から諸君を狙っている。いま立っている場所から一歩でも前に出れば、ただちに消し炭に変わることになる。行動を起こすのは諸君の自由だが、行動が引き起こす結果についてはよく考えてもらいたい。もちろん諸君のその小さな脳味噌でそれができるなら、ということだが。はーはっはっはっはっ」
 所長は悪魔的な笑いを放ち、囚人たちを眺めまわした。所長の悪魔的な笑いとともに多くの囚人が最後の行動の機会を見失い、むなしい視線を宙に這わせた。
「では」所長が言った。「質問を受けよう。質問のある者は手を上げたまえ」
「あの」アルタイラが手錠のかかった手を上げた。
「では」所長が言った。「そこの眼鏡のお嬢さん」
「所長さん、いま、おならをしませんでしたか?」
 所長の薄い唇から、悪魔的な笑みが消え失せた。
「なぜ」所長が言った。「なぜ、わかったのだ?」
「なぜって、それはわかりますよ。臭いますから」
「嘘だ」所長が言った。「臭ったりしないはずだ」
「でも、したんでしょ? いま認めましたよね?」
「違う」所長が言った。「これは何かの、陰謀だ」
「陰謀だなんて。したって、認めればいいんです」
「嘘だ」所長が言った。「おならなどしていない」
「嘘をついても、何もいいことはありませんけど」
「ああ」所長が叫んだ。「わたしを追い詰めるな」
「おならをしたと、正直に認めればいいんですよ」
「ああ」所長が叫んだ。「ひどい頭痛がしてきた」
「それ、ご自分のおならのせいかもしれませんよ」
「違う」所長が叫んだ。「そんなことは絶対ない」
「認めてください。そうすれば、楽になるんです」
「ああ」所長が叫んだ。「頭が、割れそうに痛む」
「悩むことはありませんよ。認めればいいんです」
「ああ」所長が叫んだ。「これ以上耐えられない」
「だから、おならをしたって認めればいいんです」
「ああ」所長が叫んだ。「助けてくれ、頭が頭が」
 所長の頭が吹っ飛んだ。囚人たちが息をのんだ。

 そのころ、アダー執政官の執務室では。
 赤毛の美女ラグーナが颯爽とした足取りで現われ、執政官に報告した。
「ニューゲイト7で緊急事態です。スミス所長が死亡しました」
「まさか」執政官が息をのんだ。「いったい何があったのだ?」
「詳細はまだ確認中ですが、囚人の前でおならをしたようです」
「たしかにそれは問題だが、それだけで死ぬことはないはずだ」
「おならをしたという事実を何者かに詰問されたようなのです」
「では、リミッターが」
「はい」
「耐えられなくなって」
「はい」
「自爆装置が働いたか」
「はい」
「誰のしわざなのだ?」
「たぶん、アルタイラ」
「なんという恐ろしい小娘だ。一刻も早く、始末しなければ」
「わたしの判断で、すでに手を打ちました」
「ほほう、どのような手を打ったのかね?」
「囚人護送船にガニメデの昆虫人間を山ほど詰め込んで、ニューゲイト7に送りました。あそこにいる人間は囚人も看守も数日で全滅するはずです」
「そうか、ガニメデの昆虫人間か。それはいい」
 ふはははははと執政官が笑った。
 ふふふふふとラグーナが笑った。

 そのころ、ニューゲイト7の中庭では。
 手錠をかけられた囚人たちが薄暗い天井に向かって目を凝らしていた。間もなく囚人の一人が口を開いてこのように言った。
「熱線砲なんか、見当たらないぞ」
 別の一人がうなずいた。
「所長はおれたちをだましたのさ」
 別の一人は首を振った。
「でも、あったらどうするんだ?」
「あったら、おだぶつってことだ」
「誰か、ちょっと前に出てみろよ」
「言うんだったらおまえがやれよ」
「おれはだめだ。家族持ちだから」
「独り者なら死んでもいいのか?」
「そんなことは一言も言ってない」
「どう言ったって、意味は同じだ」
「そんな意味で言ったんじゃない」
「なら、どんな意味だったんだ?」
「おれは憶病だって言ったんだよ」
「そんなこと、つら見りゃわかる」
「ああ、鏡を見てもそう思うだろ」
「おい、そりゃどういう意味だ?」
「変だな、わからねえってのか?」
「わからねえわけがねえだろうが」
「わかってるなら意味を聞くなよ」
「別に意味を聞いたわけじゃねえ」
「じゃあ何が聞きたかったんだ?」
「ナマを抜かすなって言ったんだ」
「そうかい、気がつかなかったよ」
「ぶん殴ってやってもいいんだぞ」
「そこからどうやって殴るんだ?」
「離れてるからって済むと思うな」
「済むと思うね。腕が届くのか?」
「おいそこの、そいつをぶん殴れ」
「いやだね。おれには理由がない」
「理由がほしけりゃ作ってやるよ」
「いやだね。理由なんかいらねえ」
「おまえの意見なんか聞いてねえ」
「おい、何をたくらんでるんだ?」
「わからねえのか。いつものだよ」
「それはつまり、いつものあれか」
「いつものあれさ、伝言ゲームさ」
 囚人たちが騒ぎ始めた。
「いったいやつは何を言ってる?」
「げんこつを使った伝言ゲームだ」
「だめだ、そんなことを始めたら」
「すぐに全員がおだぶつになるぞ」
「みんな、そいつをなんとかしろ」
「とめられるものならとめてみろ」
「まずい、げんこつを握ってるぞ」
「まずい、そのげんこつをとめろ」
「だめだ、こいつすごいパワーだ」
「おれを殴るな、おれは関係ない」
「黙れ、まずおまえからぶん殴る」
「耐えろ、殴られても耐えるんだ」
「ちくしょうめ、殴りやがったな」
「こらえろ、頼むから、こらえろ」
「だめだ、おれには我慢できねえ」
「待て、殴ったのはおれじゃない」
「待て、殴る相手を間違えている」
「そんなことはどうでもいいんだ」
「ちくしょうめ、殴りやがったな」
「たいへんだ、ゲームが始まるぞ」
「みんな、殴られても耐えるんだ」
「殴り合いになったらおだぶつだ」
「そりゃあ、わかってるんだけど」
「わかってたって、無理なんだよ」
「おれたちのこぶしに分別はない」
「ちくしょうめ、殴りやがったな」
「いけないと頭でわかっていても」
「からだが勝手に、反応するんだ」
「そうなんだ、いつもそうなんだ」
「気がついたときには、遅いのさ」
「ちくしょうめ、殴りやがったな」
 囚人たちが殴り合った。
 殴り合いを恐れた者はその場にしゃがんで頭を抱え、殴り合いにのまれた者は殴り、殴られながらも消し炭になるのを恐れて雄々しくその場にとどまったが、やがて一人が激しく突き飛ばされてもつれた足でからだを傾け、姿勢を取り戻そうとあらがいながら離れた場所に転がった。囚人たちが手をとめた。罵声が消え、音が消えた。相手の喉をつかんだまま、あるいはこぶしを振り上げたまま、囚人たちは転んだ男に目を向けた。男は床に手をついて腰を上げ、それからゆっくり立ち上がった。男は天井を見上げて肩をすくめ、それから大きな笑みを浮かべた。いくつもの口から吐息がもれた。囚人たちの顔に笑みが浮かんだ。天井から赤い光がほとばしり、男を瞬時に消し炭に変えた。

 そのころ、囚人護送船二号の操縦室では。
 客室へと通じるハッチのドアを数人の乗員が肩を寄せて見守っていた。向こう側にひそむ何者かが凶暴な力でハッチのドアを破ろうとしていた。頭に響く鈍い音が執拗に、規則正しく繰り返され、間もなく鋼鉄のドアがたわみ始めた。
「逃げ遅れた連中はどうなったかな?」
 乗員の一人が声をひそめてそう言うと、別の一人がこのように言った。
「全滅だな。ガニメデの昆虫人間が二十匹もいたら、間違いなく全滅だ。たぶんみんな、生きたまま、はらわたをすすられたんだ」
「で、おれたちは、どうなるのかな?」
「全滅だな。このドアはあと十五分ももたないだろう。おれたちもガニメデの昆虫人間に生きたまま、はらわたをすすられるんだ」
「船長」乗員の一人が操縦席を振り返った。「何か助かる手立てはないんですか?」
「助かる手立ては一つしかない」船長が額に汗を浮かべて振り返った。「あと十五分しかドアがもたないというのであれば、十五分のうちにニューゲイト7にドッキングして客室のハッチを開放するしかない。客室のハッチが開けばガニメデの昆虫人間どもはニューゲイト7になだれ込んで、看守や囚人に襲いかかってはらわたをすすり始めるに違いない。むごいかもしれないが、何もなくてももともとそうする予定だったし、それをしなければ我々には助かる見込みがない。あと十五分だ。本船はすでにニューゲイト7へのアプローチに入った。安全確認手順をすべて無視すれば、ぎりぎり十五分でドッキングできる。わたしはここで最善を尽くす。諸君はそこで最悪の事態に備えるのだ」
 乗員の一人が額に浮かんだ汗をぬぐった。別の一人は手で口を押さえて恐怖の叫びを噛み殺した。そして一人が頭を抱えて叫び始めた。
「だめだ、おれはもう、この緊張に耐えられない」
「ペドロ、しっかりしろ」
「ペドロ、落ち着くんだ」
 ペドロと呼ばれた乗員は仲間の制止を振り切ってロッカーに駆け寄り、宇宙服を引っ張り出すとものすごい速さで身につけた。ヘルメットをかぶり、バイザーに手をかけながらペドロが言った。
「とめても無駄だ。おれは逃げるぞ」
「ペドロ、自分がどこにいるのかわかってるのか」
「ペドロ、やめろ、エアロックに入るんじゃない」
 仲間の必死の叫びを無視してペドロはエアロックのドアを開けた。エアロックのなかに身を滑らせ、ドアを閉じてロックした。覗き窓の向こう側で仲間が何かを叫んでいる。ペドロはかまわずにレバーを動かし、外側のドアを開放した。空気とともにペドロが外へ吸い出された。ペドロは地球の夜の側へ落ちていって、小さく燃える星屑になった。

 そのころ、ニューゲイト7の中庭では。
 失神していた看守が一人また一人と目を覚ました。看守たちは首を振りながら立ち上がり、特大の棍棒を振りまわしながら所長のまわりに集まった。
「みろ、しょちょうのあたまがなくなってるぞ」
「ああ、ほんとだ。まえからこうだったっけ?」
「いや、そうじゃなかったようなきがするけど」
「ああ、さっきまではそこんとこについてたぜ」
「じゃあよ、あたまはどこいっちまったんだ?」
「しるかよ、そんなことわかるわけがねえだろ」
「それよか、おれたちゃどうすりゃいいんだ?」
「しるかよ、そんなこと、しょちょうにきけよ」
「だってよ、しょちょう、あたまがねえんだぜ」
「ていうか、これ、しんでるっていわねえか?」
「ああ、そうか、いわれてみりゃ、しんでるな」
「おう、だれかけってみろよ。そしたらわかる」
「おい、けってもうごかねえぜ。しんでるんだ」
「なに、おれにもけらせろ。お、しんでやがる」
「じゃあよ、こんぼうでぶんなぐってみようぜ」
「このやろ。それ、もういっぱつ。ざまあみろ」
「やいこの。ほれ、もいいっぱつ。おもいしれ」
「てめこの。それ、もういっぱつ。くそったれ」
「くぬやろ。ほれ、もういっぱつ。しにやがれ」
「ていうか、このくそやろ、まじでしんでるぜ」
「ざまあねえぜ、くそなまいきな、やろうがよ」
「いいきみだぜ、しんでくれて、たすかったぜ」
「すかっとすら、ひさしぶりに、いいきぶんだ」
「でもよ、しょちょう、どうしてしんだんだ?」
「さあな、そんなこと、わかるわけねえだろが」
「あのよ、もしかして、あいつらじゃねえか?」
「なんだ、あいつらって、どいつらのことだ?」
「だから、あいつらって、あいつらのことだよ」
「だから、あいつらって、どいつらなんだよ?」
「だから、こうやってゆびさしてるじゃねえか」
「そうか、そこにいる、こいつらのことかよ?」
「まさか、あいつらがぶっころしたってのか?」
「そうさ、だって、ほかにだれがいるんだよ?」
「そうか、ほかに、あいつらしかいねえもんな」
「だろ、あいつらがしょちょうをやったんだよ」
「おい、それって、さつじんじけんてことか?」
「ああ、そういや、そういうことになるのかな」
「おい、それじゃ、こいつらひとごろしかよ?」
「ああ、たしかに、そういうことになるのかな」
「おい、だったら、こらしめないといけねえぞ」
「ああ、たしかに、こらしめないといけねえな」
「おれたちのこわさを、おしえてやらねえとな」
 看守たちが大型の棍棒を振りまわしながら囚人たちに近づいていった。

 そのころ、囚人護送船二号の操縦室では。
 金属と金属がぶつかる音が船内に響いた。
「よし、ドッキング完了だ」船長が叫んだ。
「客室のハッチを開きます」乗員が叫んだ。
「頼む、うまくいってくれ」乗員が祈った。
 金属の破れる音が、操縦室に響き渡った。
「入ってきた、入ってきた」乗員が叫んだ。
「助けてくれ、助けてくれ」乗員が叫んだ。
「ちくしょう、これまでか」船長が叫んだ。
 ガニメデの昆虫人間がかぎ爪をかざした。

 そのころ、ニューゲイト7の中庭では。
 金属と金属がぶつかる音がドッキングベイの方角から聞こえた。囚人たちが中庭の入口に目を向け、囚人たちに向かって特大の棍棒を振り上げ、問答無用で振り下ろそうとしていた看守たちもその手をとめた。いぶかしむ間もなく不気味な気配が近づいてきた。ガニメデの昆虫人間が一匹また一匹と、脳味噌が剥き出しとなった頭を揺り動かし、凶悪なかぎ爪を振り立てながら中庭の入口に現われた。一匹は早くも粘液のしたたる口吻を伸ばし、その先端からちぎれた人間の臓物を垂らしている。
「が、がにめでのこんちゅうにんげんだ」看守が叫んだ。
「ガ、ガニメデの昆虫人間がやって来た」囚人が叫んだ。

 そのころ、テラシティが誇る天才科学者ロイド博士の実験室では。
 博士の新たな発明テラスコープがいよいよ完成に近づいていた。円形をした広大な部屋の壁に沿って無数のランプをちかちかと点滅させるコンピューターのような物、あわただしくリールを回転させる磁気テープ装置、何に使うのかわからないメーターのたぐい、放電球、丸いブラウン管に際限もなく波を打たせるオシログラフなどがずらりと並び、部屋の中心には腎臓型の大きな会議テーブルのかわりに巨大なレンズのようなものが置かれている。そして銀色の服の上に白衣をまとった百人もの技師たちが、スイッチやダイヤルが並んだ制御卓、床を這うケーブル、金属の冷たい輝きを放つ電極や一列に並んだ大型の真空管をしたがえて、科学が飛躍する瞬間を待ち受けていた。
 顎ひげをたくわえたロイド博士が颯爽とした足取りで巨大なレンズに近づいた。大きく開いた目に科学への信頼をありありと浮かべ、力強くこぶしを振って声を放った。
「実験、開始」
 博士の声にこたえて白衣の技師たちが動き始めた。スピーカーから声が流れた。
「テラスコープ、実験開始。計画は、予定どおり、順調に進行している」
 技師たちの手がスイッチを動かし、ダイヤルをまわした。真空管が光を放ち、ケーブルがうなり、モーターがどこかで回転を始めた。直立するレンズが台座の上でゆっくりとまわり、レンズの表面に水銀の膜のようなものが現われた。スピーカーから声が流れた。
「第一段階。テラスコープ作動。計画は、予定どおり、順調に進行している」
 ロイド博士が白衣のポケットから紙片を取り出した。技師の一人が紙片を受け取り、そこに記された数字をにらんで慎重にダイヤルを動かした。スピーカーから声が流れた。
「第二段階。座標入力完了。計画は、予定どおり、順調に進行している」
 真空管が輝きを増した。レンズの表面の水銀の膜にゆっくりと波紋が浮かび上がった。
「第三段階。フィールドを検出。計画は、予定どおり、順調に進行している」
「出力を上げろ」博士が叫んだ。
 モーターの回転が上がり、真空管がさらに明るく輝いた。水銀の膜が怪しく波打ち、波打つたびに膜の色が薄くなった。博士がレンズに目を凝らした。
「何かが見える」博士が叫んだ。
 博士の声を聞いた技師たちがレンズの前に集まってきた。
「第四段階。同調を開始。計画は、予定どおり、順調に進行している」
 白濁した薄膜の向こうでいくつもの人影が動いていた。思わず耳をふさぎたくなるような恐ろしい叫びが、続いて何かを吸い出す気味の悪い音が聞こえてきた。
「なんだこれは」博士がつぶやき、目を凝らした。
 霧のような膜が消え、映像が次第に鮮明になった。スピーカーから声が流れた。
「第五段階。同調を完了。計画は、予定どおり、順調に進行している」
 レンズの中央でガニメデの昆虫人間が不気味な口吻を伸ばして人間のはらわたをすすっていた。その背後には悲鳴を上げて逃げ惑う人間の群れが、かぎ爪を振り上げてそれを追うガニメデの昆虫人間の群れがあった。そしてたまに赤い光がまたたくと、人間が、ガニメデの昆虫人間が、消し炭になって床に崩れた。
「なんだこれは」博士が叫んだ。「座標が違うぞ」
「いいえ」技師が叫んだ。「座標は合っています」
「しかしこれは」博士が叫んだ。「クラウディアの楽屋ではない」

 そのころ、テラシティが誇る美貌の歌姫クラウディアの楽屋では。
 美しいクラウディアに怪しい影が迫っていた。トレンチコートに身を包んだ男がポケットから黒光りするピストルを出し、銃口をクラウディアの豊かな胸に押しつけた。
「クラウディア」しゃがれた声で男が言った。「おまえの愛を信じたおれが、ばかだったようだ」
「あいにくだったわね」クラウディアが言った。「そうよ、あたしの愛は、いつわりのかたまり」
「そんなおまえが」しゃがれた声で男が言った。「毎晩、客の前で愛を歌っているというわけか」
「そうよ」クラウディアがうなずいた。「あたしは愛といういつわりを、お客の前で歌ってるの」
「本物の愛を」しゃがれた声で男が言った。「探そうとしたことはなかったのか?」
「本物の愛が」クラウディアが首を振った。「どこかにあるかは知っていた。でも、そこは、あたしがどうあがいても、決して手が届かない場所だったのよ」
「おれの愛は本物だった」
「ええ、知ってるわ」
「だが、それも終わりだ」
「ええ、そのようね」
「例のブツは、どこに隠した?」
「安全な場所に」クラウディアが悲しみを含んだ笑みを浮かべた。「あなたには決して手の届かない場所に隠したわ」
「どこにある?」
「メテオブレインの手のなかに」
「メテオブレイン? 何者だ?」
「本名はガストン・ラリュー、地球の出身で、あなたよりも頭の切れる悪党よ。最近はバスティアン・ギーと名乗ってるわ」
「バスティアン・ギー?」男が胸をつかんでよろめいた。「そんなばかな。やつはおれがこの手で三年前に…」
 このとき楽屋のドアが音もなく開いた。男がかすむ目を向ける。そこに立っていたのは赤いトレンチコートを着たブロンドの女だ。
「モニーク」男が震える声を絞り出した。
 モニークと呼ばれた女がコートのポケットからピストルを出し、腰だめに構えて二発撃った。薬莢が飛び、クラウディアの楽屋に銃声が轟き、男が床にくずおれる。ドアが静かに閉じて女の姿を覆い隠した。
 クラウディアが言葉にならない叫びを上げて走り寄り、ドレスが血にまみれるのもかまわずに男のからだをかき抱いた。
「ちくしょう」男があえいだ。「おれにはわかっていた。いずれはこうなるとわかっていた。あの泥沼からは、一人として逃げ出すことはできないんだ」
 男の口から血があふれた。
「誰か、誰か」クラウディアが叫ぶ。「誰か、このひとを助けて。この地獄からこのひとを助け出して」

 そのころ、テラシティが誇る天才科学者ロイド博士の実験室では。
 ドアが勢いよく開いて博士の娘アデライダが飛び込んできた。肩までかかる栗毛の髪を五月の風のように踊らせながら初夏の木漏れ日の下を軽やかにはねる小鹿のような足取りで現われたこのすばらしい美少女は、実験室の中央に立つ父親に目をとめ、見る者の心をくすぐる天真爛漫な笑みを浮かべた。
「お父さま」
 美しい少女が見事な歯並みのあいだで鈴のような声を転がすと、顎ひげをたくわえた父親は電撃に打たれたかのようにからだを震わせ、振り向いて恐怖に目を見開いた。
「アデライダ、ここへは来るなと…」
「でも、お父さま、わたしどうしても、お父さまの新しい発明を見たかったの」
 耳にやさしい柔らかな鈴の音を引きながら、銀色のミニドレスに包まれたしなやかなからだが踊るように前へ進んだ。
「アデライダ」博士が叫んだ。「こっちへ来るな」
 アデライダの銀色のブーツの先が床を這うケーブルを引っかけた。アデライダのからだが前にのめり、手がかりを求めて差し出した手が真空管の列にかかった。真空管が次々に倒れて爆発した。飛び散ったガラスの破片が白衣をまとう技師たちを襲い、一人が顔を押さえて絶叫を放った。と同時に並んだ電極から目のくらむような火花が飛び散り、放電球から放たれた青白い鞭が立ちすくむ技師の群れをなぎ倒した。オシログラフのモニターが吹っ飛び、モーターは黒煙を噴き上げ、切れたケーブルが火花を散らしながらのたうちまわって倒れた技師の手足をからめ捕った。悲鳴が上がり、爆発音が続けて起こり、どこからともなく噴き出た炎が技師たちをなで、白衣をまとった技師たちが絶叫とともに燃え上がった。コンピューターが爆発し、飛び散る破片が技師たちを裂いた。恐ろしい崩壊の音が響き渡り、実験室の真上を横切るキャットウォークが崩れ始めた。見る間に傾いで手すりにつかまる技師の群れを振り落とし、大きな破片となって崩れ落ちて真下にいた技師の群れを押しつぶした。毒ガスを吸い込んで血の泡を吹く技師もいた。溶解液を浴びてどろどろに溶けていく技師もいた。水槽に落ちて溺死する技師もいた。実験用の熱線砲が暴走を始めた。たちまちのうちに数人の技師が消し炭となった。実験用の冷凍光線砲も暴走を始めた。たちまちのうちに数人の技師が氷となって砕け散った。実験用のライオンが檻を破って逃げ出した。たちまちのうちに数人の技師が鋭い爪で切り裂かれた。煙が消え、炎が消え、腹を満たしたライオンが檻に戻り、破壊の波がようやく通りすぎたとき、立っている者はわずかしかなかった。
 倒れた技師たちのあいだから美しいアデライダが立ち上がった。膝を叩き、ドレスについた埃をはたき、軽やかに首を動かして、肩までかかる栗毛の髪を五月の風のように踊らせた。そして巨大なレンズの脇に立ち尽くす父親の姿を認めると、見る者の心をくすぐる天真爛漫な笑みを浮かべた。
「お父さま」
 美しい少女が見事な歯並みのあいだで鈴のような声を転がすと、顎ひげをたくわえた父親は電撃に打たれたかのように激しくからだを震わせた。
「アデライダ、そこにいてくれ、こっちへ来るな」
「お父さま、いったい、何が起こったのかしら?」
「何も起こっていない。だから、そこにいなさい」
「お父さま、様子が変だわ。それにここの様子も」
「実験室はいつもこうだ。散らかっているんだよ」
「お父さまがおっしゃるなら、きっとそうなのね」
「そうなんだ。いつもこうして散らかってるんだ」
「じゃあ、わたし、おかたづけをしましょうか?」
「怪我をするといけないから、部屋に戻りなさい」
「でも、散らかしっぱなしは、よくないと思うわ」
「大丈夫だ。すぐ助手たちにかたづけさせるから」
「でも、みなさんお疲れで、眠ってらっしゃるわ」
「ちょっと寝ているだけだから、すぐに起きるさ」
「じゃあ、わたしがみなさんを起こすのはどう?」
「その必要はない。もう少し寝かせてやってくれ」
「そうなの。それならわたし、お部屋に戻ります」
「そう、それがいい。アデライダ、そうしてくれ」
 アデライダがうなずいて背を向けた。そのとき、生き残った技師の一人がレンズを指差して声を上げた。
「博士、あれを見てください」
 博士が、生き残った技師たちがレンズに目を向け、そしていっせいに息をのんだ。
「なんだこれは」博士が叫んだ。
 レンズの向こう側にいる人間が肩を重ねて博士の実験室を覗いていた。ガニメデの昆虫人間もはらわたをすするのをやめて博士の実験室を覗いていた。
「まあ、お父さま」アデライダが叫んだ。「これは何?」
「テラスコープだ」博士が叫んだ。「空間を超えて映像と音を拾い上げる力を備えた驚異の望遠鏡なのだ。しかし…」
「しかし、テラスコープは」技師の一人があとを続けた。「博士の理論では、こちらから向こう側が見えるだけで、向こう側からこちらが見えることはないはずです」
 白衣の技師の一人がレンズの向こうに手を振ると、レンズの向こうでは眼鏡をかけた黒髪の娘が手錠のかかった手を振り返した。
 博士が言った。「向こう側から見えないからこそ、テラスコープだったのだ。だからこそ、最初の座標にクラウディアの楽屋を選んだのだ」
「まあ、お父さま」アデライダが笑った。「あいかわらずなのね」
「あの、ちょっと」レンズの向こう側でアルタイラが声を上げた。「みなさん、そこで何をしてらっしゃるんですか? これはなんですか?」
 アルタイラが手錠のかかった手を動かし、レンズの縁に沿って円を描いた。
「こちらも知りたい」博士が言った。「君がいる場所はどこなのだ?」
「ニューゲイト7です」アルタイラが答えた。「そこはどこですか?」
「ロイド博士の実験室」アデライダが答えた。「ねえ、きれいな髪ね」
「ありがとう」アルタイラが言った。
「シャンプーは、何を使ってるの?」
「メタリノーム社の、テラクレイよ」
「わたしも同じよ。あれいいわよね」
「そんなことはどうでもいい」博士が叫んだ。「とにかくこれは、もはやテラスコープではない。爆発と放電が恐るべき何かを引き起こして、テラフォーンとでも呼ぶべき物に変えてしまったのだ」
「いや、ロイド博士」技師がレンズを指差した。「それよりも、テラホールと呼んだほうがいいかもしれません」
 アルタイラがレンズをくぐってロイド博士の実験室に現われた。

 そのころ、ニューゲイト7の中庭では。
「やった、逃げられるぞ」囚人が叫んだ。
「ばかめ、にがすものか」看守が叫んだ。
 手錠をかけられた囚人たちが先を争い、テラホールに殺到した。
 看守たちが特大の棍棒を振り上げて、囚人たちに殴りかかった。
 ガニメデの昆虫人間は囚人も看守も押し倒して粘液のしたたる口吻を伸ばし、天井からほとばしる赤い光がガニメデの昆虫人間を消し炭に変えた。

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