2014年8月21日木曜日

異国伝/女神の帰還

(め)

 その昔、とあるところにそれは小さな国があった。あまりにも小さいので地図に載ったことがなかったし、旅行者向けの案内書にも載ったことがない。存在を知らせる路傍の標識も久しく傾いたままとなっていたので、ほとんどの旅人は気づかずに間近を通り過ぎた。そして仮に足を踏み入れることがあったとしても、気づかずにそのまま通り過ぎることが多かった。その国には堅固を誇る城壁もなく、はっきり町と見える場所もなく、ひとの住む家もひとの集まるべき場所もなだらかにうねる丘陵に広く散っていたからである。国の輪郭を巧みに隠し、それぞれの家には武具を隠し、事が起こった時には武装を整えた男たちが四方八方から駆けつけた。だからそのことを知る無頼の者は、その国では決して悪事を働こうとしなかった。その国の人々は豚の飼育に精を出し、南の斜面ではオリーブを育て、山の頂きでは葡萄を植えて多くの甘い実を稔らせた。豚は滋養に富んだ食料となり、オリーブから絞った油は健康を保つ材料となり、葡萄の実から得た汁は醗酵の過程を経て喜びを与える飲料となった。
 さて、ある時のこと、国の南端を覆う森の中から一人の炭焼きが走り出て、手近の家に急を伝えた。森の奥でとんでもないものを見たという。どのようなものかと家の男が尋ねると、とてつもない怪物であったという返答がある。ではどのようにとてつもないのかと尋ねると、炭焼きは答えに窮して舌を絡ませた。そこで家の男は炭焼きの頭に水をかぶせて濡れた頬を激しく叩いた。それでもなお喋ろうとしなかったので、水を満たした壷に顔を漬けて背中を激しく拳で打った。面白がってそうしたのではなく、手段を選ばずに真相を確かめようとしてそうしたのである。炭焼きは女神という一語を残して悶絶し、萎えた身体を地に横たえた。
 家の男はいぶかしんだ。本当に女神だとするならば、とんでもないものであるとしても、とてつもない怪物であるということはない。家の男は炭焼きを逆さに吊るして水を吐かせ、意識を取り戻すまで頬を殴った。とてつもない怪物という後半の部分に関して、炭焼きが何も答えていないと考えたからである。炭焼きは白目を開いて最後の力を振り絞り、家の男に向かってこのように言った。
「でかい」 

 その一言が吐き出されると同時に森の方で地響きがした。家の男は顔をうつむけて音に聞き入り、轟く音が規則正しく繰り返されるのに気づいて眉をしかめ、それから森の方へと顔を向けた。顔を向けるや否や、舌を絡ませて言葉を失った。炭焼きを放り出すと家の中へ走って武具を取り、慌てふためく妻子の手を引いて遠く離れた隣家へ逃れた。
 隣家の者たちは不穏に轟く地響きを聞いて外へ飛び出し、家を囲う柵の前で一家を迎えた。そして一家が狂乱状態にあるのを見ると、激しく石を投げつけた。遠ざけようとしたのではなく、新たな脅威を与えることで狂乱の原因から心をそらせようとしたのである。投石が効を奏して一家は落ち着きを取り戻し、後にしてきた方角を一斉に指差した。すでに言葉は不要であった。隣家の者たちは彼方から近づくそれを見て、逃げてきた一家にあれは何かと詰め寄った。すでに落ち着きを取り戻していた一家は言葉を選んで女神である、とんでもないものであると返答し、大きさだけを見ればとてつもない怪物と言えないこともないと補った。隣家の者たちもその答えに異論はなく、危険が迫っているという点でも両家の見解は速やかに一致した。そして武具を持つ者は武具を取り、荷に余裕のある者は家財や食料を家から運び、次の家へと退却を始めた。
 家から家へと退却を繰り返すうちに逃げる者の数が増え、男たちは走りながら鎧や武器を身につけた。多くの者が家を捨て、丘の上の菩提樹の周りに集まっていった。その根元には報せを聞いた長老たちが腰を下ろし、情報の収集に余念がない。将軍の番にあたっていた者は喉を嗄らしてひとを集め、最初に人数をそろえた隊が斥候に出された。女たちは火を起こし、あるいは酒の甕に水を注いだ。
 間もなく斥候隊の一人が戻り、女神の進路を報告した。森から出現した女神は途中にある家を破壊しながら北に進み、それから進路を北東に変えて今は東の川に向かっているという。報せを聞いた長老たちは皆を菩提樹の下に集めた。全員が腰を下ろして口を閉じると、間もなく古老が立ち上がってこのように言った。
「大きさの点ではとてつもない怪物とすら言えそうなとんでもない女神が現われて、この国のどこかを目指して進んでいる。それは皆も知っていることであり、儂が一人で妄言を吐いているというわけではない。そこで事実はありのままに受け入れることにして、残ることについて考えてみようではないか。すなわち、なぜ女神は現われたのか、なぜあれほどに大きいのか、そしてどこへ行こうとしているかである。意見のある者は、まず手を上げてから話すがよい」 

 すると一人が手を上げて、女神を撃退する方法は考えなくてもよいのかと尋ねた。
「女神が女神であるならば」と古老は言った。「儂らに倒せる相手ではない」 

 これには別の一人が手を上げて、ならば目下東進中のいわゆる女神が事実としての女神であることに疑義をはさむ余地はあるのかと質問した。
「それには」と古老は答えた。「なぜ女神が現われたのかを考えねばならぬ。女神が現われるだけの理由があるなら、あれは女神にほかならぬ。そうでないとなるならば、それから倒す方法を考えればよい。だからまずは、女神が現われた理由を探すことだ。理由を知る者は、まず手を上げてから話すがよい」 

 古老がそう言って促すと、一人が別の一人を指差したこのように言った。
「奴は豚に川を渡らせた」 

 菩提樹の下にゆらめくようなざわめきが走り、多くの者が指差された男に非難の視線を浴びせかけた。
「そう言うあいつは」と指差された男が指差した男を指差した。「川で小便をした」 

 今度は激しいざわめきが起こり、少なからぬ者が立ち上がって怒りの拳を振り上げた。発言を求めて手を上げた者も中には混じり、あれは川の女神なのかと大きな声で問い質したが耳を持つ者は一人もなかった。そこへ斥候隊からまた一人が戻り、古老の傍らに立つと許可を待たずにこのように言った。
「今、川を渡ってる」 

 これを聞くと多くの者が激しい怒りに顔を歪め、豚に川を渡らせた者と川を小便で汚した者に石を投げつけた。ただし落ち着きを与えるためではなく、禁忌を破った罰を与えるためであった。その有様を見た長老たちも群集に向かって石を投げ始めたが、これは罰を与えるためではなく、落ち着きを与えるためであった。だが長老たちの投石は落ち着きではなく興奮を与えることになり、おびただしい数の石が飛び交った結果、そのうちの一つが古老にあたり、古老は額から血を流して昏倒した。これを見た者は大事を悟って投石をやめ、間もなくすべての者が石を捨てた。長老たちは倒れた古老を助け起こし、女たちは顔を蒼くして走り寄り、男たちも忠節を示す絶好の機会と捉えて走り寄ったので、辺りは一瞬にしてごった返した。
 斥候隊から三人目が報せを携えて戻ったのは、この直後のことである。その兵士は群衆をかき分けて長老たちの前に進み、目を開いた古老に向かってこのように言った。
「神殿に入りました」 

 古老は報せを聞いて眉をしかめた。
「神殿とは、どこの神殿のことなのか?」 

 そう言いながら立ち上がる古老の周りでは、長老たちも残りの者も腕を組んで首を傾げた。神殿のことなどは誰も聞いたことがなかったからである。
「東の川の向こうにある林の奥の神殿です」 

 兵士の答えに数人が頷き、また数人が手を叩いた。たしかにそこには神殿があったと口にする者もいる。
「ならば」と古老が言った。「女神がどこへ行こうとしていたかは、これで明らかにされたことになる。謎の一つは氷解した。残る謎はなぜ現われたのか、なぜあれほどに大きいのか、その二つであり、これはおそらく神殿へ行けば自ずと判明するであろう」 

 そしてそのとおりとなった。神殿の内陣の高さは女神の身長にぴったりであった。大きさはそのことによって説明され、もう一つの謎はその国の者たちが女神の前に立った時、全員が自ずとひざまずいたことによって自ずと解明されたのである。女神が立ち去ったことも忘れ、神殿があったことも忘れ、日常の禁忌を心の頼みとしていた信仰薄き者たちは、その日を境に心に信仰を取り戻した。

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