2016年1月14日木曜日

トポス(76) だが俺のまどろみは眠りではない。

(76)
 所長は責任を果たすために答えを求めて山に登った。荒々しく吹きつける冷たい風に逆らって、囁き続ける歯車の音を耳に聞き、機械油を垂らしながら山頂に近づき、時を超えて岩が吠える絶壁の縁に足を置いた。首をゆっくりとめぐらして、下界を遥かに見渡した。雪が所長の顔を打った。折れ曲がりながら凍てつく尾根が見えた。しぶきを散らす滝が見えた。岩から岩へと羚羊が飛ぶ。風がやみ、戸惑うように雪が舞った。雲が分かれて月の光が差し込んだ。所長が月を見上げて目を開いた。
「俺は眠りに落ちようとしている。だが俺のまどろみは眠りではない。俺の思惟が決して思考ではないように。両眼を閉じてまどろむのは、俺の内奥で未決の箱に収められた無謬の指令書を読むためだ。俺にはいかなる内面もない。俺の行動は地方官僚としての条件反射とロボットのプログラムに仕切られている。俺自身が介在する余地は残されていない。どこをどう探しても、俺という人間は存在しない。ただ大いなる目的のために俺という形が残されている。大いなる目的の前では人間は無だ。だが俺は大いなる目的によって象られ、無限とも言える力を手に入れた。俺の行動は、もはや俺にもとめることはできないだろう」所長は月の光に向かって両手を高く差し上げた。「さあ、神秘の力よ。俺の前に現われろ。この俺が問いかけ、そしておまえたちが答えるのだ。神秘の力よ。俺が呼んでいる。俺の前に現われるのだ」

Copyright c2015 Tetsuya Sato All rights reserved.