2014年9月2日火曜日

異国伝/冷気の感触

(れ)

 その昔、とあるところにそれは小さな国があった。あまりにも小さいので地図に載ったことがなかったし、旅行者向けの案内書にも載ったことがない。雪を抱いた険しい山の裾にあって住民の多数は農耕に励み、残りは杖を携えて羊の群れを導いた。豊かではなかったが、貧しくはなかった。水と光に恵まれて、生きるのに十分なだけの収穫を得た。それぞれの者はそれぞれの畑と家を持ち、家にはいくらかの貯えを置き、中には牛を飼う者もあった。羊飼いだけが共同の小屋で暮らしていた。多くを知ることも多くを望むこともなく、ある物によって足ることを知り、たまに訪れる行商人は総出で迎え、羊毛の代価として身を飾る小物を得るのを楽しみとしていた。
 その国を旅していると、不意に異様な感触を覚えることがあった。耳や首筋に冷たい手が触れるのを感じて、驚いて振り返っても誰もいない。寂しい道でも多くのひとが集まる場所でも、時には寝台の温もりの中でも、冷たい何かが現われて、身体のどこかに触れていった。昼の光の中で目を凝らしても、それを見ることはできなかった。土地の人々はそれを手と呼んでいた。誰の手かは知らないが、と言って皆で笑う。初めは誰もが驚いたが、二度三度と遭遇するうちに気にしなくなった。ただ触っていくだけで、ほかには何もしなかったからである。ひどく冷たいのが迷惑ではあったが、特に言うべき害はなかった。
 手は大昔からそこにいて、大昔からそうしていたという。昼夜の別なく現われて、かつては父祖の身体に触れ、今は子孫の身体に触れていた。だから手は父祖との絆だと言う者がいた。手は冬でも現われ、夏でも現われ、そしていつでも同じように冷えきっていた。陽が照っても雨が降っても、雪が降っても手の冷たさは変わることがない。だが不作の年には、手はいつもより冷たくなるのだと言う者がいた。
 その国の人々は手に親しみを抱いていた。いきなり触られて冷たさに驚いても、決して邪険にはしなかった。病の床にある時に、手が額に触れていったことを覚えている者がいた。憤って顔を赤くした時に、手が頬に触れたことを覚えている者がいた。多くの者が、手がいつ、どこに触れたかを覚えていた。だからその国の人々は、手は癒し慈しむのだと考えていた。
 ある時、その国を危機が襲った。北方から騎馬の民が押し寄せてきたのである。王を抱かぬその国には軍と言える軍がなく、呼集に応じた民兵団は一瞬で全滅した。使者となって話をつけに赴いた者は、布の袋をぶら下げて戻った。袋の中には、使者の首が入っていた。騎馬の軍勢は家を焼き、畑を荒らし、羊を殺した。男も女も等しく首を刎ね、こどもと見れば足を掴んで手近の壁に叩きつけた。
 その晩も一軒の家が焼かれた。一組の夫婦が首を刎ねられ、多くの羊が焼き殺された。だが幼い娘は生き延びて、畑の中に逃げ込んだ。少女は蹄が土をえぐる音を聞きながら、畑の中を這って逃げた。松明の炎が頭上を駆け抜け、遠ざかってはまた近づいた。息を殺して唇を噛み、少女はただひたすらに逃げ続けた。やがて蹄の音は彼方に去り、松明の炎も見えなくなった。畑を抜け出して腰を上げ、間近に見える茂みの奥に飛び込んだ。途端に尖った枝が身体に刺さり、少女は血のにじんだ唇を噛み締めて大きな悲鳴を飲み込んだ。それから潅木の枝を押し分けて、隙間から家の様子をうかがった。家が燃えていた。燃え上がる炎を背にして多くの騎兵が行き交っていた。少女は身体を丸めて泣き始めた。
 火照った頬に冷たい手が触れるのを感じて、少女は顔を上げた。手は少女の頬を撫で、冷たい指先で涙を拭い、額に触れてそこで止まった。少女はなおも涙を流し、手が髪を撫でるのを感じながら間もなく眠りに落ちていった。
 馬の嘶きを聞いて目覚めた時には、まだ家が燃えていた。赤い炎に照らされて、騎馬の軍勢は大混乱に陥っていた。
 馬は棒立ちとなって騎兵を落とし、騎兵は見えない敵を探して剣や槍を振り回す。ただ闇雲に辺りを走り、誤って味方に傷を負わせ、あるいは誤って燃え上がる炎に飛び込んでいった。混乱の中で恐れを感じた一人が逃げ出すと別の一人が後に続き、さらに続こうとした多くの者が逃げるための馬を得ようと混乱に拍車をかけていく。味方同士で殺し合い、乗り手を失った馬を残し、生き延びた者は北へと去っていった。
 夜明けを迎えた後、少女は土地の者に救い出された。養い親に引き取られて健気に育ち、時とともに多くのことを記憶の底ににじませていった。だがその時に手がどこに触れ、またどのように触れたのか、それを忘れることは決してなかった。

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