2013年8月14日水曜日

大地

大地
Zemlya
1930年 ソ連 90分
監督・脚本:アレクサンドル・ドヴジェンコ

ウクライナの村にボリシェビキの鉄の馬がやってくる。村中総出で出迎えて、来た来たと叫んで道を彼方からやってきたトラクターを取り囲み、停まった停まったと叫んで停まったトラクターをまた囲む。エンジンが焼き切れてしまったのである。そこで男たちは俺たちの水を解放しようと叫んでトラクターに小便を浴びせ、そうするとトラクターは猛烈な勢いで走るようになる。農夫のワシリーはこのトラクターにまたがってそこら中の畑を耕し、収穫のためにまた走らせる。収穫された麦は機械によって粉にされ、機械によって練り込まれると、機械を通ってパンに変化する。ところで村のコルホーズの隣には富農の畑の柵があって、この畑が皆を困らせていたが、ある日、ワシリーはトラクターでこの柵を壊してしまう。するとある晩、村中の者が寝静まっていた頃にワシリーが村の道をあっちからこっちまで、ただただ踊りながらやってきて、そうして踊っているところを富農が襲って命を奪う。ワシリーの家族は死んだワシリーを見てたいそう嘆き、ワシリーの父親は神父を追い返して若者を呼び、新しい時代のために新しい歌を歌い、新しい仕方でワシリーを葬ってくれと頼み込む。すると村人たちは皆集まってワシリーのために歌を歌い、果樹やヒマワリが連なる中をどこまでもワシリーの遺体を運んでいく。運んでいった先には富農の畑があって、富農は丘の上で狂ったようになって自分の犯行を告白する。集まった村の人々はボリシェビキの飛行機を見上げ、果樹には見事に果物が実る。
ほぼ全編を視覚表現の面白さとリズムだけで見せてしまう。その技量は見上げたものだが、ストーリーや人物関係を追うのにはなかなか苦労するのであった。あまり真面目に話をしようとしているとは思えないし、ただ見ているとボリシェビキの新しい仕方というのはまるで呪詛のように見えてくるのである。何か含みがあるのかと疑ったが、たぶんそういうことはないのだろう。


Tetsuya Sato