2013年3月24日日曜日

ザ・マスター

ザ・マスター
The Master
2012年 アメリカ 138分
監督:ポール・トーマス・アンダーソン

第二次大戦終結後、海軍水兵フレディ・クエルはアルコールへの依存と精神的な問題を抱えたまま社会復帰をすることになり、職を転々としながら落ちぶれてサンフランシスコでとある大型ヨットに転がり込んで、そのヨットで娘の結婚式をおこなおうとしていたランカスター・ドッドに拾われ、ランカスター・トッドとその家族とともにニューヨークにやってくるとランカスター・ドッドがある種の団体を率いていたことから、その団体コーズの事実上の一員となり、しかしアルコールへの依存と心の問題はそのままであったので、ランカスター・ドッドはコーズが提唱するメソッドを使ってフレディ・クエルの言わば浄化に取りかかり、その結果なにやらまともに見えるようになったフレディ・クエルはある日ランカスター・ドッドの前から姿を消し、それにもかかわらずランカスター・ドッドはフレディ・クエルの所在をつきとめるので、フレディ・クエルは再びランカスター・ドッドの前に立つ。
元海軍水兵とサイエントロジーをモデルにした宗教団体の教祖という軸はいちおう用意されているが、作劇的な要素はほぼ完全に排除され、全編が観察に近い視点で構成されている。アルコール中毒や帰還兵の社会復帰に関心があるわけではないし、サイエントロジーに関心があるわけでもなくて、世に言うところの物語はどこにもない。そしてこちらがポール・トマス・アンダーソンという作家に勝手に期待していた構築的な要素も目に見える範囲では排除されていて、特にこれは序盤で強烈だったけど、どうにも居心地の悪い画面の連続にジョニー・グリーンウッドの居心地の悪い音楽がかかり、カメラのフレームとカットは痛いほどに細心の注意を払って結びつけられ、演出は登場人物の呼吸音にまでおよび、そういう道具建てを背景にしてホアキン・フェニックスが言わば独立した獣人を演じ切るとフィリップ・シーモア・ホフマンがこれも独立していて、しかも不可解なほど円満な人物を演じる、という、つまり見たところでは、それだけの映画になっている。
この作品を構成している鍵はおそらく距離であり、対象から限りなく距離を取った結果、物語性も構築性も消滅することになったのではあるまいか。では事実として構築性が消滅しているのかというと、なにしろ監督が監督なので、そこが少々疑わしくて、フィラデルフィアのシーンで一度だけ、フレディ・クエルの心象なのかランカスター・ドッドの心象なのか判断がつかない場面が出てくるけれど、これはもしかしたらどちらでもなくて作家が介入した痕跡なのではあるまいか。仮にそうだとすれば観察というフレームの外側で作家が登場人物の心象をふくらませているという構造が保証されることになるわけで、つまり観察と観察をしている作家の思惟というふたつのフレームでこの作品が構築されていることになる。次回作は静物を二時間映しておしまい、ということになるのではないか、と実はちょっと恐れている。 

Tetsuya Sato