2014年11月3日月曜日

プロキオン


 百年に一度の祝祭の日が近づいていた。祝祭の日には祝祭の王が選ばれ、祝祭の王に選ばれた者は祝福を受けて、一年のあいだ犬を養う権利を得る。犬と言っても、ただの犬ではまったくない。太古からの血を受け継いだ高貴な犬で、ともに暮らす者を幸福にいざない、末長く続く繁栄をもたらす。
 やがて祝祭の日が訪れた。祝福を求めて四方八方からひとが集まり、七日のあいだ喧騒が続いた。そして祝祭の王にはわたしが選ばれ、犬を預かる栄誉を授けられた。
 わたしは自分の幸運を心から喜び、犬を受け取るために教えられた家の戸を叩いた。町のはずれにたたずむ、古びた小さな家だった。音にこたえて、厳かに用向きを訊ねる声が聞こえた。わたしは祝祭の王であると名乗り、用向きを伝えた。すると戸を開けてなかから一人の男が現われたが、巨躯を誇り、大きな顔に黒ひげをたくわえ、まるで王者のような風格の持ち主で、全身から威厳と犬の臭いをにじませていた。男はわたしをなかに招き、腕を上げて散らかった部屋の一角を示した。
 手入れの悪い長椅子の上に一頭の大型犬が寝そべっていた。聞かされていたことに間違いはなかった。高貴な犬だということがすぐにわかった。全身がやわらかそうな長い黄金色の毛でおおわれていて、細長く垂れた耳のあいだから長い顔が突き出ていた。顔が長ければ四肢も長く、歩き方には妙になげやりな様子があり、名前を呼ばれて近寄ってくると、頭は男の腰と並んだ。しっとりとした輝きのある上品な目をしていたが、その眼差しにはどこかひとを値踏みするような気配があった。犬がわたしの顔を見上げた。わたしが頭を撫でようとして手を伸ばすと、一歩退いて顔をそむけた。
 王の犬だ、と男が言った。男は両手を高く差し上げてわたしと犬の幸運を祈り、わたしと犬を家の外へと送り出した。わたしは男に飼育にあたっての注意事項などを問い質したが、男はただ首を振り、王の犬だ、と繰り返した。それからわたしの耳に口を近づけ、先に立って進め、と小声で言った。わたしは意味もわからずにうなずいた。
 男は家に戻って戸を閉ざし、路上にはわたしと犬が残された。犬は地面に腰を下ろして高い空を見上げていた。わたしも横に立って空を見上げた。小鳥が二羽、縄張りを争って戦っていた。しばらくしてから目を落とすと、犬は後脚を上げて耳の後ろをひっかいていた。ひっかくたびに全身を覆う長い毛が、ほとんど暴力的なまでに揺れ動いた。
 わたしはすぐにも犬を連れ帰って、近所に自慢して歩くつもりだった。だから犬と一緒になって、いつまでも道の真ん中で時を過ごしているわけにはいかなかった。わたしは犬にやさしく声をかけた。犬は後脚をそっと下ろした。その動作には思わず見とれるような気品があった。だが立ち上がりそうな気配は露ほども見せずに、そのまま路傍のどこかへ視線を移した。犬の視線のその先では、一輪の小さな花が風に吹かれて震えていた。わたしは再び声をかけた。すると犬は脚を畳んで、長々と地面に寝そべった。そこでわたしは間近に見える戸口に向かって、助けを求めるつもりで声をかけた。家のなかから応答はなかった。ここでわたしは男の言葉を、先に立って進めという助言があったことを思い出し、犬をその場に残して先に立って進み始めた。三歩進んでから振り返ると、犬はわずかに顔を上げてまっすぐにわたしを見つめていた。よい兆候のように思えたので、さらに三歩進んで振り返った。犬はまだそこにいて、じっとわたしを見つめていた。値踏みされているような気がした。わたしは犬に背を向けて四歩進んだ。五歩目にかかろうとしたところで考えを変え、飼い主の威厳を込めて手招きするつもりで振り返ると、立ち去りつつある犬の後ろ姿が飛び込んできた。
 犬は家とは反対の方角を目指して進んでいた。道の先には森があり、森の先には見知らぬ世界が広がっている。預かり物を見失うわけにはいかなかった。わたしはあわてて犬を追った。犬の足取りのなげやりな様子からすぐに追いつけるものと期待したが、犬は予想に反して速く進んだ。垂れかかる黄金色の毛が動作をなげやりに見せているだけで、実際になげやりに歩いているわけではまったくなかった。それだけではない。分厚い肉球をそろえた足の裏は、あきらかに屋外をすばやく進むことに適していた。一方、わたしの足の裏には外歩きに適した肉球はない。慣れない速さで歩くことを強いられて、わたしは息切れに苦しんだ。苦しむわたしの目の前で、犬は軽々とした調子で地面を蹴って先へ先へと進み続けた。預かり物を見失うような予感がした。わたしは必死の思いで犬を追った。犬を追って森へ踏み込み、かまびすしい木漏れ日の下を抜けていった。
 森の向こうには野原があった。ゆるやかに伸び上がる緑の丘がうねる波のように重なり合い、空には白い雲が筋を引き、はるか彼方には青く霞む山々があった。道は丘のあいだを縫うようにしながら、彼方の山のほうへと続いていた。
 犬は先へ進んでいった。わたしも犬を追って道を進み、そしてとある丘のふもとで手紙を拾った。封筒は風雨にさらされて朽ち果てる寸前にあり、封を開けて傾けると宝石のついた指輪が転がり出た。指輪はわたしの薬指に計ったようにぴったりと合った。見事な筆跡でしたためられた文面によれば、手紙の差出人は高い塔に監禁されたとある国の王女であり、王女を束縛の身から救い出すためには祝祭の王であるわたしの力が必要であった。救い出すことに成功すれば美しい王女の夫となり、やがては一国の王となることが約束されていたが、わたしは犬を追わねばならなかったので、指輪と手紙をもとの場所に戻して先を急いだ。なおも犬を追って進んでいくと、別の丘のふもとでは武装した市民の集団に出会った。彼らはいままさに凶悪な独裁者と戦っている最中で、戦いを勝利に導くために祝祭の王であるわたしの力を必要とした。独裁者を打ち倒すことに成功すれば、わたしには輝かしい民主国家の初代大統領となることが約束されたが、わたしは犬を追わねばならなかったので先へ進んだ。続く丘のふもとでは一匹の緑色のカエルと出会った。姿は醜いカエルでも正体は魔女に呪いをかけられた隣国の王子で、もとの姿に戻るためには祝祭の王であるわたしの接吻を必要とした。たった一度の接吻でいかなる栄耀栄達も思いのままだとカエルの王子は約束したが、そうしているあいだにも犬が先へ先へと進むので、わたしはカエルを放り出して犬を追わねばならなかった。
 犬を追って進んでいくと、丘の陰から一人の男が飛び出してきて、急ぐわたしの進路をふさいだ。町外れの家にいたあの黒ひげの男だった。なぜ、と男はわたしに訊ねた。あなたは犬の後を歩くのか。なぜ犬の前を歩かないのか。犬の足が速いので、とわたしは答えた。すると男はわたしに向かって指を突き立て、この無能者、愚か者と罵った。犬の前を歩けば犬は必ずあなたにしたがうであろう、しかし犬の後を歩くなら、幸福をもたらすすべての機会をことごとく横目に見て終わることになるであろう。
 だから犬を追い抜け、と男は叫んだ。そこでわたしは走り始めた。意外なことに犬はすぐ先で地面に腰を下ろしていた。足音を立てて近づいていっても振り向くだけで、腰を上げる気配はない。わたしはそのまま走り続けて犬を抜いた。そこは道と道が交わる場所で、道を渡った向こう側では心の貧しい羊飼いに率いられた心の黒い千頭のヒツジが道を渡る者を待ち受けていた。羊飼いがそれっと叫ぶと、千頭のヒツジが一斉にわたしに襲いかかった。わたしはヒツジに全身をかじられて悲鳴を上げ、悲鳴を上げるわたしを横目に見ながら、犬は道の先を目指して進んでいった。
 かじりつくヒツジの群れを払いのけ、決死の思いで立ち上がり、わたしは犬を追って道を進んだ。橋のない川の川原では犬は再び足を止めてわたしを先に進ませたが、その川には心を迷わせた千頭のヘラジカが住み着いていて、唇に引きつったような奇妙な笑みを浮かべながら一斉にわたしに襲いかかった。わたしはヘラジカにかじられて悲鳴を上げ、犬はわたしを残して道を進んだ。断崖に挟まれた谷底の道の入り口でも、犬は足を止めてわたしを先に進ませた。ここには心のねじくれたシロクマがいて、崖の上から大きな石を投げつけてくるので、超人的な瞬発力を発揮してそのすべてをかわさなければならなかった。体力を使い果たしたわたしの前を、犬が先を目指して進んでいった。
 道の終点には大理石で作られた玉座が置かれ、玉座のまわりには月桂樹の林が広がっていた。陽が沈み、月の光が玉座を照らした。影が洗い流され、玉座の上に犬の姿が描き出された。犬が玉座に座っていた。長い黄金色の毛を優雅に垂らし、気品のある細面の顔をわずかにかしげ、値踏みをするような目でじっとわたしを見つめていた。疲労困憊したわたしは玉座の前に膝を突き、そこはわたしの場所だと犬に言った。強い調子で三度同じ言葉を繰り返したが、犬は動こうとしなかった。わたしが吐息を漏らすと、闇を破って黒ひげの男が飛び出してきた。わたしに向かって指を突き立て、この無能者、愚か者と罵った。
 あなたのような人間を、だめな飼い主とひとは言うのだ。
 そうかもしれない、とわたしは答えた。
 すると天から、けたたましい笑いの声が降り注いだ。運命は、もはやひとの手には握られていない。

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