2014年7月30日水曜日

異国伝/通行の障害

(つ)

 その昔、とあるところにそれは小さな国があった。あまりにも小さいので地図に載ったことがなかったし、旅行者向けの案内書にも載ったことがない。小さな領土は南北に延びる古い街道にまたがり、北に置かれた国の門から南に置かれた国の門を見ることができた。南に置かれた国の門から北に置かれた国の門が見えたことは言うまでもない。西は山に、東は海に面していて、南に置かれた門を抜けて街道を進むと、その先には海老を食べる人々の国があった。
 その国の人々が何を生業とし、何を糧に生きていたのかはあまり知られていない。今のところは漁民であったとする説が有力で、午後に船を仕立てて沖を南下し、隣国の漁場で夜陰に乗じて海老を獲っていたのだとされている。収穫された海老はそのまま船で北へ運ばれ、北で獲れた魚類と交換された。漁場荒らしの証拠を隠滅するためである。経済は全体に未発達で、交換は主に現物でおこなわれていた。南の隣国では現金収入の不足を補うために旅行者から通行税を徴収していたが、その国では通行は無料で、代わりに禁制品などの摘発をおこなって若干の罰金を課すにとどめていた。通行税のせいで南の隣国が悪評を得ていたことを知っていたからであろう。現金収入に乏しい小国にとって、旅行者の評判は常に重要な意味を持つ。無法な通行税を課す国よりも、無法を摘発する国の方がよい評判を得るのは当然であった。
 さて、ある時、一人の旅人が遥か南に位置する大国を目指して街道を下り、その国の北の門に近づいていった。通過するだけの軽い気持ちであったが、門を守る二人の兵士がすぐさま飛び出してきて行く手を阻んだ。兵士のうちの一人が門の脇にある小屋を指差し、そちらへ行けと身振りで示した。旅人は争いを好まない種類の人間だったので、おとなしく指示にしたがって小屋の方へ進んでいった。入口の横には各国語で出入国管理事務所と記されていた。
 戸口をくぐって中に入ると机の向こうに太った男が一人いて、横柄な身振りで旅人に旅券を請求した。旅人が静かに差し出すと、男は乱暴に奪い取った。中を開いてつぶさに調べ、卑しく見えるほどの疑念を顔に浮かべて机の引き出しにしまい込んだ。次に男は身振りで示して、旅人に鞄を開けるように要求した。旅人が鞄をかばって首を振ると、男は声を出して兵士を呼んだ。門にいた兵士の一人が駆け込んできて、旅人を背後から羽交い締めにした。男は旅人の鞄を机の上に置いて口を開き、中の物を一つひとつ出していった。大半は旅の必需品であったが、土産に選んだ二つ三つの品物がある。旅人が見ている前で、男はそのうちの一つを取って引き出しにしまった。それから不意に顔を上げて肩をすくめ、大きな笑みを浮かべると兵士に命じて拘束を解かせた。
「その標語、見る」

  男が旅人の国の言葉でそう言いながら壁の一隅を指差すので、見るとそこには各国語で法執行強化週間と記されていた。男は旅人の旅券を取り出して、入国の承認印を押した。旅人は旅券を受け取り、大急ぎで荷物を鞄に詰め込んだ。膨らんだ鞄を肩にかけ、小屋から出ようとしたところで男が握手を求めて手を差し出した。
「いい旅」

  旅人の国の言葉でそう言うので、旅人は相手の指先に軽く触れて小屋を出た。兵士の間を通って門をくぐり、みすぼらしい家を両側に並べた街道を進んだ。路上にひとの気配はなかった。西には禿げた山が見え、東には荒涼とした浜が見えた。前方には南の門が見える。その国のどこかで立ち止まるつもりはまったくなかった。そもそも予定になかったし、味わったばかりの不快な体験が胸に恐怖を浮かせて自然と足を急がせた。南の門が近づいてきた。
 ふと海岸の方へ顔を向けると、北の事務所にいた男が南の門を目指して走っているのが目に入った。南の門に視線を戻すと、その脇には北の門と同様に事務所と思しき小屋が見える。旅人も走り始めた。男よりも先に門に着けば、状況がいくらかでもましになるのではないかと考えた。旅人は街道をひた走り、男は浜辺をひた走った。太った男は実に見事な走り手であった。旅人は荷物を抱えていたので分が悪かった。旅人が門に着いた時には、男はもう小屋へ走り込んでいた。
 門には二人の兵士がいた。これは北の門とは異なる二人組であったが、そのうちの一人が小屋の方を指差すので、旅人はおとなしく指示にしたがった。
 戸口をくぐって中に入ると、机の向こうでは太った男が呼吸を整えていた。鼻と口で同時に息をしながら、それでも横柄な態度は保って手を差し出した。旅人が旅券を渡すとひったくって中を開き、つぶさに調べて充血した目に疑念を浮かべる。旅券を引き出しにしまい込んでから、身振りで鞄を開けるように要求した。
「さっき調べたばかりでしょう」

  旅人が抗議すると、男は喘ぐように口を開けた。卒倒でもしかけたのか、机の端を掴んで背中を丸め、しばらく目を閉じてじっとしていた。それからいきなり身体を起こすと、声を出して兵士を呼んだ。門にいた兵士の一人が駆け込んできて、旅人を背後から羽交い締めにした。男は旅人の鞄を机の上に置いて口を開き、中の物を一つひとつ出していった。大半は旅の必需品であったが、土産に選んだ一つ二つの品物がある。男はそのうちの一つを鷲掴みにすると、旅人の鼻先に突き出した。
「これ、なんですか?」

  男が旅人の国の言葉でそう尋ねるので、旅人は答えてこのように言った。
「それはただの土産物です」 

「違います。これ、禁制品」 
「でも、さっき調べたじゃありませんか?」 
「こんなものは、さっきは、なかったです」 
「嘘を言うな。さっき向こうで見ただろう」 
「これ、持ち出し禁止の品。あなた、罪を犯しました。逮捕します」 
「そんなばかな」 
「皆さん、ばれるとそう言います」 
 旅人は兵士によって連行され、その国の牢に放り込まれた。湿気た暗い場所で身の不運を嘆いていると、国選弁護人と名乗る男がやってきた。無罪の主張は難しいと言う。ならばどうすればよいのかと尋ねると、有罪を認めて司法取引に持ち込むべきだと助言された。そこでそのとおりにすると、有罪だけが認められて司法取引は拒まれた。判決は二十年の刑と財産の没収。
「わたしたち、法がある。あなたがた、忘れてはならない」

 旅人の国の言葉で、裁判長が厳かに告げた。

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