2014年5月26日月曜日

町/詩人

 あるとき、町に詩人がやって来た。
 詩人はつややかな黒髪を肩まで伸ばし、まっすぐに垂れかかる前髪で青白い顔の半分を隠していた。襟の高い黒のフロックコートに長身を包み、長い脚を伸ばして悠然と歩き、ときおり思い出したかのように立ち止まると、顔にかかった前髪を驚くほど優雅な手つきでかき上げた。詩人は若くてエレガントで、古代ギリシアの彫刻を思わせる美貌をしていた。その姿に女たちはたちまちのうちに陶然となり、男たちはまず羨望の眼差しを向け、続いて嫉妬し、気がついたときにはもう憎んでいた。
 詩人は町で最高級のホテルに部屋を取った。女たちはホテルを取り巻こうとしていかつい大男の守衛に追われ、勇気を示した数人は守衛の守りを突破してホテルへ入り、フロントに置かれたベルを何度も叩いてフロント係を呼び出した。そして甘い声を重ねてすてきな詩人の名を訊ねたが、返ってきたのは誰も聞いたことのない名前だった。一瞬、女たちは顔を見あわせた。フロント係は唇に冷たく乾いた笑みを浮かべた。
「つまり、無名の詩人というわけですな」
 すると女たちは憤然としてフロント係に詰め寄った。馬鹿だの阿呆だのと散々に罵り、あんたには詩がまったくわかっていない、詩人というものがわかっていない、そもそも芸術が全然わかっていないと叫んで指を突きつけ、捨てぜりふを残して飛び出していった。
「ふん、わかったような顔しちゃってさ」
 女たちは路上に立って詩人の名前を胸に抱き、詩人の泊まる部屋を見上げてうっとりとした。一人が感極まって、芸術よ、あれこそが芸術だわ、と叫ぶと、残りの女たちも芸術よ、あれこそが芸術だわ、と喜びに満ちた叫びを上げた。
 間もなく詩人が姿を現わした。フロックコートが黒から灰色に変わっていたが、そのせいで神々しさがいや増していた。女たちは息を呑んだ。詩人が歩き始めると、女たちがそのあとを追った。
 詩人は町のなかをさまよい歩いた。旧市街の石畳を踏んで左右に並ぶ古びた建物を交互に眺め、川のほとりに沿って歩いて頭上を舞う鳥の群れを目で追いかけ、あるいは橋の上でつかのま足をとめてせせらぎに映える日の光に顔をうつむけた。コートのポケットに手を突っ込んで、遠くを見つめることもあった。歩きながら雲を見上げ、立ち止まって自分自身の影を見つめた。あるところでは打ち捨てられた彫像に手を伸ばし、あるところでは建物のひび割れた壁に触れ、またあるところでは街路樹の節だらけの幹に手を添えた。詩人はしっかりとした大きな手の持ち主だった。その手で垂れかかる髪をかき上げ、そうかと思うと頭を抱え、長い髪をかきむしり、顔を覆い、ときにはこぶしに結んで宙に振り上げ、それを勢いよく振り下ろした。苦悩だわ、と女たちの一人が言った。そうよ、と残りの女たちが声をそろえた。あれこそが芸術的な苦悩だわ。
 そこへ一人の少女が花束を抱えて現われた。女たちの前を足早に横切り、詩人に駆け寄ると少女らしいはにかみを添えておじぎをして、手にした花束を差し出した。詩人はじっと花束を見つめた。しばらくのあいだそうしていたが、そのうちにそのままそうしてもいられないということに気がついたのか、受け取ろうとして身をかがめた。ところがその途端に詩人の顔が苦悩で歪んだ。言うまでもなく、外界との思わぬ接触でせっかくの詩想が乱されたのだった。詩人の心は絶望に揺れた。世界に対する信頼を失い、垂れかかる前髪の下に手を差し入れて、額を押さえて目を閉じた。詩人がよろめくのを見て少女は恐怖のとりことなり、助けを求めて声を上げた。するとそれまで遠巻きにしていた女たちが一斉に飛び出し、少女をつかまえてその場から引きずり出すと馬鹿だ阿呆だと散々に罵り、あんたには詩がまったくわかっていない、詩人というものがわかっていない、そもそも芸術が全然わかっていないと叫んで指を突きつけた。少女も負けずに叫び返した。
「なによ、あたしがなにをしたっていうの」
 女たちの一人が手を振り上げた。
「なんだい、教えてほしいって言うのかい」
 少女は花束を地面に叩きつけた。
「なにさ、わかったような顔しちゃってさ」
 少女は捨てぜりふを残して走り去り、女たちはその後ろ姿に罵声を浴びせた。それから一斉に向き直ってたたずむ詩人を遠くに見つめた。詩人はもうよろめいてはいなかった。椿事によって新たな詩想を得たのか、あるいは失った詩想を取り戻したのか、いまは雄々しく胸を張り、空を見上げ、力強く握ったこぶしを胸の前に掲げている。女たちが安堵の吐息をそっと洩らすと、詩人は再び歩き始めた。悠然とした歩調で散策を続け、日没の直後にホテルに戻った。
 ホテルでは町の文学愛好者たちが詩人の帰りを待ちかねていた。詩人が姿を現わすと全員が立ち上がって盛大な拍手で迎え、町に一つしかない文学サークルの代表が、これは町の有力者で商工会議所の会頭でもあったが、挨拶を述べて握手を求めた。詩人は額に手をあてたまま、代表が差し出した手を見つめていた。詩人がいっこうに動こうとしないので、文学サークルの会員たちは疑念を抱いた。つまり代表の手になにか油断のならない物体が付着しているのではないかと疑った。会員の一人が気を利かせたつもりで代表にハンカチを差し出したが、代表はそれを無視して差し出した手をさらに差し出した。詩人は額にあてがった手をゆっくりと下ろした。よろめいてはいない。どうやら詩想は保たれていた。詩人はサークルの代表と握手を交わし、それを見て会員たちが歓声を上げ、再び盛大な拍手が起こった。
 握手の次は晩餐だった。詩人は夕食に招待された。家族的な雰囲気の気楽な店です、と文学サークルの会長は言った。その家族的な雰囲気の気楽な店は旧市街の飲み屋が集まる一角にあり、キャベツの酢漬けの臭いが染みついた店内ではベンチに腰を下ろした二百人もの人間が同時に注文を叫んでいた。文学愛好者たちは奥の個室にとおされた。キャベツの酢漬けとベーコンを一緒に煮込んだ料理が大皿に盛られてテーブルに並び、飲めば頭痛と吐き気を誘う地元の酒がグラスに注がれて配られた。詩人は額に手をあてていた。会長が乾杯の音頭を取り、会員たちはグラスを干して吐き気をこらえ、詩人はにおいを嗅いで顔をしかめてグラスの中身を床に捨てた。
「さて、それでは」と文学サークルの会長が声を張り上げた。「本日の来賓に作品の朗読をお願いしましょう。さあ、あなたの番です。立ち上がって」
 会長が手を差し出してうながすと、詩人は額に手をあてたまま首を振った。
「どうしました。遠慮は無用です。なにしろこのような土地で、誰もが文化の香りに飢えているのです。もちろん新作である必要はありません。なにか一つ選んで朗読していただければ、ここにいるわたしたちは、それはもうこれ以上はないというくらいに感謝することになるでしょう」
 会長が差し出した手をさらに差し出してうながすと、詩人は額に手をあてたまま、小鳥がさえずるような柔らかな声でこのように言った。
「残念ながら、作品がありません」
「ああっ」と会長が叫んだ。「これはまた、なんというおくゆかしい方だ。恥ずかしがっておられるのですか。そのような心配は無用ですよ。みながあなたの朗読を待っているのです。ぜひともお願いします。さあ、あなたの番です。立ち上がって」
「残念ながら」と詩人は言った。「それは不可能です」
「ああっ」と会長が叫んだ。「つまり主義として朗読はなさらないわけですな。それならば話はわかります。では、差し支えなければわたしがあなたに代わってあなたの作品を朗読することにいたしましょう。どうです。それなら問題ないでしょう」
「残念ながら」と詩人は言った。「それも不可能です」
「ああっ」と会長が叫んだ。「わたしでは不適任だとお考えですね。なにしろ初対面ですからね。そうお考えになるのも無理もありません。しかし、そのような心配は無用です。わたしは初見でもたいていの詩を読みこなす能力を備えているのです」
「残念ながら」と詩人は言った。「作品がないのです」
 会長が差し出した手を引っ込めた。
「作品がないとは、どういうことです。詩集をお持ちではないのですか」
「わたしの詩集はどこにもありません」
「それはつまり、まだ本にはなっていないということですね」
「そうではありません。まだ作品がないのです」
「しかし、そんなことは信じられん。あなたは詩人でしょう」
「しかし、作品はまだないのです」
「しかし、それでは詩人とは認められない」
「しかし、わたしは詩人なのです」
「いけませんな」と会長が言った。「そんな人物を我々が詩人と認めるなどとお考えか。田舎者だと思って馬鹿にするのはやめてもらおう。これでも多少の教養と見識がある。つまりあんたは身分を偽って詩人と名乗り、我々をだましてただ酒とただ飯にありついた、というわけだ。いや、それだけではない。女たちをたぶらかして風紀を著しく紊乱した。なんということだ。あんたは詩人などではまったくない。とんでもない詐欺師の悪党だ。これ以上、一瞬たりとも同席はできない。さあ、ここから出ていってもらおうか」
 会長が詩人に指を突きつけた。詩人は椅子を引いて立ち上がった。そして居並ぶ文学愛好者たちを見回して、小鳥がさえずるような柔らかな声でこのように言った。
「しかし、わたしは詩人なのです。詩想はここにあるのです」
 詩人は前髪の下に手を差し入れ、額を押さえて目を閉じた。文学愛好者たちは一斉に立ち上がって詩人に罵声を浴びせかけた。会長もまた立ち上がり、詩人に指を突きつけてこのように言った。
「それで詩人なら誰でも詩人だ。さあ、ここから消え失せろ」
 翌朝、詩人は町から立ち去った。その後ろ姿を女たちが見送った。
 それから間もなく、首都から届けられた新聞が新たな天才詩人の誕生を知らせた。その名前は、町では知らない者がなかった。町の文学サークルでは緊急会合を開いて無教養と不見識を理由に会長の解任と除名を決定し、女たちはそれ見たことかとせせら笑い、ホテルのフロント係は詩人の署名が入った宿帳を将来の価値に備えて盗み出して、たちまち見つかって窃盗罪で逮捕された。

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