2013年6月3日月曜日

大アマゾンの半魚人

大アマゾンの半魚人
Creature from the Black Lagoon
1954年 アメリカ 79分
監督:ジャック・アーノルド

アマゾン川で科学調査にいそしむ男女が怪しい化石だの足跡だのを見つけて喜んでいると、水面のすぐ下では恐るべき半魚人が白人女の貞操を虎視眈々と狙っているのであった。当然のことではあるが、この手の映画の鑑賞態度としては、狙ってどうするのか、という疑問を抱いてはだめなのであって、半魚人の種を超えた劣情に対して理解を示すか、少なくとも判断を保留するだけの度量を示す必要がある。実際、劣情だと思うのは人類の傲慢であって、半魚人の主張としてはカラスが光物を集めているのとたいして変わらないかもしれないのである。水中を自在に動きまわる半魚人スーツは現在の目で見ても優れている


Tetsuya Sato

2013年6月2日日曜日

オブリビオン

オブリビオン
Oblivion
2013年 アメリカ 124分
監督:ジョセフ・コシンスキー

エイリアンが月を破壊したので地球は天変地異に襲われて都市が破壊され、人類はエイリアンとの戦争で核兵器を使ったので戦争には勝利を得たものの地球は居住不可能になり、生き残った人類の大半は土星の衛星タイタンに移住し、ジャック・ハーパーとヴェロニカの二人は地球に残ってエイリアンの生き残りによる攻撃から資源採集システムを守っていたが、そこへNASAの古い宇宙船が不時着し、不時着した宇宙船の唯一の生存者ジュリアはジャック・ハーパーを見てその名を口にし、宇宙船のタイムレコーダーを回収するために不時着現場に戻ったジャック・ハーパーとジュリアはそこでエイリアンの襲撃にあい、なぜか殺されずにエイリアンの拠点に運び込まれて、そこで意外な事実に遭遇する。 

よく整理された古典的なプロットを無駄のない、よどみのない語り口にのせ、よく吟味された映像はただひたすらに美しく、そしてなぜか懐かしい。なぜ懐かしいのかが見ているあいだはわからなかったが、見終わったあとにあれやこれや考えた結果、これはどうやら1970年前後の、たとえば『猿の惑星』あたりに描かれていたような「荒廃した地球」の原風景の洗練された再現ということになるのかもしれない。そしてそこに主人公の郷愁と再会への熱望が心地よく結び合わされ、悲しみと癒しに満たされたハッピーエンドへとつながれていく。トム・クルーズは罪に包まれたキャラクターを好演し、オルガ・キュリレンコの姿はただひたすらに好ましく、モーガン・フリーマンは例によって説明するために登場するが、ダイアログはおおむねにおいて控えめで、にもかかわらず多義性を帯びながら作品の構築性へ確実に反映されていく。すでに脚本のレベルでもめったにない傑作ぶりだが、視覚的な豊かさもまた格別で、メカニックな描写にもはっきりとした個性が現われているので、主人公が乗り回す未来型ヘリコプターのまったく意味のないテイルローターまでが表現上のこだわりに見える。 

Tetsuya Sato

2013年6月1日土曜日

アンダルシア 女神の報復

アンダルシア 女神の報復
2011年 日本 125分
監督:西谷弘

フランスとスペインのあいだにある小国のホテルの一室でいかにも要領を得ない様子の女がいかにも要領を得ないことをしていると、その部屋には死体が転がっていて、その死体は警視総監の息子の死体で、そういうことができるとは思えないけど、だから警視庁はインタポールに出向中の日本人の刑事を送り込んできて、その刑事が部屋の様子を見てこれは物盗りのしわざだと決めつけているとパリから日本の外交官が駆けつけてきて、それは違うといったようなことを言って要領を得ない女をバルセロナの日本領事館に保護するので、刑事も女を追ってバルセロナへ現われ、何者かが要領を得ない女を狙い、いろいろと要領を得ないことがあったあと、女は勤め先の銀行が国際的なマネーロンダリングに関与していることを認めて大きな取引がアンダルシアでおこなわれると告白するので、刑事と外交官は要領を得ない女と一緒になぜかタルゴ列車に乗り込んでアンダルシアに向かい、そこでも要領を得ないことがいろいろとあって、要領を得ない女が雪の中でごそごそと穴を掘っていると、そこへ刑事と死んだはずの外交官が現われて、いまひとつ要領を得ない女の正体があきらかになる。
『アマルフィ』の続編。要領を得ない脚本は状況に対する集中力を欠き、登場人物に無用の造形を与えることに気を取られている。スペイン・ロケは前作と同様、魅力を欠き、仮に見たまんまであったとしてもバルセロナは国道246沿いのどこかに見える。織田裕二はキャメルのコートが似合っていない。黒木メイサは大根である。おまけにどさくさにまぎれて織田裕二の服でゲロを拭いていた。伊藤英明のぼさぼさ髪に何か意味があったのか。全体にじめじめとしているだけで、似たようなシチュエーションを扱っていても『ザ・バンク 堕ちた巨像』のようなダイナミズムはかけらもない。



Tetsuya Sato

2013年5月31日金曜日

アマルフィ 女神の報酬

アマルフィ 女神の報酬
2009年 日本 125分
監督:西谷弘

テロ対策を専門とする外交官黒田康作がテロの予告を受けてローマに現われ、そこで日本人観光客の娘が誘拐される事件にかかわると、誘拐犯が実はテロを計画していたという、ひとつ間違えばすべてがすれ違っていたであろう危ういプロットが怖かった。
驚きはローマやアマルフィの風景にまったく魅力がないことで、どちらもテレビドラマに出てくる東京のようにぺったりとしていた。よほどの短期間のロケだったのでフレームをまともに決めている時間がなかったか、そもそも風景にまったく興味がなかったか、それともその両方なのかはわからないが、BSでやっているイタリアののどかな村の番組のほうがよほどきれいに撮れているのではないだろうか。
ただ、それはそれとしても空間的に広がりのあるドラマを作ろうという野心は見えたし、そのモチベーション自体は好ましいと思うので、あとはそれをテレビの二時間ドラマからいかにして映画に格上げするかであろう(ショットが長い、何かと言えば間を取りたがる、意味のない会話で時間を取る、感情表現が目に見えないといけないと思い込んでいる、結局のところでたらめに見える、といったどこかのアサイラムが染まっているような悪癖とはそろそろ決別したほうがいいと思う)。女性(特に天海祐希)を事実上の無能力者として扱おうとする視点が気に障った。いまどき、あれはないのではないか。


Tetsuya Sato

2013年5月30日木曜日

恋空

恋空
2007年 日本 129分
監督:今井夏木

高校一年生の美嘉はなくした携帯を図書室で発見するがアドレス帳がことごとく削除されて、そこへ電話をかけてきた声の主が自分の犯行であることを告げ、美嘉に関心を抱いているなら美嘉からかけるまでもなくかけてくるはずであるとアドレス帳の無効を宣言して、夏のあいだ名前も姿も隠したまま電話によるコンタクトを保ち、9月の始業式で初めて姿を現わすと美嘉とヒロとは恋仲になり、美嘉はヒロの部屋で交接を経験し、美嘉はヒロの前の恋人の差し金でお花畑でレイプされ、さらに悪評をふりまかれ、美嘉は必ず美嘉を守ると宣言するヒロに抱かれて図書室で再び交接を経験し、美嘉がこの交接によって妊娠するとヒロはそれまでの金髪を黒髪にしてスーツ姿で美嘉の両親の前に現われ、美嘉はヒロとともに生まれてくる赤ん坊のことを考えて未来の家族を夢に描き、美嘉はヒロの前の恋人に突き飛ばされて流産し、ここまでで高校一年のクリスマスなので展開が速いのに驚くが、高校二年の春になると美嘉はヒロから別れを言い渡され、美嘉はヒロに心を残したまま高校三年になって大学生の恋人を作り、それから大学生になり、その一年目のクリスマスイブに美嘉がヒロが自分の前から去った理由を知り、美嘉はヒロの病床にかけつけ、美嘉は死の床にあるヒロの看病にふけり、美嘉はヒロを見送り、美嘉はヒロの日記からヒロがつねに美嘉を見ていたことを知り、それらすべてを三年後に思い起こして感慨にふける。
つまりヒロインは純愛という自分の劣情にしたがって男を消費したのである。男は悲劇の渦中に置かれたヒロインの劣情に奉仕するために登場し、セックスもレイプも状況を確保するための記号に過ぎず、ヒロインの身に何が起ころうとすべては同じ次元で展開し、ヒロインは決して実質的な被害を受けないので物理的なリアリズムを必要としない。たった一つの目的に沿って思いつく限りに雑念を並べているという点でまったく無駄のない、揺らぎのない内容であり、その内容はことさらに淡々とした演出によって噛まずに飲み込めるものとなっている。ヒロインの退屈さも含めて、おそらくはデザインされた結果であろう。TSUTAYA ONLINEのアンケートで十代から三十代の女性から泣ける映画ナンバーワンに選べれているというのもうなずける。ただし正確には泣ける映画ではなく抜ける映画と言うべきかもしれない。


Tetsuya Sato

2013年5月29日水曜日

愛のむきだし

愛のむきだし
2008年 日本 238分
監督・脚本:園子温

カトリックの家に生まれたユウは小学生の頃に母親を亡くし、父親テツはユウが高校生となる頃に神父となり、父親と息子は司教館で暮らしていたが、そこへカオリと名乗る女が現れて父親を誘惑し、結婚を迫るので誘惑に負けたテツは別宅にユウとカオリを住まわせるが、間もなくカオリは姿を消し、テツは息子に罪を求めて告解を迫り、生来温和なユウは父親を喜ばせるために罪を作り、不良グループの仲間となって喧嘩や万引きなどをしていたが、聖職者から見てもっとも罪深い罪ということで仲間から入れ知恵されてパンチラの盗撮をたくらんで、その道の達人から特訓を受けてすぐに名人の域に達するものの、当然、父親からは勘当同然の扱いを受け、そのことによって神父と信徒のあいだの関係が消え、父子関係がよみがえったなどと喜んでいるうちに再びカオリが過去の男の連れ子ヨーコを連れて姿を現してテツとの関係回復を求め、そのヨーコは謎の集団に襲われて通りかかったユウに救われ、そもそも自分のマリアを探し求めていたユウはヨーコにマリアを発見するが、実はユウの周辺では邪教ゼロ教会の魔手が迫り、その支部長のコイケは神父を教団に取り込むことで一挙に雑魚信徒を稼ぎ出そうとたくらんでいて、ユウの前にヨーコが転校生として現れたに続いて自らも転校生となって現れ、ユウとヨーコの関係を撹乱し、ユウの所業を暴き、ユウが家から追い出されたのを機に一家を教団に引きずり込むので、事情を知ったユウはヨーコを救い出すために仲間とともに活動を始め、とりあえずヨーコの奪還に成功するが、結局は自身も教団に捕らわれて修行を受ける身となり、今度は内部から情報に近づいて準備を整え、単身、教団本部に乗り込んでいく。
ほぼ四時間の長尺だが、明瞭なキャラクターとリズミカルな場面つなぎ、パワーのある演出と細部への丹念な作り込みのおかげで退屈しない。主筋だけに注目すればおかしいところがけっこう目立つし、オウム真理教に酷似した教団の層に厚みがないといった欠点も見える。好みからすればややラディカルだし、象徴表現がやや単調だし、性的な表現に寄り過ぎてもいるが、プロセスをなおざりにせずに細部を描き込んだ結果としての四時間であり、それを緩ませもせずにまとめ上げた技術と体力はたいへんなものであろう。作り手のこだわりが見え、充実感がひしひしと伝わってくるのは、とにかくうれしいものである。


Tetsuya Sato

2013年5月28日火曜日

たそがれ清兵衛

たそがれ清兵衛
2002年 日本 129分
監督:山田洋次

出羽海坂藩の平藩士井口清兵衛は妻に労咳で先立たれ、借金のほかにも惚けた母親と二人の娘を一人で抱えて苦しい生活を強いられている。同僚とのつきあいもことごとくを断り、夜の時間は虫かご作りの内職に費やし、風呂に入る間もない有様で悪臭を漂わせながら無精髭を顔にたくわえ、着物に裂け目ができて足袋に穴が空いてもつくろう手段がないような有様であったが、一方、子供たちの成長を間近に眺めて幸せを味わい、庭を畑に変えて百姓仕事に精を出していると、自分には百姓があっていると実感する。そうした日々を送るうちに、ある日のこと、旧友飯沼の妹朋江が前に現われる。朋江は嫁ぎ先に離縁して実家にもどったところであった。幼なじみの二人は旧交を暖め、日没の後、清兵衛は朋江を家に送る。そこでは朋江の前夫が酒の勢いにまかせて旧友飯沼に喧嘩を売っており、来合わせた清兵衛は代人として名乗りを上げると、その場で果たし合いの日時が定まってしまう。相手は使い手ということであったが清兵衛はそれを木刀で打ち据え、噂はたちまち藩内に広まってあれは使い手であったかという噂が流れていく。以来、朋江は清兵衛の家に頻繁に出入りするようになり、やがて清兵衛は旧友飯沼から朋江との結婚話を持ち込まれるが、清兵衛は五十石取りの平藩士の生活の辛さを理由に話を断る。朋江が清兵衛を訪ねることはなくなり、跡目問題で藩内は騒然となり、権力争いが終結を見て城代家老が新たに決まると、その城代から藩命が下り、清兵衛は使い手で知られた一人の藩士を切らなければならなくなる。そこで清兵衛は朋江を呼び寄せて支度を頼み、自らの胸の内を朋江に伝えて戦いの場へとおもむくのであった。
藩士の生活というのを淡々と描いて、そのあたりの描写はなかなかに興味深い。真田広之、宮沢りえは非常によい演技をしていると思うし、場面の一つひとつがきちんとこなされているのはやはり監督の力量であろう。生活描写はとにかく魅力的なのである。それだけにドラマの作りの悪さが残念でならない。娘のナレーションを主軸にした外枠はおそらく完全に不要な部分である。妻に先立たれて、という部分もおそらく不要であろう。生活が大変で、という説明の口実にしかなっていないし、朋江ちゃんが好きだったんでがんす、では死んだ妻の立つ瀬がない。清兵衛の生活をもっと平坦なものにして、話を絞り込んで20分短くしたら傑作になっていたかもしれないと思うのである。 


Tetsuya Sato