2013年7月7日日曜日

モンスターズ・ユニバーシティ

モンスターズ・ユニバーシティ
Monsters University
2013年 アメリカ 110分
監督:ダン・スキャンロン

学校で仲間はずれにされていたマイク・ワゾウスキはモンスターズ・インクを見学したことで怖がらせ屋になる夢を抱き、やがて成長すると夢を実現するためにモンスターズ・ユニバーシティに入学して勉強に励むが、怖がらせることにそもそも向いていないということを学長に指摘され、同じく新入生で怖がらせ屋の名門の出身であるジェームズ・P・サリバンが言わば才能を鼻にかけてマイク・ワゾウスキにからむので、マイク・ワゾウスキとジェームズ・P・サリバンはつまらないことから学長が見ている前で事故を起こしてともに怖がらせ学部から追い出され、学部への復帰を望むマイク・ワゾウスキは学内の怖がらせ大会への出場を決め、ただしそのためにはソサエティに参加する必要があったのではみ出し者ばかりのカッパ・クラブに入り、カッパ・クラブの人数が足りないせいで怖がらせ大会にエントリーできずにいるとジェームズ・P・サリバンがそこに加わり、マイク・ワゾウスキとジェームズ・P・サリバンはいがみ合いながら友情をはぐくみ、怖がらせ大会を勝ち抜いていく。
マイク・ワゾウスキが率いるカッパ・クラブに対抗するのがエリートばかりのオメガ・クラブで、つまりよくある大学ソサエティ対抗ものの定式を素直になぞりながら、それなりのアイデアを盛り込んでかっちりとまとめている。美術は例によって非常に精緻だし、アニメーションは美しいし、キャラクターはよく造形されているし、周辺人物のコミカルな挙動は素朴に楽しいし(特にスコットのママが素敵)、マイク・ワゾウスキが紛れ込む人間世界のキャビンで暗闇を割って現われる子供たちはなにやら恐ろしい(ちょっと『ハッピーフィート』を思い出した)。
ということで単体で見れば水準以上の作品に仕上がっているが、ディズニーのキャラクター・マーチャンダイジングの枠のなかにおとなしく収まっているように見える。残念ながらアニメーションがもたらす驚きはない。

Tetsuya Sato

2013年7月6日土曜日

モンスターズ・インク

モンスターズ・インク
Monsters, Inc.
アメリカ 2001年 92分
監督:ピーター・ドクター、デビッド・シルバーマン

クロゼットのドアの隙間から夜中に出現する化け物は、そもそもいかなる用向きを携えているのか。もちろん子供を怖がらせるためではあろうが、ただ怖がらせていればよいほど暇なのか。たぶんそんなことはないだろう、というのがどうやらこの映画の出発点で、そしてその理由が発見された瞬間に、子供を怖がらせる行為が化け物の側のノルマに転じるという発想がなかなかに恐ろしい。怪物たちは子供から悲鳴を盗んで、それをエネルギー源に使っていたのである。ノルマを果たせないと電力供給がストップしてしまうのである。ところが最近の子供たちはあまり怖がらなくなっていて、だから怪物たちの方でもちょっぴり強硬な手段を考え始めたりしているのである。そんな怪物の世界へ人間の子供が紛れ込んできて、本当は子供が怖くて仕方ない怪物たちはたいそう恐ろしい思いをすることになる。この、ほとんど乳幼児という感じの女の子がちょっとすごい。まず人語を喋らないし、直感と感触を頼りにしているので怪物を全然怖がらない。毛むくじゃらの怪物は毛むくじゃらだからニャンコなのである。ニャンコ呼ばわりされた怪物の方でも、女の子がぺたぺたとなついてくるからなんとなく情が移っていく。名前を付けるのは危険なのだ。最初はとにかく片づけることしか考えていないけど、そのうちに保護者としての強い責任を感じ始めるようになり、最後には悪と戦ってしまう。
いや、実に立派に責任をまっとうしていました。
CGは感動物。噂には聞いていたけど、あの毛並みの処理はものすごい。なんとなく油染みた感じがするし、逆毛も立つし、粉雪がくっつくとそれはもうたいへんな状態になるのである。それに色調や構図のデザインなどにも心強い安定感が現われていて、画面が実に見やすくなっている。ほとんど天空を満たさんばかりになって行き交うクロゼットのドアの大洪水もビジュアル・イメージとしてものすごい。それにしてレストラン「ハリーハウゼン」が寿司屋だったとは。 

Tetsuya Sato

2013年7月5日金曜日

ソラリス

ソラリス
Solaris
2002年  アメリカ 99分
監督・脚本:スティーヴン・ソダーバーグ

クリスとレイアは列車の中で出会って恋に落ち、やがて結婚してともに暮らすようになる。二人は理想のカップルであったが、幸福の日々はそう長くは続かない。レイアは情緒が不安定で世界を拒絶する傾向があり、やがてクリスの前でも心を閉ざすようになる。クリスはレイアの心を開こうと努めるものの、そのレイアが二人の間の子供を独断で中絶していたことを知って激昂し、必死で引き止めるレイアを残して遂に家を出てしまう。しばらくしてから思い直して帰宅すると、レイアはすでに自らの命を絶っていた。クリスは心に傷を負い、それからいくらかの時が過ぎた。クリスの前に死んだ妻と同じ姿の女が現われてレイアと名乗る。不思議なことに妻の記憶までも備えている。クリスはこれを贖罪の機会であると考え、新しいレイアに愛を注ぐ。だがクリスの前に現われたのは、本物のレイアではなかった。だから女はクリスを詰り、あなたは自分の記憶を愛しているだけだ、と告げて悲しみのうちに立ち去っていく。そして残されたクリスは失ったものを前にして初めて自分の心に知り、これもまた悲しみのうちに女の後を追うのであった。
というような話なので、舞台になるは冬のマンハッタンでも春先のボストンでも真夏のニューオーリンズでも午後のサンディエゴでもよかった筈なのである。それなのに惑星ソラリス上空を選んでしまったのは、この映画の最大の瑕疵であろう。
映画を見る限りではソダーバーグが何を企んだのかは今ひとつ定かではないが、レムの原作にはまったくと言っていいほど関心がない。据えっぱなしのカメラによる単純でアーティフィシャルなショットの連続、手持ちカメラ、くすんだ色彩、乏しい音源で構成したひどく粗悪な効果音(素人くささを気取ったような「同時録音」を含む)、うんざりするような音楽、そして女優のエキセントリックな美貌(気のせいか、個別の造作がアヌーク・エーメを思い出させる)、などから推定すると、アラン・レネ、ルイ・マル、ゴダールあたりを適当に放り込んで、話の方にはルルーシュも入れて、水をべしゃべしゃ降らせて取り敢えずタルコフスキーへの敬意も忘れない、というような感じで60年代ヨーロッパ系芸術映画をなんとなく自分なりにまとめてみました、だからベルイマンは入ってませんけど、でもよく見てください、最後の方はちょっとキューブリックも入ってます、というようなことなのではないだろうか。その主役をジョージ・クルーニーが大真面目な顔でやっていたりするので、かなり趣味の悪い冗談映画なのではあるまいか、という気もしないでもない。なぜ映画化しようなどと考えたのか? 

Tetsuya Sato

2013年7月4日木曜日

惑星ソラリス

惑星ソラリス
Solyaris
1972年 ソ連 165分
監督:アンドレイ・タルコフスキー

レムの同名の原作に基づく。心理学者のクリスが小川の流れの中でたゆたう水草の群れを切りも際限もなく見つめていた頃、宇宙の彼方では惑星ソラリスの探査計画が失敗の危機にさらされていた。そこでクリスは状況打開の要員としてソラリスの観測ステーションへ派遣されるが、その足元では知性を持っているとかいう例の海がただもう切りも際限もなくたゆたっている。そしてステーションの内部は荒廃し、研究組織は崩壊して、わずか二人が研究員が互いに孤立を保って留まっているだけだった。おまけにステーションの内部にはいない筈の人影があり、やがてクリスの前には自殺した妻ハリーが昔そのままの姿で出現する。もちろんそれは知性を有するソラリスの海が人間を試みるために送り込んできた幻影であったが、立派に実体を備えていたのでクリスはこの幻影のハリーに激しく心を動かされるのである。
何度見ても無用に長いシーンがあるように思えてならないが、水に対する独特の美意識と湿度を強調とした対象との距離感、きわめて限定的ではあるものの印象的な特殊効果、よくできた美術などがあいまって実に不可思議な映画に仕上がっている。 

Tetsuya Sato

2013年7月3日水曜日

ソルト

ソルト
Salt
2010年 アメリカ 100分
監督:フィリップ・ノイス

CIAのロシア担当部員イヴリン・ソルトは北朝鮮で捕虜になって拷問を受け、恋人の活動で解放されると恋人と結婚し、それから二年後、結婚記念日にロシアからの亡命者が現われて、尋問するイヴリン・ソルトの前でソ連時代には特殊な訓練をするスパイ学校があったと語り、そこで訓練を受けたスパイはアメリカ人に偽装してアメリカへ渡り、スリーパーとして市民にまぎれて作戦開始を待っていると説明し、実はあのリー・ハーヴェイ・オズワルドもその一人で、目の前にいるイヴリン・ソルトもその一人で、イヴリン・ソルトの任務は訪米中のロシア大統領を暗殺することにあると言い始めるので、防諜部門はイヴリン・ソルトに嫌疑を抱き、イヴリン・ソルトは夫が事件に巻き込まれるのを恐れてその場から逃れ、帰宅すると夫は不在で、拉致されたような痕跡があり、自宅にも表れた防諜部門の追跡の手を逃れてニューヨークに移動し、外見を変えて警備陣を突破し、ロシア大統領に襲いかかり、クモの毒を使ってロシア大統領を麻痺させるといったいどこの誰が診断したのか、ロシア大統領の死亡が確認されてロシア国内に反米の機運が持ち上がり、逮捕されて警官の手から逃れたイヴリン・ソルトはかつての仲間の前に現われ、仲間が夫を殺害するとそこにいた仲間を残らず殺害し、計画にしたがってNATOの連絡員に変装してホワイトハウスに現われると騒ぎが起こって大統領は護衛とともに地下へ逃れ、大統領はすべてがロシアの攻撃であると信じて核兵器を使う準備に取りかかり、するとそれまでおとなしい顔をしていたイヴリン・ソルトの上司がまわりの全員を殺して大統領を殴り倒し、核兵器の照準をテヘランとメッカにあわせて世界を大混乱に陥れようとしていると、そこへイヴリン・ソルトが現われて上司と戦い、核兵器のカウントダウンを中止して逮捕され、自分から夫を奪った連中を皆殺しにすると宣言して護送のヘリコプターから冬のポトマック川へ逃走する。
ニコライ・タルコフスキー(タルコフスキー!?)、と正体を名乗るCIAの上司がリーヴ・シュレイバー。冒頭、CIAの「国内支局」が石油会社に隠蔽されているところで実はすでに引いていた。頻繁に挿入される回想シーンが不安を高め、不安を確信に変えながら単調なアクションシーンを眺めて退屈した。ある意味きわめてカート・ウィマーらしいカート・ウィマーの脚本が幼稚。いっそ60年代を舞台にして、たとえばロバート・ロドリゲスが『マチェーテ』でやったように頭の悪いふりをする、といった趣向でやったほうがまだよかったのではあるまいか。いまさら真面目に作るような内容ではない。場面がきっちりと色を帯びているところはさすがにフィリップ・ノイスの作品だが、演出はあきらかにやる気がないし、アンジェリーナ・ジョリーも勝手に感極まっているだけでいいところがまるでない。スリーパーの頭目の役でダニエル・オルブリフスキーが登場する。 

Tetsuya Sato

2013年7月2日火曜日

マチェーテ

マチェーテ
Machete
2010年 アメリカ 105分
監督:ロバート・ロドリゲス、イーサン・マニキス

メキシコの捜査官、通称マチェーテは麻薬王トーレスにさらわれた娘を救うためにトーレスの拠点に殴り込み、マチェーテを抜いて悪党どもを端から刻んでさらわれた娘を救い出すが、そこで卑劣なだまし討ちにあって捕虜なり、家族を殺され、火をかけられ、それから数年後、不法就労者となってテキサスのメキシコ国境周辺をうろうろしているうちに州議会の上院議員暗殺の話を持ちかけられて脅されて引き受けることになり、指定された暗殺の場所へ出かけてみると、そこで卑劣なだまし討ちにあって今度は警察に追われるはめになるので、おれをはめたやつを許さない、という例によって例のごとき文脈で暴れ始めると、メキシコ人移民弾圧をたくらむ州議会の上院議員、麻薬取引を裏稼業にしているその腹心、国境で人間狩りをしている愛国的な自警団一味、麻薬王、入国税関管理局の美人捜査官、メキシコ人移民の抵抗組織の美人リーダーなどがわらわらと現われて激しくからみ、血糊が飛び散り、臓器がはみ出し、四方八方から弾丸が飛ぶ。
『グラインドハウス』のフェイク予告編をもとに作られた「本編」である。起点になった『グラインドハウス』と同様に70年代B級映画のフレームを使い、出来の悪い映画にありがちな間抜けな部分をわざとらしく悪用してなければならないはずの説明を省き、本来ならばあったはずのへたくそな部分やもどかしい部分はばっさりと切り捨てておいしいところだけを磨き上げ、頭を使っておばかな場面とおばかな決め台詞を山盛りにしておいしい映画に仕上げている。ほとんど同じようなことをやっていても頭を使わずに作られた『エクスペンダブルズ』とは対照的なことになっていて、つまり『エクスペンダブルズ』は見ているあいだに二度ばかり寝てもまったく悔いることがなかったが、こちらは最後まで目をらんらんと輝かせて鑑賞し、寝ている暇など一度もなかった。ダニー・トレホはあの一種異様な風貌で無敵のヒーローに神話的な説得力を与えている。ロバート・デニーロはテキサスの三流政治家をうれしそうに演じて分相応の最期を遂げ、スティーヴン・セガールは悪い麻薬王をうれしそうに演じて、最後は柄を抜いた日本刀の二刀流でマチェーテの二刀流と対決する。いずれも目の保養となる女優陣もきっちりと作られたキャラクターをそれぞれうれしそうに演じていて、その場その場でスポットがきっちりとあたるところがまたうれしい。作っているひとも出ているひとも見ているひともみなうれしい、ということで、これはたいそう楽しかった。

Tetsuya Sato

2013年7月1日月曜日

俺たちサボテン・アミーゴ

俺たちサボテン・アミーゴ
Casa de mi Padre
2012年 アメリカ 84分
監督:マット・ピードモント

父親の牧場で牧童をしているアルマンド・アルヴァレスは父親からバカ扱いされ、一方父親の愛情を一身に受ける弟のラウルは都会から美女ソニアを連れて戻り、ラウルがソニアと結婚するつもりだと聞いてラウルを愛するアルマンド・アルヴァレスはソニアの動機に疑問を抱くが、ソニアはアルマンド・アルヴァレスにラウルの正体が麻薬の密売人であることを告げ、アルマンド・アルヴァレスがそのことでラウルを問い詰めると事実を認め(ただしメキシコでは売っていない、アメリカ人に売っているだけ)、ラウルが帰郷したのは地元で麻薬の密売を取り仕切るオンサから縄張りを奪うためであることがわかり、さらにソニアがオンサの姪で、オンサがソニアとの結婚を計画していたこともわかり、ラウルにソニアを奪われたオンサはラウルの配下を殺害し、アルマンド・アルヴァレスの前には地元の警察の署長とアメリカの麻薬取締局の捜査官が現われてラウルの行動を監視するように脅迫し、アルマンド・アルヴァレスがラウルにかかわる事実を告げると怒った父親はアルマンド・アルヴァレスを家から追い出し、ラウルとソニアの結婚式は自動火器で武装した集団の襲撃を受けて血の海になり、ソニアは一家に不幸を呼び込んだことを嘆いて死を決意するものの、そこへ現れたアルマンド・アルヴァレスに救われて愛を交わす関係になり、愛を交わして寝転んでいるところへオンサと警察署長が現われてアルマンド・アルヴァレスを殺してソニアを奪い、アルマンド・アルヴァレスの死体にコヨーテが襲いかかるとそこへ伝説の白いヤマネコが現われて戦いになり、するといきなり画面がとまって三日間かけて撮影した戦いの場面はコヨーテの調教に失敗したりコカインをなめたトラがスタッフを食ったりといったような理由で公開できないという撮影助手の長い言い訳がテロップで流れ、ともあれヤマネコに救われてよみがえったアルマンド・アルヴァレスは家に戻って父祖伝来のウィンチェスターを取り、ソニアを救うためにオンサの屋敷へ出かけていく。
製作・主演がウィル・フェレル、監督は『サタデー・ナイト・ライブ』出身のマット・ピードモント。アメリカ映画だけどダイアログはほぼ全編スペイン語で、だからウィル・フェレルもスペイン語を話している。
おそらく50年代の粗悪な西部劇か、その延長線上にあるメキシコ製のリソースをいじることを目的にしていて、その点で方向性は『グラインドハウス』に似通っていると言えなくもないが、たぶんこちらのほうがより悪趣味で、だから馬上のシーンのアップではいまどきないようなはりぼての馬が使われ、屋外シーンもわざとらしくセットを使って、しかもそのセットのホリゾントは継ぎ目がしっかりとずれている。サングラスをかけた男の顔がなぜかアップになるとそのサングラスに撮影クルーがしっかりと映り込んでいるし、車上のシーンももっぱら安さを強調したスクリーンプロセスで、しかも違う場面で同じフィルムが使われているので同じ車とすれ違う。加えて無意味なワイプ処理、無意味なスプリットスクリーン、乱暴なアップと悪夢のような場面の連続で、へたくそを真似るために相当に頭を絞ったのではあるまいか。とどめは伝説のヤマネコで、これがかなりみっともないアニマトロニクスで、それをわざわざジム・ヘンソンの工房に頼んでいるのには恐れ入った。
はっきり言ってあまりほめる気にはなれないが、かなりのおばか映画で、その点に関する限りこれはけっこうツボであった。 


Tetsuya Sato