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その昔、とあるところにそれは小さな国があった。あまりにも小さいので地図に載ったことがなかったし、旅行者向けの案内書にも載ったことがない。案内書をまったく頼りとしない熟練旅行者でも、その国のことは見過ごしてしまった。普通に目につくような場所にはなかったからである。だが、それほど意外な場所にあったわけでもない。
さしあたりは名前を伏せておくことにするが、ある役人が偶然から得た裁量権を悪用して下級の官職を大量に売り出した。男はこの商売で小金を貯めると役人を辞めて金貸しとなり、それからは小口の貸し出しを効率的に運用して本格的な財を作った。だが晩年には呪われた商売に嫌気がさしたのか、町を離れて田舎に移り、そこに広大な土地を買い求めて地主となり、健全な土地経営を進めて死んだ時には相当な財産を残したという。財産は息子がそっくり受け継いだが、この息子というのが伝えられている限りではまったくの役立たずで、早いうちから遊びを覚え、勉学には一切関心がなく、身代というのはただそこにあるものだと勘違いしていた。それでも当人は実業家のつもりでいたから、悪党どもにはいいカモである。四方八方から散々に毟られて、三十になった頃には事実上の無一文になっていた。わずかに残されたのは紙屑ほどの価値もない北の土地で、そこには人家はもちろん田畑もない。ただ黒々とした森だけが広がっていた。
その国は、その森の中にあった。住人は生まれてから死ぬまで大半の時間を樹上で過ごし、よほどのことがない限り地上には降りてこなかった。枝の間に板を渡して家を作り、木々をめぐる橋をかけ、木の実や鳥、木のうろを住み処にする動物を糧に暮らしていた。排他的で気配や物音に敏感で、樹上を移動する素早さはとうてい人間技とは思えない。住人はこの特技を生かして地上を監視し、誤って森に入り込んだ不法入国者を発見すると即座に襲いかかって身ぐるみを剥いだ。この習性から、彼らの祖先は太古に樹上生活を選択した追い剥ぎだったとする説明がある。奪って得た金は国外から必需品を贖うのに使われた。斧や短剣などである。
一部の性急な見解はその国の独立を否定し、森を根城とする単なる盗賊であると断定するが、そのような態度は誤りであると言わざるを得ない。たしかに領域侵犯に対しては無警告の攻撃をおこなったし、領土は外国で登記された個人の土地に含まれていた。その国が将来にわたって調整を必要とする深刻な問題を抱えていたのは事実だとしても、それだけの理由によって主権が疑われるようなことがあってはならない。現に周辺諸国のいくつかとは友好条約を結んでいたし、大使の交換もしていたのである。その国に派遣された大使が自分の任地を発見できずに帰還するといったことがたまにあったし、帰還しないということもまれにはあったが、それはその国の立地に関わる問題であって、固有の政策や国民性に関わる問題ではない。
さて、ある時、とある国の大使が密命を帯びてその国に着任した。政府首脳に接近して説得をおこない、必要があれば強要もして隣国へ攻め込ませようという目論みであった。事実から言えばその国とその隣国との関係は緊張状態にあり、それというのも隣国の民間人が法的な優位性に基づいてその国の基礎となる森林の伐採を開始したからであったが、大使はまさにその事実を指摘して速やかな第一撃の有利を説き、攻撃を成功させれば自国の軍隊もただちに呼応して隣国に攻め込むと約束した。事実から言えば大使の母国もまたその隣国と緊張関係にあり、それというのも大使の母国の民間人が隣国で森林の伐採を計画し、そのための法的な優位性を求めていたからであったが、大使はこの事実については説明を避け、自国に関わる部分ついてはもっぱら集団安全保障を根拠とした。さらに軍事行動に要する資金には第三国の外貨建て抵当証券を対象とする元利分離型金融派生商品を紹介し、速やかな利益を保証して友好的な笑みとともに話を終えた。
その国の首脳部に列する人々は大使の話に耳を傾けていたが、最終的には疑念を抱いて説得を退けることにした。宣戦布告なしの奇襲はともかく、金融派生商品はどうも怪しいと考えたのである。
説得の失敗を受けて大使は次の段階、つまり強要に取りかかった。このような場合に備えて若干の手勢を伴っていたので、まずその一団を会見の場に引き入れて相手に武器を突きつけ、小国に与えられた歴史的な機能についての簡単な説明をおこなった。それでも効果がないと見ると、非情にもすでに突きつけていた武器を使って首脳部を文字どおりに消滅させ、本国の指令にしたがって自らを首班とする新政権の樹立を宣言した。
大使にとってもっとも気がかりであったのはこの次の段階、つまり国民の反応であったが、意外にもその国の住人はそろって大使の前にひざまずき、大使を王と呼んだのである。大使はただ状況の安定を喜び、伝統的に集団指導体制を国政の基盤とするその国で、自分が王と呼ばれた理由を真剣に考えようとしなかった。国民は王を迎える歌を歌いながら即位式の準備にかかり、安心した大使は国境地帯に偵察を送った。
政変の翌朝、住人の代表が大使の元を訪れて準備の完了を伝えた。大使が頷いて立ち上がり、巨木の幹をめぐるテラスに出ると、森の住人が歓呼で迎えた。そこで大使が手を振って挨拶を送り、懐から原稿を出して就任演説を始めようとしたところ、背後から出現した屈強の男たちに拘束された。
「何をする」と大使が激しく抗議した。
「即位式さ」と男の中の一人が答えた。
「助けてくれ」と大使が護衛たちに訴えた。
「できません」と護衛の一人が首を振った。
大使の護衛はすでに武装した男たちに囲まれていた。
新たに現われた一団が、木でできた橇のような物を運んできた。座面にはいかめしい紋章が刻まれ、紋章の下にはその国の言葉で王の乗り物と記されている。男たちは大使をこの橇の上に横たえようとした。
「何をするつもりだ」と大使が叫んだ。
「だから、即位式さ」と住人が答えた。
男たちは力をあわせて大使を座面に押さえ込み、革の帯で大使の手足、そして胴をきつく固定した。大使は自分を解放するように命令し、懇願し、最後には見苦しい命乞いすらやってのけたが、男たちは聞き入れようとしなかった。テラスを囲む木々には老若男女が鈴なりとなり、期待に目をきらめかせて見守っている。
「みんな、とても楽しみにしている」と住人の一人が顔を上げた。
「そうだな」と別の一人が頷いた。「王様は、久しぶりだからな」
間もなく六人の男が伝統にのっとった正装を身にまとって姿を現わし、二列に並んでテラスを進むと橇をはさんで足を止めた。上体を起こしたまま全員がゆっくりと腰を沈め、騒々しく懇願を続ける大使を乗せたまま、静かに橇を持ち上げた。それからテラスの端へと足並みをそろえて前に進めば、その先では数人の男が、やはり正装に身を包んで王の到着を待ち受けていた。男たちの背後には空中に向かって開かれた小さな木製の門があり、門の手前には糸巻きのような形状をした巻き上げ機が見える。
六人の男が大使を乗せた橇を門と巻き上げ機の間の台に置くと、待機していた男たちは二手に分かれて巻き上げ機の左右で配置についた。一方、橇を運んできた六人は大使に一礼して下がり、代わって神官とおぼしき人物が前に進んだ。声を朗々と響かせて祈祷をおこない、住人たちと声をあわせて歌を歌い、同時に巻き上げ機の男たちに合図を送った。男たちは把手を握り、声と力をあわせて縄を巻いた。縄がぎりぎりと音を立てると引かれて橇が後ろへ下がった。台の両端から伸びる二本の弦が門に向かって激しく震え、やがて張り切って震えを捨てた。大使が口を閉じて目を見開く。神官は大使の手に王杓を握らせ、大使の額の上に王冠をかざした。それから大使の耳にこう囁いた。
「王よ、準備は整った。厳かに威光の小道を進まれよ」
神官が退いて腕を上げた。その腕をすべての者が固唾を飲んで見守った。
神官が腕を振り下ろすと、それを合図に掛け金がはずされ引き絞られた弦が一気に戻る。橇が射出され、同時に大使が絶叫を放った。
門の向こうには道があった。路面にはたっぷりと蝋が塗られ、低い手すりが両側からしっかりと橇を掴む。悲鳴を引いて、橇が突進した。まずは水平に進んでから緩やかな下り、下りながら木々の間を自在にめぐり、唐突にやってきた短く激しい下りの後は緩やかな上りの道へと進む。橇は次第に速度を落とし、大使は期待に顔を上げた。だが橇は止まらない。その下では回転するいくつもの円筒が前進を助け、手すりの中に隠された精妙な仕組みが落下を阻んだ。いつしか橇はほとんど垂直になり、大使は頭を下にして足の間に陽の光に霞む頂点を見た。樹海を見下ろす頂きの向こう側には心臓破りの下りがあり、下った先では三重の側面宙返りが用意されていた。壮絶な速さで三度に分けて幹をめぐり、身の縮む思いを味わいながら木のうろをくぐる。その先にはまた上りがあり言語を絶する下りがあり、木の枝をかすめる宙返りがあり、唐突に途切れた道を一気に越える前代未聞の跳躍があった。大使の喉はすでに嗄れ、肉は極限まで強張って石と化していた。最後に橇は緩やかな上りの道へ進み、延々と並んだ加速装置が橇に速度を与えていった。左右の風景は森の色をにじませた染みとなり、風は形を得て大使の顔に張りついていく。長大な上り道の先にはもはや道はなく、ただ空だけが広がっていた。橇が道を離れたその瞬間、大使は最後の悲鳴を放った。
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