2014年7月18日金曜日

異国伝/湖畔の騎士

(こ)

 その昔、とあるところにそれは小さな国があった。あまりにも小さいので地図に載ったことがなかったし、旅行者向けの案内書にも載ったことがない。場所すらもはっきりとしないそんな辺鄙な国を、わざわざ訪れようとする者はいなかった。いたとしても暇を持て余した物好きか、よほどの事情を抱えた者かのどちらかであった。
 ある時、ひとりの商人がちょっとした規模の取引をまとめた。実際、それはちょっとした取引であったが、決して商売上手であったとは言い難いその商人にとっては一世一代の大取引であった。客は高位の人物の名が記された紹介状を携えて現われ、高価な商品を数多く買い求めたいと申し出た。商人は紹介状を見てその客を信用し、また自らの信用を最大限に使って客が求める品を掛けで仕入れた。そして約束の日に現われた客に商品を渡し、その代価として高額の手形を受け取った。少しでも慎重だったなら品物を渡す前に手形の内容をあらためた筈だが、取引の大きさに興奮して肝心の手順を怠った。いや、もう少し慎重だったなら、紹介状を見た段階で相手のことを疑っていなければならなかった。なぜならばこの商人は、紹介状をしたためたとされる高位の人物といかなる面識もいかなる関係も持たなかったからである。ところが商人は疑う代わりに、有名な名前の入った手紙をもらって有頂天になったのであった。そして本当に慎重だったなら、客を見た瞬間にお帰りを願わなければならなかった。その客は優雅な衣装に身を包んで外国訛りの言葉を喋り、顔を仮面で隠していたからである。
 取引の後で、商人は客と一緒に祝杯を上げた。相手がねぎらいの言葉を残して立ち去ってから、自分のためにもう一度乾杯した。心安らかに床に就いて晴れ晴れとした気持ちで朝を迎え、たっぷりとした朝食を摂ってから手形を握って銀行へ出かけた。言うまでもなく手形を現金化するためであったが、銀行の頭取は商人の手形に一瞥を与え、それは扱えないと冷たく告げた。商人は激しく狼狽した。では偽物かと尋ねると、本物だという返答がある。本物の手形ではあったが、それは地図にも載っていない小さな国の中でしか価値を与えられていなかった。だから、その国へ行って現金か別の手形にすればよいのです、と頭取は言った。
 そこで商人は尋ねた。その国はどこにあるのですか? 

 存じません、と頭取が答えた。
 商人はうなだれて家へ戻り、頭を抱えてうずくまった。
 仕入れた品物の弁済の期日が近づいていた。信用は使い切っていたので、借金を申し込むのも難しかった。目を閉じて耳に手を当てると、どこからともなく破滅の足音が聞こえてきた。誰かが激しく戸を叩いた。商人が飛び上がった。店に出て戸を開けると、そこには外国訛りの言葉を話す男が一人、優雅な衣装に身を包んで立っていた。仮面が違うので先だっての客とは別人であったが、それでも商人はぴんときて、これはグルだと思ったという。
 男は手形を額面の十分の一で買い取ろうと申し出た。債務にはとても足りなかった。商人は腕を振り上げ、出ていけと怒鳴った。ならば七分の一ではどうかと尋ねてくる。問題外であったので、商人は怒鳴った。では、五分の一ならばどうだろうか。商人は頭を素早く回転させた。債務の履行にはまだ足りなかったが、それだけあればやり過ごせる。しかし商売は大きな痛手をこうむることになるだろう。そこで商人は再び腕を上げて出ていけと怒鳴る。それならば、と男は言った。価格の三分の一ならばどうだろうか。商人は考える。三分の一なら上等だとは言えないか。損害は免れないものの債務はとにかく弁済できる。債務者監獄よりは全然ましだ。手を打とう、と商人は言った。
 商談が成立したところで、男は懐に手を差し入れた。財布を出すのだろうと考えて、商人はいったん奥へ入った。手形を手にして戻ってくると、男は懐から手を引き抜いた。その手には短剣が握られていた。男は商人に襲いかかり、ひどく狼狽した商人は自分で自分の足を踏んだ。商人は悲鳴を上げて床に倒れ、男は手形を奪おうと商人の身体に馬乗りになった。男の手が手形を掴み、まさに奪い取ろうとしたその瞬間、どこかで鈍い音がした。仮面の男は短く呻いて前に倒れ、商人は男の下敷きとなった。もがいていると、仮面の男を昏倒させた人物が近づいてきた。銀の杖を高く掲げて優雅な衣装に身を包み、仮面で顔を隠している。仮面の形からすると、これは先だっての客であった。商人が男を押しのけて立ち上がると、客は外国訛りの言葉でこのように言った。
「済まないことをした。この者はわたしの心の影なのだ」

 それから倒れている男を軽々と持ち上げて肩に担いだ。そのまま店を出ていこうとするので、商人は慌てて呼び止めた。お客様、まことに申し上げにくいのですが、いただいた手形に問題がございました。
「ならばこの地を訪ねよ」

 客はそう言って一枚の紙を宙に捨てた。ひらひらと舞い降りてきたその紙には、地図にない国への道筋を示した地図が記されていた。
 仕入れた品物の弁済の期日が近づいていた。商人は地図を畳んで懐に入れ、大急ぎで旅の支度を整えた。馬を借り、見知らぬ国を目指してその日のうちに町を出た。
 いくつかの山を越え、いくつかの森を越え、野宿を繰り返して地の果てに進んだ。とある森を抜けると、その先には湖が広がっていた。道は湖畔に沿って延びていた。商人は道なりに馬を進めた。いくらか進むと、背後から声をかける者がある。馬を止めて振り返ると、木陰から一人の男が顔を出していた。優雅とは言えないが卑しい風体でもなく、表情にもわずかな動作にも余裕が見える。見ているうちに、男が慌ただしく手招いた。同時に指を唇にあてて、商人に静粛を促した。怪しい気配を感じたが、商人は好奇心に打ち負かされて男の方へ近づいていった。馬から下りて手綱を木の枝にかけ、静かに男の傍らに立った。男はもう一度指を唇にあてて、それから前方の湖畔を指差すと声をひそめてこのように言った。
「あそこに騎士がいる」

 いかにもそこには騎士がいた。黒い甲冑をまとって馬にまたがり、手に長大な槍を握って穂先を天に向けている。
「何をしてるんですか?」と商人が尋ねた。
「道を塞いでいるんだよ」

「塞いで、それでどうしようと?」
「試合を挑むために決まっている」
「しかし、わたしは騎士ではない」
「それで済むと思うんだったら、あいつの前でそう言ってみな。十日ほど前にも同じことを言った奴がいたけどな、槍で串刺しにされちまったぜ。ほら、あそこで死体になって虫に食われてる」
「しかし、それでは前に進めない」
「俺がどうしてここにいると思ってるんだ?」
「では、いなくなるのを待ってるんですか?」
「どうしてみようもないだろう。それに急ぐ旅でもない」
「しかし、わたしは急いでいるのです」
「大丈夫。感じからすると、今日あたりが限度だ。この一週間ほど、晴天が続いているからな。見た目にはまるでわからないが、これだけ陽射しが強ければ、黒騎士は相当にへばっている筈だ」
「失礼ですが、いつからここにいらっしゃるので?」
「覚えてないな。お茶でも飲むかい?」
 そこでしばらくお茶を飲んで時間を潰した。午前が終わり、昼が過ぎ、午後に入って陽が傾いても騎士の様子に変化はなかった。商人は心を決めて立ち上がった。
「行くことにします。これ以上遅れるわけにはいきませんから」

「そうかい。だったら気をつけてな」
 手綱を握ると、馬を静かに進ませていった。木陰を離れて道にしたがい、次第に湖畔に近づいていった。黒騎士の姿も近づいてくる。こちらを見ているような気がしてならなかった。今にも試合を挑んでくるような気配があった。それでも商人は惰性にまかせて馬を進めた。恐怖にうつむいて、再び顔を上げると騎士の姿が目の前にあった。商人はそこで馬を下り、後にしてきた木陰に向かって手を振った。男が走り寄るのを待ってから、騎士を指差してこのように言った。
「見てください。もう死んでます」

「なるほどね。変だとは思ったよ」
「時間を無駄にしましたね」
「そんなことはない。暇だからね。いや驚いた、馬も立ったまま死んでいる」
 それから商人はその見知らぬ男とともに地図にない国を訪れ、無事に手形を現金に換えた。見知らぬ男は裕福な暇人で、商人は男と友誼を交わし、国に戻ってからはほどほどに栄えて生涯を終えた。

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