2014年7月7日月曜日

異国伝/愛情の代価

(あ)

 その昔、とあるところにそれは小さな国があった。あまりにも小さいので地図に載ったことがなかったし、旅行者向けの案内書にも載ったことがない。
 街道から分かれてその国へと通じる道は、森からはみ出してきた下生えに覆われていた。そして左右に立ち並ぶ木々の枝は道の上に分厚い屋根を作り、昼の光を遮っていた。道を抜けようとする者は丈高い草に足を取られた。あるいは垂れ下がる蔦に頬を打たれた。
 ごくまれに、その道を通ってその国を訪れる者がいた。荷馬車をロバに牽かせた行商人が、年に何度か木漏れ日をくぐってやって来た。すべての道具を背中に載せて、旅芸人の一座が市の立つ日に来ることもあった。仕事を終えた余所者たちは来た道をたどって街道へ戻り、次の目的地を目指して進んでいく。ささやかなにぎわいの後には土地の者の静かな営みが残された。土地の者たちは旅を嫌った。ごくまれに、その国で生まれた者が生まれた土地を後にして見知らぬ国へと旅立っていった。だが、戻った者は一人もない。
 ある時、旅芸人の一座がその国を訪れた。白髪の座長がロバの手綱を引いて先頭に立ち、ゆっくりと歩くロバの背には大小の芝居の道具がひしめいていた。ロバの後には男や女の役者が続き、歩きながらも身振りを交えて芝居の台詞を高らかに唱える。役者の数は十人に足らず、年老いた座長を筆頭に、どれも人生の盛りの時期を終えようとしていた。一人ひとりが得意の役を心得ていたが、互いに譲ることをしなかったので、通しで上演できる芝居は一つもない。だがそれで十分だった。座長が杖を振ってあらすじを語り、派手な場面を次々に見せれば客は必ず満足した。多少のしくじりも愛嬌のうち、目の肥えた客が相手ではない。
 この老いた者の一座の中にたった一人、若者がいた。顔は陽に焼け、腕は太くたくましかったが、頬には少年の頃の丸みがそのまま残されていた。黒髪の下でせわしく動く瞳には尽きることを知らない情熱が宿り、視線にはこの全き世界への信頼が込められていた。役者たちは若者がどこから来たのかを知らなかった。どこへ行こうとしているのかも知らなかった。若者は一座とともに旅をしながら世界を眺めて短く呟き、時には役者たちのために台詞の言葉を整えもした。
 若者は旅の詩人であった。ただ一座について歩くだけではなく、前座を務めて自作の詩を朗読した。観客の評判は芳しくなかった。芝居がしくじりを重ねて観客の怒りを呼んだ時には、鎮まれという祈りを込めて自作の詩を朗読した。これはしばしば、怒りのほむらに油を注いだ。
 若者は旅の詩人ではあったが、才能のことで幻想を抱いてはいなかった。湧き出す言葉の泉を持っていなかった。言葉によって全身を貫かれる経験を知らなかった。鈍重に、言葉少なく、そして恐れを抱くこともなく、世界への信頼を口にした。
「へぼ詩人だが、そのまじめさは買おう」と客が言った。
「へぼ詩人だが、おまえには心がある」と座長は言った。
「へぼ詩人だが、でも、あきらめるな」と皆が励ました。
 情熱だけを頼りに若者は頷く。旅芸人の一座はその国で七日間の興行をおこない、その最初の日に若者は土地の娘と恋に落ちた。続く五日の間に逢引を重ね、七日目には暗がりに隠れて唇を重ねた。そして一座の者たちが出発の準備に取りかかると、若者は娘を旅に誘った。娘は静かに首を振り、目に悲しみをたたえて顔を背けた。若者は娘の肩を抱き、永遠不変の愛を誓った。それから娘とともに、娘の父親の居場所を訪ねた。
「お嬢さんをわたしにください」

  若者は父親の前にひざまずいた。父親はまず娘の顔を見据え、次に若者に立ち上がって顔を見せるように言い、最後にゆっくりと頷いてからこのように言った。
「おまえたちの気持ちはよくわかった。それならばわたしも邪魔立てはすまい。喜んで結婚を許すとしよう。そこで若者よ、あなたは選ばなければならない。娘とともにこの国で暮らして、この国の空気を吸い、この国の水を飲んで生きるのか、それとも娘とともにここを発って、見知らぬ国の空気を吸い、見知らぬ国の水を飲んで生きるのか。もし前者を選ぶならば、わたしはあなたのために耕すための土地と住むための家を用意しよう。だが、もし後者を選ぶならば、若者よ、心して聞け、娘の足が決して地に触れることがないように、あなたは娘をいつも抱き上げていなければならない。寝台の上で眠る時、流れる川の中で水浴びをする時、そして二つの石の間で女の用を足す時以外は、あなたは常に娘を抱き上げていなければならない。もし足が瞬時でも大地に触れたなら、娘は命を失うであろう。若者よ、あなたがよいと思う方を選ぶがよい」 

 若者はすでに心を決めていたので、後者を選んで妻をめとった。婚礼の儀式がおこなわれた翌日、旅芸人の一座は出発を決めた。娘は両親に分かれを告げ、若者は妻となった娘を軽々と抱き上げた。森の中の道をくぐる間も、次の町を目指して街道を進む間も、若者は娘を抱き締めていた。娘は若者の身体を案じた。若者は平気だと答えて笑みを返した。野営の時には、ロバの背から娘の寝台が下ろされた。若者は寝台の上に娘を下ろし、腕にこびりついた疲れを拭った。
 翌日も、その翌日も、若者は娘を抱いて歩き続けた。そして若者の腕の中では、娘の身体が毎日少しずつ重たくなっていった。外見には何も変わりはない。若者は困惑しながら、両の腕に力を込めた。その腕に娘が手を添えた。二人は愛のこもった眼差しを交わした。しかし重みは現実であった。疲労は拭いがたいものとなり、重みと疲れは痛みとなって若者の身体を苛んだ。娘が心配して声をかければ変わらずに笑みを返していたが、その笑みの下には苦痛が見えた。旅の仲間の一人が、代わりに抱いて運ぼうと申し出た。若者は首を振って断った。別の者が、背負ってはどうかと提案した。若者は首を振って断った。ロバに乗せてはどうかと言う者もいた。若者は首を振って断った。
 若者は歯を食いしばって、娘を抱えて歩き続けた。一日ごとに歩みが遅くなっていった。一歩一歩に鉛の重みが加わっていった。一日で進める筈の距離に二日かかるようになり、間もなく三日かかるようになった。
 これじゃあ市の立つ日に間に合わない、と言う者がいた。
 だったら、俺たちを置いていってくれ、と若者が言った。
 皆で一緒に行くのだ、と座長が決めた。
 その晩、若者は座長に呼び出された。娘を寝台の上に残して、若者は野営地のはずれへ出かけていった。何が起きているのか、と座長が尋ねた。
 若者はすぐには答えようとしなかった。三度促されてからこう答えた。
「少しずつ、あいつは重たくなっていく」 

「助けはないぞ」と座長が言った。
 情熱だけを頼りに若者は頷く。若者と娘は旅を続けた。足を前に踏み出すのが難しくなった。それでも若者は進もうとした。額に油の汗を浮かべ、重さに軋む骨の音を聞きながら、妻とともに道を進もうとした。若者の腕の中では、娘が自分を捨てるようにと懇願していた。
 その時がきた。旅芸人の一座が耳を塞いで遠巻きに見守る。若者の唇から血が滴り落ちていった。落ちた血が娘の指を流れて伝った。娘が腕の中で身をよじった。先に腕の骨が折れたのだと言う者がいる。その前に娘が飛び出したのだと言う者もいる。若者が力尽きて膝を突いた時、娘は地面に横たわって死を受け入れていた。若者は娘の上に身を投げ出し、娘は最後の力で若者の身体を強く抱いた。
 死は娘を連れ去り、生前と同じだけの重さを娘の骸に残していった。それは旅立ちの時の娘の重さの五倍に等しく、旅の間に増えた重量の総和は娘の骸を荼毘にして得た黄金の総和に等しかった。それだけの黄金がどこから現われ、またいかにして娘の体内に貯えられたのかを説明できた者はいない。娘の夫であった若者はこれを愛情の代価であると考え、悲しみの後も世界への信頼を失わなかった。

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