2014年7月26日土曜日

異国伝/蒼白の怪人

(そ)

 その昔、とあるところにそれは小さな国があった。あまりにも小さいので地図に載ったことがなかったし、旅行者向けの案内書にも載ったことがない。その国の人々はいささか奇怪な習慣に染まっていたとされているが、それがいかなる習慣であったかは知られていない。僻遠の地にあって四周を険しい山に囲まれ、天然の要害が観察者の訪問を阻んでいたからである。
 その国の住民が国外に出ることは滅多になかった。山国特有の排他的で陰気な気性が、自国での充足を促したのであろう。それならば勝手に充足していればよいものを、不思議なことにある時、外国への移住を試みた者がいる。これは例外的な向上心の発露であると見なされているが、もし移住に成功していれば、観察者は素晴らしい機会を得ることができたであろう。奇怪な習慣の正体が明かされ、有益な論文が発表されたに違いない。残念ながら、この試みは失敗に終わった。
 移住を決意したその人物は、住み着く先として名高い大国の首都を選んだ。まず物件情報を調べる必要があると考え、不動産屋に宛てて手紙を送った。田舎者扱いされないように、高価な物件を要求したことは言うまでもない。するといかなる忍耐で山を越えたのか、不動産屋当人が資料を携えて到着し、いくつもの魅惑的な物件を紹介した。だがその国のその人物の目には、物件よりも不動産屋の方が遥かに魅惑的に見えたようだ。不思議な手管を弄して堕落させた。移住を決意したところまではよかったが、この人物には結果を考えずに行動する傾向があった。合法性への関心も欠いていて、不動産屋を堕落させて契約をないがしろにし、旅券も持たずに国を出て、密入国を果たすと無人の屋敷を不法に占拠した。近所へ挨拶回りをするでもない。それどころか夜陰に乗じて他人の屋敷に侵入し、未婚の女性に襲いかかった。これでは同国人であっても、とうてい許しは得られない。外国人ともなればなおさらである。奇跡の生還を果たした不動産屋とその婚約者、襲われた女性の求婚者たちが一斉に復讐に立ち上がり、この人物を故郷の国へ追い詰めて無法の所業に終止符を打った。
 さて、それからかなりの年月を経て、一人の男が危険を冒して山を越え、地図にないその国を訪れた。山の端にかかる夕陽を浴びて道を下り、黄昏のはかない光の中で彼方に横たわる町を眺めた。いびつに階を重ねる家々が肩を並べて谷底の土地に密集する。陽が落ちると同時に町の姿は闇に沈んだ。見られまいとでもするかのように、暗がりの底に身を隠した。男もまた漆黒の闇に包まれて視界を奪われ、そこから先は手探りで進んだ。土くれに手を汚して這うように進み、指先で石畳に触れて町に着いたことに気がついた。町にひとの住む気配はない。探りあてた扉はどれも固く閉ざされていた。明かりの漏れる窓はどこにもない。男は暗闇の中で吐息を漏らした。
 しばらくすると月が昇った。月の光が歪んだ建物を青白く照らし、町の気配をいよいよ彼岸へと押しやっていく。男は扉の一つひとつを改めながら、道を奥へと進んでいった。居酒屋の看板を目敏く見つけて、閉ざされた扉に耳を押しつけた。騒めくひとの声が聞こえてきた。それは居酒屋の喧騒であった。そこで扉を開けようとすると、扉の方がひとりでに動いて男を中へ招き入れた。
 扉越しに聞いた喧騒に反して、中には一人の客しかいなかった。小さな卓に頬杖を突き、空のグラスを見下ろしていた。振り返ると、扉が勝手に閉まるのが見えた。
 あんただけなのかい? 

 男は客に話しかけた。
 さっきまでは皆いたんだが。
 そう言ってたった一人の客が顔を上げた。その顔面は蒼白であった。それは死人の顔であった。唇までが蒼ざめ、目は灰色に塗り潰されていた。若者の顔の形をしていたが、命の気配はどこにもなかった。
 顔色がすぐれないようだが、飲み過ぎかな? 

 だとしたら、飲み過ぎかもしれないな。
 客は顔をうつむけて、空のグラスを握り締めた。男は店の中を見回して、妙なことに気がついた。店の者の姿がない。
 店の主人は、いないのかな? 

 すると客がまた顔を上げた。男を見てから奥を見やり、それから腰を上げてこのように言った。
 いないようだ。呼んでくるとしよう。
 客は店の奥へ姿を消した。代わって前掛けをつけた店の主人が現われたが、その姿形は客と寸分違わない。服が異なっていただけであった。
 今のやつは、どうしたんだ? 

 今の、というと? 
 あんたを呼びにいったやつだよ。
 いや、そんなひとは来なかったね。
 そうかい。だったら気にしないでくれ。一杯飲めればそれでいい。
 済まないが、酒は切らしている。
 なるほどね。それでみんな帰ったっていうわけだ。
 そういうことだ。
 この町で、ほかに飲めるところはないのかい? 

 この先にある宿屋なら、飲めるかもしれないね。
 わかった。ありがとよ。そっちへ行って飲ませてもらうさ。
 済まないね。
 いいって。気にするこたあない。
 今度は自分で扉を開けて、男は居酒屋の外へ出た。通りの先へ進んでいくと、たしかに宿屋がそこにあった。近づいて扉を開けようとすると、扉の方がひとりでに動いて男を中へ招き入れた。
 いらっしゃいませ。
 そう言って男を迎え入れたのは宿の主人であったが、その姿形は居酒屋の主人となにも変わらない。
 泊まれるかな? 

 お部屋はございます。
 酒はあるかな? 

 お部屋にお持ちいたしますか? 
 そうしてもらえると、助かるね。
 では、ご案内いたします。お荷物は、その銛だけですか? 

 そう、この銛だけだ。自分で運ぶから大丈夫だよ。
 部屋へ通されると、男は靴を脱ぎ捨ててくつろいだ。そこへ宿の主人が酒瓶を持って現われ、男に向かってこのように言った。
 ほかに何か、御用はございませんか? 

 なにしろ長旅でこの有様だ。風呂に入りたい。髭も剃りたいね。
 用意いたします。ほかには何か? 

 それと、あとは女だ。部屋に呼べる女はいるかい? 
 ご要望とあれば、手配します。
 ほう、気に入ったね。いい宿だ。
 ありがとうございます。
 宿の主人は一礼して下がり、しばらくしてから風呂桶を運んで戻ってきた。湯を満たした風呂桶を一人で軽々と持ち上げて、部屋の中央に置いたのである。
 こいつはありがたい。
 髭剃りの用意はこちらに。
 ありがたいね。こんなにいい石鹸は久しぶりだ。
 男は鏡と剃刀を手に取って、早速髭を剃り始めた。そして剃っているうちに妙なことに気がついた。真後ろに立っている宿の主人が、鏡に映っていないのである。振り返ろうとして手元を狂わせ、剃刀で頬を切り裂いた。血に汚れた剃刀を洗面台の脇に置き、慌ててタオルで頬を拭った。鏡で傷口の様子を確かめて、ふと横を見ると宿の主人が剃刀を手にしている。剃刀の血はきれいに拭われていた。宿の主人は男に剃刀を手渡して、代わりにタオルを受け取った。汚れたタオルを愛おしむようにして胸に抱き、そそくさと部屋から出ていった。
 髭剃りの後、男は服を脱いで湯に浸かった。身体の汚れを洗い落とし、心もくつろがせて湯から出ると濡れた身体をタオルで拭いた。拭き終えた頃に宿の主人がまた現われ、風呂桶を持ち上げながらこのように言った。
 女は、いかがいたしましょうか? 

 こっちは準備完了だ。呼んでくれ。
 だが男には一抹の不安があった。ここまでの経過から判断すれば、女というのは女の衣装を身に着けた宿の主人かもしれなかった。
 まあ、そうなったら、と男は呟く。それまでよ。
 戸を叩く音がした。入ってきたのは本物の女であった。しかも一人ではなく三人いた。男が寝台に寝ころぶと女たちがしなだれかかり、男がのしかかっていくと女たちは歓喜に震えた。ところが事に及ぼうとしたところで、宿の主人がやってきた。戸を蹴破るようにして入ってくると、女たちに罵声を浴びせた。女たちは一斉にすくみ、のたうつようにして床へ飛び降り、這うようにして部屋から出ていった。
 申し訳ありません。
 宿の主人が頭を下げると、今度は男が罵声を浴びせた。
 くそ、なんだってんだ、これからって時によ。
 よく言い聞かせてはおいたのですが、手違いがございまして。
 もういい。その気がなくなった。酒を飲んで寝る。
 男が寝台に身を投げると、宿の主人は一礼して去っていった。男は酒瓶からじかに酒を飲み、瓶をすっかり空にして目を閉じた。すぐにまぶたが重くなり、男は寝返りを打って心地よい眠りに身を任せた。気配を感じて目覚めた時には蝋燭の炎が消えかけていた。
 近づいてくる気配はあったが、足音は聞こえない。薄目を開けても、黄色い炎がかすかに見えるだけだった。鼻がどこからか腐臭を嗅ぎつけた。臭いの主は背後から接近し、静かに身を屈めて顔を男の首筋に近づけていた。研ぎ澄まされた男の耳は、顎を動かす筋肉の音を聞き分けた。瞬時に身を翻すと寝台から飛び出して銛を握り、相手の心臓のわずか下を狙って鉄製の鉤を繰り出した。
 狙った場所に格別の意味はない。男はいつでもそこを狙った。そうして多くの者を殺し、銛打ちの異名を取った希代の悪人だったのである。だが銛打ちも驚いた。銛で串刺しにされた宿の主人が見ている前で灰になり、そのまま崩れ落ちていった時には驚きを隠すことができなかった。驚いた自分に怒りを覚えた。だから灰に唾を吐きかけて蹴散らした。宿の部屋を端から調べて三人の女の居場所を見つけ出し、同じ方法で地獄に送った。見つけた金品は余さずに奪い、夜明けを待って町を出た。
 いかなる悔恨も残さない。かくて悪は世に栄えた。

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