(お)
その昔、とあるところにそれは小さな国があった。あまりにも小さいので地図に載ったことがなかったし、旅行者向けの案内書にも載ったことがない。街道からはずれ、歴史とその喧騒から遠く離れ、静謐に沈んで聞こえてくるのは虫の音くらいという国であったが、民は平和を尊んでよく働き、畑はよく手入れされて稔りをもたらし、森には実をよく稔らせた木々が立ち並び、牛はよく乳を出し豚はよく子を産み、どの家の煙突からも調理の煙が日に二度は上がった。王がよく治めていたのである。
若くして即位した王は長らく独り身を通していたが、ある時、隣国から王妃を迎えた。王は王妃と森で出会い、死んだように眠っている王妃を接吻で目覚めさせたのだという。王妃は快活な性格と親しみやすい美貌の持ち主で、たちまちのうちにその国の民を魅了した。盛大な結婚式がおこなわれ、国に住むすべての者を招いて宴会が開かれ、それから一年の後には玉のような男の子が誕生した。王と王妃は幸福を味わい、民は王と王妃を祝福した。またしても宴会が開かれ、国に住むすべての者が招かれたが、その宴会の席上で恐ろしい予言がおこなわれた。
王の城の大広間で王と王妃は椅子を並べ、王は王妃の肩を抱き、王妃は腕に王子を抱いて、祝福に訪れる領民たちの一人ひとりにねぎらいの言葉をかけていた。同じ広間には長大な食卓がいくつも並んで、そのどれもがはみ出すほどに酒と料理を載せていたが、ある食卓は酒飲みのために、ある食卓は甘党のために、またある食卓は菜食主義者のためにという具合に趣向がこらしてあって、これは誰もが宴会を楽しめるようにという王と王妃の心遣いによるものであった。祝福を終えた者は好みの場所に席を見つけて飲食に励んだ。会話がにぎやかに交わされ、楽士たちが音楽を披露し、芸人たちは絶妙の技を互いに競い、冗談と喝采の合間には多くの者が玉座に向かって杯を掲げ、さらなる幸福を祈って乾杯を叫んだ。王と王妃と王子を称える即席の歌が作られ、皆で声をあわせて歌を歌い、中には踊り始める者もいて、誰もが宴会を楽しんで満足しない者は一人もない。
ところが宴たけなわという頃、地の底から響くような轟音が城を揺るがせ、大広間の大扉が突風とともに押し開けられた。女たちの悲鳴が上がった。激しい風は広間を舞って酔漢たちから杯を奪い、すでに不覚となっていた者を床に転がした。すべての視線が入口に集まり、そこへ溢れるような黒い影をまとって現われたのは森の奥に住む魔女であった。魔女は黒い頭巾の下に顔を隠し、醜い鼻を王に向けてこのように言った。
「結婚式の時には何かの手違いであろうと思ったが、一度が二度となればもはや疑問の余地はない。祝いの品を用意して、招かれるのを待っていたというものを。だが今となっては手遅れだ。王子の十六歳の誕生日には、せいぜい紡ぎ車に気をつけるがよい」
魔女が呪いをかけて立ち去ると、王は兵士に命じて扉を閉めさせ、領民たちには安んじて宴会を続けるようにと合図を送った。ところが再び城を揺るがす音が轟き、大広間の大扉が突風とともに押し開けられた。舞い込んできた風で杯がひっくり返ることはなかったが、不覚となっていた者はそのまま床を転がった。すべての視線が入口に集まり、そこへ硫黄の臭いとともに現われたのは洞窟に棲む竜であった。竜は鼻から煙を吐き出しながら、王に向かってこのように言った。
「結婚式の時には何かの手違いであろうと思ったが、一度が二度となればもはや疑問の余地はない。祝いの品を用意して、招かれるのを待っていたというものを。だが今となっては手遅れだ。王子の八歳の誕生日には、せいぜい鞭に気をつけるがよい」
竜が呪いをかけて立ち去ると、王は兵士に命じて扉を閉めさせ、領民たちには安んじて宴会を続けるようにと合図を送った。するとまたしても城を揺るがす音が轟き、大広間の大扉が突風とともに押し開けられた。すべての視線が入口に集まり、そこへさらなる風を巻き起こして現われたのは谷底に棲む怪鳥であった。怪鳥は褐色の鋭い嘴を王に向けて、このように言った。
「結婚式の時には何かの手違いであろうと思ったが、一度が二度となればもはや疑問の余地はない。祝いの品を用意して、招かれるのを待っていたというものを。だが今となっては手遅れだ。王子の四歳の誕生日には、せいぜい壁に気をつけるがよい」
怪鳥が呪いをかけて立ち去ると、王は兵士に命じて扉を閉めさせ、領民たちには安んじて宴会を続けるようにと合図を送った。それと同時に大音響が辺りに轟き、大広間の大扉が突風とともに押し開けられた。すべての視線が入口に集まり、そこへ思わず顔を背けるような悪臭とともに現われた影は、一つではなく二つではなく、徒党を組んだ屍肉喰らいの集団であった。そのうちの一人が醜い顔を王に向け、尖った牙を隠しもしないでこのように言った。
「結婚式の時には何かの手違いであろうと思ったが、一度が二度となればもはや疑問の余地はない。祝いの品を用意して、招かれるのを待っていたというものを。だが今となっては手遅れだ。王子の二歳の誕生日には、せいぜい上げ蓋に気をつけるがよい」
屍肉喰らいどもが呪いをかけて立ち去ると、王は兵士に命じて扉を閉めさせ、領民たちには安んじて宴会を続けるようにと合図を送った。だがまたしても大音響が城を揺らし、大広間の大扉が突風とともに押し開けられた。すべての視線が入口に集まり、そこへ床を爪で蹴って現われたのは翼を持つ黒い犬であった。黒い犬は濡れた鼻を王に向けて何かをしきりと吠え立てたが、あいにくと人間の言葉ではなかったので誰にも理解することができなかった。
黒い犬が立ち去ると宴会はそのままお開きになり、領民たちは蒼白となった顔を並べてそれぞれの家へ戻っていった。王と王妃は王子を連れて寝室に引き上げ、そこで夜が明けるまで非難の応酬を繰り返した。一説によれば王は意図して魔女と竜と怪鳥と屍肉喰らいと黒い犬を招待からはずし、王妃はそのことで事前の警告をしていたという。それからというもの王と王妃は不仲になり、王子の方はいずれ呪いを受けてどうにかなるという理由から両親の愛を失った。
王子は一歳になるまで四つ足で過ごした。二歳になった時には歩くことを覚えていたが、見守る者もないまま城の中をさまよって上げ蓋の隙間から転落した。四歳でようやく話すことを覚えたが、そのことに誰も気づかなかったのは王子が壁に向かって喋ってばかりいたからである。八歳になった時には家庭教師が遠方から雇われた。この家庭教師は選んだように意地悪な男で何かと言えば鞭をふるい、王子の孤独な世界に暗い影を刻んでいった。十六歳の誕生日を迎えた日、王子は城の塔に一人で登り、その一室に入って古い紡ぎ車をじっと見つめた。それからゆっくり手を差し出して、指先で紡ぎ車の針に触れた。そして痛みを感じると同時に、王子は巨大なアオガエルになっていた。
王子は目を閉じて喉を鳴らした。しばらくしてから窓を開け、外へ出ると巧みに吸盤を使って壁伝いに下りていった。中庭へ降りてきたところで女たちの悲鳴を聞いた。厨房から飛び出してきた若者が王子の背中にリンゴをぶつけた。王子は再び喉を鳴らし、着実な跳躍を続けて城を後にした。左右に悲鳴を聞きながら町を抜け、橋の上から川の水に身を滑らせた。以来、王子の姿を目にした者はないという。
王子が失踪した後も、王と王妃の仲は戻らなかった。どちらもひどく心を澱ませて民を思う気持ちを失ったので、やがて国は傾いて地上から消えた。
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