(く)
その昔、とあるところにそれは小さな国があった。あまりにも小さいので地図に載ったことがなかったし、旅行者向けの案内書にも載ったことがない。だから国境を接するいくつかの国が、地図上の不在を理由に領有権を主張したことがあるという。国境線を確定するための交渉が繰り返されたが、その国の代表が交渉の席に招かれることは遂になかった。地図にないような国に主権があるとは、誰も考えなかったからである。
交渉は決裂し、最後まで主張を譲ろうとしなかった二つの国が軍を進めた。両軍の目的は、先にその国を占領して領有の既成事実を得ることにあった。どちらの軍勢も荒涼とした山岳地帯に侵入し、地図にない場所を捜し求めて彷徨を続けた。競争相手と遭遇すれば進路を塞いで攻撃を加え、そうしているうちに退路を塞がれて損害を受けた。勝敗は五分と五分で決着はなく、本国には戦闘報告ばかりが送られていく。時間の経過とともに損害が積み上げられ、出費は予定の数倍に達した。だが問題の国はいっこうに見つからない。頼みの既成事実を得られないまま、支出と死者ばかりが増えていった。
泥沼を見るに見かねた第三国が仲裁に乗り出し、説得を受けて両国は和解の場に同席し、地図上の不在の場所はまさにその理由によって不在であるという共同宣言を採択して双方の軍隊を引き上げた。一方では原因の究明を求める声が上がった。そこへ三人の賢者が東方から訪れ、事情を尋ねると一人が頷いてこう指摘した。
「問題の国を交渉の場に招いていれば、悲劇を起こらなかったであろう」
そうしておけば帰国するときに跡をつけることができたという意味であったが、多くの者は言葉を文字どおりに聞いて国際関係における主権の平等を痛感した。だが二人目の賢者は炯眼によって第一の賢者の意図を見抜き、鋭い口調でこのように言った。
「見つからない相手にいかにして招待状を送るのか?」
この発言は別の論議を呼び、その論議から名高い論理学の命題が生まれることになる。一人目と二人目の賢者はそれぞれの分野で歴史に名を残し、三人目の賢者は凡庸な発言を残して歴史に埋もれた。
「なぜ見つけることができないのか?」
それは、隠れていたからである。
山岳地帯に位置していたその国では、伝統で培った掘削の技術を活用して山をくりぬき、そこに国土を隠していた。天然の洞窟を大きく掘り広げて広大な生活空間を獲得し、町を作り、学校を作り、頭上にのしかかる巨大な岩盤に小穴を開けて山の頂上から光を導き、その光の下で畑を耕し、牧場を営んで牛を飼っていた。
最初はただ平地の不足を補うためであったが、ある時たまたまその国を訪れた旅行者の一言がその国の人々を意固地にさせ、平地にあった一切を放棄させてことごとくを洞窟の奥へしまい込むように仕向けたという。それがいかなる一言であったかは伝わっていないが、察するに心ない一言だったのであろう。以来、その国の人々は洞窟の入り口を塞いで外国との交渉を絶つようになった。
外国との交渉を絶ったことで、その小さな国は長い期間を生き延びた。外からはまったく見ることができなかったが、中ではよく繁栄し、住民は健康で文化的な生活を送っていた。とはいえ、何も問題がなかったわけではない。
まず人口の問題があった。豊かさを実感するようになった段階で人口の増加が始まり、そうして生まれてきた世代が新たな世代を生み出して増加の速度に拍車をかけた。何度も人口抑制策が導入されたが、いずれも期待したほどの効果を上げていない。なにしろ洞窟の中での生活なので、いかに文化的とは言っても娯楽は乏しかったのであろう。人口の増加はやがて雇用に影響を与え、失業者の増大をもたらした。家を得られない家族が出現し、洞窟の通路に住むようになった。
次に領土の問題があった。領土の拡張はもっぱら掘削に頼っていたが、ある段階を越えたあたりから、頭上にのしかかる巨大な岩盤の重みを気にする者が増えていった。長年にわたって掘り広げてきたにもかかわらず頭上に巨大な岩盤が残っていたということは、掘削が歴史的に低きに向かっておこなわれていたことを意味している。岩盤の巨大な重量を支えるには洞窟の壁は脆弱に過ぎるという試算が提出されると、対策として岩盤自体に大穴を穿って重量を軽減し、かつ大規模な開発用地を取得するという一石二鳥の計画が作られた。計画が実施されると山が不気味な鳴動を始め、その国の人々にかつてない種類の恐慌をもたらした。そしてただちにおこなわれた調査によって、掘削が山に危険きわまりない共振現象をもたらしていたことが明らかになった。そこで掘削そのものが全般的に、かつ期限を定めずに禁止されたが、領土の拡張はもっぱら掘削に頼っていたのである。やがて土地が不足し、家を得られない家族が出現し、洞窟の通路に住むようになった。
気がついた時には家も職も持たない人々がそこら中の洞窟に溢れ、治安が著しく悪化していた。対立が始まり、双方に扇動家が出現し、流言飛語が飛び交った。暴動への警戒が強化され、雇用対策が検討された。公共事業の告示があり、入札がおこなわれ、そして不正が暴かれた。対策は後手に回っていた。そうしている間に腕に覚えのある者たちが、勝手に穴を広げ始めた。それを見た周りの者たちも、一斉に穴を掘り始めた。掘削は完全な国営事業とされていたが、もはや誰にも流れを止めることはできなかった。
どの段階で何が起こったのかは知られていない。とにかく最後に山が潰れた。
Copyright ©2014 Tetsuya Sato All rights reserved.