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その昔、とあるところにそれは小さな国があった。あまりにも小さいので地図に載ったことがなかったし、旅行者向けの案内書にも載ったことがない。
それというのも当時は有象無象の国々が次から次へと現われたり消えたりしていたからで、地図製作者も旅行記作者もよほどのことがない限り小国のためには腰を上げようとはしなかったからである。噂を頼りに苦労して訪ねてみればもうなくなっていた、などということはよくあったし、まだあったとしてもまともとは言えないことが多かった。住民が一丸となって追い剥ぎ稼業に精を出していた、などというのはまだよい方で、悪くすれば殺されたし、うっかりすれば食べられてしまった。奇怪な風習を盾に婿入りを強要されて戻れなくなる者も中にはいたし、呪いのついた花嫁を押しつけられて送り返されてくる者もいた。もちろん小さな国の全部が全部そうだったわけではない。善良な人々が真面目に働いているまともな国もあったのだが、決して多くはなかったし、少ないという見解の方が多かった。というわけで、その国のことについてもあまりよい話は残されていない。
ある時、一人の旅人が街道の分岐点で選択を誤り、次の分岐でも間違えて森の奥へと曲がりくねる寂しい道へ入っていった。左右には鬱蒼と樹木が繁り、頭上には葉が幾重にも重なって太陽の光を遮っていた。薄暗い森の中には動きと呼べる動きはなく、風がわずかにそよぐ音と、鳥のさえずる声がたまに聞こえる。
旅人は道を間違えたことに気がつかぬまま歩みを続け、かなりの距離を進んだところで休憩を取ることにした。陽はちょうど中天にある。木の根元に腰を下ろして水筒の水で喉を湿し、背嚢を下ろして中から弁当を取り出した。格別の感動もない様子で食べ物を黙々と口に運び、そうしながら前夜の宿の女将のことを頭の中で反芻していた。何をどのように反芻していたのかは定かではないが、ここはこう書くことになっているのである。
さて、食べる以外にはすることがなかったので、目は自然と森の中へさまよっていった。どこというわけでもなく、ここというわけでもなく、ただ漫然と視線を漂わせていたのだが、そろそろ弁当を食べ終えようという頃、妙な気配を不意に感じた。見張られているような気がしたのである。危険を感じて、すばやく左右の様子をうかがった。そうしながら弁当の残りを背嚢にしまい、背嚢の背負い紐を肩にかけた。そして立ち上がろうとしたところで、怪しい気配の源を見つけた。すぐ目と鼻の先に潅木の茂みがある。その茂みの痩せた枝と枝の間から、望遠鏡の筒先が飛び出していたのだ。
レンズは旅人を凝視していた。旅人はレンズを睨んだまま、腰を落とした。望遠鏡の先端が旅人の動作を追って静かに揺れる。指先で地面を探って大粒の石を拾い、それを手に隠してまた立ち上がった。レンズを見据えて相手の出方を待ったが動きがない。石を投げた。石が放物線を描いて茂みの中へ飛び込んでいった。と同時に痛みを叫ぶ声が聞こえた。望遠鏡が慌ただしく引っ込み、代わって茂みの陰から一人の男が立ち上がった。薄茶の長い外套に身を包み、小さなひさしのついた薄茶色の帽子をかぶっている。男はこめかみのあたりを手で押さえ、旅人に背を向けると森の奥へと走り去った。
旅人は訝りながら、先を急いだ。追い剥ぎでも人殺しでもなさそうだったが、何者であったにしてもとにかく気味が悪かった。森から出ようという一心で曲がりくねった道をたどり、陽が暮れかかった頃に森を抜けた。道に沿ってさらに進むと先には小さな町があり、救われた思いで近づいていったが、すぐに不安を感じて足を止めた。
路上には住民の姿があり、そのどれもが薄茶色の外套を身にまとい、薄茶色の帽子をかぶっていた。多くは望遠鏡を携えていて、中には旅人に気づいて筒先を向ける者がいる。旅人に与えられた道はわずかに一本であり、森で夜を迎えるという選択は論外であった。少なくとも害意はなさそうに見える。旅人はそう判断して町へ入った。住民は旅人に道を譲り、道の端まで退いて望遠鏡を旅人に向けた。窓の隅では夕陽を受けてレンズが光り、開いた扉の隙間には上から下へとレンズが並んだ。誰もが旅人の挙動を監視していた。
宿屋と思しき店を見つけた。一階は食堂になっていて、旅人はその一角に席を見つけて腰を下ろした。頼んでもいないのに次々と料理が運ばれてくる。値段のことが気になって主人と思しき男に声をかけたが、相手はまるで取りあわない。単音節だけで構成された鳥の鳴き声のような言葉に手真似を加え、食べるようにと促すだけだった。そこで旅人は食べ始めたが、まわりの様子が気になってどうにも食が進まない。薄茶色の外套を着た男女が壁に沿ってずらりと並び、望遠鏡の筒先をずらりと並べて旅人を観察していたからである。旅人は食べるのをやめたが、それでも料理が運ばれてきた。旅人は置かれた皿を押しやって、一夜の宿を求めるために主人と思しき男に声をかけた。またしても鳥のさえずりが返ってくるので、旅人の方でも音を真似て声を出してみた。囁きがせわしく壁沿いに走った。立ち並んでいる連中が嬉しそうに顔を見合わせ、小声で言葉を交わしている。ところが交わされている言葉は鳥の鳴き声とはまるで異なっていた。それは旅人に覚えのある言葉で、ただしかなりの訛りが加わっている。記憶を頼りにその言葉を使ってみた。意味不明のさえずりが返ってくる。言葉で意思を通じあうつもりがないらしい。二階を指差して、眠りたいのだと手真似で訴えた。すると主人は特大の望遠鏡を持ち出してきて、周りの者に由来を説明しながらその筒先を旅人に向けた。
旅人は選択を迫られていた。憮然として立ち上がり、町を出て野宿するか、憮然として立ち上がり、勝手に二階の部屋を使うか。後者を選んで立ち上がり、荷物を肩に階段を上った。止めようとする者はいない。振り向きはしなかったが、無数の望遠鏡が狙っているのは見なくてもわかった。
適当な部屋を選んで中へ入った。扉には椅子の背をあてがって入口を塞ぎ、鎧戸を閉めて窓を塞いだ。理由はわからなくてもやり口はわかっていたので、まず壁を調べた。見つけた穴をぼろ切れで塞ぎ、次に這いつくばって床を調べた。床にも二三の穴があり、その大きさは住民の望遠鏡にぴったりであった。寝台の下も調べて心安らかに床に就き、朝を迎えてから天井を調べていなかったことに気がついた。見上げるとそこには大きな穴が開いていて、穴の中では望遠鏡を構えた者たちが互いを肩で押しあっていた。
旅人は荷物をまとめて部屋を出た。一階に下りて観察されながら朝食を摂り、支払いをしようと声をかけるとまた鳥の鳴き声を聞かされた。宿屋から出ると路上には望遠鏡の列があった。前へ進むと望遠鏡の列が退いた。旅人は町を後にした。町を出て、しばらくしてから足を止めた。振り返って町を見ると、そこには光の洪水があった。無数のレンズが朝日を浴びてきらめいていた。
あまりのまぶしさに旅人は顔を背けた。再び道を前に進み、苦労の末に正しい道を探りあてた。それから仕事を終えて故郷に戻り、奇妙な体験を隣人に伝えた。旅人が再びこの地を訪れることはなかったが、晩年になってある噂を耳にした。同様に道を誤った者がその国を訪れ、腕や脚を掴まれてひどく手痛く観察されたという。
「そんなことは、わたしの時には一度もなかった」
老人はそう言ったと伝えられている。
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