2014年7月24日木曜日

異国伝/彗星の季節

(す)

 その昔、とあるところにそれは小さな国があった。あまりにも小さいので地図に載ったことがなかったし、旅行者向けの案内書にも載ったことがない。国の名前すらも伝わっていないのだが、多くの者が遠くから見て知っていた。
 その国は高い山の上にあった。針のように尖った山の頂きのすぐ下に、まるで小石を積むようにして小さな家を積み上げていた。空中にはみ出している家もいくらかあって、いつ崩れ落ちても不思議がないような危うさを感じさせたが、日々の観察を続けた者は、崩れたことは一度もないと伝えている。天気がよくて空気がよく澄んだ日には、山の上を動き回るひとの姿を見ることができた。先を針のように尖らせたつばひろの帽子をかぶった人影が、白い壁を伝い、黒い屋根を伝い、曲芸のようにあちらからこちらへと飛び跳ねる様子を見ることができた。
 多くの者が見て知っていたが、そこまで訪ねていった者は一人もなかった。山の上に通じる道がなかった。仮にあったとしてほとんど垂直の道になったし、切り立った山肌はところどころでえぐれていた。だから多くの者が山を見上げて疑問を抱いた。
 あそこにいるあの人々は、どのようにしてあそこに行き着いたのか?

 またどのようにして家を建て、いったい何を糧に暮らしているのか?
 山に暮らす人々が、地上に降りてきたことは一度もない。疑問はいつまでも疑問にとどまり、たまに膨らむ空想だけが疑問にわずかな手がかりを与えた。
 魔法使いの国だと言う者がいた。空からやってきた人々だと言う者もいた。雲を食べているのだと考えた者もいたし、見下ろすことが好きなのだと考えた者もいた。だが見上げて観察している限りでは、山の人々はいつも忙しそうに働いていて、地上を見ている暇などありそうもなかった。
 わかっていることは一つしかない。
 年に一度、月のない五月の晩に、小さな彗星が群れをなして現われた。きらめく光のしずくを後にしたがえ、光の帯を幾重にも重ね、数えきれないほどの彗星が空を横切り、山を目指して進んでいった。群れが近づくにつれて山の上は昼間のように明るくなり、つばひろの帽子をかぶった人々は夜を背にして影を並べ、尖った山の頂きに登った。そして針のような場所に鈴なりになって、腕を大きく広げて彗星を迎えた。光を散らす小天体は輝く弧を描いて山をまわり、自在に駆けめぐっていくつもの弧を重ね合わせた。時にはひとの姿を背に乗せて、空をめぐってまた戻った。山の頂きは光に埋もれ、光の影がまばゆく輝く大きな玉を空に描いた。風があれば、山の人々の喜びが声となってかすかに聞こえた。小彗星は明け方近くまで山をめぐり、やがて空の彼方へと飛び去っていく。最後の彗星が夜空に去ると山の上に闇が戻って、山の人々の姿を包み隠した。
 彗星の群れが現われる晩には、多くの者が山を見上げた。そうするものだと親が子に伝え、子はその子に伝えて多くの者が世代を重ねた。五月の晩の彗星は、永遠不変だと多くの者が信じていた。
 だがある時、彗星が現われない年があった。その翌年も、その次の年も、彗星はやってこなかった。遠目に見る山の人々の生活に、格別の変化を見出した者はない。続く年にも彗星の来訪はなく、地上で暮らす人々は五月の晩のことを忘れ始めた。目のよい者が空気の澄んだよく晴れた日に、山の人々が腕組みをしてうなだれている光景を目撃したのはこの四年目のことだった。
 そして五年目が訪れ、月のない五月の晩がやってきた。多くの者は家に残り、わずかな者が山を見上げた。そのうちに空の一点に光が現われた。光はすぐに大きくなり、たった一つの巨大な彗星となり、長大な尾を引いて山を目指して進んでいった。彗星の光が山を照らし、頂きに群がる山の人々の姿を浮き上がらせた。見上げていた者たちは恐怖を覚えた。彗星はあまりにも大きかった。まばゆい光は凶暴に見えた。山に激突するのではないかと考えた。山の上ではつばひろ帽子の人々が、腕を大きく広げて彗星を迎えた。
 彗星は山にぶつからなかった。わずかにかすめるようにして、一直線に飛び去っていった。山をめぐることもしなければ、山の頂きを光で包むこともしなかった。
 陽が昇った後、目のよい者が山を見上げた。よく晴れた日で、空気は澄みきっていた。針のように尖った山の頂きのすぐ下で、小さな家々が積み上げた小石のように重なっていた。いつもどおりならば小さな家から小さな家へと、白い壁を伝い黒い屋根を伝い、針のように先を尖らせたつばひろの帽子の人々が曲芸師のように飛び跳ねていくのが見える筈だった。ところがそこには動く影は一つもない。日を改めて見上げても、山の人々の姿はどこにもなかった。首を傾げてまた日を改め、晴れの日を待って見上げることを繰り返したが、山の人々の姿を再び見ることは遂になかった。見上げていた者たちは疑問を抱いた。
 あそこにいたあの人々はどこへ消えてしまったのか?  何があったのか? 人々はいつかは戻ってくるのか?  答えを与える者はどこにもない。疑問はいつまでも疑問にとどまり、たまに膨らむ空想だけが疑問にわずかな手がかりを与えた。

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