2014年7月25日金曜日

異国伝/絶対の危機

(せ)

 その昔、とあるところにそれは小さな国があった。あまりにも小さいので地図に載ったことがなかったし、旅行者向けの案内書にも載ったことがない。実際のところ、その国の存在が一般に知られた時には、すでに滅んでから久しかった。
 その国は肥沃な土地に恵まれていて、多くの者が農業をおこなった。人々は労を惜しまずに働いたので収穫にも恵まれ、また牧畜をおこなう者もいたことから、多様な食品を得ることができた。外部との連絡は乏しくてほとんど孤立の状態にあったが、国内は常に平和で住民はよく食べてよく太り、すこぶる満ちたりた状態にあったのである。
 ある朝、一人の太った農夫が犬を供に森へ入っていった。実は前の晩に、農夫は自宅の窓から空を斜めに横切る怪しい光を目撃していた。その光は最後に森へ落ちたので、正体を確かめようと考えたのであった。
 森へ分け入ってみると、そこでは大木が右や左に傾いで煙を放ち、枝に炎をまとわせていた。地表は黒く焼けただれ、鋭くえぐり取られたような深い溝が森のさらに奥へと延びていた。農夫は尋常ならざる気配を感じ、犬は不安に鼻を鳴らした。それでも農夫は尻尾を丸める犬を急かし、溝に沿って森の奥へと足を進めた。溝が終わる場所では地面に大きな穴が開き、その周りには跳ね飛ばされた土が高く積み重なっていた。農夫は犬を手近の木につなぎ、一人で穴の中を覗き込んだ。その底では真っ赤に焼けた球形の物体が地面に半ば埋もれていた。その大きさは農夫の頭ほどもない。農夫は顔に、球体から放たれる熱を感じた。そして鼻に、得体の知れない悪臭を感じた。
 見ることはしたし嗅ぐこともしたので、次は触ってみようと農夫は考えた。そこで枯れ枝を一本手に取ると、その先端を前に差し出して球形の物体を軽く突いた。意外なほどに重いと感じた。二度三度と突くと、球形の物体の一部が割れた。そして中から粘性を持った泥のような物体がこぼれ出てきてどろりと広がった。それも真っ赤な色をしていた。農夫は手順を変えて、臭いを嗅ぐのに先立ってその物体を棒でつついた。するとそれはすがるように動いて枝の先端を粘膜で覆い、唐突に動いて枝の半ばまでを一瞬で包んだ。農夫は危険を感じたが、枝から手を放す前にそれはもう腕を飲み込んでいた。
 農夫は悲鳴を上げて、その場から逃れようとした。飼い主の最後の義務として吠え続ける犬を木から解き、よろめく足で家を目指して歩き始めた。そうする間にも粘り着く真っ赤な物体は腕を白骨に変えて肩に登り、胴を狙って短い触手を繰り出していた。
 子細は省くが農夫は途中で力尽きて道に倒れ、逢引の最中であった十代の男女に救われる。若者たちは農夫を医師の元へ運び込むが、農夫は全身を食われてすでに息絶えていた。物体は急激に成長して医師を食らい、逃げる男女を追って町へ出る。阿鼻叫喚の騒ぎが起こり、人々はてんでに逃げ惑った。だが怪物の触手は人間よりも早く動き、いかなる標的も素早く捕えた。老若男女を選ばずに襲って半透明の胃の腑に収め、間もなく家ほどの大きさに成長した。平和な国のささやかな軍隊が出動したが、これも片端から食われて消えた。そのまま放置しておけば国が滅びるのは明らかであった。しかしこの時、農夫を救った若者が妙案を思いついて皆に告げた。水に近い物体なのだから、凍りつくまで冷やせばよいと言ったのである。だが季節は夏であり、この時代には冷凍装置などという便利な物は存在しない。妙案ではあったが役には立たず、最後には全員が空しく化け物の餌食となり果てた。家畜も食われ、倉庫に貯め込まれた食料も食われ、怪物は山ほどの大きさに育って国を覆った。そして遂に食べる物が何もなくなった後、飢えて死んで干涸びた。その残骸は今もそこにあり、旅行者の通行の障害となっている。

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