その夜、わたしは場末の飲み屋のいちばん奥の席に腰を下ろして、グラスに注がれた地元の酒を見つめていた。飲めば頭痛と吐き気を引き起こす毒のような液体を見つめて、それが喉を焼き焦がしながら胃袋にしたたり落ちていく様子を想像した。想像すると、とめどもなく自虐的な気分になっていった。
グラスに鼻を近づけて臭いも嗅いだ。腐ったイナゴの死骸から漂うような強い刺激臭が鼻孔を貫き、すかさず胃液が込み上げてきて気分はいっそう悪くなった。得も言われぬほど悪い気分だった。飲めばもっと悪い気分になるだろう。グラスを見つめながら、わたしは思った。ただ悪い気分になるだけではない。精神と肉体とがそろって滅ぼされるのだ、とわたしは思った。破滅的な頭痛によって肉体は死の痙攣に苛まれ、逆巻く吐き気によって精神は穢れた大地に投げ捨てられる。残されるのは死よりも陰鬱な悔恨と胃壁にからみつく虚無だけだ。まさしく精神と肉体とはグラスの中身を飲み干すというはなはだ単純な行為によって、いともやすやすと滅ぼされるのだ。そう思うと、わたしの内側で豊かに芽吹いた自虐の心は、ますます勢いづいて太く強く根を張るのだった。
わたしは乾ききった強い探求心に支えられて、自分の魂に巣くった黒い願望を見つめていた。それは真っ赤な溶岩を吹き上げるほの暗い深淵にほかならなかった。そして深淵の多くがそうであるように、その深淵もまた見つめる者を見つめ返した。ふと思いついて、グラスを目の高さに持ち上げた。グラスのなかの液体が揺れた。深淵はわたしを見つめていた。その凝視は、獲物を発見した肉食動物の凝視だった。グラスのなかで液体の表面がゆったりと波打ち、縁を越えた数滴が指先を濡らした。それは深淵であり、そして同時に鏡でもあった。そこにはわたしの心が映し出され、わたしは自分の心と向き合うために自分を励まし、そうすることで自分を鍛えた。そして間もなくそうすることに、つまり自分を鍛えることに耐えられなくなり、自分を見つめることにも退屈して、汚れて油のしみたテーブルにグラスを置いて顔を上げた。同じテーブルには年齢も性別も異なる六人がいて、すでに何度となくグラスの中身を飲み干して、それぞれの精神と肉体とを滅ぼしていた。
わたしの隣に座っていたのは不快な臭いのする初老の男だった。古びたラシャのコートをだらしなくまとい、白髪頭をひどく短く刈り込んで、青白くたるんだ顔の中央で大きな鼻を赤くしながら、静かに嗚咽の声を洩らしていたが、嗚咽の合間に聞こえた途切れ途切れの告白によると、男には年老いた一人の妻と行き遅れた二人の娘がいた。
「ああ、もうおしまいだ」と男が嘆いた。「俺がこうして端から飲んじまうせいで、あいつらにはパンを買う金も残らない。家にはもうジャガイモの皮だって残っていないというのに、俺は全部飲んじまった。おしまいだ、もうおしまいだ。こうなるのはわかっていたのに、今度という今度こそおしまいだ」
その隣に座っていたのは黒い髪をした三十代の男だった。下がり物の黒いコートの襟に白いフケを撒き散らし、薄く尖った鼻をして、充血した大きな目玉を落ち着きなく動かしながら、嘆き続ける初老の男の背中を叩いた。
「おい、心配するなって」と男が言った。「家に女が三人もいるんだろう。だったらそいつらにせいぜいやりくりさせればいい。女ってのはやりくりをするもんだ。やりくりできなきゃ女なものか。女がしっかりやりくりしたら、男はそこから取りたいだけを取ればいいんだ。男ってのは、そういうもんだ」
その隣に座っていたのはひさし付きの学帽をかぶった学生だった。鉄縁の眼鏡の奥で若い怒りに目を燃え立たせ、穴が開いてぼろ切れも同然となったコートの胸やポケットを、寒さをやわらげるためだろうか、違法なチラシやパンフレットで膨らませていた。
「野蛮で、醜悪な発想だ」と学生が叫んだ。「団結こそが必要なときに恥を知らない無頼漢どもは個人主義へと走り込んで、そうすることがあたかも既得権であるかのように弱者からの搾取を試みる。しかし新時代の女はやりくりなどしない。男とともに自由と平等を謳歌して、手を取り合って生きるのだ」
学生の向かい側に座っていたのは安っぽい化粧をした三十過ぎの女だった。乱雑にまとめた金色の髪を肩へ垂らし、妙に分厚いショールの下にけばけばしい安物のドレスをまとって胸を必要以上に露出していた。
「あたしならごめんだね」と女が言った。「やりくりするのも男と一緒に自由と平等を謳歌するのも、どっちもごめんだ。ばかばかしくてやってらんないよ。新時代の女なんて、いったいなにが楽しいんだい。野原に繰り出してみんなで体操でも始めるのかい。ここで飲んだくれてるほうがよっぽどましさ」
女の隣に座っていたのは腕に小さな赤ん坊を抱いた母親だった。髪を乱し、みすぼらしいショールを肩にかけ、やつれているせいで四十よりも前には見えなかった。母親は胸の前を大きくはだけて赤ん坊に乳をやっていた。そしてほかにもう一人、テーブルの下に隠れて姿の見えない子供がいて、母親はその見えない子供を口汚く罵っていた。
「ほんとに馬鹿な子だね」と母親が叫んだ。「そんなところで小便なんかするんじゃないよ。あたしの靴にかかるだろ。やるならもっとそっちでやりな。そっちのおじさんにかけてやりな。なんだい、終わっちまったのかい。だったらちゃんと始末しな。よく振るんだよ。服を汚したらただじゃおかないよ」
その隣の席に、つまりわたしの斜め向かいに座っていたのは口元が弱々しい四十代の男だった。身なりはそれなりに整えていたが、黒いコートの袖も、その袖の下に見える上着の袖も、上着の袖の下に見えるシャツの袖も、どれもがそろってすり切れていた。額にはすり減った忍耐があり、目は悲しみに浸って消え入りそうな有様で、垂れた頬が怒りに震えていた。事務員だろう、とわたしは思った。
「けしからんじゃないか」と震える声で事務員が叫んだ。「よくも靴を汚してくれたな。靴下までが小便まみれだ。こんなことが許されるものか。わたしは抗議する。断固として抗議する。わたしは怒っている。こんなことは、もう我慢できない。限界だ、忍耐の限界だ。もう、今度という今度こそ限界だ」
これと同じようなテーブルが店のなかに十五もあって、どれもがほぼ満席の状態で他人同士の男や女が慎みを忘れて肩をくっつけ、時刻は夜半をまわっていたが、百人以上の人間が異臭と騒音を振りまきながら地元の酒に溺れていた。空気はひとの吐息で暗くよどみ、天井から吊り下げられたいくつものランプが黄ばんだ光をゆらゆらと放ち、その下にひしめく酔っ払いの顔の一つひとつに気の滅入るような影を投げかけた。影はすべての顔にまとわりついて、決して離れようとしなかった。そして男も女も相手かまわずに罵声を張り上げ、ときには怒りにまかせて拳を振り上げ、あるいは腹を抱えて笑いながら隣の肩にしなだれかかり、思い出すと給仕を呼んで注文を叫んだ。彼方に見える勘定台では店の主人がなにかを叫び、厨房では料理女が野太い声でなにかを叫び、給仕たちは疲労と不満で顔を赤くしながら料理と酒を載せた盆を運び続けた。
さて、忍耐の限界を訴える事務員の隣、つまりわたしの真正面の席に実はもう一人の人物がいた。褐色をした野良着のような服をゆったりとまとい、ぼさぼさに伸ばした髪を四方に乱し、腕を枕にこれ以上はないというくらいに突っ伏していて、だから顔も年齢もわからなかった。わたしが自分の席に腰を下ろしたときにはもう突っ伏していたし、わたしがグラスをにらんで破滅の予感を感じているあいだも突っ伏していた。顔を上げようすることも、ぴくりと動くこともしなかったが、同じテーブルの人々は心配するような気配を見せず、それどころか男がそこにまったく存在しないかのようにふるまっていた。一瞬、死んでいるのではないかと疑った。だが髪になかば隠れた手には血の気がかよい、ゆったりとした服の下では、かすかではあるが、からだが規則正しく動いていた。男は間違いなく生きていた。だが死んでいるのも同然だった。これこそが滅ぼされた人間だ、とわたしは思った。
ところが隣で事務員が嘆きの声を上げ、もう限界だと叫びながらテーブルを拳で叩き始めると、それまで突っ伏していた男がわずかに身じろぎをして、それから呻くような声を洩らした。異変が起こったのはその直後だ。店内の騒々しさからすれば男の呻きが誰かの耳に届いた筈もなかったが、それにもかかわらずそこに居合わせた百人からの酔っ払いが等しく男の声を耳に聞き、息を呑んで口を閉ざし、グラスを掴んだ手を宙にとめ、ある者は振り返り、ある者は立ち上がり、不安と恐怖におののきながら凍った視線を男に注いだ。静寂のなかで、誰かがどこかで戻していた。
太鼓腹を抱えた店の主人が客の肩を押し分けながら、急ぎ足で現われた。顔をゆがめて鼻を鳴らし、変わらずに突っ伏したままの男を見下ろし、不意にわたしをにらんで太った指を突きつけると、怒りを隠しもしないでこのように言った。
「あんた、なにかやったのか」
わたしは即座に首を振った。すると店の主人は今度は事務員に顔を向け、同じ指を突きつけてこのように言った。
「じゃあ、あんただな。あんたがなにかやったんだな」
事務員は答えるかわりに、もう限界だ、断固として抗議すると叫んで拳をテーブルに打ちつけた。すると野良着の男がまた呻いた。その声を聞いた酔っ払いどもは一斉に恐怖をまぶした息を吐き出し、一人が震える声でこのように言った。
「目覚めるのか」
それを合図に残りの者も口を開き、様々なことをわめき始めた。
「ああ、なんてこった」「起こしちまった、起こしちまった」「滅びるぞ、ついに世界が滅びるんだ」「この古い世界は滅びるが、そのあとに新世界がやって来るんだ」「くだらない、まったくくだらない」「いったい世界はどう滅びるんだ」「自由と平等を謳歌するんだ」「彗星が落ちてくるって俺は聞いた」「大地がでんぐり返るって俺は聞いたぞ」「滅びるのは世界じゃなくて、この町だ」「神の怒りだ」「焼かれるんだ」「ソドムとゴモラのように天の火で焼かれるんだ」「俺が聞いた話と少し違うぞ」「どっちにしたってあたしたちは滅びるのさ」「アヴェ・マリアを三回唱えなさい」「逃げよう」「逃げられるものか」「俺は逃げるぜ」「滅びるのか、ほんとに滅びるのか」「あいつが目覚めたら滅びるのさ」「そういうことに決まってるんだ」「ちくしょうめが、なんでまた今日なんだ」「馬鹿ガキが、また小便したね」「あいつはいったい誰なんだ」「あいつが誰かなんて、誰も知らねえ」「あいつはいつからあそこにいたんだ」「いつからだ」「俺は知らねえ」「先週の今日もそこにいたぞ」「一年前にもそこにいたな」「十年前にもそこにいたさ」「二十年前にもそこにいたぞ」「いったいいつからそこにいるんだ」「いつって、この店ができる前からそこにいたさ」「店ができる前にはテーブルなんかなかったろうが」「あたりまえだ」「それじゃあどうやって突っ伏してたんだ」「それでも突っ伏してたんだよ」「何者なんだ」「どこから来たんだ」「なんで世界を滅ぼすんだ」「おめえらが罰当たりだからに決まってらあ」「なにを」「くそ」「言いやがったな」「酔っ払いめ」
酔っ払いどもは酔いの醒めた青白い顔で声を限りに騒ぎ立て、数人が土足でテーブルを乗り越えてきて、なんとかしろ、と店の主人に詰め寄った。突っ伏していた男は再び身じろぎ、また呻くような声を上げた。主人は歯噛みをしながら男を見下ろし、ちくしょうめ、と一声叫ぶと汚れたエプロンの下から黒い棍棒を取り出して、それで力いっぱい男の頭を殴りつけた。かなり強烈な一撃が男を暗黒の世界に叩き戻した。ざまあみやがれ、と主人が言った。
酔っ払いどもはすっかり安心すると店の主人のために乾杯し、さらにいくつものグラスを干して精神と肉体とを滅ぼしていった。野良着の男は突っ伏したままで、その隣では事務員がもう限界だとつぶやきながら、拳をテーブルに打ちつけていた。わたしはグラスを置いて店から抜け出し、自分の部屋に戻って冷えた毛布の下にもぐり込んだ。
Copyright ©2014 Tetsuya Sato All rights reserved.