2014年5月16日金曜日

クラウド・オブ・ザ・デッド



 闇の中で目を覚まして、自分が死んでいることに気がついた。いつもなら目覚めたときにまず感じるまぶたの重さがどこにもなかった。目がどこかにあるという感じもしなかった。見えないし、聞こえない。においもない。空気も重力も感じない。肉体も、その延長にある感覚も、どうやら完全に消え失せていた。なぜだかわからないが思考だけが残っていた。重大な疾患でこのような状態に陥っているのではないかとも疑ったが、わたしは直感にしたがって自分は死んでいるのだと考えた。恐怖はなかった。不安もなかった。恐怖も不安も、その根源はおそらく肉体にあった。

 死んでいることがわかったので、今度は死んだ理由について考えた。すぐさま記憶をたどろうとして、なにも思い出せないことに気がついた。自分の名前すら思い出すことができなかった。男か女か、老いていたのか、若かったのか、どんな姿をして、どこでどんなことをしていたのか。家族はあったのか、それともなかったのか。善良な人間だったのか、それとも言語道断な悪人だったのか。肉体が消え失せた、ということは、同時に記憶野から切り離されたということだ。わたしの死んだ肉体の中で、わたしの海馬が記憶をすっかりたくわえていても、わたしはそこにアクセスする手段を失っていた。しかし、どういうことだろうか。そうだとすれば同じ理由でわたしは言語野からも切り離されているはずだ。いったいわたしはどうやって、ここで言葉を並べているのか。これは言語なのか。言語だとすれば何語なのか。わたしはわかって考えているつもりになっていたが、わたしはほんとうにわかって考えているのか。情報が足りなかった。というより、なにもなかった。入力を断ち切られた状態で、わたしは未来永劫にわたってここで自問自答を繰り返さなければならないのか。そう思っても、恐怖はなかったし不安もなかった。しかし、それはかなり退屈な作業になるだろうという予感がした。

 時間の感覚も消えていたので、しばらくすると、という表現はたぶん正確なものではないだろう。わたしが闇の中で自問自答を続けていると、不意になつかしい感覚がよみがえった。ほんの一瞬だったが、どこからか軽く押されたような圧力を感じた。小さな光が遠慮しながらまたたいたような感じだった。そしてかすかに、自分の記憶がよみがえった。わたしは病気にかかって死んだようだ。ひどい頭痛とひどい熱に責められていた。わたしは自分のベッドで死んだ。汗にまみれたパジャマを着ていた。また一瞬、今度は少し大きな光がまたたいた。わたしは直感にしたがって、これは生体電流のたぐいだろうと考えた。わたしは闇に閉じ込められて思考だけを抱えていたが、どうやら肉体はまだ近くにあって、つながりを保っているらしい。だとすると、わたしは自分の脳の中にいるということなのか。それともこれは霊魂になった状態で、死んだ肉体となにかで結ばれているということなのか。脳の中にいる、とわたしは思った。霊魂という考えにはなんとなく抵抗を感じた。

 わたしは自分が病気になった理由を思い出した。奇妙な病気が流行っていた。致死率はほぼ百パーセントで、患者は死亡すると自分の足で歩き始めた。健康な人間を見つけると噛みついて、そうすることで感染を広げた。わたしは腕を噛まれて、それからすぐに熱を出した。事実としてわたしが死んでいるなら、死んだわたしの肉体はたぶんどこかを歩いている。わたしはおそらくその中にいて、闇に閉じ込められて見ることも聞くこともできずにいる。いま、この瞬間、わたしはどこでなにをしているのか。もしかしたら、死人らしく横たわっているのかもしれない。それとも白と青の縞が入った汚れたパジャマの前をはだけて、町のどこかを歩いているのか。そうだとしたら、わたしは世間体を気にすべきなのか。恐怖も不安も肉体を起源としていたが、世間体についての意識はおそらく違うところから現われていた。

 またしても光がまたたいて、何度か軽くわたしを押した。生前の記憶がまたよみがえった。死亡した患者は歩きまわって感染を広げるだけではなかった。生きている人間に襲いかかって、食べていた。最初にその話を聞いたときにはそれ以上のナンセンスはないと思ったが、証拠の動画だというものを誰かに見せられた。たしか、勤め先の同僚だった。彼はわたしにある種の感情を抱いていたが、わたしは彼の感情にこたえようとしなかった。わたしは女だったのか。それとも男だったのか。どうもそこのところが判然としない。同じ動画がテレビのニュースで引用されていたのも覚えている。歩くのだから食べても不思議はない、とどこかの誰かが主張していた。しかしわたしとしては、歩く程度ならばともかくとしても、食べるのはどうにもナンセンスに思えてならなかった。食べていったいどうなるのか。それを言えば、歩いていったいどうなるのか、ということになるが、食べることに比べれば歩くことのほうがまだしも説明がつくような気がしてならなかった。

 決して断言はできないのですが。
 すぐ近くから声が聞こえた。
 死者は生きている人間を食べることで生体電流を奪っているのではないか、とわたしたちは考えています。
 わたしたち、とは。
 わたしたちとは、わたしたちです。あなたのまわりにいるのがわたしたちです。
 わたしはここに一人でいるのだと思っていました。
 あなたがわたしたちに近づいてきました。わたしたちはあなたの声を聞いて、あなたに話しかけたのです。
 なにしろ暗くて見ることができません。ここには何人いるのでしょうか。
 わかりません。わたしたちとあなたで三人いるような気がしているのですが、もしかしたら三人より多いのかもしれません。暗くて見ることができないし、声が、これを声と言っていいのかどうかわかりませんが、区別できないのです。
 波長の違いのようなものが、微妙にあるような気もするのですが。
 そうかもしれません。ただ個体の識別が非常に難しいのは事実です。
 わたしが近づいた、ということでしたが。
 現実世界の物理的な距離がなにかしら影響しているのではないかと考えています。
 つまり、わたしの死んだ肉体が、お二人の肉体といま同じ場所にいるということですね。
 そうです。そしてたぶん同じことをしています。
 口には出したくないことを。
 取り返しのつかないことを。
 いたって外聞の悪いことを。
 四人以上いるような気がします。
 だとすると、わたしたちはやはり元の肉体の中にいて、たとえばテレパシーのようなもので会話をしている、ということになるのでしょうか。
 わたしはそう思っています。
 わたしの考えは違います。なにしろわたしたちはすでに死んでいて、肉体のくびきから解放されているのです。わたしたちがいま置かれている状況を肉体の中、外という物理的な条件で制約する必要はありません。いわゆる自然界とはまったく異なるレイヤーにいると考えたほうが自然ではないでしょうか。
 超自然界ということですか。
 だとすれば、わたしたちは超自然状態にあるわけだ。
 わたしはなんとなく、煉獄のような場所だと思っていました。
 煉獄だったら、せめて薄日ぐらい差しているような気がします。
 先ほどのお話にあった、生体電流のことですが。
 誰か、そんな話をしていましたか。
 あまり確信はないのですが、死者は生きている人間を食べることで生体電流を奪っている、という発言があったような気がしてならないのです。
 確信がないのはしかたがありません。
 わたしたちはみな、記憶から見放されているのです。
 もしかしたら、言葉を垂れ流しているだけなのです。
 話した端から忘れているような気がしてなりません。
 だから誰もあなたを責めたりはしません。
 死者はなぜ生体電流を奪うのでしょうか。
 決して断言はできませんが、死者が歩くためではないでしょうか。
 生きている人間から電気を奪って、死者がそれで筋肉を動かすわけですね。
 人間のからだは頭の中はもちろん、内臓から血管から、いたるところに微弱電流が流れています。仮に効率の悪い手法でも、それを使えば死者は歩くことができるのでしょう。
 それはなかなか筋のとおった意見です。
 効率の悪い手法というのは、つまり。
 ええ、つまりあれのことです。
 例の、外聞の悪いやり方です。
 取り返しのつかない行為です。
 人類に対する犯罪と言ってもいいでしょう。
 死体になっているのだとしても、自分がそのような行為に加担していると思うとわたしは恥ずかしくてなりません。
 まったく、同感ですね。
 穴があったら入りたいものです。
 だからこういう暗いところにいるのかもしれません。
 この闇がわたしたちを隠してくれているのです。
 醜悪な行為が目に入らないようにしてくれているのです。
 霊魂が不浄であってはなりません。
 気のせいかもしれませんが、人数が増えていませんか。
 気のせいではありません。人数がかなり増えています。
 外、というのか、自然界で、なにか起こっているのでしょうか。
 たぶん、向こうでも集まっているのでしょう。
 集まって、なにが始まるのだと思いますか。
 わたしにはわかりません。
 わたしにはわかるような気がします。
 前に映画で観たのですが、死者たちは生前の習慣にしたがうことがあるのです。
 でも、歯は磨かないでしょう。
 わたしもゾンビ映画は観ましたが、歯を磨くゾンビは見たことがありません。
 いや、生前の習慣にしたがって、ショッピングモールに集まるのです。
 なぜショッピングモールに集まるのですか。
 それは生前、ショッピングモールを頻繁に訪れていたからです。
 あなたはそうかもしれませんが、わたしは違う。
 わたしも違う。ショッピングモールに足を踏み入れたことは一度もない。
 奇妙だ。なぜ断言できるのですか。
 はっきりした記憶があるのですか。
 わたしは自分の名前がわかりません。
 年齢も性別も、人種もわかりません。
 そのような状態で、あなたはなぜ、ショッピングモールに一度も足を踏み入れたことがないと断言することができるのですか。
 断言したわけではありません。ただ、そうであろうと思っただけです。
 それならいいのです。
 それならわかります。
 それならわたしたちと同じです。
 誰もあなたを責めたりはしません。
 しかし、おかしいとは思いませんか。
 そうです。直近の状況は比較的はっきりと思い出すことができるのに、肝心なことはほとんど思い出すことができないのです。
 たしかにこれは妙なことです。
 決して断言はできませんが、わたしには理由がわかるような気がします。
 仮定の話でもかまいません。
 わたしたちの状況自体が、仮定の話のように思えてならないのですから。
 死者は電流を体内に取り込んで、それで筋肉を動かすという話がありました。
 そうでしたか。
 言われてみれば、聞いたような気もします。
 しかし、なにしろ死者ですから、電流を必要な部位だけに流すという器用なことはできないでしょう。もちろん断言はできませんが。一部の電流は脳にも流れ、脳がわずかに活動して、最小限の記憶をわたしたちに送ってくる、という考えはどうでしょうか。
 それはなかなか筋のとおった意見です。
 しかし、それだけでは肝心なことが思い出せないという問題の説明にはなっていません。
 わたしは自分の名前がわかりません。
 年齢も性別も、人種もわかりません。
 年収を思い出すこともできません。
 決して断言はできませんが、電流は断続的で、しかも弱いので、脳はわたしたちに短期記憶しか送ることができないのです。
 なるほど、だから直近のことなら思い出すことができるのです。
 そして名前も性別も、年齢も人種も思い出すことができないのです。
 年収も住所も、職業も思い出すことができないのです。
 バッファを読んでいただけだったんですね。
 では、死者がもっと、つまり電流をたくさん手に入れたら。
 そうです。そうなったら、どうなるでしょうか。
 たぶん、もっと多くの記憶がよみがえることになるでしょう。
 だったら、ひとの多いところにいかないと。
 それで、なにを始めようと言うのですか。
 いや、わたしたちがなにかを始めるわけではありません。
 そうです、そうです。わかるでしょう。
 わたしたちにはなにもすることができません。
 でも、そういう場合はどこへいくんだ。
 ショッピングモールだ。
 そうだ、ショッピングモールしかない。
 生存者が、たぶんたくさん集まっている。
 恥ずべき行為に、積極的に加担しようというのですか。
 もちろん、そういうわけではありません。
 世間体はやはり気にしなくてはなりません。
 決して断言はできませんが、すでに手遅れだと思います。
 なにが手遅れだというのですか。
 先ほどから、ここは人数が増える一方です。おそらく死者たちは人間の生体電流が大量にある場所を嗅ぎつけて、集団でそこを目指しているのです。
 やっぱりショッピングモールだ。
 そうだ、ショッピングモールしかない。
 生存者がたくさん集まっている。
 ああ、わかりました。
 なにがわかったのですか。
 つまり死者たちは生前の習慣にしたがって行動するのではなくて、人間の生体電流に引き寄せられるのです。
 なんの話ですか。
 さっき、そういう話をしていたような気がするのですが。
 わかりません。
 わたしにもわかりません。
 覚えていることができないのです。
 実は気になっていることがあるのですが。
 気になることはたくさんあると思います。
 なにしろ覚えていることができないのですから。
 確信があるわけではないのですが、ひとによって獲得できる記憶の量やここで保持できる記憶の量に差があるような気がしてならないのです。
 ああ、わたしもそれは感じていました。
 そうですね。わたしも感じていました。
 そうですか。わたしは感じていませんでした。
 これはあくまでも推定ですが、死者が獲得している生体電流は、個体によってばらつきがあるのではないでしょうか。
 それはなかなか筋のとおった意見です。
 しかしそれでは、ここで保持できる記憶の量の差を説明できません。。
 これもまた確信があるわけではないのですが、おそらく記憶野からの上りもあれば、たぶん記憶野への下りもあるのでしょう。
 わたしたちのここでの会話を死者たちの脳が記憶しているということですか。
 そう考えると、いちおう辻褄があうような気がします。
 それはなかなか筋のとおった意見です。
 しかしそれでもまだ、差が発生している理由を説明できません。
 認めたくはありませんが、たぶん死者の強さにあるのです。
 あるいは、集団の中で死者が占める位置かもしれませんね。
 集団の先頭にいれば、より多くの電流が手に入るわけです。
 超自然界にいるつもりでしたが。
 自然界の不公平をまだ引きずっていたわけですね。
 残念なことです。
 まったく、残念なことです。
 ところで、いま見えた光はなんでしょうか。
 わたしにも見えました。
 そう、不思議なことに見えたのです。
 青白い光がぱっと開いて、そのまますっと消えました。
 ほら、あそこでも。
 また、あそこでも。
 ほら、今度は続けていくつもの。
 いくつ光りましたか。
 かなりの数でした。
 なにが起きているのか、わかったような気がします。
 わたしも、わかったような気がします。
 光るたびに声の数が減っているのです。
 断言はできませんが、たぶん攻撃を受けています。
 攻撃を受けて、死者が滅ぼされているのです。
 生存者たちは、たぶん重機関銃まで使っています。
 わかるのですか。
 続けざまに消えた光のリズムが重機関銃の発射サイクルと似ていました。もちろん断言はできませんが。
 また光りました。
 ほら、あそこでも。
 また、あそこでも。
 減りましたね。
 ずいぶん静かになりました。
 光ると、どこへいくのでしょうか。
 それは気になるところです。
 ただ消滅するのでしょうか。
 それとも違う場所に移るのでしょうか。
 違う場所とはどこでしょうか。
 霊魂の不滅を信じていますか。
 わたしにはわかりません。
 わたしにもわかりません。
 確信は持てませんが、違う場所に移るのだとすれば、それはそれほど悪い場所ではないのではないかと思います。
 それは悪い意見ではありません。
 ここもそれほど悪い場所ではありませんでした。
 次もそれほど悪い場所ではないと思います。
 また光りました。
 これはほとんど全滅でしょうね。
 お別れを言ったほうがよさそうです。
 そうしましょう。
 次の場所で再会できることを祈りましょう。
 ここで皆さんに会えてよかった。
 皆さん、いいひとばかりでした。
 さようなら。
 さようなら。
 また会う日まで。
 さようなら。

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