その日、わたしは傘をなくした。生ぬるい雨粒をはらんだ突風が傘をわたしの手から奪い取った。正確に言えば、それはわたしの傘ではなくて友人から借りた傘だったが、わたしにはその傘しかなかったので、だからわたしは傘をなくした。そして同じ瞬間に同じ路上で、わたしのほかにも多くの者が傘をなくした。ひとの手から逃れた傘が宙を転がる群れとなり、暗い空に向かって飛んでいった。いくつもの口が驚きを叫び、いくつもの口が舌を打ち、降りしきる雨にさらされて、いくつもの影が頭を抱えて走り始めた。だが空を見上げて、そこに踏みとどまる者もいた。
黒衣に身を包んだ老人が肩を怒らせ、風に向かって足を踏ん張り、灰色の顔で黒い空を見上げていた。老人の頬を風が叩いた。老人の額を雨が打った。あとは荒れ狂う北海のしぶきがあれば完璧だ、とわたしは思った。家にあった最後の傘をなくしたのか、友人から借りた傘をなくしたのか、それとも亡き妻の形見の傘でもなくしたのか、老人は目に怒りをにじませて空をにらみ、それからやおら腕を上げると拳を突き出し、空に向かって中指を立てた。するといきなり雨がやんだ。吹きすさぶ風がおさまった。たった一本の指による侮辱の動作に大自然の猛威がひるみ、老人の顔が勝利の光に輝いた。しかし、その輝きは長くは続かない。頭上では復讐をたくらむ空が雲を集め、渦巻く黒雲のあいだから一条の竜巻を老人に向かって振り下ろした。竜巻はしなう鞭のように空を泳ぎ、またたく間に地上に達して老人のからだをからめ捕った。
老人のからだが浮かび上がった。風に運ばれながら、老人はなぜか蔑むような眼差しでわたしを見下ろし、今度はわたしに向かって拳を突き出し、中指を立てた。思わぬところで侮辱を受けて、わたしは怒りよりも驚きを感じた。いつものように少し遅れて怒りがわいて、このような侮辱を決して看過すべきではないと考えたが、相手が空中にいるのでは、どうすることもできなかった。ただ記憶に刻んで、老人の姿が空の一点に消えるのを不愉快な思いとともに見送った。
風が勢いを取り戻し、再び雨が降り始めた。救いを求めてあたりを見ると、飲み屋の看板が目に入った。わたしは雨を避けてそこへ走り、古びた一枚板で作られた、ひどく重たい戸を押し開けた。ところが戸の向こうにはいわゆる飲み屋の風景のかわりに、暗がりをしたがえて地底へと伸びる長い長い階段があった。目を凝らすと、闇の底でかすかに光がまたたいた。耳を凝らすと、地獄の悪鬼の罵声にも地獄の亡者の絶叫にも似た、つまり飲み屋の喧騒と思える音が聞こえてきた。わたしは壁を手で探りながら、慎重に階段を下りていった。
地底の店の入口では鍛冶屋が忙しく働いていた。赤熱した鉄棒を鉄床に置き、火の粉を散らしながら蹄鉄の形に整えていた。鍛冶屋の背後にはいわゆる飲み屋の風景が広がり、天井から吊るされたおびただしい数のランプが酔っ払いの狂騒を照らしていた。つまり飲めば確実に頭痛と吐き気を引き起こす地元の酒を、男や女が、年寄りや若者が、ベンチに肩を並べて互いに吐息を浴びせかけ、てんでに勝手なことをわめきながら次から次へと飲み干していた。給仕は注文を取るのが忙しいのか、こちらにはまったく目を向けない。なんとか給仕の視線を捕えようとしていると、革の前掛けをした巨漢がどこからか現われ、鍛冶屋に向かって罵声を浴びせた。
「おう、何度言ったらわかるんだ、このばかやろうめ。わからないやつぁ何度言ってもわからねえってのは本当だな。馬の糞しかねえようなところで、蹄鉄こしらえてどうしようってんだ。そんなもなぁ、おまえのかかあの尻にくれてやれ。手枷が足りねえ、足枷も足りねえ。いったい焼きごてはどうしたんだ。あっちを見やがれ、無銭飲食の常習どもがとっくの昔に待ち惚けだ。やつらに風邪をひかせる気か」
男が指差す方角では、数人の客が壁につながれ、白い背中を並べていた。
「それから、さらし台の輪っかはどこへいった。たっぷりと焼きの入った丸い輪っかがなけりゃあ、床汚しの意気地なしどもが逃げちまう。入れたところからどう戻したって飲み代は返らねえってことを、とっくりとやつらに教えてやるんだ」
そう言って指差す方角では、さらし台でさらされた客が胃の内容物を戻していた。
「それから肉屋の鈎だ。一文無しなんかは客じゃあねえ、それをなんのつもりか知らねえが、そんなやつらを店にぞろぞろ連れ込んで、ただ酒をふるまうふてえ野郎に縄なんかはもったいねえ、ぎざぎざの鈎で逆さに吊してせいぜい痛い目にあわせてやらあ、しっかり手ぇ抜くんだぞ」
そう言って男が指差す先では、慈善家で知られた町の名士が二人の給仕によって逆さに吊るされていた。
「まだあるぞ、あれを忘れたなんて言わせねえ、砲丸はどうした。砲丸がなけりゃあ酒樽人夫が走っちまう。人夫が走ったりしてみろ、酒は泡でいっぱいになって呑めたもんじゃあなくなるぞ。そうなったらわかってるか、その泡をおまえの顔に塗りたくってそのカッコウの巣みてえな髭を綺麗さっぱり剃ってやらあ。わかってんなら覚悟しやがれ」
不穏な音を聞いて振り返ると、裸も同然の男たちが酒樽を肩に担いで運んでいた。男たちは一様に苦悶の色を顔に浮かべ、鎖の先の砲丸を引きずっていた。悲惨な列のかたわらでは怒り肩の給仕が鞭をふるい、舌なめずりをしながら悪口の限りを尽くしていた。
向き直ると、前掛けの男と目があった。男は鋭い目つきでわたしをにらみ、荒々しく歯茎を剥き出しにした。
「おう、なにを企んでやがる」
静かな席に案内してほしい、とわたしは頼んだ。男はうなずき、手招きをすると先に立って歩き始めた。わたしは男のあとについていった。拷問台からしたたる血のしずくをくぐり、袖にからみつく酔っ払いどもの腕を振り払い、不快な臭気を放つ床の上の液体を飛び越え、どら声を張り上げる頑丈な人垣を突き破り、果てもなく殴り合う若者たちの脛を蹴り、これでもかと転がる前後不覚の骸の群れをまたぎ越し、しなだれかかる皺だらけの女どもを突き飛ばして飛び散る白粉に鼻を歪め、なおも前進を続けると、狂乱の群衆から遥か離れて因果の無情に暗く沈む一角にやっとのことでたどり着いた。
そこには八人の先客がいて、静かにテーブルを囲んでいた。八人のうちの七人が一方の側に集まっていたので、わたしはもう一方の側の端を選んで腰を下ろした。やって来た給仕に地元の酒を注文し、それから同席者の様子を盗み見た。わたしと同じ側にいる一人は憔悴し切った様子を除けばとにかく並みの風体をしていたが、反対側の七人はいかなる理由からか全身を黒い布で覆っていた。隣の男も、向かい側の正体不明の七人も、押し黙ったまま正面をにらみ、咳の一つもしようとしない。それぞれの前にはグラスが一つずつ置かれていたが、中身に口をつけた痕跡があるのは隣の男のグラスだけだった。わたしの前にも、給仕が酒の入ったグラスを置いていった。わたしはテーブルに肘をのせ、目の前に置かれたグラスのなかの液体を見つめた。ひとしきり見つめて顔を上げると、隣の男が口を開いた。
「わたしはかれこれ半日もここに座り込んで、この手詰まりな状況を打開しようと試みている。だがそれも孤立無援ではいかんともしがたいものがあり、なすべきことを思いつけぬまま時は過ぎ、変わらずに退路は塞がれている。そこであなたを親切な方と見込んでお願いしたい、いまはこのように落ちぶれた身なりをしているが、もとは高貴な生まれであったこのわたしを、どうにかここから助け出してほしいのだ」
わたしになにが可能かは、とわたしは言った。あなたが置かれている状況によって異なります。
「そのとおりだ。ではわたしがいかなる状況に置かれているのか、それを明らかにすることにしよう。向こう側に並んで座る七つの影、あの連中は冷酷非情な決意を固めて、このわたしを捕えに来ているのだ。するとあなたはこう考えることだろう、それならばなぜさっさと逃げ出そうとしないのか、あの鈍そうな連中の手から逃れるのは、それほど難しいことではないのでは。いかにも逃げた、罠から逃れる鳥のようにわたしは逃げた。土地から土地へ、海を渡り、山を越え、世界中を逃げ続けた。しかしこの連中はどれをとっても蛇のように執念深く、どれをとってもましらのようにすばしこく、とうとう世界の果てのこの町の場末の酒場の片隅にまで追い詰められ、もはや逃れ出ることは不可能になってしまったのだ」
「そのとおりだ」
七つの影の一つが言った。
「おまえにはもはや逃げ場所はない。隠れる場所も残されていない。清算の時がやってきたのだ。我ら七人が力をあわせれば、おまえがこの地上のどこにいようと必ず白日の下に引き出されることになる。そのことはとうに証明済みだ。すなわち、青は空高く舞って大地を見下ろし、物陰に逃げ込むおまえの怯えた影を見つけ出す」
すると七人のなかから右の端の一人が立ち上がり、黒い布を取り去ってその正体を明らかにした。輪郭は裸体の人間に似ていたがが、ひとのように見えるのはそこまでで、しかるべき凹凸はすべて均され、あらゆる部分が青く塗り潰されていた。隣の男は青い影に指を突きつけ、こう叫んだ。
「空の旅はどうだった、随分と汚れているぞ」
男の叫びは黙殺され、影の一つが先を続けた。
「緑は木々に繁る青葉に紛れ、恐れに振り向いたおまえの両眼を凝視する」
すると次の者が黒衣を脱ぎ捨て、鮮やかな緑の怪物となって立ち上がった。それを見て男がまた叫んだ。
「失望したぞ、小さな毛虫に怯えるようではな」
「茶は歩道に敷き詰められた古い煉瓦に溶け込んで、おまえの足音に耳を澄ませる」
すると茶色のものが立ち上がり、男はそれに指を突きつけてこのように言った。
「そのたいそうな耳はどこにある。わたしには見えない」
「黄は夜も消されることのない黄ばんだ明かりの背後に潜み、寝返りの数を数えておまえから安らかな眠りを奪う」
「教えてもらおうか。数はいくつまで数えられる」
「群青は風にせせらぐ波の下で息を殺し、絶望の淵に身を投げる決意を固めたおまえの心に水を注ぐ」
すると群青の色をした化け物が現われ、男はそれを指差して嘲ら笑った。
「嘘もほどほどにな。浮いていたぞ。今度からは石を抱いて潜るがいい」
「そして赤こそは激情の印、ただひたすらにおまえをどこまでも追い詰める」
すると真っ赤なものが立ち上がり、これは説明のとおりに興奮気味で、せわしくからだを揺すっていた。この赤い怪物にも男は指を突きつけた。
「牛に気をつけろ」
「しかしそれぞれがいかなる技能を授けられようとも、ことを成し遂げるためには知性の導きが欠かせない。知性に輝くこの色を見よ」
異論があるかもしれないが、知性の色は紫だった。黒衣をまとった七人はこのようにして七つの色となって立ち上がり、紫色の化け物は言葉を続けてこのように言った。
「清算の時がやってきた、つけを支払うのだ」
この連中はいったいどこからやってきたのか、いったいいかなる理由からあなたをつけ狙うのか。わたしは声をひそめて男に訊ねた。男はわたしの質問に答えてこのように言った。
「魂を持たないこの怪物どもは、もとをたどれば、たった一枚のシーツだった。そしてそのシーツは、かつてわたしが暮らした静かな部屋の片隅で、古びた寝台のマットレスを覆っていた。白いシーツではない。白地に七つの楕円をあしらった大胆な柄で、七つの楕円はそれぞれが青と緑と茶と黄と群青、そして赤と紫に染められていた。飼い犬に手を噛まれたとはこのことだ。シーツの分際で主人に逆らい、それでも足りずに虐げようと企むとはな」
紫の怪物が反論した。
「月日のめぐりにも変わることがなく、晴れの日にも雨の日にも、そして凍てつく雪の日にも、一日の始まりから終わりまで、無限の惰眠を飽くことなく貪り、決して起き上がろうとはしなかった、あの堕落の極みに一言意見をしてみたまでのことではないか」
「シーツの分際で何を言う。まずは身分をわきまえろ。木綿の切れ端風情に意見をされる筋合いはない。わたしは眠りたいだけ眠るのだ。あの大胆な柄のシーツで惰眠を貪れる人間がいるとしたら、それは全世界でもわたしだけだ。おまえたちはわたしに感謝すべきではあっても、余計な意見をすべきではなかった。だから怒ったわたしがおまえたちを処分することにしたとしても、それはわたしの落ち度ではない。シーツの運命は人間が決める。シーツの分際で人間の運命を決めようとするな」
「またそれだ」と木綿の怪物が肩をすくめた。「シーツの分際で、シーツの分際で、と、そればかりを繰り返して貴重な忠告に耳を貸そうとしなかった。その上に、我々を窓から川に捨てようとした。眠りすぎの鈍った頭で心をかたくなにするばかりで、シーツに忠告されるという歴史上例のない奇跡の価値を一度も認めようとしなかった。おまえが犯した罪は重たい。その罪を償わせるために、我々は二度目の奇跡を経験した。七つの色がシーツから放たれ、七人の追っ手となっておまえをこの地の果てに追い詰めたのだ」
「シーツの分際で」と男が叫んだ。「もう、これ以上は我慢ならん。いま、この場で決着をつけ、おまえたちをもとの糸屑に戻してやる」
そう言いながら腕を振り上げ、拳から中指を突き立てた。これが命取りだった。革の前掛けをした巨漢がどこからともなく現われて、シーツに追われる哀れな男の首を掴んだ。
「どんなちんけな店にもそれなりの格ってもんがあるんでさ。あんたには申し訳ねえが、うちはちったあ上品ってことで売ってるんで。お客はそれで来てくれるって寸法でね。なんでだかわかりますかい。この店じゃあ、はばかりもなく中指おっ立ててふんぞり返るやくざな野郎は、どいつもこいつも分相応な最期を遂げるってことになってるからでさ。あんたにゃあばかげたことかもしれないが、水商売には色々と苦労がつきもんでね」
哀れな男は縛り上げられ、彼方に見える品位の証、厨房の湯気にかすむ血まみれの拷問台へと連れ去られた。木綿の怪物どもは高らかに勝利を宣言し、飲めば確実に頭痛と吐き気を引き起こす地元の酒で乾杯した。歌も歌った。そこは静かな場所ではなくなったので、わたしは手つかずのグラスをそのままにして店を出た。
長い長い階段を登って外へ出ると、雨はすでに上がっていた。湿った歩道に立ったわたしの前に黒衣をまとった老人が現われ、わたしに向かって拳を突き出し、中指を立てた。わたしにもわたしなりの秩序がある。一度目は宙に浮かんでいたので見逃したが、二度目となると見逃すわけにはいかなかった。わたしは正確に一歩半だけ歩み寄り、老人をわたしの身長の分だけ殴り飛ばした。
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