その夜、わたしは遅い夕食に招かれて、新しい住宅街にある友人の家を訪問した。そして美貌の夫人が自ら腕を振るったという赤カブのスープとヒツジ肉の串焼きを誉め、飽くことを知らずにパンを食べてワインを飲み、食後には暖炉の前で葉巻とマディラ酒を楽しんだ。とりわけ最後の二点に関して言えば、わたしとしては信じられないようなぜいたくだった。葉巻を短くなるまでゆっくりと吸い、マディラ酒の三杯目のおかわりをしたところで、友人の美貌の妻が居間のドアの陰にたたずんで、ひどく恨めしそうな目つきで夫をにらんでいるのに気がついた。その様子をわたしが黙って横目でうかがっていると、しばらく経って、先に休むわ、と夫人が言った。友人は驚いたような表情を顔に浮かべて壁の時計に目を走らせ、それからグラスを置いて立ち上がると、妻に走り寄って手を取った。そして頬に接吻し、手を取ったままわたしのほうを振り向くと、すまないが妻は先に休ませてもらう、と言って笑みを浮かべた。わたしはグラスを置いて立ち上がり、頭を下げて、すばらしい夕食の礼を言った。一瞬、夫人は傷ついたような顔をした。自分の手を夫の手からそっと抜き取り、足音も立てずに隣室の暗がりの奥へと消えていった。友人は、どこか名残惜しそうな様子で自分で自分の手を取りながら、さて、どうしようか、とわたしに訊ねた。夫人のことではなくて、わたしたちのことを言っているのだと察しはついた。わたしはチョッキのポケットから懐中時計を引っ張り出して、その文字盤に目をやってから壁の時計と見比べた。午前一時をまわっていた。いつものように、わたしの時計は遅れていた。そろそろ失礼しよう、とわたしは言った。友人はドアの陰に顔を半分隠して短くうなずき、楽しい晩だった、と小声で言った。
もしかしたら、訪問は失敗だったのかもしれない。もしかしたら、夫人はわたしを嫌ったかもしれない。わたしが退屈させたのだろうか。それとも長居をしすぎたのだろうか。しかし客に速やかに帰ってほしいと思うなら、二杯目のコーヒーの後に葉巻やマディラ酒を出すべきではない。それではまるで長居をしてくれと頼んでいるようなものだ。いや、葉巻とマディラ酒を勧めたのは夫人ではなくてその夫だが、もし夫がそうする前に夫人がすかさず三杯目のコーヒーを勧めていれば、常識のある人間ならそこで丁寧に断って帰る筈だ。三杯目のマディラ酒を断るためには欲望と戦わなければならないが、三杯目のコーヒーを断るためには常識にしたがうだけで事足りる。だから訪問先で三杯目のコーヒーを断らない人間は常識に背いているわけであり、したがって非常識の謗りを免れない。わたしは平然とひとを退屈させる人間だが、一応の常識は心得ているつもりだし、そしてこれは請け合ってもかまわないが、好んで長居をする種類の人間ではない。つまり退屈させたのだとすれば、それはわたしの落ち度に違いないが、そうでないなら、それはわたしの落ち度ではない。
外では満月が輝いていた。空はよく晴れていて、いくらかの風があり、気温はかなり低かった。わたしは大急ぎでマフラーを首に巻き付け、コートのポケットに手を突っ込み、自分の部屋を目指して歩き始めた。路上には一つの人影もなく、街灯の黄ばんだ光がところどころで灰色の石畳を照らしていた。左右に並ぶこざっぱりとした家々はどれも窓をしっかりと閉ざし、戸口の前の植え込みでは潅木の黒い影が寝そべっていた。あたりは静寂に包まれて、ただわたしの靴音だけが冷たく響いて路面を渡った。
自分の足音に気を取られ、残響に夢中で耳を傾けているうちに、どこかで道を間違えたらしい。新しい住宅街に連なる家はそこに住む住人同様、個性に乏しく、どの家もこの家も区別がなく、一つの街路は別の街路とよく似ていて、その没個性ぶりに埋没したそこの住人でもない限り、道を見分けるのは昼間でも難しい。いや、住人にしてからが、しょっちゅう道に迷っているくらいで、夜になればなおさらだし、もちろん酔っていればなお難しくなる。新しい住宅街から旧市街へ戻る道は二つあり、わたしは石畳で舗装された南側の新しい道を選んだつもりだったが、気がついたときにはむき出しの地面に無数のあばたをこしらえた北側の古い道に入り込んでいた。あばたのほかに、少なくとも百年分のわだちが刻まれ、大小の石が無秩序に転がり、街灯がまったくなかったので月の明かりがあっても足元が危ない。どうやら足元の危うさにすっかり気を取られていて、そのせいで石畳に響く足音が聞こえなくなっていたことに気づかなかった。これはわたしとしては珍しいことではまったくない。見渡せば左右にあったこざっぱりとした家々はどこかへ消えて、気味の悪いあばら屋が並んでいる。どこからともなく悪臭が漂い、あばら屋の窓に人影が揺らぎ、腐った板塀の隙間では疑いに満ちた目がまたたき、いったいなにを喋っているのか怪しい囁きが夜のしじまを駆け抜ける。いささか不気味ではあったが、しかし、そこに住んでいたのは正体の知れない無頼の民でもいかがわしい浮浪の民でもなく、れっきとした町の住民であり、廃屋も同然のあばら屋の家賃を家主に払い、食料品店にツケを溜め、旧市街で半端仕事をこなしてわずかばかりの小銭を稼ぎ、稼いだ金は端から飲み屋に運ぶ程度の能しかない、つまり頭が弱くて貧しいけれど善良な人間ばかりだった。試したことはなかったが、叩けば簡単に死ぬと聞いた。
引き返すには遅かったので、旧市街までそのまま突っ切ることにした。晴れていたのが幸いだった。北の道は雨が降ると泥沼と化して、誤って深みにはまり込めば、まず自力では脱出できなかった。わたしは両手を前に突き出して危険に備え、危うい足元に注意しながら進んでいった。靴は乾いた泥を踏み、足音は地面ににじみ込んだ。悪臭の流れをくぐるあいだに酔っ払いとすれ違った。ほとんど前後不覚の状態で、見ている前で路傍に崩れるようにして横たわり、大の字になって大きないびきをかき始めた。同じようにして寝ている二人の男と、荒い息をして眠る一人の若い女をほかに見かけた。わたしは好奇心から、女の脚を爪先でつついた。女は音を立てて息を呑み、うろたえながら目を開いてあたりを見回し、わたしを見つけてすさまじい目つきでにらみつけるとショールをまといながら起き上がり、走り出してすばやく板塀の陰に逃げ込んだ。わたしはその様子を眺めながら、声を立てて笑っていた。
しばらくすると前方に旧市街の黒ずんだ輪郭が見えてきた。旧市街へと渡る古びた石造りの橋を、左右合わせて八つの街灯が黄ばんだ光で照らしていた。橋も街灯も淡い靄に包まれている。突然、足は再び石畳を踏み、靴の踵はまた音を響かせた。わたしは橋を渡り始めた。渡るうちに、流れる川の水の冷たさが石を伝って這い上がった。その冷たさに思わず震えて、先を急いで靄を揺らした。
ふと見ると、わたしの前をいびつな黒い影が歩いていた。最初はリウマチに苦しんでいる老人かと思ったが、よく見ると、それは老人ではなかった。川から昇る冷気を分けて、ひどい腐臭が漂ってきた。それはひとの形をしていたが、ひとがするように歩いてはいなかった。曲がった背中の先でねじれた首を重そうに垂らし、なにかを求めるかのように前に向かって手を差し出し、一歩一歩、ゆっくりと足を引きずりながら旧市街を目指して進んでいた。わたしは好奇心に駆られてその影に近づき、横目で顔を盗み見た。腐っていた。目玉が一つ、視神経を引きずって頬を伝い、頬の皮膚は裂けて短冊状になり、膨れ上がった鉛色の腐肉が緑色の汁をしたたらせていた。耳はただの穴となり、鼻は黒く干からびた花弁の束となり、下顎は皮膚も肉も失って茶色くなった歯を並べていた。
死者だった。死者がわたしの隣を歩いていた。噂は前に聞いていたが、実際に見るのは初めてだった。それは恐ろしいほどに醜悪で、しかも自然に反していた。それは畏れを知らない地獄からの使者だった。死者が歩く理由を解き明かした者はいない。アフリカからやって来た呪術師の仕業だと言う者がいたが、その説明を信じた者は一人もない。外宇宙で発生した謎の放射線の影響だと言う者がいたが、その説明を信じた者も一人もない。すべての死者が起き上がって歩き始めたわけではなかった。旧市街と新しい住宅街を結ぶ北側の道で、食料品店にツケを残して死んだ者が死後に起き上がって歩き始めた。そして昼のあいだは腐った板塀の陰に隠れ、夜になると橋を渡って飲み屋などが集まるいかがわしい一帯にもぐり込んだ。そこでひとに襲いかかり、新鮮な肉を食らうのだという。警察による死者への対策はいつも後手にまわり、飲み屋の客はそれを司法組織の重大な怠慢だと考えていたが、食料品店の経営者たちは歩く死者も警察の怠慢も、すべてが自分たちへの当てつけだと考えていた。
死者が橋を渡りきった。わたしは好奇心に負けて死者のあとをつけていった。飲み屋などが集まるいかがわしい一帯を目指して、大儀そうに足を引きずりながら進んでいく。路上にはまだいくらかの往来があった。そのほとんどは酔っ払いで、死者に気づくと誰もが悲鳴を上げて逃げていった。踏みとどまって戦おうとする者が一人もないのが、実を言えば少々意外だった。酔った勢いを借りて、誰かがなにかを始めるのではないかと期待していた。残念ながら、期待していたような場面には一度も出会えなかった。
死者は暗い裏通りへ入っていった。とある汚らしい飲み屋の入り口の脇で、一人の若者がからだを折り曲げて苦しんでいた。胃の中身も胃液も吐き尽くして、それでもまだ吐こうと魚のように口を動かし、そうしながら目の前の路面を決死の形相で見つめていた。死者はこの若者に向かって、ゆっくりと背後から近づいていった。若者はまったく気づかなかった。仲間から見捨てられたのだろう。まわりにはほかに誰もいなかった。若者がようやく新しい吐き気の波をつかまえて、背中と喉を震わせながら半透明の液体を戻していると、そこへ死者が襲いかかった。わたしはその様子を眺めながら、これが死に方だとするならば、これ以上に悪い死に方はないのではないかと考えた。
そんなものを最後まで見るつもりはなかったので、わたしはまっすぐ部屋へ帰った。部屋はすっかり冷えきっていた。すぐに寝巻きに着替えて床に入り、床のなかで寝酒をあおり、間もなく毛布の温もりに包まれて安らかな眠りに落ちていった。
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