あるとき、町に女優がやってきた。
夏の陽射しに焼かれた街道を豪華な四頭立ての四輪馬車を仕立ててやってきて、レースの手袋に包まれた手を優雅に振って、口を開けて馬車を見上げる田舎者の善男善女に挨拶を送った。女優は繻子を張った豪華な座席におさまっていた。豪華に飾り立てた帽子をかぶり、黄色が目に鮮やかな夏物のドレスを身にまとい、美しく整った口元に涼しげな笑みを浮かべていた。女優が車上から愛想をふりまく一方で、御者台ではお仕着せを着た御者が陰気な顔つきで手綱を握り、その隣ではお仕着せを着た従僕が陰気な目つきで進路をにらみ、沿道に立ち並ぶ人々がただ驚いて見守るなかを、豪華な馬車は街道の埃を蹴立てて町の門をくぐっていった。
女優の名前を知らない者は一人もなかった。一週間遅れで首都から届く新聞にはその名前がどこかに一度は登場した。多くの場合は社交欄で、文化欄であることは滅多になかった。文化欄に登場すれば、まず間違いなく酷評されていた。社交欄であるとすれば、慶事や顕彰に関する記事ではなくて、醜聞を伝える記事であった。
女優が到着したその日に届けられた新聞にも、女優の名前が記されていた。一週間遅れのその記事によれば、羽振りのよさで聞こえたある資産家が親の代からたくわえた資産を女優のために使い尽くして、拳銃で自分の頭を撃ち抜いていた。即死だった。資産家は女優のために豪華に飾り立てた別荘を田舎に造り、女優のために別荘の内部を豪華に飾り立てた家具で満たし、女優自身を高価な衣装で豪華に飾った。当の女優は豪華な別荘を一度だけ訪ね、悪趣味ね、と感想を漏らして愛らしい鼻にしわを寄せ、一晩泊まって首都に戻った。女優は首都にある豪華な屋敷で暮らしていた。広大な庭に囲まれ、贅を尽くしたその屋敷は羽振りのよさで聞こえた別の資産家から贈られたもので、その資産家も女優のために財産をすっかり使い果たして、しばらく前に拳銃で自分の頭を撃ち抜いていた。あたりどころが悪かったので、死ぬまでに三日三晩苦しまなければならなかった。
女優は男たちを惹きつけ、男たちに貢がせた。女優が歩いた後には男たちが死体となって転がった。あるいは紳士としての名誉を失い、立つべき地位を失った。五人の資産家が自分で自分の頭を撃ち抜き、三人が債務者監獄に収用され、一人は債務を逃れてこの地上から足跡を断った。一人が消えると別の一人がすぐに現われ、別の一人がつぶされるとまた別の一人が現われた。つぶされた男の家族は路頭に迷った。加えて若者たちは女優に心を狂わせて恋人を裏切り、少年たちは女優のスカートにすがって勉学を忘れた。妻たちは女優を恨み、母親たちは女優を憎み、娘たちは暗い心で復讐を誓った。女たちは女優を蔑み、声をそろえてこう罵った。売女。そして男たちはそれでも女優に夢中になり、花の蜜に惹かれる虫のように夜ごとに花束を抱えて楽屋にかよった。
女優は裸体を売り物にしていた。
デビューとなった舞台では豊満なヴィーナスを演じてハリボテの巨大な貝のなかから現われた。からだをぴたりと包む肌色の肉じゅばんを身につけていたが、予想だにしない光景に観客はすっかり度肝を抜かれた。
二番目の舞台でも女優はヴィーナスを演じて、細いロープに吊られて空から地上へと舞い降りた。肌が透ける薄物だけをまとった姿で、しかも肉じゅばんをつけていなかったので、観客はそろって度肝を抜かれた。
三番目の舞台でも女優はヴィーナスを演じて、今度はハリボテの雲に乗って現われた。このときはドレスのようなものをまとっていたが、腰の上まである大胆なスリットに気がついて観客は残らず度肝を抜かれた。
批評家たちは女優の肉体ではなくて女優の演技に注目し、新聞や雑誌の文化欄でこれ以上はないというほどこきおろした。そうすることが正義だと言う者もいた。女優は劇評を読んで怒りを叫び、悲しみに泣いた。
続く舞台で女優はマクベス夫人の役を選んだ。初日の入りはよかったが、二日目からは悪くなった。三日目には興行主が苦情を言ったが、女優は演技派を目指すのだと宣言して聞く耳をまったく持たなかった。だが批評家たちは女優の向上心をあざ笑い、これ以上はないというほどの酷評を与えた。女優は批評家たちをこきおろし、四日目に演出家が演出を変えた。五日目からはマクベス夫人が肌色の肉じゅばんだけで夜中にうろつくようになった。六日目には評判が伝わり、七日目には観客が戻った。
女優の名前を知らない者はなかったが、女優が町に現われた理由を知る者はなかった。女優を乗せた豪華な馬車は古い石畳の道を突き進み、市場をかすめ、教会の前の広場を抜け、旧市街のはずれを走る川沿いの道を北上した。馬車は孤児院の前でとまった。灰色をした陰気な石造りの建物で、街路に面した窓はなかった。女優は馬車から降り立って、孤児院の玄関の呼び鈴を鳴らした。
女優が孤児院にいた時間は三十分に満たない。孤児院から出てきた女優は再び馬車に乗り込んだ。馬車は来たばかりの道を駆け戻り、もうもうと砂埃を蹴立てて街道を彼方へと走り去った。路上に立つ多くの者がその光景を目撃した。
孤児院に莫大な額の寄付があったことを、町の人々は一週間遅れの新聞で知った。記事が伝えるところによれば、女優は大きな心境の変化を迎えていた。いままでは芸術に身を捧げていたが、いまでは慈善事業に重大な関心を抱き、貧しい人々に救いの手を差し伸べることが自分に与えられた使命であると感じていた。そしてその記念すべき第一歩として女優は首都から遠く離れた辺鄙な町を訪問し、貧しげな町の片隅にたたずむ貧しげな孤児院にささやかな善をほどこしたのだった。記事は社交欄に載っていたが、なぜか醜聞として扱われていた。記事の最後にはこう書かれていた。なにも知らない田舎者が、女優を女神のように崇めている様子が目に浮かぶ。
これは町の一大事だった。座視することは許されなかった。商工会議所の会頭と銀行の頭取は申し合わせて町長を自宅に訪問した。
「これは侮辱だ」と商工会議所の会頭が叫んだ。
「まったくです」と頭取がうなずいた。
「どうか冷静に」と町長が言った。
「これが冷静でいられるものか」と商工会議所の会頭が叫んだ。「我々を田舎者呼ばわりにしているのだ。この町を、取るに足りない田舎町であるかのように言っているのだ」
「田舎町なのは事実ですよ」と町長が言った。
「断固として抗議すべきだ」と商工会議所の会頭が言った。「この町には文化がある。文学サークルだって存在する。首都に支店を置いている立派な商店が、この町には五軒も存在する。そういう立派な事実を新聞に知らせて、断固として抗議すべきだ」
「すぐにも抗議すべきです」と銀行の頭取がうなずいた。「わたしの銀行の融資残高のうち、半分は首都への投資にあてられているのです。ところが新聞はそんなことすら把握していない。それなら事実を知らせて反省の機会を与えなければなりません」
「お怒りはごもっともです」と町長が言った。「ただ、それよりも」
「それよりも、とはどういうことだ」と商工会議所の会頭が叫んだ。
「本当に、その女優は町へやって来たのですか」
「そういう噂です」と銀行の頭取がうなずいた。
「そんなことは、どうでもいいのだ」と商工会議所の会頭が叫んだ。「評判の悪い女優が町へ来たかどうか、などは問題ではない。問題は、この町の評判なのだ」
「いや、これは重大な問題です」と町長が言った。「噂が事実ならば、女優は二十日ほど前に町に現われたことになります。そして新聞の記事が事実ならば、女優は孤児院に多額の寄付金を置いていった、ということになります」
「そうなりますね」と銀行の頭取がうなずいた。
「それがどうした」と商工会議所の会頭が叫んだ。
「わたしの記憶では、お二人は孤児院の理事をなさっているはずです。そしてこのわたしは理事長の任にあります。それなのに、なぜわたしたちは、いまにいたるまで、孤児院に寄付があったことを知らなかったのですか」
「ああ、たしかに奇妙です」と銀行の頭取がうなずいた。
「なるほど。これは奇妙だ」と商工会議所の会頭もうなずいた。
「わたしたちは、院長に会わなければなりません」
町長は商工会議所の会頭と銀行の頭取をともなって、町の北のはずれにある孤児院を訪れた。呼び鈴を鳴らして現われたのは、脅えたような顔の老女だった。老女は町の名士からなる一行を見てすくみ上がり、院長への取り次ぎを頼まれてまたすくみ上がった。院長先生は、と震える声で老女は言った。ご不在です。どこへ行ったのですか、と町長が訊ねた。存じません、と老女は答えた。いつ帰ってくるのですか、と町長が訊ねた。存じません、と老女は答えた。知らないのです、と震える声で繰り返して目に涙をにじませた。
「今日、院長に会っていますか」
「今日はまだ会っておりません」
「では、昨日は会ったのですか」
「いえ、昨日も会っていません」
「では、一昨日はどうでしたか」
「一昨日も会っていないのです」
「いったい、いつから会っていないのだ」と商工会議所の会頭が叫んだ。
「それが」と震える声で老女が答えた。「二週間ほど前から」
老女の目から涙があふれた。いったい自分はどうすればいいのか、いったい孤児院はどうなるのか、院長はどこへいってしまったのか、そうしたことをうわ言のようにつぶやきながら町長の胸にすがるので、町長は老女の背中を軽く叩き、案ずることはないと言って慰めた。
「さては逃げたな」と商工会議所の会頭が言った。
「寄付金と一緒に」と銀行の頭取がうなずいた。
「院長の自宅へ行ってみましょう」と町長が言った。
町長は商工会議所の会頭と銀行の頭取をともなって、旧市街のはずれにある院長のささやかな自宅を訪れた。そこでは院長夫人が幼い二人の息子とともに、不安を抱いて待ち受けていた。
「ご主人はどちらに」と町長が訊ねた。
「わからないのです」と震える声で夫人が答えた。
「最後に見たのは、いつですか」
「二週間前です。しばらく悩んでいたようでしたが、いきなり旅支度をしてどこかへ出かけて、それから戻ってまいりません。必ず迎えをよこすと申しておりましたが、まだ連絡がないのです。いったいなにがあったのですか。主人はなにか悪いことをしたのですか。わたしは、わたしたちは、この子供たちはどうなるのですか」
夫人の目から涙があふれた。子供たちも泣き始めた。町長は夫人の手を取り、案ずることはないと言って慰めた。それから町長は商工会議所の会頭と銀行の頭取をともなって警察を訪れ、署長に横領事件の発生を知らせた。
「そうすると、発端は例の女優ですか」と署長が訊ねた。
「そう言えば、そうかもしれませんね」と町長が言った。
「いつかはこんなことが起こるだろうと思っていました」
署長はなぜか興奮していた。
翌日、事件の詳細を伝える記事が町の新聞の一面を飾った。その記事が伝えるところによれば、院長は不法行為によって町を汚名から救っていた。町の住民は院長のおかげで女優を女神のように崇める災難をまぬかれた。町の住民はすでにすべてを知っており、なにも知らない田舎者はもはやここには存在しない。
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