あるとき、町に天使がやって来た。
天使は純白の衣をまとって裾を垂らし、一対の大きな白い翼を背負っていた。黄金色の髪を長く伸ばして、顎に黄金色のひげをたくわえていた。天使だ、と人々は言った。時刻はまだ正午をわずかにまわったばかりだったが、その昼日中に天使はひとの前に姿を現わし、市場の端にたたずんで、暗い眼差しを灰色の地面に向かって投げかけていた。地上に降りてくるところを見た者はなかった。天使の唇はかたく閉ざされ、大きな翼はたたまれていた。ある者は天使の姿を目にすると、その場にひざまずいて祈りを捧げた。ある者はこの世ならぬ存在に恐れを抱いてその場から逃れ、またある者は理性の光に導かれるまま、目の前の光景に眉をひそめた。数人が警官を呼びに警察へ走り、数人が神父を呼びに教会へ走った。そして多くの者がおそるおそるに足を進めて天使を囲み、背伸びをしたりしゃがんだり、あるいは首をひねったりしてさまざまな角度から目を凝らした。
天使はすばらしい美貌の持ち主だった。その美貌に打たれて、町の人々は息を呑んだ。天使の衣はしなやかで、美しい光沢を備えていた。そのしなやかさと光沢に打たれて、町の人々は息を呑んだ。天使の白い翼は不快なほどに生き物じみていて、まがまがしさを漂わせた。町の人々はまがまがしさを恐れて身をしりぞけた。少なからぬ者が、もしかしたらこれは本物ではないかと疑っていた。
本物だろうか、と一人が疑問を口にした。
そんなばかな、と別の一人が首を振った。
しかしこれは、と首をかしげる者がいた。
囁きを交わす群衆のなかから一人の上品な老婆が前に進んで、畏敬に震えるかぼそい声で、あなたは天使ですか、と問いかけた。声に反応して天使が動いた。ゆっくりと顔を上げて老婆を見据えた。群衆は天使を見つめ、天使の声を聴き取ろうと耳を澄ませて待ち構えた。だが天使は変わらずに口を閉ざしていた。
老婆は十字を切って、小声で祈りを捧げてからしりぞいた。代わって鳥打ち帽をかぶった初老の男が前に進んだ。男は天使に向かっていきなり指を突きつけ、鋭い声で、ぺてん師、と叫んだ。天使は顔を動かして男を見据えた。そのすばらしく整った顔からは、いかなる感情の動きも見て取ることはできなかった。鳥打ち帽の男は群衆を振り返った。
男は天使を指差し、人々に向かって話し始めた。男の言葉によれば、そこにいるのは天使ではなくて天使の仮装をした誰かであり、その誰かとはつまりぺてん師であって、そのぺてん師は天使の仮装をすることによって人心を惑わそうとたくらんでいた。この男は似たような種類のぺてん師を何度か見たことがあったようだ。そうしたぺてん師によって男は一度ならず心を乱され、少なくとも一度は財産を奪われ、そのような結果を招いたことで、どうやら自分自身にひどく腹を立てていた。男の怒りは激しかった。
このいまいましいぺてん師め。男は天使に向き直ってそう叫んだ。いいかげんに、その作り物の翼をはずして正体を見せろ。そう言いながら天使に詰め寄り、翼を剥ぎ取ろうと手を伸ばした。男の手が伸びるのと同時に天使が動いた。信じられないほどの速さで一歩しりぞき、左右の翼を大きく広げた。ウマでも包み込めそうな巨大な翼がはじけるように開いて白く輝き、なぎ払われた空気が音を立てて突風となった。
人々は風に煽られ、恐怖を感じて腰を抜かした。一人が悲鳴を上げて這うようにして逃げていった。鳥打ち帽の男は帽子を飛ばされて地面に突っ伏し、頭を抱えて小刻みにからだを震わせていた。血の気を失った群衆を天使は暗い面持ちで見下ろした。
これは本物だ、と数人が叫んだ。本物の天使だとすれば、それは天から下された御使いであった。敬虔さを誇る者からひざまずいた。ひざまずいて祈りをつぶやき、おののきながら御使いの言葉を待ち受けた。だが天使は群衆を見下ろしたまま、変わらずに口を閉ざしていた。多くの者が苛立ちを感じた。お言葉を、と言って一人の女が手をあわせた。なにか言ってくれ、と懇願する者もいた。御使いは言葉を地上に運ばなければならなかった。もし手ぶらで来たのだとすれば、それは地上に対する裏切りだった。ひとが集まる市場のような場所の真ん中では、たとえ神であっても信仰を試してはならなかった。祈りをつぶやく声はやがて疑念をまぶした囁きに変わり、人々は互いに顔を見合わせ、ときにはあからさまに肩をすくめた。
警官がやって来て、人心を惑わせたのは誰か、と訊ねた。人々は再び顔を見合わせ、それから数人が鳥打ち帽の男を指差した。警官は鳥打ち帽の男を引っ立てていった。
次に神父がやって来て、御使いはどこか、と人々に訊ねた。訊ねられた一人が天使に向かって顎をしゃくった。神父は天使に歩み寄り、十字を切って一礼した。恐れる様子は微塵もなかった。神父は天使に問いかけていった。あなたは何者なのか、父と母は誰なのか、どこからやってきて、いかなる用向きを携えているのか。神父は同じ質問をラテン語で繰り返した。さらにギリシャ語でも繰り返した。どの問いかけに対しても、天使は口をかたく閉ざしていた。神父はわずかに眉をしかめ、最後にアラム語の単語をいくつか投げかけた。すると天使は厳かな、鐘の残響を思わせるような声でなにかを言った。
ざわめきが起こった。人々は天使の声をついに聞いた。そして一斉に、天使はなんと言ったのか、と神父に訊ねた。わからない、と神父は首を振った。天使が口にしたのはヘブライ語だった。
靴屋を呼ぼう、と群衆のなかの一人が大声で言った。あいつならわかる。
下町のはずれの古びた一角からユダヤ人の靴屋が呼び寄せられた。頭に小さな帽子をのせ、古びた黒い前掛けをかけ、真昼の市場をまぶしそうに見回していた。その年老いた小柄な靴屋が半地下の穴蔵のような仕事場から、昼日中に外へ出ることは少なかった。神父が群衆を分けて進み、先頭に立って靴屋を迎えた。神父は靴屋の耳に何事かをつぶやき、靴屋はいぶかしげにうなずいた。
町の人々が見守る前で、靴屋が天使に近づいていった。靴屋は天使の前で足をとめ、深々と頭を下げて皺だらけの手を両ひざに這わせた。靴屋は頭を下げたまま、しばらくじっとしていた。それからようやく顔を上げて、天使に向かって静かな調子で語りかけた。靴屋の問いかけに、厳かな声で天使が答えた。多くの者の期待に反して、交わされた言葉は多くはなかった。いくらかの者の予想に反して、靴屋がひそかに啓示を受けた様子もなかった。間もなく靴屋は天使に背を向け、天使は再び口を閉ざした。
町の人々は靴屋を取り巻き、天使はなにを答えたのか、いったいなにがわかったのか、と声高に訊ねた。数人は興奮して拳を振り上げ、振り上げたまま詰め寄ったので小柄な靴屋を脅えさせた。神父は靴屋の手を引いて、群衆のなかから引っ張り出した。そして靴屋に訊ねて、このように言った。
「なにか、わかったのですか」
「はい、すべてわかりました」
「では、あの方は天使なのですか」
「違います。天使ではありません」
靴屋の説明によると、市場に現われた天使は右の翼に傷を負って飛ぶ力を失っていた。これが人間ならば、傷はいつかは癒される。しかし天使は最初から天使として作られ、完成された存在であり、したがって自らを癒す力を備えていない。地上にとどめられて天との絆を失った者を、もはや天使と呼ぶことはできなかった。
「では」と神父が声をひそめた。「わたしたちはどうすればよいのですか」
「なぜ」と靴屋が眉をひそめた。「なにかできる、などと考えるのですか」
靴屋を問いかけを聞いて神父は考え、考えた末にうなずいた。たしかに、できることはなにもなかった。天使はすでに地上の運命に託されていた。かつて天上にあった輝かしい光は、いまや地上にあって汚辱と塵にまみれることになるだろう。
靴屋は自分の店に戻り、神父は自分の教会に戻った。残された人々はまた天使の前に集まって、恐れることなく指先を向け、肩をすくめ、少々冒涜的な冗談に笑った。子供たちは犬をけしかけ、急進的な若者たちは唾を吐きかけ、情けを知らない女たちがはさみを握って現われて、天使の衣を裾から四角く切り取っていった。夜になると酔っ払いがからんだ。それでも天使はその場所にたたずんだまま、暗い眼差しを地面に向かって投げかけていた。数日が経ち、天使が立っていた場所は一人の農夫に貸し出された。農夫は野菜を満載した荷車を牽いてやって来て、天使の鼻先に許可証を突きつけ、天使が場所を譲ろうとしないと見ると、梶棒を振るって追い払った。
天使は居場所を失い、町のあちらこちらをさまよい歩いた。哀れに思った人々が天使に食べ物や飲み物を差し出したが、天使は食べることも飲むことも知らなかった。眠ることも疲れることも知らなかったので、天使は夜もさまよい歩いて異形の影を壁や石畳に投げかけた。さまよううちに純白だった衣は汚れ、黄金色の髪は乱れ、翼は汚物をかぶって黒ずんでいった。悪臭が漂い、蝿がたかり、巨大な翼はたたまれた状態であっても路上の通行の障害となった。
町役場に苦情が殺到した。対策のために町の重鎮が招集され、慎重な議論の末に結論が下され、ただちに逮捕状が作成された。武装した警官が現われて、天使を監獄へ引っ立てていった。心のある者はその様子を見て困惑し、心の貧しい者は喜びを感じた。
天使に割り当てられた地下の監房は入り口がひどく小さかった。看守たちは天使をそこへ押し込むために、翼を少しばかりへし折らなければならなかった。重たい鉄の扉が閉ざされた。厳重に鍵がかけられ、天使は闇のなかへ置き去りにされた。そして思い出すことがないように関係書類は焼却され、監房の入り口はレンガとしっくいでふさがれた。だが監房の鍵はまだ監獄の看守が握っている。
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