2014年5月24日土曜日

町/魚


 あるとき、町に魚がやって来た。
 鯉によく似た魚だった。ただし体長は四メートルを超えていて、空気中でも呼吸ができて、陸上を不思議な方法で移動した。この魚は人間を好んだ。
 最初に食われたのは帽子屋の女房だった。日没の後、帽子屋が店を閉めて裏手にある自宅へ戻ってみると、台所のほうから女房の声が聞こえてきた。いつもの小言だろうと思って帽子屋は曖昧な返事を返したが、そのうちに奇妙なことに気がついた。小言にしては途切れがちだし、声もひどく苦しそうだ。なにかがあったのかもしれない。いやな予感を感じたが、それでも習性に促されて帽子屋はまず手に持っていた伝票を所定の抽出しにしまい込み、それから小さな居間を横切って台所へ通じる扉を開いた。恐ろしく大きな魚の姿が目に飛び込んできた。それは青黒い鱗を光らせて台所の床一杯に横たわり、見ている前で太ったからだをくねらせた。帽子屋は驚いて二歩退いた。驚きながらも、女房がまた得体の知れないことをしでかしたのだと考えた。帽子屋は女房の名を呼び、激しい口調で女房を叱った。すると魚が身をくねらせて扇のような形の鰭を揺らし、と同時にどこからか、女房の消え入りそうな声が聞こえた。帽子屋は一瞬躊躇した後、勇を奮って台所へ踏み込んだ。急いで見回したが、女房の姿はどこにもない。だが帽子屋はすぐに見つけ出した。魚の鼻先に髪を乱した女房の頭とぐったりと伸びた腕が見えた。仰向けになった状態で首から下は魚の口のなかにもぐり込んでいた。帽子屋は女房の名を呼び、再び激しい口調で女房を叱った。馬鹿なことをやめてすぐに出てこい、と叫んだが、女房は頬を涙で濡らして助けを求めた。魚がおくびを洩らすような具合に口を開けて、また閉じた。女房の頭がずるりと動いてなかへ消えた。残された白い手が震えている。帽子屋は悲鳴を上げて前へ飛び出し、魚の濡れた鼻先に滑り込むと口から突き出た手を握った。渾身の力で引っ張ったが、万力で締めつけられたかのように手はぴくりとも動かない。魚がゆっくりと口を動かした。すさまじい力が帽子屋を引き寄せ、帽子屋が恐怖に負けて手を放すと、女房の手は魚の口に吸い込まれた。帽子屋は息を呑んだ。頭を抱え、顔を覆い、震える足で壁まで退き、そこで腰を落として魚を見つめた。女房を呑み込んだ口は固く閉ざされ、うつろな目玉はじっとどこかを見据えていた。魚が尾びれを左右に大きく振り動かした。巨体が動き、魚は床を這って帽子屋に向かって突進した。帽子屋が悲鳴を上げて身を縮めると、巨大な魚はそのすぐ脇へ鼻を突っ込み、台所の壁を通り抜けて消えていった。
 知らせを受けた警察署長は新任の警部補に捜査を命じた。首都から着任して間もないこの警部補は探偵としてはすこぶる有能であったが、怪現象の存在を容易に信じるような人物ではなかった。

 謎を解く鍵は帳簿に隠されている筈です、と警部補は言った。警部補は帽子屋を訪れて帳簿を調べ、そこにいくつもの謎の記号を発見すると帽子屋を捕えて尋問した。それは仕入れ先です、と帽子屋は答えた。絹やラシャやリボンやボール紙の仕入れ先を意味する記号です、と説明したが、警部補を納得させることはできなかった。本当の意味を教えてください、と警部補は言った。いずれは話すことになるのです、お互いの時間を無駄にするのはやめませんか。警官たちは警部補の命令で家捜しを進め、所定の抽出しから怪しい伝票の束を発見した。そこにも謎めいた記号が山ほども記されていた。お得意様です、と帽子屋は説明した。それだけではないでしょう、と警部補は言った。どこかに秘密の意味が隠されているのではありませんか。
 警察が帽子屋の家で捜査を進めるあいだに二人目が食われた。肉屋の息子だった。解体作業場で牛を分けているところを背後から襲われ、母親が見ている前ですすり込まれた。息子は解体用の鋸を握っていたが、突っ伏した状態でじっとりとした口にくわえ込まれたので反撃を加える機会はなかった。半狂乱になった母親は悲鳴を上げて亭主を呼び、亭主は泣きわめく女房の頬を何度も叩いてどうにか事実の輪郭を掴み、すぐさま走って警察に知らせた。警察署長は事件の解明のために警部補を送った。警部補はただちに帳簿の調査に取りかかり、無数の記号を発見した。それはリブとかフィレとかロースとかって意味なんで、と肉屋の亭主は説明したが、警部補を納得させることはできなかった。本当の意味を教えてください、と警部補は言った。いずれは話すことになるのです、お互いの時間を無駄にするのはやめませんか。
 警察が帽子屋と肉屋で捜査を進め、警部補が二つの家のあいだを慌ただしく行き来するあいだに三人目が食われた。今度は中学校の教師だった。自宅で妻と食事をしているところを背後から襲われ、前菜と一緒にすすり込まれた。知らせを受けた警察署長は事件の解明のために警部補を送った。警部補は教師の妻に帳簿の提出を要求し、帳簿はないと言われて代わりに教師の個人的な棚を開き、そこに隠されていた手紙の束を見つけて調べ始めた。教師は首都にいる何者かと頻繁に通信していた。並大抵の量ではなかった。なにかがおこなわれていたのに違いなかった。相手は何者ですか、と警部補は訊ねた。夫の学生時代の友人です、と妻が言った。手紙には時候の挨拶と近況の報告、様々な分野に関する蘊蓄が記されていた。ただの手紙です、と妻はいった。そうでしょうね、と警部補はうなずいた。警部補は手紙に隠された秘密のキーワードを探していた。手紙が暗号で書かれていることは間違いなかった。馬鹿げた時候の挨拶や俗物じみた蘊蓄の背後に恐るべき事件の謎を解く鍵が隠されている筈だった。解読のためにはキーワードを必要とした。キーワードはなんですか、と警部補は訊ねた。意味がわかりません、と教師の妻は首を振った。暗号を解くキーワードです、と警部補は言った。わかりません、と教師の妻は首を振った。
 警部補が疑いを深めているあいだに四人目が食われた。場末の飲み屋で片隅で、一人で飲んだくれていた男がすすり込まれた。給仕に向かってもっと酒を持ってこいと叫んだところへ、魚が壁から現われて男を頭から丸呑みにした。居合わせた百人もの人間がその光景を目撃した。知らせを受けた警察署長は警部補を送った。警部補は飲み屋を訪れて帳簿を調べ、そうしているうちに、ふとあることに思い至って警察に戻った。
「わたしのことを嫌っていますね」と警部補が訊ねた。
「いや、そんなことはありません」と署長が答えた。
 署長と警部補が見つめあっているあいだに魚は市場に出現した。騒ぎが起こり、逃げ遅れた老人が哀れな悲鳴とともにすすり込まれた。
「もはや座視していることは許されません」と署長が言った。
「座視していたことなど一度もないのです」と警部補が言った。
 警察が行動を開始した。警官たちに銃と弾薬が支給され、川で漁を営む漁師たちが呼び寄せられた。銃を持った警官たちが道を見張り、網とヤスを構えた漁師たちが要所要所に立って壁をにらんだ。町の者たちは恐怖に震えて家にこもり、家族のある者は家族を集めて手を取りあい、家族のない者は友を呼び、友のない者は自分自身の手を握り、冷たい汗に浸りながら耳をそばだて、あらゆる気配に身を固くした。多くの者が魚の大きさを耳にして、あるいは目にして狭い場所なら安全であると考えた。ある者は便所に隠れて戸を閉ざした。ある者は階段の下の物置に隠れ、ある者は戸棚の奥に身をひそめた。あるところでは一つの棚に五人が隠れ、あるところでは一つの物置に七人が隠れた。人々は日常から追い払われ、忍耐が試され、恋が生れ、恋が破れ、ときには姦通がおこなわれた。ある家では万事において合理的なことで知られた男が自分を安楽椅子に縛りつけた。そうしておけば、いかに巨大な魚でも一息に呑み込むことは不可能であるし、危機が去るまで安楽に過ごすことができると考えた。そして家族にもそうするようにと命じたが、妻と子供は耳をふさいで浴室に隠れた。魚は壁を抜けてこの男の前に姿を現わし、足のほうから噛み裂いて、時間をかけてゆっくりとすすった。男の悲鳴は窓を震わせ、じっと息をひそめる町を駆け抜けた。警官たちの足音が石畳の道にこだました。
 扉を開けろ、と扉を叩いて警部補が叫んだ。だが家のなかからは返答がなく、合理主義者のすさまじい悲鳴だけが聞こえてきた。扉を破れ、と警部補が叫んだ。警官たちが玄関に向かって突進し、分厚い扉に体当たりを加えた。扉はびくともしなかった。鍵を撃て、と警部補が叫んだ。一人の警官が拳銃を抜いて扉に近づき、鍵穴を狙って発砲した。銃弾はがっちりとした錠を差し穴に残して鍵の仕組みだけを破壊した。扉は押しても引いても動かないばかりか、鍵を使って開けることもできなくなった。窓だ、窓を破れ、と警部補が叫んだ。警官たちが窓に群がった。ところが窓はどれも頑丈な鋳鉄製の鎧戸で覆われ、高いところにあって近づく者の接近を阻み、銃弾を端から撥ね飛ばした。これはとても頑丈な家です、と一人の警官が言った。家を囲め、と警部補が叫んだ。待っていれば出てくる筈だ、出てきたところを取り押さえるのだ。警官たちは銃を構えて建物を囲み、網とヤスを持った漁師たちが包囲の輪に加わった。
 悲鳴が途絶えた。来るぞ、と誰かが叫び、警部補がさっと手を上げて声を制した。男たちは固唾を呑んで前にそびえる壁をにらんだ。なにかが動く音が聞こえた。壁の向こうで重たいなにかが突進を始めた。そしてそれが現われた。壁の一点が水面が揺らぐようにしてにじみ、黒ずんだその染みを破って魚の鼻先が現われた。口が現われ、目が現われ、次第に広がる染みのなかから魚の頭があらわになり、前鰭が現われ、背鰭が現われ、魚が穴から抜け出ようと大きくもがいたその瞬間、警部補の声が撃てと叫んだ。警官たちが一斉に発砲した。漁師はヤスを繰り出した。発射された弾丸は魚の巨体をえぐって青黒い鱗の破片を散らし、ヤスは鰭を破り、目玉の一方を粉砕した。魚は力を失って頭を垂れた。間もなく息絶えて最後の犠牲者の肉片を吐いた。
 恐怖は去った。知らせはすぐに町を走り、多くの見物人が壁の前に詰めかけた。壁に埋まったままの魚の半身を取り出すための作業が始まり、警官たちがつるはしを握った。そこへ建物の大家が現われた。壁に穴を開けたら覚悟しろ、と真っ赤な顔でわめくので、警官たちはつるはしを捨てて鋸を取り寄せ、まず外に出ている頭の部分を切り落とし、それから家のなかへまわって尾の部分を切り落とした。魚の姿は消えてなくなり、壁には壁であって壁でなく、魚であって魚ではない不気味な赤黒い染みが残された。染みはいくらもしないで腐臭を放ち、腐臭は壁を伝って建物を覆い、蝿を引き寄せて蛆を養い、そしてそこに住む者はいなくなった。

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