あるとき、町に密使がやって来た。
密使の到着は首都から届けられた秘密の手紙によって事前に町に知らされていた。それは政府が送った密使ではなかった。国内のありとあらゆる場所にひそみ、国家転覆の大陰謀をたくらむ秘密結社が送り出した密使だった。首都からの手紙は警告し、かつ行動を要求していた。言うまでもなく、この密使は危険な存在だった。密書を運んでいるものと推定された。密書の内容は不明だったが、秘密結社の性格からして国家転覆の大陰謀に関わる指令である可能性を無視することはできなかった。したがって警察は密使の行動を監視し、密使と接触するすべての者の名前を控え、常に目を開いて反政府勢力の動向をにらみ、必要ならば取り得る手段を取らねばならなかった。失敗は国家の危機を意味していた。手紙を読んで警察署長は恐怖に震え上がった。新任の警部補は興奮した。とうとうこんな町にまで、と警部補は叫んだ。しかしこれは、と後を続けた。この町の不穏分子を一網打尽にする絶好の機会です。警察署長は対策を警部補に一任した。警部補はこの日のためにひそかに選んでおいた密偵を放ち、町のすべての入り口を監視させた。
やがて西の方角から一人の若い男が現われた。鍔広の黒い帽子を目深にかぶり、丈の長い黒衣を細身にまとい、黒い旅行鞄をぶら下げていた。帽子の下には油断なく光る青い目があった。引き結ばれた唇はうっすらとした無精ひげに囲まれていた。途切れのない滑らかな動きで馬車から降りて、その場にたたずんであたりの気配をうかがった。見知らぬ町に着いたばかりの旅人に見える、あのどこか物怖じしたような様子はまったくなかった。はばかることなく背筋を伸ばして、物陰から見守る密偵たちの視線に気づいて唇の端に笑みを浮かべた。挑戦的な態度だった。あきらかに、国家の権威と法の支配を軽蔑する態度だった。つまり国家転覆の大陰謀に加担している者ならば、取らずにはいられない態度だった。密使だ、あれが密使だ、と密偵たちはささやきを交わした。一人が仲間から離れて報告のために走り始めた。残りの者は一列に並んで壁に貼り付き、道をはさんで密使のあとをつけていった。
密使は場末のホテルに部屋を取った。日没の後、荷物を残して外に現われ、石畳の道を踏んでいかがわしい一角へ入っていった。密偵たちが一列になってそのあとを追った。警部補は数人の部下を引き連れてホテルの部屋へ踏み込んだ。鞄を調べて着替えと洗面用具一式と小型の聖書を発見した。聖書のページは『詩編』ばかりを選んでところどころが折ってあった。キーワードだ、と警部補が言った。密書の暗号を解くキーワードがこのページのどこかに隠されている。聖書を持ち帰りますか、と警官が訊ねた。それはできない、と警部補が答えた。ページの番号を控えろ、図書館へ行って同じ版の聖書を探し出せ。警官の一人がメモを握って走り出した。警部補と残りの警官たちは徹底的に部屋を調べた。壁を叩き、抽出しを抜き、寝台のマットレスを裏返して埃を浴び、新しい縫い目を探して潰れた枕に目を近づけた。怪しい物はなにもなかった。当然だ、と警部補が言った。密書は肌身離さず持ち歩いているに違いない。逮捕しますか、と警官が訊ねた。それはできない、と警部補が答えた。いまはまだ監視するのだ。
同じ頃、密使は飲み屋の隅に席を取って、飲めば頭痛と吐き気を引き起こす地元の酒を注文していた。密偵たちは密使の隣のテーブルに席を取って、そろって地元の酒を注文した。密使が視線でひとなですると、密偵たちは顔を背けた。間もなく一人の男が現われて密使の隣に腰を下ろした。それは腕っぷしの強さで知られた石工だった。石工は給仕を呼んで地元の酒を注文した。しばらくするとまた一人の男が現われて密使の向かいに腰を下ろした。それは力自慢で知られたレンガ工場の職工だった。職工は給仕を呼んで地元の酒を注文した。それからわずかな間を置いて三人目の男が現われ、職工の隣に腰を下ろした。それは粗暴な上に妬み深いことで知られた炭焼きだった。炭焼きは給仕を呼んで地元の酒を注文した。密偵たちは石工と職工と炭焼きの名を控え、秘密結社が備えた恐るべき暴力性に気づいて慄然とした。得体の知れない石工の群れと不満を抱えたレンガ工場の職工たちと妬むことでは誰にも負けない森の炭焼きどもの連合の前では、町の警察は完全に無力だった。石工と職工と炭焼きは運ばれてきたグラスを一息に干した。密使はゆっくりとグラスを持ち上げ、中身をわずかに口に含んで顔をしかめた。
密偵たちはなにかが始まるのを待っていた。石工と職工と炭焼きは給仕を呼んで二杯目を注文し、石工と職工は運ばれてきた二杯目をすぐに飲み干し、炭焼きは妬ましそうにちびちびと舐めた。突然、密使がグラスを置いて立ち上がった。テーブルのあいだを縫って出口を目指して歩き始めた。密偵たちもあわてて立ち上がってあとを追った。密偵たちの進路には盆を抱えた給仕の群れが立ち塞がった。密偵たちが口々にどけと叫んだ。その猛々しい叫びを聞いて密使は店の出口で振り返り、唇の端に挑戦的な笑みを浮かべた。向き直って進もうとしたところで一人の男と肩をぶつけた。それは夜ごとに飲み屋を訪れては反政府扇動を繰り返している自由契約の鉛管工だった。密使が店から出ていった。鉛管工は店に入ってなかを見回し、ぶつけた肩を手で払った。密偵たちは鉛管工の名前を控え、互いを押しのけながら出口に向かって突進した。外へ飛び出して左右を見回し、細く延びた道の先で街灯の光をくぐる密使の姿を見つけ出した。
密偵たちは一列になって壁を伝い、密使のあとをつけていった。密使は食堂へ入っていった。密偵たちは暗がりに隠れてそれぞれの有り金を確かめ、代表を一人だけ選んで食堂に送った。密使はカツレツを食べていた。パンを食べ、グラスで二杯のワインを飲み、黙々と食事を終えて店を出た。密使はそのままホテルに戻った。密偵たちはホテルの玄関と裏口を見張り、路上に立って頭上の窓を見守った。ホテルへの訪問者は一人もなかった。部屋の窓は夜半過ぎには暗くなった。
警部補は密偵たちの報告を聞いて眉をひそめた。食前酒を求めて飲み屋を訪れ、食堂で簡単な食事を済ませてホテルへ戻り、ただ寝た、ということでは午後の遅い時間に到着した旅行者がすることとなにも変わりがない。本当にそれだけのことなのか、それともすでにどこかで密書の受け渡しが完了しているということなのか。自由契約の鉛管工が怪しかった。石工と炭焼きとレンガ工場の職工にも疑いの目を向けておく必要があった。もちろん食堂のことを忘れてはならない。密偵が店に入ったときには、密使はカツレツを食べ始めていた。つまり注文してから料理が出るまでのあいだは監視を受けていなかった、ということだ。そのあいだになにがあったのか。食堂の主人は現体制の支持者なのか。それとも反対者か。事態は急を要していた。警部補は密偵たちに指示を与えて石工と炭焼きとレンガ工場の職工と自由契約の鉛管工を二十四時間の監視下に置いた。そして自分は数人の警官を引き連れて場末の食堂を訪れた。
遅い時間のことで、食堂はすでに戸を閉ざしていた。いくら声をかけても返事がないので、警部補は戸を蹴破ってなかへ入った。テーブルの上で住み込みの給仕が毛布を抱いて身を起こした。まず目をしばたたき、それから驚いて板張りの床に飛び降りると裸足で店の奥へ駆け込んだ。警官たちがあとを追った。闇に包まれた厨房に警官たちの靴音が響き、給仕の悲鳴がそこに重なり、転げ落ちた調理器具が耳に障る音を立てた。どこかで食堂の主人が罵声を放った。警官たちはどこだと叫び、明かりをつけろと警部補が叫んだ。闇のなかで炎がまたたき、食堂の主人が明かりを点したランプをかかげた。丸々と太ったからだに白いネルの寝巻きをまとい、残る手に鋭い包丁を握っていた。逮捕しろ、と警部補が叫んだ。警官たちが飛びかかった。
警部補は夜明けまでかけて食堂の主人を尋問した。食堂の主人はなにも知らなかった。押収した帳簿からはいくつもの謎めいた記号が見つかったが、いずれも取引先の略号であると食堂の主人は説明した。逮捕するだけの理由はなかった。食堂の主人は昼前に釈放された。一方、密使は同じ日の朝、軽食を出す喫茶店でパンとカフェオレの朝食を取り、川沿いの道をゆっくりと散歩し、新しい住宅街へと通じる橋の真ん中に立って川を眺め、旧市街へ戻って教会に入ると告解室で告解をした。告解室から出てきた神父は額に汗を浮かべていた。密使はその後、前夜とは違う食堂で昼食にシチューを食べてワインを飲み、書店に入って絵はがきを買い、朝とは違う喫茶店で絵はがきにペンを走らせて、郵便局から絵はがきを送った。ただちに押収された絵はがきには差出人の署名はなく、代わりに「あなたの忠実なる友と」だけあり、宛先には首都にある有名な出版社の有名な編集人の名が記されていた。疑いなくなんらかの陰謀が進行していた。はがきにはわざとらしい時候の挨拶と退屈な地方生活に関する退屈な蘊蓄がつづられていたが、もちろんすべては見せかけであって、本来の意味を解く鍵は聖書の『詩編』に隠されている筈だった。一人の警官が任に選ばれ、泣きながら聖書の詩句とはがきの文面とを見比べた。夕刻、密使は監獄の前に立ってそびえる石の塔を見上げていた。密使が立ち去ったあと、密偵たちが一帯をくまなく調べたが、怪しい物はなに一つとして見つからなかった。密使は昼食を取った食堂を再び訪れて夕食にステーキを食べてワインを飲み、いかがわしい一角へ入って路上の女たちに話しかけ、なにもせずにホテルへ戻って夜半前に明かりを消した。
警部補は神父を二十四時間の監視下に置き、二軒の喫茶店と一軒の食堂を捜索した。革新的な思想で知られた書店の主人には警察までの同行を求め、鑑札を持つ女たちを片端から引っ張った。警部補と配下の警官たちは不眠不休で調査し、尋問を繰り返したが、いかなる成果も得ることはできなかった。
次の日の朝、密使は前日の朝とは異なる喫茶店でパンとカフェオレの朝食を取り、川沿いの道をゆっくりと散歩した後、橋を渡って新しい住宅街を訪れた。立ち並ぶ瀟洒な家のあいだを歩き、とある植え込みの前では足をとめて花を眺め、とあるポプラの木のまわりを三度まわった。密偵たちは木とその周囲をくまなく調べたが、怪しい物を見つけることはできなかった。密使は昼前に橋を渡って旧市街へ戻り、前日とは異なる食堂で昼食にシチューを食べてワインを飲んだ。食後にはトルコ式のコーヒーを注文し、それを飲み終えるとまた橋を訪れ、橋の真ん中で足をとめて眼下を流れる川を見つめた。
休みなしに監視を続けて、密偵たちは疲労の限界に達していた。寝不足で目を霞ませた密偵たちは、それでも密使が懐から白い封筒を取り出したのに気がついた。橋の上には密使のほかに人影はなかった。橋のたもとの旧市街側では先ほどから二人の男がうろついていた。喧嘩っ早いことで知られた釘工と、町の住民がそろって虚無主義者だと見なしている学生だった。密偵たちは興奮した。ついに受け渡しが始まるのだ。一人が仲間から離れて報告のために走り始めた。残りの者は川沿いの道に一列に並んですべての動きに目を光らせた。知らせを受けた警部補が息を切らして現われて監視の列に加わった。まだです、と密偵の一人がささやいて、橋の上の密使を指差した。
密使は白い封筒を手に持ったまま、変わらずに川の流れを見つめていた。橋のたもとでは釘工がすでに立ち去り、学生は密偵たちの様子を盗み見ていた。密使は動かなかった。学生がやがて背を向けて立ち去った。おかしい、と密偵の一人がつぶやいた。そのとき、密使が封筒を前に投げ出した。封筒は紙が落ちるような速さではなく、なかに鉄板を仕込まれた密書が落ちるような速さで水面に達し、小さなしぶきを残して川に消えた。密偵たちが吐息を漏らした。警部補は監視の列から離れて橋へ走り、密使に近づきながら川を指差し、怒りに震える声でこのように言った。
「いったい、なんということを」
「いけませんか」
密使はそれだけを言ってホテルへ戻り、午後の馬車で町を離れた。
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