2014年5月25日日曜日

町/吸血鬼


 あるとき、町に吸血鬼がやって来た。
 北風が吹きすさぶ嵐の晩に、黒い馬車の御者台で黒い外套に身を包み、手綱を握り、鞭を振るい、四頭の黒い馬を叱咤して街道から町へ乗り込んできた。群れなす雲が沸き起こるようにして満月を覆い、雷鳴が轟き、一閃する稲妻が地上をこの世ならぬ青白い光で照らすなか、吸血鬼を乗せた四頭立ての黒馬車は石を積んだ門を駆け抜け、馬どもが敷石を踏む蹄鉄の音もすさまじく、眠る者の眠りを乱して旧市街の石畳の道を突き進んだ。

 間もなく前方に荒廃した館が現われた。久しく閉ざされていた門扉はこの夜のために開け放たれ、馬車は道を走る勢いを保ってそこへ飛び込み、かつては壮麗であった玄関の前でぴたりととまった。吸血鬼は滑るようにして御者台から地上に下り立った。稲光が空にまたたいて黒馬車の影を地面に投げたが、その傍らにあるべき夜の怪物の影はない。冷たい雨が降り始めた。吸血鬼は馬車の背後にまわって観音開きの扉を開き、そこから黒檀で作られた巨大な棺を引きずり出した。そしてその棺をいかにも軽々と肩に担ぎ、玄関へ向かって進んでいった。超常の力が味方していた。玄関の重たい扉がひとりでに開いた。吸血鬼は館の入り口で足をとめて、振り返って黒い馬車に一瞥を与えた。それを合図に馬は轅から解き放たれて厩を目指し、馬車は牽く馬もなしに転がりだして勝手に車庫に収まった。吸血鬼は雨に煙る旧市街の町並みにも一瞥を与え、それから向き直って館のなかへ入っていった。重たい扉が再び動いて入り口を閉ざした。
 館は吸血鬼の住み処となった。その打ち捨てられた館を吸血鬼に売ったのは町の不動産屋だった。売却までには手紙による長いやり取りがあり、途中、従業員二名の思わぬ失踪という悲劇もあったが、この取引によって不動産屋は少なからぬ利益を獲得した。まったくよい商売だった、と不動産屋は言った。いくらかの悲劇はあったが損失はなかった、と付け加えた。館は事実上の立ち腐れで、土地を含めても二束三文の物件だった。ふつうの人間ならば買わないところだ、と不動産屋は言った。それを買うのが外国人の間抜けなところだ、と付け加えた。買い主の正体にはまったく気づいていなかった。正体に気づいて高く売りつけたのであれば、人類の正義のようなものがどこかに感じられたかもしれないが、不動産屋はただ生まれつきの鈍感さにしたがって二束三文の物件を見知らぬ相手に売りつけたのであった。契約は郵便を介しておこなわれ、代金の支払いは外国の為替でおこなわれ、権利書や鍵の受け渡しも郵便を介しておこなわれたので、不動産屋はこの客に会ったことが一度もなかった。仮に疑いを抱く能力があったとしても、疑いを抱く機会がなかった。不動産屋の認識としては買い主は外国人で伯爵で、そして少々風変わりな金持ちであり、町の人々もまたぼろもうけに喜ぶ不動産屋の口を通じて、夜の怪物の襲来ではなく外国からやってきた少々間抜けで、そして裕福な貴族の到着を知った。
 しかも独身だと思う、と不動産屋は付け加えた。この無責任な一言によって、結婚適齢期に達した二人以上の娘を持つ親たちは瞬時に落ち着きを失った。これは娘のうちのどちらかを手堅く片づける絶好の機会だと考え、一家の誰かが伯爵夫人になるのも悪いことではないと考えた。そしてやる気のない娘たちに檄を飛ばし、仕立屋を呼んで新しいドレスを注文した。吸血鬼が襲来したその週のうちに七つの夜会が計画され、夫人たちは日程を調整するために午後の茶会を繰り返した。仕立屋はいきなり忙しくなり、大量の服地を首都に注文し、あわててかき集められたお針子たちは天井が低くて空気がよどんだ部屋に押し込められて、手を動かしながらしきりと口も動かした。
「その伯爵様を見たひとはいるの」
「見たひとはいないって噂だけど」
「誰も見ていないのにこの騒ぎさ」
「いったいどんなひとなんだろう」
「そりゃ外国人だから、変な奴さ」
「そうだよ、変な奴に決まってる」
「それなら、あたしはごめんだわ」
「そう言ってやりな、伯爵様にさ」
 とりわけ熱心だったのは吸血鬼の隣に住む一家だった。間もなく五十を迎える夫は良材を産する山をいくつか保有し、野心家というわけではなかったが、製材業を堅実に営んでそれなりの財産をたくわえていた。四十を迎えるまでにまだいくらかの間がある夫人は驚くほどの野心家で、首都へ脱出して芸術家のパトロンになることを夢見ていた。夫婦には十八歳と十六歳の娘があり、どちらも母親の気性を継いで野心を抱き、自分たちの若々しい魅力に確信を抱き、選ばれるのは自分たちのうちのどちらかであり、選ばれなかった一方は必ずどこかにいる筈の伯爵の兄弟と結婚するのだと決めつけていた。一家は、正確には夫人と二人の娘は額を寄せて夜会の出し物のために頭を絞り、上の娘は伯爵の耳を魅了すべくピアノの練習に時間を費やし、下の娘は伯爵の目を魅了すべくアトリエにこもって絵を描き、娘たちが自分の才能を誇るための素材を準備する一方で、母親は招待客のリストを作り、招待状を発送した。
 異変はその週の終わりに始まった。
 製材業者の下の娘が病に倒れ、驚いた両親は医師を呼んだ。医師は娘の肌の異様な白さに驚き、昏睡状態に陥るほどの激しい衰弱にも驚き、というのは日ごろの驚くほどの血色のよさをよく知っていたからであったが、貧血症という診断を下してしばらくのあいだの静養を勧めた。それを聞いた母親は夜会の日までになんとかしてくれと医師にすがり、それを見た父親はただちに妻の身勝手をなじり、妻は振り返って夫の無理解をなじり、こうして自分が苦労しているのは夫が田舎者の小心な小金持ちで縁故に恵まれていないからだと叫び出すと、夫は夫でそういう自分はいったいどこの何様なのかと妻に叫んだ。病人の前で両親が罵り合いを始めると上の娘が割って入って母親をなだめ、自分が昼夜を分かたずに妹を看病して夜会までに回復させると約束し、医師は処方箋を残して退散した。そして姉は約束どおりに妹に付き添い、妹の寝台の脇に椅子を運び、妹に食事を与え、水を与え、髪をとかし、言葉をかけて希望を与えた。深夜、姉は重たい睡魔に襲われて眠りに落ちた。朝になって目覚めたが、妹の様子に変化はなかった。再び医師が招かれ、診察を終えた医師はただ首を振った。姉は休むことなく看病を続けた。夕刻、姉は椅子のなかでわずかにまどろみ、日没の直後にはっと目覚めてもぬけの殻となった寝台にうろたえ、自在に飛び跳ねる妹の姿を窓辺に見つけた。
 同じ頃、一人の紳士が医師の家の戸を叩いた。応対に出た医師に向かって紳士は自分の名前を告げ、医師は高名な教授の思わぬ来訪を知って驚愕し、早速なかへ招き入れて茶を勧めた。すると教授は茶の誘いを断り、自分には火急の用件があると言い、重度の貧血症に陥った若い女性を探しているが、どこかに心当たりはないかと医師に訊ねた。医師はあると答えて製材業者の娘の症状を伝え、教授はまさしくそれだと力強くうなずいて速やかに手を打つ必要があると訴えた。そこで医師は教授を案内して製材業者の家を訪れ、応対に出た一家のあるじに向かってこれは高名な教授であると紹介した。製材業者は高名な教授の思わぬ来訪を知って驚愕し、早速なかへ招き入れて茶を勧めた。教授は茶の誘いを断り、自分には火急の用件があると言い、貧血症の患者の所在を訊ねた。これを聞いた製材業者は娘なら寝室にいると答えたが、その折も折、製材業者の下の娘が姉に付き添われて訪問者たちの前に現われた。肌は蒼白のままで目の下には隈をたくわえ、見た目にも明らかに健康を損なっていたが、それでも気分はすっかりよいと言う。しかし教授は娘が自分の喉を絹のチョーカーで隠しているのに気がついて、懐から大ぶりな銀の十字架を取り出すとそれを娘に突きつけた。娘は恐怖の叫びを放ち、腕を上げて顔をかばった。そこへ母親が飛び込んできて、そんな形相で十字架を突きつけられたら生娘でなくても悲鳴を上げると言って教授に詰め寄り、教授は脅える娘に駆け寄ってチョーカーを剥ぎ、首筋に並んだ二つの噛み跡を指差して、この娘はすでに伯爵の花嫁になっているのだと説明した。姉はその場で失神した。
 教授は伯爵と呼ばれる怪物の正体を明かし、医師と製材業者を驚かした。それから教授は医師の手を借りて暴れる娘を寝室に運び、寝台にロープで縛りつけた。そして寝台のまわりに聖水をまき、寝室の窓にニンニクを飾った。最後に娘の胸に十字架を置くと、娘は嫌悪にもだえて教授に罵声を浴びせかけた。今夜が勝負だ、と教授は言った。夜のとばりがすでに町を覆っていた。教授は決然とした面持ちで窓を見据え、医師は手帳を開いてペンを走らせ、将来の需要に備えて起こった出来事を細大漏らさずに書きとめていった。製材業者が夜食を取りに階下へ下りると待ち構えていた夫人が立ち上がり、こうなったのも夫が田舎者の小心な小金持ちで縁故に恵まれていないからだと叫び始めた。そこで夫もまた妻に向かってそういう自分はいったいどこの何様なのかと叫んだが、そうしているうちに広間の時計が十二時を打った。寝室の窓の外に怪しい影が現われ、それはすぐさまひとの姿に形を整え、ニンニクに気づいて怒りを叫び、身を翻して夜の闇のなかへと飛び去っていった。医師は畏敬を込めて教授を見つめた。まだ安心はできない、と教授は静かに首を振った。娘を救うためには怪物を滅ぼさなければならなかった。
 製材業者は朝になるのを待ってひとを走らせ、製材所の従業員から特に屈強で知られた若者を呼び寄せた。女たちを家に残し、男たちは隣の館に乗り込んでいった。教授がかばんを持って先頭に立ち、医師と製材業者があとに続き、製材所の若者がしんがりを守った。館の内部は外と同様に荒廃していた。間もなく教授が地下へ下りる階段を見つけ、その先に広がる地下室の奥で黒檀の棺を見つけ出した。教授が重たい蓋を開くと、なかでは怪物が眠っていた。教授がかばんから木の杭と木槌を取り出した。製材業者がそれでなにをするのかと訊ねると、これで怪物の心臓を貫くのだと教授が答えた。するとどこからか製材業者の妻が現われ、そんなことは許さないと叫んで教授と棺のあいだに立った。教授は目をしばたたいた。娘を傷物にされたのだから、と夫人は言った。その償いをさせなければならない、そう続けて鋭い目つきで夫をにらんだ。製材業者は一瞬躊躇し、それでもすぐに意を決して若者に小さくうなずいた。若者は懐から棍棒を取り出し、それで力いっぱい教授の頭を殴りつけた。教授は昏倒して転がった。ざまあみやがれ、と若者が言った。医師は震える声で抗議したが、分け前を約束されて口を閉ざした。若者は大釘と金槌を使って棺の蓋を棺に打ちつけ、製材業者とその妻は棺からかすかに漏れるひどく狼狽した声を相手に交渉を始めた。交渉は翌日の昼まで続き、果敢に抵抗はしたものの、吸血鬼は最終的にすべての財産を譲渡することを承諾した。館の地下室に公証人が呼ばれ、書式を整えた書類が作られ、製材業者は棺に小さな穴を開けて、そこから書類とペンを送り込んだ。戻されてきた書類のサインを確かめるために教授が起こされ、確認を終えた教授はまた殴り倒され、ざまあみやがれ、と若者が言い、そうしてすべてのことが滞りなく完了すると製材業者は再び製材所にひとを走らせ、新たに呼び寄せられた七人は先の若者と力をあわせて棺を館の外へ運び出した。棺が午後の陽射しにさらされた。男たちは棺を地面に置いて釘抜きを取り出し、打ち込まれた大釘を次々に引き抜いていった。棺のなかで夜の怪物が激しく抗議した。やがて最後の釘が引き抜かれ、吸血鬼はすさまじい声で嘆きを叫び、男たちの手が蓋を開けた。怪物は昼の光を浴びて灰となった。かくして悪は滅ぼされた、と製材業者の妻が言った。

Copyright ©2014 Tetsuya Sato All rights reserved.