あるとき、町に魔術師がやって来た。
北風が吹きすさぶ凍てついた午後のことだった。風に吹き上げられて舞い踊る枯れ葉の渦を割るようにして、曇天のくすんだ光のなかに現われた。
魔術師は尊大な顎にひげをたくわえ、口元に冷たい笑みを浮かべていた。そして目を貪欲そうにきらめかせ、秀でた額の裏に邪悪なたくらみを隠していた。後ろへなでつけられた漆黒の髪は、吹きすさぶ風のなかでそよぎもしない。
魔術師を見た人々は不安な面持ちで顔を寄せ、あれは魔術師だ、と囁いた。なぜここに魔術師が、といぶかしんだ。疑問を抱いても、問い質そうとする者は一人もなかった。人々は魔術師を遠巻きにしていた。指差すと指先が氷のように冷たくなった。魔術師の視線に触れただけで、悪寒が背筋を這い上がった。子供たちは脅えて母親にすがり、犬は四肢を張って吠えかかった。魔術師が指を上げると子供たちは恐怖のあまり失神し、犬はしっぽを巻いて逃げ出した。魔術師の出現に町の人々は戦慄した。家々の台所では牛乳が腐り、肉屋では新鮮な肉に蛆がたかり、市場では卵が割れて黄身を汚れた地面に転がした。
魔術師は丈の長い漆黒の衣の裾を引きずり、たっぷりとした袖を重ねて腕を組み、我が物顔で町のなかを歩きまわった。歩きながら邪悪な気配を撒き散らし、一人の男に目をとめると足音をひそめて男のあとを追っていった。
男は穢れた心の持ち主だった。この世の一切を斜めに眺め、気高いものを軽蔑し、美しいものを憎悪していた。人間を憎み、動物を蔑み、草花は踏みにじるために存在すると考えていた。男は孤独で、貧しかった。友もなく、恋人もなかった。穢れた心は胸に重たく、心の重さのためにからだは自然と前に傾ぎ、そのせいで気分が悪くて、いつも吐き気を感じていた。頭のなかを憎しみで満たし、世界を罵りながら歩くので、背後からまとわりつく魔術師の視線にはついに一度も気づかなかった。
男は場末にたたずむみすぼらしい建物の、日の当たらない地階にある自分の部屋へ入っていった。部屋のなかは男の憎悪と軽蔑と、かびたチーズの臭いで満たされていた。男が扉を閉めようとすると、そこへ魔術師が押し入った。力を加える必要はなかった。魔術師がただ前へと進むだけで閉ざされようとしていた扉は開き、心の穢れた男のからだを後ろへと、部屋の奥へと押しやった。男は驚くよりも、まず罵ろうとして顔を上げた。そこで男は初めて魔術師と対面した。男は一瞬、硬直した。ややあって男の口が動いたが、その口から穢れた言葉が飛び出す前に魔術師が動いた。伸ばされた手が男の胸から煤けた魂を抜き取った。男は瞬時に言葉を失い、膝は力を失った。倒れかかろうとする男に向かって魔術師は再び手を伸ばし、男の胸に小さなクルミを押し込んだ。すると男は魔術師の前にひれ伏して、魔術師を我が王と呼んで靴の先に接吻した。
魔術師は男に命令を与えた。男は魔術師が命ずるままに外へ飛び出し、それから三日のあいだ戻らなかった。三日のあいだ男は休まず眠らず、食べることも飲むこともしないで魔術師のために走りまわった。もとより脆弱であった肉体は、ふりかかった苦難に耐えられなかった。
戻ってきたときには、すでに男は死んでいた。かすかに腐臭を漂わせながら、男は魔術師の前にひざまずいた。わずかに顔を上げて息を呑み込み、死んだ肺をふくらませ、干からびた喉を震わせてかすれた声を搾り出した。口から出たのは名前が一つと住所が一つ。魔術師は報告を聞いて冷たい笑みを口元に浮かべ、それから男の胸に手を伸ばして小さなクルミを抜き取った。男は光を失った目を閉ざした。崩れるようにして横たわり、目に見える速さで腐っていった。魔術師はクルミを掌の上で転がした。転がしながら指を閉じ、握り締めると力を加えてつぶしていった。殻が砕ける小さな音が悪臭の漂う部屋にこもった。手を開いて傾けると、クルミの破片がこぼれ落ちた。破片とともに、無数のアリが落ちていった。
夜が訪れていた。魔術師は男の部屋をあとにして、街灯に照らし出された石畳の道を足音も立てずに進んでいった。
同じころ、年老いた一人の産婆が司祭館の戸を叩いた。顔を出した神父の手を引き、ひどく狼狽した様子で、すぐに来てほしいと涙声で訴えた。異常なことが起こったという。
なにがあったのですか、と神父が訊ねた。
産婆は下町に住む靴職人の名を言った。それは神父も知っている名前だった。
彼の身になにかあったのですか、と神父が訊ねた。
先ほど、子供が生まれたのです、と産婆が答えた。
おめでとう、彼と一家に祝福を、と神父が言った。
いいえ、祝福してはなりません、と産婆が言った。
喜ばしいことではないのですか、と神父が訊ねた。
ふつうの子ではなかったのです、と産婆が答えた。
生まれてきた子供は産声も上げず、産湯に浸かる前から目を開き、およそ赤ん坊らしからぬことに意味のある言葉をしゃべったという。産婆が知るかぎりでは、そのようなことはかつてなかった。そこで興味を抱いた靴職人が、おそらくは以前から抱いていた疑問を確かめようと考えて、あなたは誰の子か、と赤ん坊に訊ねた。すると赤ん坊は隣の家の方角を指差し、その家に住む大工の名を上げ、自分はその男の息子であると告白した。
神父は話を聞いて眉をしかめた。たしかに異常なことかもしれませんが、と産婆に言った。わたしの出る幕ではなさそうです。
「どうか、一緒に来てください」と産婆が懇願した。「隣に住むその大工は、罰当たり者なのです。生まれてきたのは罰当たり者の息子なのです」
神父は再び眉をしかめた。教区にはまともに教会に来ない者が山ほどもいた。それはそれで問題であったが、だからと言ってそれを理由に、生まれてきたばかりの子供を罰当たりの悪魔崇拝者だと決めつけることはできなかった。
その子は神を愚弄したのですか、と神父が訊ねた。
一度ならず、神を愚弄しました、と産婆が答えた。
その子は奇跡を否定しましたか、と神父が訊ねた。
片端から、奇跡を否定しました、と産婆が答えた。
どのように愚弄し、どのように否定したのか、産婆は言葉を連ねて説明したが、神父はなおも躊躇していた。仮に赤ん坊が生まれながらの罰当たりで、なにかしら悪魔的な資質を備えていて、加えて冒涜的な行為を生まれたとたんに始めたのだとしても、田舎町の神父にいったいなにができるのか。夜中に教区民を動員し、松明を連ねて家を襲い、引きずり出して火あぶりにするような時代はとうの昔に過ぎ去っていた。できることはなにもないし、すべきこともまたなにもないというのが思案の末の結論だった。結論に達した神父は早速にも暖かい家のなかへ戻ろうとしたが、産婆が神父の袖をつかんで放さなかった。神父には果たすべき義務があるという。少なくとも見ておく義務があるという。結局、神父は根負けして、服装をととのえてから産婆のあとについていった。
靴職人の家には、魔術師が先に到着していた。職人の姿はどこにもなかった。職人の妻は部屋の隅に置かれた寝台の上で身を縮め、うつむいて祈りの言葉をつぶやきながら数珠の珠を数えていた。顔には片方の目を囲むように青痣があった。魔術師は生まれたばかりの赤ん坊を腕に抱えて、満足そうに見下ろしていた。見ることによって神父はさしあたりの義務を果たしたが、見たことによって次の義務にからめ捕られた。これ見よがしに邪悪な気配を放つ魔術師に、赤ん坊を自由にさせることはできなかった。
その子を母親に返しなさい、と神父は命じた。
この子供はわたしのものだ、と魔術師は言った。
警官を呼んでもいいのですか、と神父が言った。
「呼びたければ呼べ。この子供はわたしのものだ」
そして魔術師は主張した。しかるべき時間と場所に、しかるべき条件を満たしてしかるべき子供が生まれてくるのを、自分は二十年も待たなければならなかった。それに比べれば母親が耐えた十か月など物の数にも入らない。だから子供は自分のものだ。
なぜその子にこだわるのです、と神父が訊ねた。
「この子供が、生まれついての罰当たりだからだ」
そして魔術師は説明した。子供は罰当たりから生まれた罰当たりであり、それ以外のなにかではなく、それ以上でもそれ以下でもない。ふつうに生きていれば隣人にとって傍迷惑なだけの存在だが、魔術師である自分なら有効に使うことができるであろう。
いったいなにに使うのですか、と神父が訊ねた。
「罰当たり者の子供は、様々なことに使えるのだ」
そして魔術師は説明した。罰当たり者の子供の肉は悪魔どもを手なずけるエサとなる。目や耳は持っているだけで魔術師の感覚を鋭敏にする。子供の皮膚はひとをたぶらかす粉の材料となる。子供の骨は髄を抜いて未来を覗く穴となり、髄は姿を変えて使い魔となる。内臓はすべてが薬の材料となり、脂肪は魔術師に空を飛ぶ力を与えるであろう。もちろんこれを忘れてはならないが、臍の緒は神への信仰を揺るがす鞭となる。
では、その子を殺すのですね、と神父が訊ねた。
もちろん殺す、ゆっくりとな、と魔術師が答えた。
神父が恐怖に息を呑んだ。産婆も恐怖を感じて息を呑んだ。
そこへ靴職人が戻ってきた。額にびっしりと汗を浮かべ、手には血まみれのナイフを握り、おぼつかない足取りで部屋へ足を踏み入れ、寝台の上の妻に近づきながら、あの野郎を殺ってやった、とつぶやいた。職人の妻が悲鳴を上げた。神父が飛びついて職人の手からナイフを奪った。産婆は職人の妻をかばって寝台に走り、職人は寝台の前で膝を屈して泣き始めた。
魔術師が部屋から出ていった。赤ん坊を腕に抱えて足早に進み、路地の暗がりに身を隠した。神父は魔術師のあとを追おうとしたが、思い直して隣の家へ入っていった。そこでは罰当たり者の大工が腹を刺されて死にかけていた。神父は大工に走り寄り、その耳に向かって訴えた。
「今こそ悔い改めなさい。洗礼を受け、神の国へと進みなさい。それともあなたは地獄の業火で焼かれることを望むのか。未来永劫にわたって責め苦を受けることを望むのか。あなたには、これが最後の機会だ。洗礼を望むなら、うなずきなさい」
隣人の妻を寝取った大工は薄目を開き、わずかに首を動かした。神父はそれを同意とみなした。懐から聖水を入れた小瓶を取り出し、大工に洗礼をほどこした。
神父のこの行為によって大工は罰当たり者ではなくなった。魔術師が言うところのしかるべき条件は損なわれ、子供もまた罰当たり者ではなくなった。魔術師にはもはや赤ん坊を抱えていることはできなかった。外では魔術師が絶叫を放った。袖と腕が燃え上がり、魔術師は明るい炎に包まれながら赤ん坊を放り出した。
赤ん坊は厚いおくるみに守られて無事だった。大工は命をとりとめ、靴職人は妻と和解して赤ん坊を引き取った。神父による仲裁で、警察による沙汰はなかった。魔術師は大やけどを負って病院に担ぎ込まれ、魔力の大半を失った。そして次の日曜日、神父はミサを少し長めにおこない、町で起こった出来事を話して聞かせた。魔術師がいかなる野望を抱き、その野望の前に信仰がいかなる形で立ち塞がり、いかなる形で神の力が勝利したかを。残念ながら神父の話しぶりは盛り上がりに欠けていたので、会衆の半分は眠っていた。
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北風が吹きすさぶ凍てついた午後のことだった。風に吹き上げられて舞い踊る枯れ葉の渦を割るようにして、曇天のくすんだ光のなかに現われた。
魔術師は尊大な顎にひげをたくわえ、口元に冷たい笑みを浮かべていた。そして目を貪欲そうにきらめかせ、秀でた額の裏に邪悪なたくらみを隠していた。後ろへなでつけられた漆黒の髪は、吹きすさぶ風のなかでそよぎもしない。
魔術師を見た人々は不安な面持ちで顔を寄せ、あれは魔術師だ、と囁いた。なぜここに魔術師が、といぶかしんだ。疑問を抱いても、問い質そうとする者は一人もなかった。人々は魔術師を遠巻きにしていた。指差すと指先が氷のように冷たくなった。魔術師の視線に触れただけで、悪寒が背筋を這い上がった。子供たちは脅えて母親にすがり、犬は四肢を張って吠えかかった。魔術師が指を上げると子供たちは恐怖のあまり失神し、犬はしっぽを巻いて逃げ出した。魔術師の出現に町の人々は戦慄した。家々の台所では牛乳が腐り、肉屋では新鮮な肉に蛆がたかり、市場では卵が割れて黄身を汚れた地面に転がした。
魔術師は丈の長い漆黒の衣の裾を引きずり、たっぷりとした袖を重ねて腕を組み、我が物顔で町のなかを歩きまわった。歩きながら邪悪な気配を撒き散らし、一人の男に目をとめると足音をひそめて男のあとを追っていった。
男は穢れた心の持ち主だった。この世の一切を斜めに眺め、気高いものを軽蔑し、美しいものを憎悪していた。人間を憎み、動物を蔑み、草花は踏みにじるために存在すると考えていた。男は孤独で、貧しかった。友もなく、恋人もなかった。穢れた心は胸に重たく、心の重さのためにからだは自然と前に傾ぎ、そのせいで気分が悪くて、いつも吐き気を感じていた。頭のなかを憎しみで満たし、世界を罵りながら歩くので、背後からまとわりつく魔術師の視線にはついに一度も気づかなかった。
男は場末にたたずむみすぼらしい建物の、日の当たらない地階にある自分の部屋へ入っていった。部屋のなかは男の憎悪と軽蔑と、かびたチーズの臭いで満たされていた。男が扉を閉めようとすると、そこへ魔術師が押し入った。力を加える必要はなかった。魔術師がただ前へと進むだけで閉ざされようとしていた扉は開き、心の穢れた男のからだを後ろへと、部屋の奥へと押しやった。男は驚くよりも、まず罵ろうとして顔を上げた。そこで男は初めて魔術師と対面した。男は一瞬、硬直した。ややあって男の口が動いたが、その口から穢れた言葉が飛び出す前に魔術師が動いた。伸ばされた手が男の胸から煤けた魂を抜き取った。男は瞬時に言葉を失い、膝は力を失った。倒れかかろうとする男に向かって魔術師は再び手を伸ばし、男の胸に小さなクルミを押し込んだ。すると男は魔術師の前にひれ伏して、魔術師を我が王と呼んで靴の先に接吻した。
魔術師は男に命令を与えた。男は魔術師が命ずるままに外へ飛び出し、それから三日のあいだ戻らなかった。三日のあいだ男は休まず眠らず、食べることも飲むこともしないで魔術師のために走りまわった。もとより脆弱であった肉体は、ふりかかった苦難に耐えられなかった。
戻ってきたときには、すでに男は死んでいた。かすかに腐臭を漂わせながら、男は魔術師の前にひざまずいた。わずかに顔を上げて息を呑み込み、死んだ肺をふくらませ、干からびた喉を震わせてかすれた声を搾り出した。口から出たのは名前が一つと住所が一つ。魔術師は報告を聞いて冷たい笑みを口元に浮かべ、それから男の胸に手を伸ばして小さなクルミを抜き取った。男は光を失った目を閉ざした。崩れるようにして横たわり、目に見える速さで腐っていった。魔術師はクルミを掌の上で転がした。転がしながら指を閉じ、握り締めると力を加えてつぶしていった。殻が砕ける小さな音が悪臭の漂う部屋にこもった。手を開いて傾けると、クルミの破片がこぼれ落ちた。破片とともに、無数のアリが落ちていった。
夜が訪れていた。魔術師は男の部屋をあとにして、街灯に照らし出された石畳の道を足音も立てずに進んでいった。
同じころ、年老いた一人の産婆が司祭館の戸を叩いた。顔を出した神父の手を引き、ひどく狼狽した様子で、すぐに来てほしいと涙声で訴えた。異常なことが起こったという。
なにがあったのですか、と神父が訊ねた。
産婆は下町に住む靴職人の名を言った。それは神父も知っている名前だった。
彼の身になにかあったのですか、と神父が訊ねた。
先ほど、子供が生まれたのです、と産婆が答えた。
おめでとう、彼と一家に祝福を、と神父が言った。
いいえ、祝福してはなりません、と産婆が言った。
喜ばしいことではないのですか、と神父が訊ねた。
ふつうの子ではなかったのです、と産婆が答えた。
生まれてきた子供は産声も上げず、産湯に浸かる前から目を開き、およそ赤ん坊らしからぬことに意味のある言葉をしゃべったという。産婆が知るかぎりでは、そのようなことはかつてなかった。そこで興味を抱いた靴職人が、おそらくは以前から抱いていた疑問を確かめようと考えて、あなたは誰の子か、と赤ん坊に訊ねた。すると赤ん坊は隣の家の方角を指差し、その家に住む大工の名を上げ、自分はその男の息子であると告白した。
神父は話を聞いて眉をしかめた。たしかに異常なことかもしれませんが、と産婆に言った。わたしの出る幕ではなさそうです。
「どうか、一緒に来てください」と産婆が懇願した。「隣に住むその大工は、罰当たり者なのです。生まれてきたのは罰当たり者の息子なのです」
神父は再び眉をしかめた。教区にはまともに教会に来ない者が山ほどもいた。それはそれで問題であったが、だからと言ってそれを理由に、生まれてきたばかりの子供を罰当たりの悪魔崇拝者だと決めつけることはできなかった。
その子は神を愚弄したのですか、と神父が訊ねた。
一度ならず、神を愚弄しました、と産婆が答えた。
その子は奇跡を否定しましたか、と神父が訊ねた。
片端から、奇跡を否定しました、と産婆が答えた。
どのように愚弄し、どのように否定したのか、産婆は言葉を連ねて説明したが、神父はなおも躊躇していた。仮に赤ん坊が生まれながらの罰当たりで、なにかしら悪魔的な資質を備えていて、加えて冒涜的な行為を生まれたとたんに始めたのだとしても、田舎町の神父にいったいなにができるのか。夜中に教区民を動員し、松明を連ねて家を襲い、引きずり出して火あぶりにするような時代はとうの昔に過ぎ去っていた。できることはなにもないし、すべきこともまたなにもないというのが思案の末の結論だった。結論に達した神父は早速にも暖かい家のなかへ戻ろうとしたが、産婆が神父の袖をつかんで放さなかった。神父には果たすべき義務があるという。少なくとも見ておく義務があるという。結局、神父は根負けして、服装をととのえてから産婆のあとについていった。
靴職人の家には、魔術師が先に到着していた。職人の姿はどこにもなかった。職人の妻は部屋の隅に置かれた寝台の上で身を縮め、うつむいて祈りの言葉をつぶやきながら数珠の珠を数えていた。顔には片方の目を囲むように青痣があった。魔術師は生まれたばかりの赤ん坊を腕に抱えて、満足そうに見下ろしていた。見ることによって神父はさしあたりの義務を果たしたが、見たことによって次の義務にからめ捕られた。これ見よがしに邪悪な気配を放つ魔術師に、赤ん坊を自由にさせることはできなかった。
その子を母親に返しなさい、と神父は命じた。
この子供はわたしのものだ、と魔術師は言った。
警官を呼んでもいいのですか、と神父が言った。
「呼びたければ呼べ。この子供はわたしのものだ」
そして魔術師は主張した。しかるべき時間と場所に、しかるべき条件を満たしてしかるべき子供が生まれてくるのを、自分は二十年も待たなければならなかった。それに比べれば母親が耐えた十か月など物の数にも入らない。だから子供は自分のものだ。
なぜその子にこだわるのです、と神父が訊ねた。
「この子供が、生まれついての罰当たりだからだ」
そして魔術師は説明した。子供は罰当たりから生まれた罰当たりであり、それ以外のなにかではなく、それ以上でもそれ以下でもない。ふつうに生きていれば隣人にとって傍迷惑なだけの存在だが、魔術師である自分なら有効に使うことができるであろう。
いったいなにに使うのですか、と神父が訊ねた。
「罰当たり者の子供は、様々なことに使えるのだ」
そして魔術師は説明した。罰当たり者の子供の肉は悪魔どもを手なずけるエサとなる。目や耳は持っているだけで魔術師の感覚を鋭敏にする。子供の皮膚はひとをたぶらかす粉の材料となる。子供の骨は髄を抜いて未来を覗く穴となり、髄は姿を変えて使い魔となる。内臓はすべてが薬の材料となり、脂肪は魔術師に空を飛ぶ力を与えるであろう。もちろんこれを忘れてはならないが、臍の緒は神への信仰を揺るがす鞭となる。
では、その子を殺すのですね、と神父が訊ねた。
もちろん殺す、ゆっくりとな、と魔術師が答えた。
神父が恐怖に息を呑んだ。産婆も恐怖を感じて息を呑んだ。
そこへ靴職人が戻ってきた。額にびっしりと汗を浮かべ、手には血まみれのナイフを握り、おぼつかない足取りで部屋へ足を踏み入れ、寝台の上の妻に近づきながら、あの野郎を殺ってやった、とつぶやいた。職人の妻が悲鳴を上げた。神父が飛びついて職人の手からナイフを奪った。産婆は職人の妻をかばって寝台に走り、職人は寝台の前で膝を屈して泣き始めた。
魔術師が部屋から出ていった。赤ん坊を腕に抱えて足早に進み、路地の暗がりに身を隠した。神父は魔術師のあとを追おうとしたが、思い直して隣の家へ入っていった。そこでは罰当たり者の大工が腹を刺されて死にかけていた。神父は大工に走り寄り、その耳に向かって訴えた。
「今こそ悔い改めなさい。洗礼を受け、神の国へと進みなさい。それともあなたは地獄の業火で焼かれることを望むのか。未来永劫にわたって責め苦を受けることを望むのか。あなたには、これが最後の機会だ。洗礼を望むなら、うなずきなさい」
隣人の妻を寝取った大工は薄目を開き、わずかに首を動かした。神父はそれを同意とみなした。懐から聖水を入れた小瓶を取り出し、大工に洗礼をほどこした。
神父のこの行為によって大工は罰当たり者ではなくなった。魔術師が言うところのしかるべき条件は損なわれ、子供もまた罰当たり者ではなくなった。魔術師にはもはや赤ん坊を抱えていることはできなかった。外では魔術師が絶叫を放った。袖と腕が燃え上がり、魔術師は明るい炎に包まれながら赤ん坊を放り出した。
赤ん坊は厚いおくるみに守られて無事だった。大工は命をとりとめ、靴職人は妻と和解して赤ん坊を引き取った。神父による仲裁で、警察による沙汰はなかった。魔術師は大やけどを負って病院に担ぎ込まれ、魔力の大半を失った。そして次の日曜日、神父はミサを少し長めにおこない、町で起こった出来事を話して聞かせた。魔術師がいかなる野望を抱き、その野望の前に信仰がいかなる形で立ち塞がり、いかなる形で神の力が勝利したかを。残念ながら神父の話しぶりは盛り上がりに欠けていたので、会衆の半分は眠っていた。
Copyright ©2014 Tetsuya Sato All rights reserved.