Utomlennye solntsem 2
2011年 ロシア 150分
監督:ニキータ・ミハルコフ
1943年、革命の英雄で58条組のコトフが所属する懲罰大隊がかなたにそびえるドイツ軍の要塞への正面攻撃を命じられたころ、同じ前線にドミトリが現われてコトフを探し始め、ドミトリの姿を見て恐怖に駆られたコトフは命令を待たずにドイツ軍要塞に向かって突撃を始め、コトフを追って突撃に巻き込まれたドミトリは督戦隊の銃撃にあって戻ることもできなくなって、そのままコトフに運命を預けることになり、なにやら生還を果たしたドミトリはわけのわからない行動を取ったあとでコトフを解放し、理由もわからないままいきなり二階級特進して中将となったコトフはドミトリを連れて家に戻るが、家庭であった場所は顔ぶれはそのままなのに消滅していて、コトフの前からあわてて逃げ出すマルーシャとその一族を見送ったあと、コトフはスターリンから直接に極秘の命令を受けて、非武装の民間人15000人をドイツ軍要塞に突撃させて全滅させるという奇怪な作戦を担当することになり、前線に戻って不安におびえる15000人の民間人を目にするとなんとなく自らが先頭に立って要塞を目指して歩きはじめ、その様子を見た幕僚、NKVD職員もコトフを追って歩きはじめ、その有様につられて15000人の民間人も要塞を目指して歩きはじめ、ドイツ軍は勝手に自滅してコトフはナージャと再会する。
『戦火のナージャ』からおおむね2年後の状況を扱っていて、看護師だったナージャは中尉に昇進している。『太陽に灼かれて』からここまでの経過を思い出してみると、革命から大戦までのロシアを総括する意図が見え、その結果としてマルーシャは生存本能のとりことなった自分の家族に人生を食い荒らされたことを告発し、適当に適応したドミトリは自滅し、革命の英雄コトフは内戦時代の蛮行をスターリンの口から暴露されて同じ蛮行を繰り返すように強要され、ナージャの悲劇は解決されないままに終わり、そうした一切のことの背景で戦争が肉挽き機のように動いて人間をすり潰していて、すり潰されていく人間の顔が強調され、人間の一切の行為とは無関係に蚊、蝶、蜘蛛などが現われて、人間の運命にそこはかとなく介入する、という構図が(たぶん)浮かび上がる仕組みになっている。
暴力的なイメージは歴史的かつ普遍的な重さを備えているが、その重さを歴史的な個人と接続するとき、監督自らが主役を演じるという微妙な選択をしているせいで映画自体もある種の微妙さを帯びてくる。監督兼主役という選択はもしかしたらある種の決意表明なのかもしれないが、ミハルコフの映画における個人は時としてあまりにも個人でありすぎて、結果として歴史から乖離している。劇中でわざわざ無名の個人に言及するならば、監督は顔を出すべきではなかったのではないか、という気がしてならない。あいかわらず小ネタは面白いし、画面の作りも(しょぼいシュトゥーカを除けば)きちんとしているし、ということで鑑賞に耐える水準には達しているものの、これは失敗作であろう。
Tetsuya Sato