地獄の黙示録 特別完全版
Apocalypse Now Redux
2001年 アメリカ 203分
監督・脚本:フランシス・フォード・コッポラ
79年版よりも50分ほど長い。ウィラード大尉によるキルゴア中佐のボード強奪と逃走、どしゃぶりの雨の中でのプレイメイトとの遭遇、ドラン橋の彼方にあるフランス人のゴム園などのシーンが追加されている。さらにカーツ大佐の狂気と矛盾に関するダイアログが少しばかり増やされている。
79年版の感想でも書いたことだが、わたしにはこの映画をベトナム戦争と結びつける必要があるとは特に考えていない。見た目には明らかにベトナム戦争をやっているけれど、そこに描き出される空気があまりにも幻想的で、かつあまりに肉感的であるために、むしろ原初的な人間の存在と、その行為の質感が際立ってくる。
これは特にキルゴア中佐において顕著であったが、サーフボード強奪というエピソードが加わることで、その印象は強化された。中佐のボードは中佐にとって間違いなく神聖な存在であり、それをウィラード大尉が唐突に盗み出すというこの場面は、無理矢理押し込めば中佐の本末転倒した戦争行為に対する批判と見ることもできなくはないが、むしろ神話的な立場からの方が説明がしやすい。つまり王笏を奪われた王が盗賊を追って大音声で背後から迫るという光景である。プレイメイトとの場面はベトナム戦争の狂気という枠に縁取られてはいるが、ここにも妙な要素がもぐり込んでいる。例によって指揮官はいないし、何をしている部隊なのかよくわからない。水兵たちはをいきなり雨の中を転げ回るし、プレイメイトは陰鬱な独白へと走っていく。若い水兵は窓から窓へと走り回って中の行為を観察し、その行為を自分が継承しようと督促に励むが、窓の中では肝心の行為そのものがまったく始まらない。独白が続いているからである。そして行為は完遂されることなく場面は終わり、後にはランスの静かな狂気のみを残すことになる。しかしながらこの場面で描き出されていたのは狂気ではない。狂気の原因となりえる本質的な無意味さなのである。強引を承知でまたホメロスを持ち込むが、キルケの島だと言えばわかりやすい。魔女はひどく非力だが、状況がその非力を補っている。そして水兵たちが転げ回るのは、彼らがその時豚に変身していたからではないのだろうか。豚に変身した兵士はキルケにとってもオデュッセウスにとっても無意味なのである。ランスは無意味さのどん底に叩き込まれて、顔にペイントを始めるのである。こうしておけば見つからない、というのが本人の口から出てきた理由であった。
ここまで統一されていた質感は、フランス人のプランテーションへ到着したところで妙に崩れる。入植者たちはしきりとフランス統治時代を振り返り、アメリカの失敗を予言する。ダイアログは懸命に映画を現実へ結びつけようとするが、空転するばかりでことごとくが失敗に終わっている。追加されたこのエピソードで成功している場面は、蚊帳をかぶった全裸の女性の立ち姿だけであろう。これがその後のカーツ大佐の軍団へと、巧みに印象をつないでいる。この部分だけが魔術的に際立っているので、どう思い出してもほかの部分の印象が希薄になる。
カーツ大佐の追加されたダイアログも感心しなかった。ここでもプランテーションの場面と同様に、映画を現実のベトナム戦争に結びつけようと試みている。戦争の矛盾と無意味が言葉によって説明され、怒りと焦燥がメッセージとなって届けられはするものの、やはり浮いているのである。もしかしたら、ここに織り込まれているメッセージはこの映画の企画当初からのものではないのだろうか。つまりジョンソン政権の末期でベトナム戦争がまだ続いていた頃、コッポラとジョン・ミリアスが書き上げた共同脚本の中にあったのではないだろうか。その後、79年版でこの部分が脱落していたのは、あまりにもミリアス色が強かったからではないのだろうか。別段、コッポラをかばおうとしているわけではない。ただ、この特別完全版に描かれるカーツ大佐の焦燥感と自己破壊願望は、ジョン・ミリアスの素朴な好戦主義に通じるものがあるような気がしてならない。政治的な素材を扱うためにはミリアスがしているような類型化が必要だが、コッポラは人間の本性に対して忠実すぎる。
コッポラが何を考えて大量のメッセージを復活させたのか、その理由はわからない。企画段階の初心に戻ろうとしたのであろうか。それによって映画が損なわれたことは、ほぼ間違いないだろう。そもそも、ベトナム戦争を描くという目論見のみから観察すれば、79年版もこの特別完全版も失敗作だと言わなければならない。監督の才能があまりにも大きな芸術作品を生み出してしまったからである。そこに見えるのはコッポラの卓越した手つきのみであり、ベトナム戦争も見えなければ、実を言えば一点の狂気も見ることはできない。
Tetsuya Sato